イノベーションは悪か?
「いいね」ありがとうございました。
私は、世の中の多くの重大な問題の原因には経済があるのではないかと思ってます。
科学技術の罪とされるような問題も、その多くは深刻な問題になるまで大量・大規模に利用し続け、問題が発覚しても止められないことが原因です。
大量・大規模に利用するのは、より多くの利益を得ようとするから。
問題が発生してもなかなか止められないのは、その利益――金銭的なものだけでなく、便利や快適等を含む――から離れられないから。
つまり、経済、あるいは人の欲望こそが根本的な原因としてあるのです。
それを科学技術や科学者のせいにするのは、「ダイエットに失敗するのは美味い料理のせいだ」と料理や料理人に責任転嫁するのと一緒だと思うのです。
また、今の経済は制御不能な感じで暴走しているのではないかと感じています。
産業革命以降の経済は、それ以前とは別物になっていると思います。
私は『働かなくてよい世界』を書いているときに、その理由を「供給能力が需要を大きく上回ったから」と推測しました。
需要に対して供給が過剰ならば、市場原理に従って価格が下がります。
消費者にとっては嬉しい事ですが、生産者側は大量に売らなければ利益が上がらず、生産コストを下回るまで値が下がれば破綻します。
供給が需要を上回っているのですから、いずれ必ず売れ残ります。
いわゆる「豊作貧乏」があらゆる業界に蔓延して経済が停滞します。
近年の景気対策は、需要喚起策が多いでしょう。
近代以前の社会では、不作による飢饉は度々起こっても、豊作貧乏で農作物を破棄するような話は聞いたことがありません。
(私が知らないだけかもしれないですが。)
今の社会は一次産業を中心にどこもかしこも豊作貧乏の過当競争で、物を作るだけではなく需要も作らなければあっという間に行き詰まってしまいます。
先進国の産業が、物作りからソフトウエア、サービスやソリューションなどと時代と共に軸足を移して行った背景には、価格競争になると人件費の安い発展途上国に敵わなくなって行ったという事情があります。
需要に上限があるから、利益を上げるには競合他社からシェアを奪う必要があり、最後は過当競争に陥ります。
価格競争に勝ってシェアを奪うには生産性を高めて、低価格でも利益が出るようにしなければなりません。
しかし、需要の上限が決まっている以上、需要を超える生産を行っても無駄になるだけです。
だから、生産性を高めていくと、需要の上限まで生産量が増えたところから必要な人員が減って行きます。
生産性を高めることは良い事に思えますが、実は労働の価値を押し下げ、失業率を高める効果があります。
余談ですが、「失われた30年」などに関連して、「この三十年間、日本は生産性が上がっていないことが問題」といった話を聞きます。
原因としては、「長時間労働の風習があるから」「賃金が上がらないのでやる気が出ない」等々言われています。
だから生産性を高めなければならない、というのですが……
この三十年間に働いたことのある人、ちょっと考えてみてください。
やる気も無くだらだらと長時間労働していましたか? そんなことが許されましたか?
特にバブル崩壊前の景気の良い頃から働いていた人、よく思い出してみてください。
景気が良い頃と同じ仕事の仕方をずっと続けていますか? 景気が悪くなるにつけて「効率化」だとか「コスト削減」だとか厳しく言われて工夫をしてきたのではありませんか?
他にも「人は減るけれど仕事は増える」とか「残業をするなと言われるけど、仕事量は減らない」とか効率を高めないとやっていけない状況だったりしませんでしたか?
生産性が上がっていないと言われて、疑問に思いませんでしたか?
そもそも生産性とは何かといえば、同じ時間でどけだけの製品を生産できるかということです。
しかし、製品の種類が異なれば生産に要する時間は当然変わるし、製造業以外の仕事も山ほどあります。
異なる業種をひとまとめにして「日本の生産性」とは何を指しているのか?
