お金の力
「いいね」ありがとうございました。
例えば、こんな質問をした場合、皆さんならば何と答えますか?
「世の中、お金で解決できる問題は何割くらいあるか?」
如何でしょうか?
大きな値を思い浮かべた人も多いのではないでしょうか。
しかし、ほとんどの人がこの質問に「九割」と答えたとしても、だからと言って「世の中の九割がお金だ」と言うことにはなりません。
この質問には、大きな値を答えたくなる心理的な仕組みがあるのです。
例えば、「距離のある場所まで行かなければならない」という問題があったとします。
この問題に対し、「タクシーを利用して行く」と言う解決方法が考えられます。
タクシーは、公共交通機関の中でも利便性が高い分、運賃が高いという特徴があります。
他の交通機関に比べて高い料金を払う、つまり、お金で解決できる問題だと言うことになります。
しかし、ちょっと考えてみてください。タクシーを利用することだけが唯一無二の解決方法ではありません。
自分が運転免許と自家用車を持っていたら、自分で車を運転して行けばよいのです。
「自前の車で行く」ガソリン代などを無視すればお金以外で解決する方法です。
早目に出発して電車やバスを乗り継ぎ、徒歩も併用して目的地まで行くこともできるでしょう。
「時間をかけて解決する」電車代やバス代を脇に置けば、これもお金以外で解決する方法です。
日頃から近所付合いや親戚付合いを欠かさなければ困った時に車を出して送ってくれる人もいるでしょう。
「義理人情で解決する」付き合いにお金がかかることは置いておいて、やはりお金以外で解決する方法になります。
タクシーで行こうと思うような距離は、意外と自転車で行けたりします。道路の混み方や細い近道なんかがあると車と大差ない時間で到着することもあります。
「若さと体力で解決する」間違いなくお金で解決とは言われない方法でしょう。
このように、幾つもの解決方法があったとしても、その中の一つに「お金で解決」と呼べる方法があれば、「お金で解決できる問題」と見なすことができてしまうのです。
質問を「お金でしか解決できない問題」と言い換えたら、その割合はかなり下がるでしょう。
別の例では、「受験に合格する」という問題を考えてみます。
裏口入学のような直接お金で合格を買うような行為を不正として除外すると、本人の実力で合格する必要があります。
しかし、「高価な教材を揃える」「有名な塾に通う」「家庭教師を雇う」等を考えて「お金で解決できる問題」であると判断する人もいるでしょう。
最終的には本人の実力が伴わなければどれだけお金を投入しても無駄に終わるのですが、無事合格できれば「お金をかけたことで実力を身に付けた」と感じるのです。
つまり、問題解決の方法の一部だけでもお金をかけていれば、「お金で解決できる問題」と判断されるのです。
質問を「お金だけで解決できる問題」と変えれば、また印象が終わるでしょう。
もう一つのパターンとして、「お金さえあれば解決できたかもしれない問題」と言うものがあります。
今は技術的にできない事でも、たくさんのお金をかけて大勢の人が知恵を出し合って開発すれば可能になるかもしれない。
治療方法の無い難病でも、未承認の保険適用外の新薬を使えば、あるいは海外で臓器移植手術を受ければ助かったかもしれない。
全く売れなかった商品やサービスでも、もっとお金をかけて大々的に広告やキャンペーンを行っていれば流行ったかもしれない。
お金を用意できなくて諦めたり、リスクやリターンを考慮した結果そこまでお金を出す価値はないと判断して断念したり。
お金が無いために試すこともできなかった状況は「お金さえあれば上手くいったかもしれないのに」と思わせます。
その結果、「それ以上お金が出せなくて途中で諦めた問題」に関しても「お金で解決できる問題」に含めて考えてしまうのです。
実際はどれだけ大金をつぎ込んでも失敗する時は失敗します。
難病の治療等では、それでもできることは全てやったと納得するかも知れません。
しかし、商品の開発・販売などの場合は、望んだ結果を得られても採算が取れず、ビジネス的には失敗などと言うこともあります。
試せなかったからこそ、「お金さえあれば解決できる」と言う夢を見られるのです。
今の世の中は、何かとお金がかかります。
問題を解決するために様々な行動を起こせば、直接間接にどこかしらでお金が動くことになるでしょう。
「お金で解決」と言う切り口で見れば、何かしら引っかかるものです。
これが「お金で解決できる問題」の割合が高くなるからくりです。
そもそも、お金とは何なのでしょう?
