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駄文庫  作者: 水無月 黒


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SDGsが虚しく響く

「いいね」ありがとうございます。

 NHKみんなのうたに「ツバメ」という曲があります。様々なバージョンが作られて長い期間流れているので聞いたことのある人も多いでしょう。

 この曲で歌われているのは、童話の「幸福な王子」でしょう。

 王子の像に宿った王子の魂が、貧しくて困っていることを見かねてその身を削って助ける話です。

 歌詞の中にある「きらめく宝石」は像の剣の装飾や目の部分に嵌められていた宝石、「金箔」は像の表面に貼られていたもので、全て貧しい人に与えられました。

 動けない王子の像に代わって、宝石や金箔を運んだのがツバメになります。

 良い話だと思うのですが、今の時代、こう評する人もいるでしょう。


「それはサステナブルではない。」


 その身を削って人を助けることは美談ですが、身を削り切ったらそれで終わってしまいます。

 神様しか知らない善行では、後に続く者が現れることも期待できません。

 悪く言えば、とりあえず目についた者だけを一時的に助けた自己満足にすぎません。

 こんな物語をSDGsのテーマソングにしてよいのでしょうか? と思ってしまいます。

 調べてみると、この歌はSDGs関連の「ひろがれ!いろとりどり」という番組で作られたテーマソングだそうです。

「幸福な王子」の王子一人が頑張って金をばらまいてもSDGsは実現しないことを理解した上で作られた歌のようです。


 最近はSDGsが大流行りです。

 NHKでは「みんなのうた」でSDGsをテーマにした曲を流していますし、それ以外にもSDGs関連の番組を放送しています。

「SDGsのため照明を落としています」などという店舗も見かけました。

 様々なところでSDGsが叫ばれていますが、ふと思うことがあります。


「SDGsが何なのか、みんなちゃんと分っているのだろうか?」


 正直、私もSDGsの全てを理解しているとは間違っても言えません。特に誰が何をしているかなどさっぱり分かりません。

 SDGsは「持続的な開発目標」の事です。17の目標が設定されています。

 ただし、目標はあくまで目標であり、実現する方法までが決まっているわけではありません。

 SDGsと唱えれば全てが上手くいくわけではないのです。


 SDGsの目標を簡潔にまとめると、「誰もが幸せになれる世界」ではないかと思います。

 と言っても、どこかの宗教家が夢想する矛盾だられの理想社会(ユートピア)でもなければ、全てがガチガチに管理され与えられた生活を幸せと思うように強制される管理社会(デストピア)でもありません。

 最低限、理不尽に不幸な目に遭うことのない世界、と言ったところでしょうか。

 例えば、SDGsの17の目標の中には、貧困をなくすことも含まれています。

 貧困は「単なる本人の努力不足」で片付けられる問題ではありません。

 一度貧困に陥ると、その状況から自力で脱出することは困難、と言う場合も多いのです。

 働きたくても仕事はなく、あったとしても貧困からは到底抜け出せない低賃金の仕事のみ。

 より良い職に就くために、勉強して資格を取ることも職業訓練を受けることもお金が無くてできない。

 幾つもの仕事を掛け持ちで行って長時間働き続ければ、体を壊してさらに貧困が悪化する。

 その立場になって見れば、とんでもなく理不尽で不幸な状況だと分かるでしょう。

 また、ジェンダー平等なども目標に含まれています。

 人間、意外と性差よりも個人差の方が大きいことが多いのです。

 しかし、男性中心の社会では、「女に高度な教育は不要」「女に重要な仕事は任せられない」などと言う風潮が根強く残っていました。

 生まれ持った性別によって、将来の可能性を狭められ、やりたいこともやれないと言うのは理不尽な不幸でしょう。

 そうした理不尽な不幸を無くすことがSDGsの掲げる目標なのです。

 SDGsと言うと環境問題やCO2削減を思い浮かべる人も多いでしょうが、それらは前提条件に近いものがあります。

 人が人として生きていくには衣食住が不可欠です。

 海面上昇や自然災害で住む場所を奪われたり、不作や不漁で食糧が不足したりすると生きていけなくなります。

 SDGsの目標の中には「海の豊かさを守ろう」「陸の豊かさを守ろう」などと言うものがありますが、それは人の利用する資源としての生態系の豊かさを守るということなのです。