それは結局のところ、得られた利益を労働者一人当たり時間当たりに換算して生産性と言っているのです。
国全体の生産性ならばGDPを国民全体の延べ就労時間で割った値でしょうか。
つまり、どれだけ頑張って高率化を進めてガンガン製品を作っても、売れなかったり安売りをしたりして利益が上がらなければ生産性は低いと言われるのです。
景気が低迷して労働力が安く買叩かれているから金額で見た生産性が低くなっているだけです。
労働者が気の抜けた仕事をしているから悪い、とか言う話ではないので誤解しないでください。
この点を勘違いしたまま「とにかく生産性を上げろ!」を推進すると、コストカット・雇用削減で生産性だけでなく失業率も上がったり、サービス残業・隠れ残業で見た目だけ生産性を上げたブラック企業が跋扈することになりかねません。
実際、生産性が上がらない理由の一つに社員教育や人材育成などの人への投資が減っているからと言うものがありましたが、これはすぐには利益に繁栄されないコストを削減、つまり目先の生産性向上を行った結果とも言えます。
生産性の向上、作業の効率化は労働の価値を下げ、長い目で見れば人から職を奪います。
高率化して余った時間や人員は別の仕事をすればよいと言うかもしれません。
実際にそう言うことをしているから、いくら効率化してもそれ以上に忙しくなっていくのですが。
別の仕事を行ってそれが上手くいったとしても、需要の上限がある以上、別のどこかで職を失う人が出て来るだけです。
だから、需要そのものを新しく作り出そうとします。
でも、それって本来必要のなかった物を消費させるという無駄を生み出すことではないでしょうか?
無駄な消費に支えられている社会は、その無駄な消費を許容するだけの資源やエネルギーが尽きたところで終わります。
その終焉が色々な形で見えてきたからこそSDGsが叫ばれるようになったのでしょう。
ただ、私は技術の進歩や生産性の向上を否定しません。
技術を捨てて近代以前に戻れとも言いません。不可能でしょうし。
むしろ、技術の進歩が突き抜けて、働く必要のない世界になってしまえ、というのが『働かなくても良い世界』の趣旨です。
そこまで今の文明が持つのかは分かりませんが。
技術が進歩することはよいことだと思います。
メリットとデメリットを正しく理解して正しく取捨選択できるのならば、選択肢が増えることは良い事です。
ですが、イノベーションを積極的に起こそうとするのは違うのではないかと思うのです。
あえて言います。イノベーションは悪です。
イノベーションとは、ただ新しい技術を開発しただけで起こるものではありません。
それが社会に浸透し、人々の暮らし、仕事の仕方、社会の仕組みそのものが大きく変わるのがイノベーションです。
今までと同じ暮らし、同じような仕事をしていて、ただ特定のある作業が新技術で楽になった、という程度ではイノベーションとは言えません。
社会の在り様が変わり、人々の価値観が変わり、そして後戻りできない。イノベーションとはそんなものです。
無理に起こそうと考えなくても、自然発生的にイノベーションは起こります。
古くは、農業を始めたことが大きなイノベーションだったのだと思います。
農耕を始めたことで、定住して大規模な集落を作ることが可能となり、そこから国が生まれました。
産業革命もイノベーションでしょう。
蒸気機関の発明だけに留まらず、工場による大量生産が行われたことで、農業中心の社会から工業が主要な産業になる社会へと転換しました。
イノベーションは結果です。
国を興そうと思って農業を始めたわけでも、産業革命を起こそうと思って蒸気機関を開発したわけではないでしょう。
狙ってイノベーションを起こすことはできませんし、イノベーションが起こった後の世界がどうなるかは、なって見なければ分かりません。
「イノベーションが起こればこんな未来になる」という予想は大体外れます。
かつてSFで語られた21世紀の未来社会が、どれだけ実現したでしょうか?