こんな話を聞いたことがあります。
「誰もが欲しがるものがお金になる。」
これは、お金の性質として重要なことです。
貨幣経済以前、物々交換の社会を想像してみてください。
自分の持つ余った物を提供して、足りない物を貰い受ける。
上手くいけばとても合理的な行為です。
互いの余りものを交換して不足を補うのです。
使い切れずに腐らせたり破棄したりと無駄にしたり、あるいは必要な物を手に入れるために多大な労力をかけたり危険を冒したりといったことを防げます。
ただ、この物々交換については致命的な欠点があります。
自分の余りものを相手が欲しがっていること。
相手の提供可能な物が自分の欲しいものであること。
どちらの条件が欠けていても、取引は成立しません。
この縛りはかなり厳しいものがあります。
必要な物を物々交換で手に入れるためには、まず欲しい物を持っている人を探し、自分の提供できる物と交換できないか交渉する必要があります。
欲しいものを持っている人を見つけても、本人が必要な分だけで手放すつもりが無ければ交渉の余地はありませんし、相手の欲しい物を用意できなければそこまでです。
例えば、海辺に住む人は魚は豊富だけれど煮炊きするための薪が足りない、平地に住む人は米は豊作だけれど魚も食べたい、山地に住む人は薪は取り放題だけれど米が不足しているとします。
この場合、三者が集まってそれぞれ余っている物を提供すれば丸く収まるのですが、一対一の交渉を行えばどの組み合わせでも失敗します。
つまり、トータルとしては需要も供給も十分にあるのに、互いの欲しい物と提供できるものが一致した極一部の場合でしか取引が行われないのです。
物々交換による売買は、この不確実性が問題になります。
特に、日々の食糧を物々交換で手に入れる場合、交換用に持って来た物を相手が「それはもういらない」と拒否したらそれだけで飢えることになります。
これでは、食糧以外の物を採取や生産する専門家の職業は成立しません。
たぶん物々交換の時代は自給自足が基本で、たまに余りものを交換するか、集落単位で豊富にある物や不足しがちな物がだいたい決まっていて定期的に交換するかくらいではないかと思います。
貨幣が導入されるとこの状況が一変します。
物々交換による売と買の間に「お金」を挟むことで自由度が増します。
海辺の人は魚を売ってお金を得て、そのお金で薪を買えばよい。
平地の人は米を売ってお金を得て、そのお金で魚を買えばよい。
山地の人は薪を売ってお金を得て、そのお金で米を買えば良い。
自分の余剰品を売る相手と、欲しいものを買う相手が別で良いので、取引の成功率は格段に上がります。
特に、相手の欲しい物を提供しなければならないという質的な問題から、お金をいくら出せばよいかという量的な問題に変わったことで話がずいぶんと単純になりました。
自給自足から、分業が進み、商業など新しい職業が増えて行ったのも貨幣経済の副産物でしょう。
ただ、物々交換から貨幣経済に移行する際に、一つ大きな壁があります。
そのお金は本当に使えるのか?