 環境問題に関して「地球を守る」といった表現をよく見かけますが、あれは大嘘です。

 地球は大きいのです。人の生活圏はその地球の表層のすごく限られた範囲内です。

 人間が多少環境を破壊したところで、地球の形が大きく変わるわけでもないのです。

 まあ、理論上水爆の破壊力に上限はないそうですから、人類の手で地球を物理的に破壊することも可能かもしれませんが、そんな意味の無いことはしないでしょう。

 問題は、地球レベルで見れば些細な変化でも、その上で生活している生物にとっては重大な影響を及ぼすということです。

 地球温暖化と言っても、地球全体の平均温度が数度上がる程度です。

 その程度の変化でも、生態系に変化が生じたり、自然災害が増えたりと人類にとってはかなり脅威になり得るのです。

 人類が滅び去ったとしても、地球はほとんど変わらない姿でそこにあるでしょう。

 それを変わり果てた姿と感じるのは、あくまで人間の主観、人が生活できる範囲を超えた変化と言う意味でしかありません。

 人間が死滅した後も、その環境に適応した生物は生き延びるでしょう。

 全ての生物が死滅したとしても、地球はたいして変わらず在り続けるでしょう。

 変化があったとしても、ほんの表面だけです。

 大気圏なんて、地球の薄皮一枚に過ぎません。

 高い山も深い海溝も、地球全体からすれば誤差のようなものです。

 エベレスト(8,849m)とマリアナ海溝(10,994m)を足しても地球の半径(6,356km)の1%にも満たないのです。

 守ろうとしているのは地球と言う惑星そのものではありません。

 あくまで人の生活して行く環境を守ろうとしているだけなのです。

 ただ、その範囲が地球上全体――人類の活動が及ぶ範囲全体――を考える必要があるということです。

 地球全体を考えると些細な変化であっても、人々の生活に対しては深刻な影響を与えます。

「地球を守る」と言いつつも、地球にとっては実に些細な、けれども人類にとっては生死にかかわる変化を抑え込もうという活動なのです。


 SDGsに限らず、環境問題等の対策を考える時に重要なことがあります。


 その対策は、本当に効果があるのか?


 まあ、どのような問題に対しても重要な事柄ではあるのですが、特に地球レベルの環境問題では時間的空間的範囲が広く、関係性が複雑で分かり難くなります。

 これで上手くいく、と思って行ったことが、実際には効果が無いどころか逆効果だったなどと言うこともあり得ます。

 森林を増やすために植樹に対して補助金を出したら、植樹を行うためにまず森を伐採する、などと言うことが起こったそうです。

 建築現場で廃棄される木材(コンクリートを流しこむ枠として利用するもの)の再利用を促すために回収を義務付けたら廃材の山が出来上がったなどと言う話もあるそうです。

 人の行う範囲だけでも色々ありますが、自然環境に与える影響はさらに予想外のことが起こり得ます。

 また、全ての人が本気で環境問題に取り組んでいるわけではありません。

「グリーンウォッシュ」と言う言葉があります。

 実体を伴わない、うわべだけ環境に配慮したように見せかける行為を指す言葉です。

 営利企業にとって絶対に必要不可欠なことは利益を出すことです。

 どれほど崇高な理念を掲げても、赤字になったら続けられません。無理に続ければ倒産します。

 企業にとっては、エコロジーよりもエコノミーの方が優先されるのです。

 環境問題への取り組みも、法的に決められたことを守るためでなければ、企業イメージを上げる宣伝効果か環境に配慮したという付加価値を売ることになります。

 最善なのは、エコロジーとエコノミーが一致することです。

 例えば、「節電のため店内の照明を落とします」と言うのは、電気料金を減らしてコスト削減にもなります。

 環境に配慮した商品やサービスが高価でも売れれるのならば利益が出ます。

 技術開発を頑張っている背景にも、環境に負荷の掛からない製品を低コストで提供できれば企業の利益に繋がるからです。

 逆に環境に配慮した商品やサービスが高価すぎて競争力を失ったり、環境保護活動のコストがかさんで経営を圧迫したらそれ以上活動を続けることができなくなります。

 そうなったら企業の取るべき道は二つだけです。

 撤退するか、不正を行うかです。

 クリーンディーゼルの偽装問題を憶えていますでしょうか?

