文章の力について
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皆さんは「Key」というゲームブランドをご存じでしょうか。
18禁のアダルトゲームのブランドとして始まりましたが、全年齢対象のゲームやアニメの作成にも関わっているので知っている方も多いでしょう。
まあ、超有名ブランドなので今更「御存じでしょうか」はないだろうという人も多いかも知れません。
この「Key」は泣きゲーの草分け的なブランドでもあります。
泣きゲーとは、ゲームをプレイすると感動して泣いてしまうゲームのことです。
泣けるエンディングを演出する音楽などにも定評がありますが、感情を揺さぶるシナリオは秀逸です。
しかし、私は個人的に、Key作品に関しては「泣ける」部分よりも「笑える」面を高く評価しています。
これは完全に私見ですが、泣ける話はある程度量産が可能だと思うのです。
もちろん簡単なことだとは言いません。
ただ、泣ける話を作るセオリーは存在します。
例えば「命」をテーマにすればよい。
人が生きるか死ぬかという状況を作り、それを真正面から真剣に書ききればよいのです。
そこで変に誤魔化したり、安直な解決方法で逃げたりせずに、悩み、苦しみ、必死になって努力する様を余すところなく真摯に書き上げれば、おそらく感動する作品になります。
当然、最後までしっかり「読ませる」文章力が必要ですが、読ませる文章を書く技術ならば書いているうちに身に付くはずです。身に付かない人はプロの作家には向いていません。
つまり、特別なセンスとか才能とかが無くても、努力次第で感動して泣ける物語は書けるのです。
一方、笑える話は難しいものがあります。
面白い落語とかコントとかを聞いて、他人に説明しようとしたら全然面白さが伝わらなかったという経験はありませんか?
一字一句正確に憶えて話しても面白く感じないのは、落語やコントが「面白い文章を読み上げている」のではなく、面白く伝える話術を用いているからです。
話術の助けなく、文章だけで笑わせることは結構難しいものです。
ただ面白い言葉を並べるのではなく、噺家が話術で作る「笑うしかない状況」を文章で読者の頭の中に作り出す必要があります。
泣ける話と違って、これさえやれば必ず笑うというセオリーはありません。
特に汎用的に誰でも笑える話にすることは困難です。
内輪ネタは知っている人は大笑いするけれど、知らない人には何のことか分かりません。
時事ネタなどもあっという間に風化して、解説を入れないと意味が分からなくなることもあります。
下ネタやブラックジョークは笑えないと不評を買うことになります。
誰かを笑い者にするような話は、下手をすると差別に繋がったりして怒りを買うことすらあります。
上質の笑いをもたらす話には、センスが必要になります。
もしも、「笑える話なんて簡単だ」という人がいたら、是非とも書いて下さい! お願いします。
文章で人の感情を動かそうとした場合、一番難しいのが「驚かす」ことだと思います。次点が「笑わせる」こと。
文章だけで人を驚かそうとしたら、予想外の展開を行うしかありません。
読者の予想できない、しかも無茶苦茶や理不尽ではなくちゃんと整合性のある展開でなければなりません。
例えば、推理小説では読者の予想もしなかった凄いトリックが披露されますが、正解を聞けばそれ以外にないと思えるくらいに納得できる必要があります。
他人が思いつかないことを考えるという時点で難易度が高いのですが、人を驚かす物語にはもう一つ難点があります。
二度目はないということです。
最初に読んだ時には大いに驚いたとしても、二度目に読んだ時には同じ驚きはありません。
知ってしまえば、もう予想のつかない展開ではないからです。
ネタばれが嫌われるのは、知ってしまうとその驚きを味わうことができなくなるからです。
それに、一つの作品だけの問題ではありません。
多くの人を驚かせて有名になった作品が現れると、同じアイデアでは同じほどには驚かなくなります。
類似の物語を知っていると、類推して予想ができてしまうからです。
下手をすると、二番煎じとかパクりとか言われることになります。
推理小説では、巧妙なトリックと言うものは出尽くした感があります。
最近の推理小説では、犯行に至るまでの心理や人間関係のドラマとか、読者をミスリーデングすることで予想外の驚きを引き出す叙述トリック等が多いのではないでしょうか。
人を驚かすことに関しては、文章よりも演出の方の得意分野です。
怪談で、最後に大声を出して驚かせるものがあります。
恐ろしい話で怖がらせるのではなく、大きな声でびっくりさせるため、怪談の主旨とはずれるのですが、恐ろしげな雰囲気から突然の大声になるためたいてい驚きます。
たとえそのような話があると知っていても、突然のことで驚いてしまう。それが演出の力です。
「デウス・エクス・マキナ」という言葉を知っていますか?