イノベーションの真骨頂はこれまでの延長線上から外れたところにあります。予測は意味を持ちません。
そして、予想を超えて変わった未来には、予想外の問題が必ず発生します。
新技術でも、新しい政策や法律でも、新しい商売の手法でも、新しいことを始めれば新しい問題も発生します。
限定された範囲内ならばある程度は予測も対策も可能でしょうが、世界中に広まってしまえば制御不能になります。
飢饉は農耕が始まるまでは発生しなかったそうです。
狩猟採取の生活ではあらゆる食べ物が全て一度になくなることはまずありませんが、特定の農作物がまとめて不作になることはあります。
飢饉は、同じ種類の植物を大量に栽培するようになった弊害です。
産業革命は工業生産能力を飛躍的に高め、世の中を豊かにした反面、生産手段を用意できる資本家と、企業に雇われる労働者という新たな社会階級を生み出しました。
立場の強い資本家が、利益を得るために弱い立場の労働者を酷使し搾取する問題が発生しました。
この問題に対処するために労働組合ができたり、法律が整備されたり、共産主義が誕生したりと長いこと試行錯誤を行っていますが、現代でもブラック企業が問題になったりします。
イノベーションが起これば何らかの問題は解消されたり軽減されたりしますが、必ず新たな問題が発生します。
だから、一度イノベーションが起こったら、新たに発生した問題を検証し、時間をかけて対策して行かなければなりません。
イノベーションで発生した問題を新たなイノベーションで解消する、みたいなやり方では際限がありません。
勿論、今ある課題を解決するために技術開発をしたり創意工夫を凝らして様々な手法を考え出すことは必要だし重要だと思います。
その結果として、イノベーションが起こることもあるでしょう。
けれども、最初から積極的にイノベーションを推進するのは何か間違っているのではないかと思うのです。
私は今の経済の問題の根源は供給能力が需要を大きく上回っていることだと考えました。
供給能力に対して需要が足りていないから豊作貧乏状態になって収入が増えず、不況になります。
逆に言えば、十分な需要があれば経済が活性化して好景気になります。
実際、戦後の日本が好景気に沸いた時期は、朝鮮戦争による特需があったり、道路や新幹線の整備で公共事業が多く行われたり、その結果物流が増えて需要が喚起されたりしました。
土地バブルの際も、投機目的で高くても土地を買いたいという人が大勢いて大きな需要がありました。
しかし、特需は特別な状況でなければ発生しないし、公共事業は乱発し過ぎて既に効果が少なく、バブルは必ず弾けて酷いことになります。
考えてみれば、戦後の復興期には何もかも失ったところから豊かになって行く過程であり、潜在的に大きな需要がありました。
三種の神器とか、3Cとか言って、家電や車を購入することがステータスだった時代があったのです。
そんな時代ならば、多くの人が欲しいものが存在するのだから、お金に余裕ができれば高価な商品を買います。
公共事業を行って市場にお金をばらまけば、懐に余裕のできた人が高価な買い物をして連鎖的に消費が増え、経済が活性化します。
しかし、今では高価な家電製品も自家用車も必需品として多くの家庭に普及済みです。
買い替え需要だけでは爆発的な売り上げの増加は見込めません。
金さえあれば誰もが買いたいと思える商品が無いため、公共事業で資金を投入しても消費の拡大が波及して行かないのです。
私達は今、既に十分に豊かになっているのです。実感のない人も多いかも知れませんが。
だから、何もかも失った戦後からがむしゃらに豊かさを求めた高度経済成長期のような経済成長はもうありません。
もう一度大きな需要を生み出そうとしたら、国民の大半が今持っている物を捨ててすべて買い直すくらいの状況が必要になります。
テレビ放送の地上波がデジタル化した際、電波の有効利用ということの他に、買い替え需要による経済効果を狙っていたと思います。
ほぼ全ての家庭に普及していたテレビや録画機器が全て使えなくなるのです。
買い替えるついでに大型テレビや最新のビデオレコーダーを購入してくれればさらに消費も増えることになります。
誤算だったのは、テレビがそこまで必需品で無くなって来ていたことでしょう。
情報ならインターネット経由でも手に入るし、モバイル機器の普及も進んでネットで動画も普及して来たころです。
デジタル放送の新機能も視聴者的にはさほど魅力はありませんでしたし、録画機器に関しては著作権保護機能の追加によって以前より不便になっていました。
外付けのチューナーだけ買って、持っていたテレビが壊れるまで待った人も多かったのではないでしょうか。