お金と言うものは持っているだけでは意味がありません。
何かを購入するために使って初めて役に立つのです。
何にも使えないお金をもらっても、嬉しくないでしょう。
お金を支払うことで商品やサービスを売ってくれる理由は、そのお金でまた別の商品を購入することができるからです。
なるべく多くの商品やサービスと交換できること、つまり「誰もが欲しがる」ことがお金がお金として機能する条件になります。
誰もが欲しがるから様々な物を購入することができ、様々な商品の購入に使えるから誰もが欲しがる。お金とはそう言うものです。
しかし、貨幣経済が普及する前は「これがお金だ」と主張しても何も買えません。
だから、初期の頃のお金はそれ自体が価値のある物が利用されていました。
古代中国では宝貝と呼ばれる貝の貝殻がお金として利用されていました。お金や経済に関連する漢字に貝が入った文字が多い理由がこれです。
宝貝は中国国内では取れない美しい貝で、希少価値も含めて高価だったのでしょう。
また、多くの貨幣は金属で作られてきました。
金属はそれ自体価値があります。
特に金銀といった貴金属は見た目の美しさから今でも装飾品に使用され、量的にも豊富にあるとは言えないため高い価値があります。
金貨や銀貨は貨幣としての価値を失っても鋳つぶして金や銀の地金として売り払うことも可能です。
美しい貝にしても輝く貴金属にしても、多くの人が価値を認め、欲しがったのでしょう。
貝殻も金属も腐るものではないので、自分は特に欲しくなくても欲しがる人に心当たりがあるならば後々の交換用に確保しようと思うこともあるでしょう。
こうして、他の人との交換用に貝殻や金属を集める人もまた「欲しがる人」に数えられることになります。
そして、そのものが欲しい人よりも交換用に確保したい人が増えて行けば、それは実質的にお金として機能します。
貨幣経済の始まりは、こんな感じだったのではないかと思います。
貨幣経済が十分に浸透している現代でも、自然発生的に通貨に相当する物が現れることがあります。
北朝鮮では、韓国製のチョコパイが事実上の通貨のようになったことがあるそうです。
韓国製のチョコパイが北朝鮮のお菓子よりもずっと美味しくて、高価で売れるようになってしまったため、転売目的で買い取る者も現れたそうです。
自分で消費するためでなく、売るために買い集める、つまりチョコパイが実質的に「お金」として扱われていたのです。
また、土地バブルで賑わっていた頃は、土地がお金になっていたと考えられます。
不動産と言うものは持ち運びができず、本来流動性が低い、つまり換金し難い、やや面倒な資産です。
しかし、土地バブルが起こった時期は多くの者が土地を買いあさりました。時には住んでいる人を無理やり追い出して土地を買う地上げが行われて問題になりました。
買った土地は、自分で家を建てて住むためのものではなく、他人に売るためのものです。
多くの人が他人に売るために土地を買いあさる、つまり土地がお金になっていたのです。
暗号資産とか暗号通貨などと呼ばれているビットコインも、最初は何の価値も無いただの電子データに過ぎませんでした。
技術的な話は別として、ビットコインが世間に注目されたのは、ビットコイン取引所が多数できて一般的な通貨と交換できるようになり、ビットコインの価格が高騰したころからでした。
ビットコインを持っていても何とも交換できない、つまり誰も欲しがらないうちは何の役にも立ちませんでした。
けれども、ビットコインの価格が高騰、つまり多くの人が欲しがるようになるとお金として機能し始め、今ではビットコインで直接決済できるサービスなども存在します。
逆に、誰も欲しがらなければそれはお金ではなくなります。
暗号資産のような、実体のない電子データだけではありません。
現在各国が発行している通貨は、昔のように政府が金などと交換することを保証しているものではありません。
その通貨の価値は、みんなが価値があると思って使っているから成立しているだけの、ある意味幻想です。
昔、ジンバブエで使われていたジンバブエドルという通貨がありました。
このジンバブエドルですが、ハイパーインフレを起こしたことでニュースになりました。
普通のインフレは物の値段がじわじわと上がっていく現象です。
しかし、ハイパーインフレはその上がり方が極端で、誰にも制御できなくなります。
当時のジンバブエの人は買い物をするために抱えきれないほどの大量の札束を持って行くことになり、その日の朝と夕で倍近く値段が上がるような経験をしたそうです。
これは、物の値段が上がったというよりも、通貨の価値が失われたのです。