 EUは比較的早くから環境問題とか安全性とかで厳しい基準を設けていましたが、そのヨーロッパの自動車メーカーが排気ガス規制を逃れる不正を行いました。

 ディーゼルエンジンの排気ガスから窒素酸化物などを減らしてクリーンにすると、燃費やパワーが悪化して売れなくなるから、検査の時だけクリーンモードに切り替えるプログラムになっていたという事件です。

 実際に公道を走らせるとカタログ通りの性能(スペック)が出ないことはよくありますが、検査の時だけ低燃費低公害モード切り替えるというあからさまな真似をしたことで不正として問題になりました。

 しかし、どこの会社でも自社の製品を売るために必死になっています。

 良い面を大々的にアピールし、悪い面を目立たなくする。それはどこでも行われていることです。

 普通は違法なことはしませんが、合法の範囲内で行っているだけで、やろうとしていることは同じなのです。

 あからさまに誤魔化そうとする意図はなくても、謳い文句通りか疑わしい場合もあります。

 例えば、「環境に優しい○○を使用」という謳い文句で売り出している製品があったとします。

 しかし、その広告に嘘が無かったとしても、その製品を使用することで本当に環境に良い影響があるか、と言うことは別の問題なのです。

 その製品に環境に優しいという「イメージ」のあるものが使われていることは事実だとしても、トータルで環境に良い影響があるとは限りません。

 その「環境に優しいもの」以外の部分が環境に悪影響を与えていたり、製造過程で環境負荷が大きかったりする可能性もあるのです。

 トータルで本当に「従来の製品よりもこの製品を使用した方が環境に良い」と言い切るためには相当色々なことを考えて検証する必要があります。

 大きな企業ならばある程度調査・検証を行えるでしょうが、自社の製品を売りたいから悪いことは可能な限り低く見積もり、良いことは可能な限り高く見積もるくらいのことはするでしょう。

 違法や嘘とは言い切れない範囲であらゆる手を尽くして良いイメージを消費者に植え付けようとする。それができない企業は「いくら良いものを作っても売れなければ意味がない」と言われてしまいます。