日本では「機械仕掛けの神」などと訳されることもあるご都合主義の化身です。
この言葉の語源は古代ギリシアに遡ります。
古代ギリシアでは文化芸術活動が盛んだったそうです。
当時はテレビも映画もなかったので、代わりに演劇が盛んに行われていました。
しかし、演劇が数多く上演されるようになると問題も発生します。
それは、脚本の不足です。
役者は、場数を踏むうちに上達します。
大道具小道具なども洗練されて行きます。
しかし、三流の作家が数をこなしても一流になれるとは限りません。
名作を世に出した一流の作家でも、毎回名作を書けるとは限りません。
けれども、数少ない名作だけを上演し続けるのも芸がないですし、他の劇場との差別化もできません。
そこで、三流作家の名作とは言えない脚本でも上演します。
三流の作家でも、場数を踏めばそれなりの話は作れます。
ただ、三流作家は話を膨らますことはできても、それを奇麗に終わらせることができない場合がよくあります。
話を盛り上げるために場当たり的にエピソードを盛って盛って、そして収拾がつかなくなります。
広げまくった大ぶろしきをたためなくなってどうするかと言えば、話の終盤に突然神様を登場させて、強引に全てを丸く収めてしまいます。
泣ける話のセオリーで言った駄目なパターン、神の力という安直な解決方法で逃げる手法です。
駄作でしょ?
ダメダメな脚本でも、上演するとなれば頑張って面白い演劇にしようとします。
何をしたかと言えば、大きなクレーンを作って役者を空中に吊るしました。
天から神様が降臨するという、大仕掛けな演出です。
当時の劇場は屋外劇場で天井が無かったから、本当に空から神様が降りて来る恰好になったでしょう。
派手な演出で、観客の度肝を抜いたのです。
これがデウス・エクス・マキナ、大掛かりな機械仕掛けによって演出された神様です。
演出の力は大きなものがあります。特に視覚や聴覚に働きかける演出は言葉を理解するプロセスを飛ばして人の感情を動かします。
突然大きな音がすれば、演出だと知っていてもびっくりします。
人が宙を舞えば、機械仕掛けだとしても目を見張ります。
だから、人を驚かす演出は何度でも使えます。
あまりしつこく繰り返せば慣れて驚かなくなるでしょうが、一同有名になった演出を他の作品で使用しても十分に驚かすことができます。
驚かす演出だけでなく、笑わせる、泣かせる、怖がらせるなどの様々な演出があります。
BGMや効果音(SE)にはそうした感情や雰囲気を演出することができます。
アニメやゲームの音楽には良質なものが多くありますが、これは役者が演技で表現する部分の一部を音楽が肩代わりしているという事情があります。
他にも、テレビドラマで観客がいる舞台中継でもないのに、画面に出ていない大勢の人の笑い声を入れるという演出があります。
映画を映画館で見る場合は周囲の観客の笑い声が自然と聞こえてきますが、テレビではそれが無くて寂しいので代わりに笑い声の音声を入れたのが始まりではないかと想像しています。
しかし、この笑い声を入れる演出は、「周囲が笑っているから、ここが笑うポイント」と思わせて笑いを誘う効果があります。
同様の演出に、CMや通販番組などでわざとらしく驚きの声を入れることで、商品の性能高さや安さを強調する手法もあります。
それから、Mr.マリックが一世を風靡した後に便乗した亜流が何人も現れましたが、そんな中に「単なるテーブルマジックの背後でキャーキャーと悲鳴を上げさせる」という演出をしていたものを見かけました。
ただの手品がオカルト番組の超常現象に早変わりです。
演出の力は大きなものがありますが、もちろん万能ではありません。
まず、場面場面を盛り上げるのは演出ですが、全体の流れを作るのは脚本の仕事です。
それから、作品を通じてのテーマやメッセージを形作るのも脚本側の役目です。
演出はそのメッセージを効果的に伝えるために使われます。
人の感情を揺さぶる演出も、ストーリーに従って、笑うべき場面で笑わせ、泣くべき場面で泣かせ、驚くべき場面で驚かせる。
脚本が主で演出が従の関係です。
また、出来事の理由や理屈を示して人を納得させるには、演出よりも言葉で説明した方が効果があります。
圧倒的な演出で疑いようのない結末を突き付けてその場は納得させても、後から考えると「何故そうなったのか理解できない」といったことも起こり得ます。
ただ、言葉による説明は長くなる恐れがあります。
正しく伝えようと言葉を重ねれば無駄に長くなったり、理屈っぽさが鼻についたりすることもあります。
構成を間違えると突然長台詞が始まって面食らったり、スピーディーな展開が急停止してつんのめったりすることになるでしょう。
小説などの作品がアニメ化や実写化された際に、原作では丁寧に筋道立てて説明されていたことがバッサリと端折られることがよくあります。
展開を早くして見栄えのする派手なシーンを増やしたり、人気のある場面やキャラクターを早目に登場させて視聴者の注目を引きつけるなど理由は色々とあるでしょう。
結果として、何故そうなるのかがよく分からない、中途半端な説明と矛盾する展開等の頭の悪い作品になったるすることもあります。心当たりありませんか?