インフレが進む時期はお金を貯め込んでいても損をするので積極的に物を買うようになりますが、ハイパーインフレの場合は物を売ってお金を受け取ること自体がリスクになります。
誰もお金を欲しがらなくなるからさらにお金の価値は下がり続け、物価の上昇を止めることができなくなります。
最終的にジンバブエドルは廃止され、ジンバブエの人は米ドルなど他の国の通貨を使うようになったそうです。
誰も欲しがらなくなった通貨は、お金の役割を果たせずに消えて行きます。
そのプロセスは、バブル経済の逆で、欲しがらない人が増えるからお金の価値が下がり、お金の価値が下がるから欲しがる人も減るという負のスパイラルです。
ただし、そこで起こる現象はバブル経済と同様に物価上昇です。
物価が急激に上昇する局面は常に警戒が必要なのです。
今の経済は複雑になり過ぎて、本来の意味が分からなくなっている部分があると思います。
例えば、株式や債券、外国の通貨など金融商品を売買することを「マネーゲーム」と呼んでギャンブルのように考える人も多いでしょう。
確かに投機目的で資金を投入して勝った負けたとギャンブル感覚でやっている人もいます。
でも、本来それはただの商取引と何の変りもないのです。
市場原理により需要と供給の関係で価格が決まる。それは株式でも債権でも外貨でも変わりません。
価格が安いということは商品を売ってお金を欲しい人が多くいるということ。
逆に価格が高いということは高いお金を出してでも商品が欲しい人が多いということ。
つまり、安く買って高く売ることは、お金が欲しい人にお金を提供し、商品が欲しい人に商品を提供するという行為です。
正しく儲ける限りにおいて、投機は人の役に立つ立派な仕事です。
価格操作とかして市場を荒らすなら害悪でしかありませんが。
一般的な商売が生産者と消費者を繋いで空間的な価格差を均すならば、金融商品の売買は時間的な変動を抑える働きがあります。
世の中の役に立っているから利益が得られているのであり、勝った負けたを楽しむためのギャンブルとは本質的に異なるものです。
上手く当てれば大金が入って来るギャンブルと見なすことは、金融商品の取引に対する本来の意味を見失っているのです。
ギャンブルとは娯楽であり、お金を出して楽しみを買う行為です。ギャンブルで儲けたいのなら、娯楽を提供するために働く胴元になるしかありません。
経済が複雑になったことで、お金そのものの意味も分からなくなっていると感じます。
お金はみんなが欲しがることで成立する幻の価値です。
どの国のどんな通貨も、欲しがる人がいなくなればお金として機能しなくなります。
誰も欲しがらなければ、紙幣は紙屑に、硬貨はただの金属片に、電子マネーは意味の無い数値になります。
そんなお金の本質とは何なのか? 単なる幻想に過ぎないのか?
それを知るには、物々交換から貨幣経済に移行する前後を考えれば分かり易いでしょう。
初期の頃のお金は、物々交換で交換する物品の代用品です。
つまり、お金は別の物品に置き換えるための一時的なもの、商品の引換券のようなものでしょう。
さらに言えば、労働の証明とも考えられます。
物々交換の時代は、例外はあるにしても、自給自足が基本だと思われます。
狩猟採取の生活では、誰が何処で狩りや採取を行おうと制限はありません。自然は誰のものでもありません。
農耕を始めると土地を所有するという概念が生まれてきますが、誰も手を付けていない土地に田畑を開墾することはいくらでもできたでしょう。
衣類や生活に必要な道具も、昔の人は自作していました。
遠くまで行かなければ採取できない物とか、作り方が伝わっていない加工物などもあるでしょうが、他人から手に入れられる物の多くは手間をかければ自力で手に入れられるのです。
物々交換を行うのはその手間を省くためです。物を通して互いの労力を交換しているのです。
そして、一方的に受け取るのではなく、互いに交換するということは相手に依存するのではなく対等な関係であることを示します。
お金をたくさん持っているということは、他者に多くの労力の結果を提供し、社会に貢献しているということになります。
他者のために多くの労力を割いているのだから、その分他者からの労力を多く得ても問題ない。
そのように考えられるのです。
このように、「お金を他人の労力」と考えると最初の質問の意味が少し変わってきます。
つまり、「お金で解決できる問題」とは「他人の協力を得て解決できる問題」という意味になります。
お金を支払う行為は、直接その問題に関わっていなかった何者かの協力を得ることに他なりません。
「世の中、お金で解決できる問題は何割くらいあるか?」
この質問は、実は「自分一人でしか解決できない問題」と「他人の協力を得て解決できる問題」の割合を問うていたのです。