 営利企業ではなく、国や地方自治体など利益に縛られない公共機関なら大丈夫かと言うと、そうとも言い切れません。

 既に前世紀の話になりますが、東京都が炭酸カルシウム入りのポリ袋を都指定のゴミ袋にしました。

 当時は今ほどCO2削減とか海洋プラスチック問題とかが重要な課題だと認識されていませんでした。

 それよりも、燃えるごみの中にプラスチックが入っていると燃焼温度が上がって焼却炉が損傷したり、ダイオキシンが発生したりと言ったことが問題となっていました。

 そこで、プラスチックであるポリエチレンに燃焼しない炭酸カルシウムを混ぜることでポリエチレンの量を減らす、と言うのが導入した理由です。

 しかし、この説明は大嘘です。

 確かに炭酸カルシウムを混ぜることで、同じ重さ当たりのポリエチレンの量は減り、燃やした時に出る熱量も減ることになります。

 しかし、炭酸カルシウムを混ぜたポリエチレンは強度が落ちます。

 炭酸カルシウムにはポリ袋の強度に寄与しないので、入れれば入れるほど弱くなります。

 だから、炭酸カルシウム入りのポリ袋は厚くなります。そうしなければ強度が足りないので。

 実際、炭酸カルシウム入りのポリ袋に対する不満の声として上がったのが「厚くてゴワゴワしていて使い難い」でした。

 同じ重さ当たりのポリエチレンの使用量が減っても、それ以上に総量が増えたのでは意味がありません。

 結局、同じ強度のポリ袋ならば炭酸カルシウムが入っている方がポリエチレンの量が多くなってしまい、当時も色々と批判されていたようです。

 東京都としては、別に炭酸カルシウムにこだわっているわけではなく、深刻なゴミ問題をどうにかするための政策の一環でしかなかったのだと思います。

 ただ、利益を最優先にする営利企業ではなくても、政治的な理由で真実がゆがめられたり、一度始めてしまった間違いを正せなかったりすることは十分にあり得ます。

 炭酸カルシウム入りのポリ袋の問題は、ごみ問題の中でも末節でそれほど重要でもないので批判ごと放置された気がしなくもありませんが。


 さて、実際に効果の高い手法が存在するとしても、SDGsの目標は17もあります。

 ある目標に対しては高い効果があったとしても、別の目標に対しては悪い影響を与えることだってあるのです。

 例えば、CO2削減にバイオエタノールが注目を浴びたことがあります。

 化石燃料と異なり、植物から作ったバイオエタノールを燃料として燃やしても、CO2に関してはニュートラルです。

 しかし、バイオエタノールの原料として使用されるのはサトウキビやトウモロコシなど、人の食用または家畜の飼料となるものです。

 つまり、バイオエタノールを大々的に増産すれば、食糧不足に陥る危険があるのです。

 また、最近SAF(Sustainable Aviation Fuel;持続可能な航空燃料)が注目を浴びていますが、このSAFの原料の一つが廃食油です。

 揚げ物などに使用した後の破棄される食用油を処理することで航空燃料にすることができます。

 本来捨てられるものを再利用するということで良いこと尽くめに見えますが、実は日本では廃食油のリサイクルは以前から進んでいたのだそうです。

 一般家庭はともかく、外食産業などから出る廃食油はほとんどすべてリサイクルに回され、肥料とか飼料とかにもなっているそうです。

 そこに新たにSAFが加わり、廃食油の争奪戦になっているそうです。

 肥料や飼料が航空燃料に奪われることで、やはり食糧生産に影響が出かねません。

 一つの側面で見ればとても良い方法に思えても、別の側面から見れば問題が多い場合もあるのです。

 私は現代の様々な問題の原因の一端には経済があると考えています。実際、問題を解決するために考えられた手法の前に立ちはだかるのは、はコスト等の経済的要員であることが多いです。

 目標の一つに「持続的な経済成長」を含むSDGsの、全ての目標を同時に達成することはまず不可能なのではないかと思ってしまいます。


 余談ですが、IWC(国際捕鯨委員会)が鯨()()を管理するために設立された組織であることをご存じでしょうか?

 鯨から取れる油――鯨油はかつては重要な戦略物質でした。

 世界一寒い海である南氷洋でも活動する鯨の油は、どれほどの寒冷地でも凍ることの無い優秀なものです。

 その鯨油を得るために多くの国が捕鯨船を繰り出し、鯨の乱獲を行いました。

 結果として鯨の数が減少し絶滅が心配されたために、獲り過ぎないように各国の捕鯨を管理するために作られた組織がIWCです。

 IWCの目的は、鯨を絶滅させずに捕鯨を続けることにありました。

 今では鯨を殺すことを許されざる悪であるかのように扱い、捕鯨禁止しか言わないような国でも、IWC加盟国の多くはかつては鯨の乱獲を行っていたのです。

 小説「白鯨」でエイハブ船長は白いマッコウクジラのモビィ・デックを悪魔の化身扱いで追い回していますし、ミッキーマウスだって捕鯨船に乗っています。

 昔の欧米では鯨を殺すことに対して欠片も悪いとは思っていませんでした。

 状況が変わったのは、石油が利用されるようになってからでしょう。

 石油はとても便利な油です。

 原油を精製することで重油に灯油、ナフサ、ガソリン、アスファルトなど様々な種類の油ができます。

 石油で代用できるならば鯨油は必要ありません。広い海を泳ぐ鯨を探し回るよりも、油田から石油を汲み上げる方が簡単で安定供給できるでしょう。

 こうして鯨油の需要は減り、乱獲は無くなって捕鯨禁止だけが残りました。

 しかし、私は少し思うのです。

 捕鯨を禁止している根本的な理由は、単に鯨を獲る必要が無くなったことにあるのではないでしょうか。

 欧米には特に鯨を保護したり神聖視したりする文化的宗教的なは背景はありません。

 必要性と自然保護の板挟みで妥協点を探ったのではなく、必要が無いから禁止して「自然保護に尽力している」と言う姿勢(ポーズ)を見せているのでしょう。

 自分たちが行わなくなったことを禁止するだけならば何の負担もありません。

 ですが、今後鯨油の需要が復活したらどうなるでしょう?

 SAFは、化石燃料ではなく今生きている生物由来の油ならばカーボンニュートラルであると言う考えに基いています。

 二酸化炭素を吸収して光合成を行う植物由来の油を想定しているのでしょうが、その植物を食べて育つ動物由来の油でも同様です。

 本格的に石油が使えなくなってきたら、再び資源としての鯨油が注目されることもあるでしょう。

 世界的に捕鯨再開の機運が高まったとしたら、IWCはちゃんと機能するでしょうか?