この辺りは、媒体の違いによる受け取る側の性質の差が現れています。
小説の場合は物語を読み進めていくのは読者自身です。
文章を読んで、内容を理解して、情景を思い浮かべることができないと次に進めません。多少ならば読み飛ばすことが可能でも、理解していない部分が増えれば物語全体が分からなくなって行きます。
だから、小説の読者はある程度何が起こっているのかを理解していることが前提になります。
理解できなければ分かるまで読み返すか、あるいは読み進めることを放棄するかです。
一方、映像作品では物語の進行は作品側が制御します。視聴者全員が理解できるまで待つことはありません。
演劇ならば多少は観客の反応を見ながら話の進行を調節できますが、映像作品ではそれもできません。
スピーディーな展開を望むなら、理解の追い付かない人はある程度置いてけぼりにして先に進んだり、あるいは見ても分かり難い理屈をバッサリと削ってシンプルな物語になったりします。
こうして、意味不明だったり頭の悪い代わりに勢いのある作品が出来上がります。
逆に、小説では話の展開を理解納得させることはできますが、勢いのある展開を作るのは技術やセンスが要ります。
読者が文章を読んで理解する速度を作者側がコントロールすることはできません。新しいエピソードを次々と投入して、読者の予想を超える速さで物語が進行しているように感じさせる必要があります。
映像作品のスピーディーな展開を、そのまま文章で表現することは困難です。
例えば、擬音語と擬声語と悲鳴と怒声だけでページが埋め尽くされた小説をまともに読む気になるでしょうか。
映像作品ならば、BGM一曲分走り続けるとか、数分間にわたって銃撃戦や殴り合いを続けることだってあります。
また、台詞だけが幾つも並んで、ポンポンと会話が弾んでテンポよく話が進む、という手法もありますが、これも下手をすると誰が喋っているのか分からなくなります。
昔読んだ小説に、会話だけで話が進む場面があったのですが、登場人物のうち二人が喋り方に差が無く、どちらの台詞か区別がつかないことがありました。
作者はアニメの脚本も書いている人だそうで、映像作品になれば容姿や声の違いで間違えようもないのでしょうが、文字にすると区別が付きません。
キャラクターの個性として、変わった一人称や変な語尾、特徴的な話し方等を入れることの重要性を理解しました。
さて、話を戻します。
文章の力で人の心を動かそうと思った時、一番難しいのは驚かすことだと考えています。
次が笑わせること。
感動で泣かせることは比較的容易。
そう考えました。
そして、一番容易なのは怒らせることではないかと思います。
文章で人を怒らせる方法は、実に簡単です。
身勝手で理不尽な台詞を言わせればよいだけです。
この、人を怒らせる台詞は使い回しが効きます。
何処かの作品で悪役が使った台詞をほとんどそのまま言わせても、嫌われ者の悪役としてちゃんと読者の怒りを集めます。
後々主人公に逆襲されたり、関係ないところで自滅したりして醜態をさらすだけの薄っぺらい悪役に、小難しい理屈も他に類を見ない新規性も必要ありません。
差別や偏見に基づく一方的な見解、身勝手を体現した理不尽な理屈、都合の悪いことを無視する頭の悪い言葉、自分のことは棚に上げた卑怯な言動。
そうした悪意ある言動のパターンは様々な物語の中で色々と語られてきました。
どれほど使い古された悪役の台詞や態度でも、悪役を悪人やクズと認識させ、その悪役が酷い目に遭うことで読者がすっきりする効果があります。
時代劇の悪代官とか、もはやテンプレと化しています。
困ったことに、人を怒らせる文章はフィクションに限りません。
例えば、「炎上商法」などと言われる行為があります。
「悪名は無名に勝る。」
ネット上で炎上と言えば悪意と非難の集中砲火を受ける本来ならば避けたい状況ですが、多くの人の注目を浴びることになります。
そこで、あえて他人を怒らせ非難を浴びるような発言をして自ら炎上させる行為を俗に「炎上商法」とか「炎上マーケティング」とかと呼びます。