しかし、古いものがまとめて使えなくなって、皆が新しいものを購入すれば需要が増えて経済が活性化するという考えは有効でしょう。
買い替えが終わるまでの一時的なもので、該当製品に限定されるかもしれませんが、一定の効果はあります。
そこで、イノベーションです。
イノベーションが起これば、社会の仕組みが変わり、人々の生活も変化します。
ライフスタイルが変われば、これまで必須だったものは廃れ、新しい商品やサービスが生活必需品となります。
地デジの時のようにただ代替製品に切り替えるのではなく、新しい生活を求めて新しい商品を利用するならば、様々な波及効果も見込めます。
単なる問題解決のための新技術ではなく、イノベーションを求めるということは、大きな経済成長を求めているからだと思うのです。
しかし、景気対策としてイノベーションを推進することは違うのではないかと思うのです。
今あるものを捨て去って新しいものを購入する。そのために社会や生活の変革を促す。
それは本質的に大量生産―大量消費―大量破棄の無駄遣いによる浪費か、実体のない価値を膨らませるバブル経済と同じではないかと思います。
何かの資源が枯渇するか、虚構の価値に意味がないことに気付いてバブルが弾けるかすればすれば破綻します。
また、新しい技術、新しい手法は既存の問題を解決する半面、新しい問題を生み出す元凶となります。
イノベーションによって社会が変革すれば、予想もしなかった問題が発生することは先に述べた通りです。
新たに発生した問題をある程度解消して、新しい社会、新しい生活が安定して定着して初めてイノベーションが完成するのだと思います。
発生した問題に正面から取り組まず、新たなイノベーションで上書きするのは、別の問題にすり替えているだけです。
それでも深刻な問題を順々に解消できていれば良いのですが、問題を先送りしているだけだったりすると、後々まとめて降りかかって来るでしょう。
人々が日々の問題を解決し、世の中を良くしようと努力を続ける限り、イノベーションはどこかで起こります。
けれども、イノベーションが起こったらそれで万事めでたしめでたしではありません。
新たに発生する問題に備え、急速な社会の変化に伴う歪みを正し、変化に付いて行けない人もフォローし、やらなければならないことは数多くあります。
経済的な成功は、必ずしも社会全体が良くなることを保証しません。
時には変革が社会の隅々に浸透して時間が経ってから深刻な問題が顕在化することもあります。
温室効果ガスによる地球温暖化なんて、発端となった産業革命から二百年以上経っています。
一度社会に浸透してしまうと、問題があるからと言って容易にイノベーションが起こる前には戻れません。
単一の技術だけならば禁止することも可能でしょうが、イノベーションと呼ばれるほどに社会が変わってしまうと簡単には行きません。
以前の社会では必需品であった品物や社会の仕組みが消えていますし、現状それで儲けている人がいる以上、経済が後戻りを許しません。
一度登れば、梯子は外されてしまいます。
イノベーションの良い面ばかりでなく、そうしたリスクがあることも忘れてはいけません。
新しいことを始めようとすれば、新たな問題が発生するリスクは必ずあります。
今と同じやり方だけでは行き詰まる未来も見えているから、技術革新もイノベーションも必要でしょう。
けれども、経済を刺激するためにイノベーションを乱発するのは不味いと思います。
今でも新しい技術に対して思いもよらない問題が出てきたり、技術が進んだ場合の問題が予想されたりしています。
そうした問題が多方面から噴出し、しかも色々と使われているから規制も法整備も間に合わないという状態になりかねないのです。
まあ、イノベーションは起こそうと思っても簡単に起こせるものでもありませんが。
ただ、イノベーションを推進するというのならば、当然リスクや対策も考えなければならないはずなのです。
イノベーションで生じた問題を新たなイノベーションで解消するマッチポンプで、「その内全ての問題を解決するイノベーションが起こるだろう」と考えるのは楽観的に過ぎます。
それに、本当にあらゆる問題を解決するイノベーションが起こったとして、経済的な理由でイノベーションを起こそうとしているのならば、何の問題が無くてもさらなるイノベーションを起こそうとするでしょう。
イノベーションによる経済成長に依存する社会になったら、イノベーションを促進するためにあえて問題を作り出しかねません。
経済のために、もっと言えば金儲けのために推進するイノベーションは、十分に悪になり得ると思うのです。