 自分たちには必要ないからと色々理由を付けて捕鯨禁止を推進してきた人たちは、自分たちに必要となったらまた色々と理由を付けて乱獲を始めるのではないでしょうか。

 乱獲の推進はしなくても、ここ何十年か捕鯨禁止しかしてこなかったIWCに、捕獲枠の調整とか密漁の取り締まりとかちゃんとできるのかは疑わしいものがあります。

 今は「鯨を殺すことは悪」と言う認識が広まっているから即捕鯨解禁とはならないでしょうが、自分たちの生活を犠牲にしてまで鯨を守ろうとする人はそれほど多くないと思うのです。

 もしも、「鯨の数は十分に回復した」とか「鯨が増えすぎて海の生態系が崩れている」などと言う人が増え始めたら要注意です。


 話を戻します。

 大企業や国が行う活動ならばその効果を検証されることもあるでしょうが、個人の行動に対して評価することは困難です。

 個人で行うSDGs活動と言うと、どんなものを想像しますか?

 ごみの分別とか、買い物袋の持参とか、節電を意識することくらいでしょうか。

 自宅に太陽光発電を設置したり、自家用車をEVやハイブリッドカーに買い替えた人もいるかもしれません。

 しかし、個人で行っている活動がどの程度効果があるか、分かっている人はまずいないでしょう。

 ごみの分別がどの目標にどれくらい貢献しているのか?

 レジ袋を止めてエコバックを持参することでどの程度効果があるのか?

 電気を節約したとして、それでどの程度電力需要を減らせたのか?

 把握している人はまずいないでしょう。

 太陽光発電で電気料金が下がれば効果を実感できるでしょうが、天候にも左右されるので長い目で見なければなりません。

 EVやハイブリッドカーはガソリン代は減りますが、その分電気を消費します。

 個人の金銭的な収支ならまだしも、環境に与える影響となると把握は難しいでしょう。

 効果のほどは分からなくても、それでも日々SDGsに向けた活動を実践している人は次のように考えているのではないでしょうか。


「たとえささやかな効果しかなくても、何もしないよりはまし!」


 もちろん、その通りです。

 個人個人のささやかな行為の積み重ねが、何百万人何千万人とより合わさって大きな効果を生むのです。

 ですが、やはり何をすればどの程度の効果が上がるのかは把握すべきだと思うのです。

 例えば、世界中の全ての人が協力して目標の1%程度の効果しかないささやかな活動があったとします。

 それでも「何もしないよりはまし」であることは間違いありません。全世界の人が同程度の活動を百個行えば、それだけで目標に達します。

 ですが、そのささやかな活動をしている人が「自分はこれだけ努力しているのだから後は他の人がどうにかすべき」などと考えてしまったらどうなるでしょう?

 みんながみんな、1%しか効果の無い活動を行い、全然目標に達していないと他人を批判し合う社会。とっても嫌です。

 同じ労力をかけるならば、なるべく効果の高い方法を優先して行うべきでしょう。

 それに、本当に「何もしないよりはまし」なのかも検証しなければ分からないことです。

 例えば、昔こんな俗説を聞いたことがあります。

「スイッチを入れた瞬間に大電流が流れるから、電気(照明)をこまめに消すと余計に電力を消費する。」

 これはおそらく根拠のないデマです。

 確かに過渡現象は存在しますが、マイクロ秒とかミリ秒単位の出来事です。

 そのわずかな瞬間に、「こまめに消す」で想定する、例えば数分間以上のエネルギーを一気に放出するとしたら大事です。

 スイッチを入れた瞬間に一分間分の電力量を消費するならば、一秒に一回オンオフを繰り返すだけで、点けっぱなしの場合の六十倍のエネルギーを消費することになります。

 定格の六十倍のエネルギーって、普通に壊れます。

 子供がスイッチをガチャガチャいじっていたら電機製品が壊れたとか、火を噴いたとかいった経験のある人はいますか?

 しかし、詳しくない人がもっともらしい説明を聞いたら信じてしまうこともあるでしょう。

 すると、節電のために電気を点けっぱなしにする、なんて人が出て来ることになります。

 故意にデマを流さなくても、ちょっとした勘違いとか思い込みとかから、実は逆効果なことが信じられてしまうことも十分にあり得ます。

 巷に溢れるもっともらしい風説を全て個人で検証することは不可能でしょう。

 それに、多くの人が少しずつ協力するような活動も、どれほど効果が上がっているのか、どのような問題があるのか、どういった点を注意しなければならないかなど、個人で検証するのは困難だし効率が悪いでしょう。