真っ当な手段で有名になるよりも、人の怒りを煽って非難の的になる方がずっと簡単なのです。
また、「ヘイトスピーチ」なども悪意を煽り、怒りをもたらす言葉です。
差別や偏見に基いた人を傷付ける言葉、それは物語の悪役の台詞そのものですが、差別とも偏見とも思わずに真実と受け止めて同調する人もいるのでしょう。
当然、同調する人だけでなく反発する人もいます。
どちらにしても怒りを煽り、対立と分断が大きくなって行くのです。
人を怒らせる言葉は、扱いに注意しなければなりません。
・おまけ
余談ですが、私は「ドキュメントドラマ」と言うものが少々苦手です。
ドキュメンタリーそのものは、内容にもよりますが、割と好きでよく見ます。
自分の知らない出来事や知らなかった側面を知ることは楽しいものです。
しかし、それがドラマ形式になると途端に「嘘くさい」あるいは「わざとらしい」と感じてしまうのです。
昔、首都圏直下型の大地震が発生したと言う想定のドキュメントドラマを見たことがあります。
この手のドキュメンタリーは、大きな災害が発生した時に何が起こるのかを想定し、日頃からどう備えるか、その時になったらどう行動するかを一人一人が自分のこととして考えることが目的です。
しかし、ドラマの部分は話の盛り上がる山場や、結末となる落ちを入れようとします。
そのドラマでは、テレビ局で働く主人公の視点で震災発生後に起こり得る次なる危機を警告する報道を流すか、パニックを避けるために不確定な情報はカットするかで対立する人間ドラマが描かれていました。
これはこれで、重要なテーマです。
しかし、ドキュメンタリーの本題は、首都直下型地震です。最新の研究成果や独自の取材からどのような被害が想定されるか、真面目に検証したもののはずです。
そんな中、災害時の報道の在り方と言う重いテーマを片手間で突っ込むのはどうかと思うのです。どう考えても中途半端なものになるでしょう。
また、ドラマのラストは、震災で行方不明だった主人公の親戚(だったと思う)の無事が確認されてめでたしめでたしでした。
ドラマとしては何らかの結末を付ける必要があったのでしょうが、多くの被害情報、犠牲者の情報が集まる報道の現場で、関係者の身内と言う個人的な安否確認で皆喜ぶという終わり方はなんだか違和感がありました。
ドキュメンタリーであることで、ドラマの部分も中途半端になっているのではないでしょうか。
また、別の例では食糧問題を扱った番組を見ました。
このままでは将来深刻な食糧危機に直面すると警鐘を鳴らし、最後のドラマパートでは食糧不足に陥った近未来の日本を描いていました。
食糧を求めて人が集まる闇市のような場所で、食べ物を盗もうとした人が捕まって吊るし上げを喰らい、その盗もうとした食糧の値段のバカ高さを見せて食糧危機の深刻さをアピールする終わり方でした。
それは良いのですが、そのバカ高い食材の内容が、「サーロインステーキ」。
番組の内容としては、家畜の肉を作るために飼料となる穀物とか、飼料を育てる分も含めて多量の水が必要になると言った内容も説明しているので、肉がバカ高くなる未来は正しい予測なのでしょう。
しかし、食糧難の時代に求められるものはまず主食ではないでしょうか?
肉や野菜も大切ですが、まずは主食が行き渡らなければ餓死者が出ます。
飢えをしのぐために止むを得ず盗むのならば味よりも量、高価な肉よりも米やパンでしょう。
つまり、食うに困って追い詰められた結果の犯行ではなく、高価でぜいたくな嗜好品を狙ったただの泥棒です。
そして、あっさり捕まる程度に雑で計画性の無い犯人が狙えるくらいに、高価なはずの肉は案外ぞんざいな扱いです。
たぶん、肉は値段が高騰しているだけで金持ち相手にそこそこ流通しているのでしょう。
食糧難で大変なことになった世界のはずなのに、何だか随分と余裕があるように思えてしまいます。
ドキュメンタリーで盛り上がった危機感が、ドラマでちょっと薄まってしまったような。
あるいは、ドキュメンタリーに合わせた結果、かえってドラマのリアリティが損なわれてしまったような。
そんな気がします。
まあ、私の見方がひねくれているだけかもしれませんが。