 国や地方自治体、あるいはその他の組織が実態を調査、検証して今後どうすべきか、多くに人々にどのように協力して欲しいかを呼び掛ける。

 そのような体制が必要だと思うのです。


 さて、SDGsで重要なことはサステナブル(Sustainable)の部分です。

 どれほど素晴らしい社会が出来上がっても、一年で終了して以前よりひどい世界になったらやっていられません。

 17の目標の中に「経済成長」が含まれているのも、持続可能(サステナブル)であることが重視されているからだと思います。

 SDGsに関係なく、経済成長のための努力をしていない国はないでしょう。

 けれども、安定して持続的に経済を成長させ続けることに成功した国はありません。

 好景気があれば不景気もあり、時には世界中を巻き込む大恐慌を引き起こして多くの人を不幸にしてきました。

 だからこそ持続可能な経済成長が目標に上がるのでしょう。

 バブル景気ではじけた後にそのつけを誰かに押し付けるのではなく、地下資源を掘り尽したら終わりでもなく、他所の国から搾取して繁栄するのでもなく。

 世界中の人が安心して働いて平等に豊かになる。そんな経済成長です。

 可能かどうかは分かりませんが。


 持続可能(サステナブル)なものを作る絶対確実な方法と言うものはありません。

 この世の中に永遠不滅のものはありません。

 ある状況で安定して持続可能なシステムを作ったとしても、前提となる状況が変わればそのシステムを維持できるとは限りません。

 確実に持続可能になる方法はありませんが、確実に持続可能にはならない状況ならば見当が付きます。

 それは、「有限な資源(リソース)を消費し続けることで維持されるシステム」です。

 例えば、化石燃料や鉱物などの埋蔵資源を掘り出すことで栄えた町は、掘り尽せば寂れます。

 莫大な資金を投入することで維持される事業は、資金が尽きれば終わります。

 物資や資金と言った即物的なものばかりではありません。

 優秀な指導者、特別な知識や技術を持った人が中心となる活動は、核となる人物が抜けてしまえば瓦解します。

 多くの人々の熱意によって行われる運動は、その熱意が冷めてしまえば自然消滅します。

 一度目標を達成したらそれで終わり、ならば物資やお金や人材をつぎ込むことで一気に実現することも可能です。

 しかし、永続的に維持されなければならない事柄に対しては、消耗した分が補充される仕組みが必要になります。

 もちろん、永続的と言っても本当に未来永劫である必要はありません。

 けれども、十年二十年で破綻する仕組みでは、それを構築した人達の多くが破綻する場面を目にします。一時しのぎ感が強いです。

 百年持つシステムでも、子供や孫の世代で破綻します。それまでに次のシステムの目途だけでも立っていないと、子孫に恨まれることになるでしょう。

 なくなっても困らないシステムならば放置しても良いですが、SDGsの掲げる開発目標は安心安全で豊かな生活を提供するためのものです。

 代替も無く失われれば多くの人が困ることになったり、さらに後代に対して取り返しのつかない事態になったりします。

 後々の人がメンテナンスを怠らなければ千年二千年と続けられる仕組みが望ましいところです。

 エネルギーの問題で言えば、再生可能エネルギーの多くは太陽光がその源になります。

 太陽は後五十億年ほど輝き続けると考えられています。おそらく人類の寿命よりも長く、実質的に無尽蔵のエネルギー源です。

 核融合が夢のエネルギーとして研究されている理由も、エネルギーが大きいだけでなく、燃料となる重水素が海水中に多量に含まれていて、実質的に無尽蔵のエネルギーと考えられているからです。

 一方、化石燃料には限りがあります。

 後○○年で石油は枯渇すると前世紀から言われ続けてきましたが、新たな油田の発見や技術の進歩によって今まで取り出せなかった原油まで採掘できるようになったりと、未だに石油は利用され続けています。

 ですが、核融合の重水素ほど無尽蔵とは呼べず、いずれ枯渇します。枯渇する前に地球温暖化対策で使えなくなるかもしれません。

 いずれ使えなくなることが目に見えているエネルギーに依存する社会は、持続可能とは言えないでしょう。

 ただし、無尽蔵のエネルギーを手に入れたとしても、即持続可能な社会になるとはいきません。必要条件を満たしたにすぎません。

 エネルギーに限ってみても、実質無尽蔵の再生可能エネルギーだとしても一度に取り出せるエネルギーには上限があります。

 無限の欲望に従って加速度的にエネルギーの消費を増大させていったらどこかで破綻します。

 核融合が実用化された場合でも同様で、実質無尽蔵のエネルギーが、やっぱり有限の資源に変わる日が来るかもしれません。

 結局、持続可能(サステナブル)な社会とは、何かが実現すればそれで終わりとはいきません。

 全体としてバランスの取れたシステムと、それを監視する人的な仕組みが必要となります。

 千年持つシステムを設計しても、本当に千年持つかはやってみなければ分かりません。

 そのシステムが正常に動作しているか、想定外の問題が発生していないか監視し、必要に応じてメンテナンス――壊れた部分を元に戻すだけでなく、問題のある部分を改善することも必要になります。

 SDGsの17の目標は2030年までに達成することを目指していますが、達成した後に如何にして維持していくかが重要な課題なのです。


 持続可能(サステナブル)と言う言葉に対して、私は老子の思想を思い起こします。

 道教と言うと、最近では仙術とか仙人とか、中華ファンタジーにおける魔法や魔法使いをイメージする人も多いかも知れません。

 しかし、その始祖とされる老子は古代中国の春秋時代の思想家の一人で、その思想は政治哲学です。

 例えば老子の言葉に「大国は低くあれ、小国は高くあれ」と言うものがあります。

 強い力を持った大国が威張り散らして周囲の国に無茶を言えば嫌われますし小国同士で同盟を組んで対抗しようとします。

 逆に他国や他国の人に配慮して親切に対応すれば、多くの国や人が庇護を求めて集まり、より豊かで強大な国になります。

 つまり、大国は腰が低い方が繁栄するのです。

 一方、小国が大国に媚び諂っていると、大国の言いなりになって実質的に国を乗っ取られます。

 だから、小国であっても主張すべきことはしっかりと主張し、誇り高くなければ国を維持できないのです。

 北朝鮮が核兵器やら弾道ミサイルやら強硬に開発を進めていますが、小国であることを理解しているが故に強硬な姿勢を崩せないのではないでしょうか。

 こんな具合に、本来の老子の思想は神秘的な中華ファンタジーではなく、実践的な政治哲学です。

 私の理解した範囲では、老子の思想の根底にある考えは「無理は長続きしない」と言う点だと思います。

 老子の中には「天長地久」と言う言葉があります。

 この言葉は「天地が永久であるように物事がいつまでも続くこと」と解釈されていますが、老子の中では少しニュアンスが違います。

「天は天としてあろうとしていないからこそ長く天として続き、地は地であろうとしていないからこそ久しく地であり続ける。」

 つまり、天でないものが努力して天になったわけでもないし、地でないものが頑張って地になったわけでもない。維持をするための努力を必要としないからこそ天も地も長く久しく続くという話です。

 維持にコストがかかる行為は長続きしないのです。

 このことは、老子の思想として有名な「無為自然」にも関係しています。

 人為的に不自然な状態を作り出しても、やがては元に戻ってしまいます。

 世の中には「無為自然」を「何もせずに自然に任せること」みたいに解釈している人もいますが、これも少し違うのではないかと思っています。

 再度言いますが、老子は政治哲学です。自然に任せて何もしなくても良いという無政府主義ではありません。

 ただ、無理は長続きしません。

 到底守れない法律や、従うことが困難な無茶な政策をゴリ押ししても、どこかで破綻することは目に見えているでしょう。

 役人や警察官を大勢動員して無理やりに従わせても、経費が膨大になる上に不正が蔓延してグダグダになる恐れがあります。

 問題が発生する度に場当たり的に対処をしていたら、やがては対処が追い付かなくなって頓挫します。

 そうした、作為を持って強引に従わせようとするのではなく、無理に命じなくても自然と好い状態に落ち着く。

 そういった政策こそが「無為自然」なのだと思います。

 持続可能(サステナブル)な社会は「無為自然」が不可欠だと思います。

 ひたすら努力して、頑張って、それでどうにか維持している社会は、努力を怠れば、頑張れなくなれば、それで終わります。

 禁止事項を山ほど設定して、厳しく監視をして取り締まっても、規制を掻い潜り、監視をすり抜けて問題行動を起こす者は必ず出てきます。

 そうではなく、問題となる行為を自然と避け、行って欲しいことを進んで行いたくなるような状況を作れれば、禁止したり強制したり取り締まったりと言った手間も不要で確実に効果が出るのです。

 もちろん、全てが全て「無為自然」で上手くいくとは限らないでしょう。

 けれど、監視や取り締まりが不要な部分が多いほど管理は楽になり、長続きしやすくなります。

 理想は誰かが「あれやれ、これやれ」と指示を出さなくても、皆が自分の都合で好き勝手に動いているだけで自動的にSDGsの目標が達成されるような社会になっていること。

 分かりりやすい方法としては、そうした方が安く済む、あるいは利益が大きくなるといった、経済的に有利になる仕組みを作ることでしょう。

 現在も、再生可能エネルギーのコストを下げるとか、環境負荷の低い製品を安く提供できるようにしたりと、技術開発を進めてSDGsの目標に遭った製品やサービスの普及を目指しています。

 ただ、私は経済を信用していません。神の見えざる手は存在せず、経済活動の結果は私達に良い未来を保証しません。

 うまい具合にSDGsに合った活動が経済的に有利な状況を作り出すことができても、技術が進み、イノベーションが起こることで、それがひっくり返る可能性はいくらでもあるのです。

 市場に任せるのではなく、規制や取り締まりでガチガチに制限するのでもなく、それぞれ好きに動いていてなお人にも環境にも優しい社会の仕組み。

 難しいでしょうが、そういったものが求められるのです。


 正直、私はSDGsの目標が達成できるとは思っていません。

 難しい課題が山積みで、本気で取り組むのならば戦争なんてしている場合ではありません。

 目標を完全に達成できなかったからと言って、意味がないとは思いませんが、ちゃんと後に続くのでしょうか?

 SDGsの目標は「いつか達成できればいいなぁ」と言う夢物語ではなく、食糧問題やら環境問題やら2030年までにどうにかしないと取り返しがつかなくなると予想された深刻なものも含まれています。

 100%達成できなくても少しでも状況を改善して、取り返しのつかない状態になるまでの時間を稼ぎ、その間に新しい対策を行う必要があります。

 2030年はSDGsの終わりではなく、新たな始まりになるでしょう。

 目標を達成したとしても、達成していないとしても、その次にやるべき課題は山積みです。

 そして、何を行うにしてもより実効性のある対策が必要になるでしょう。

 形だけ何かそれっぽいことをしたとか、数値をいじくって目標を達成したことにしたとか、政治的に有耶無耶に終わらせるのは危険だと思うのです。

 対策を怠ったつけは、早ければ今いる人が生きているうちに現れるでしょう。

 というか、日本でも既に色々と現れています。

 毎年のように言われる「異常気象」。ゲリラ豪雨だの線状降水帯だの、気候による災害がしょっちゅう起こっています。

 地球温暖化の影響と言って納得できるほどに暑い夏が続いています。半世紀前には東京の学校にクーラーが付いていないことが当たり前でした。

 新型コロナウイルスの蔓延で、日本でも医療崩壊の手前まで追い込まれました。国によってはまともな医療が受けられなくなった人も多く出たでしょう。

 ウクライナで起こった戦争が廻り廻って食糧を含めた物価の高騰を招きました。価格が上がっても国内の農業や畜産業が潤うとは限らず、食糧問題に不安が増しました。

 世界各地を見れば、現在進行形で深刻な問題が発生していて対策を急がなければ人命にかかわる、既に大勢命を落としているような所もあるでしょう。


 危機意識の薄い人が「地球に良いことをやっている」と自己満足で終わるだけの活動では意味がありません。

 企業が製品のイメージを良くするために「サステナブル!」とCMを流しても役には立ちません。

 数多くの一般大衆にSDGsに協力して欲しいと思うなら、個人個人の判断に全てを委ねるやり方では駄目です。

 何をどうすればどの問題に対してどれくらいの効果が見込めるか。素人にも分かり易い形で情報公開しなければ、何をすればよいのか判断ができません。

 そして実際にどの程度の効果があったのかも検証して公表する必要があります。

 SDGsでは、17も目標に対して169の達成基準と232の指標が決められているそうです。

 しかし、これらの基準や指標を使用してSDGsの目標をどの程度達成できているか、きちんと評価しているところを見たことがありますか?

 今、テレビなどで放送されるSDGs関連の番組で、役に立ったと思ったことはありますか?

 子供向けにSDGsの目標やその必要性を紹介する番組は確かに必要でしょう。

 けれども、そうした番組を見た子供が自分も何かしたいと思った時に何ができるでしょうか?

「みんなのうた」で流れているSDGsソングは、SDGsの目標を説明するものが多く、何かの行動を促すものとしては事故防止とか災害時の避難活動とかくらいです。

 子供相手ならばその程度で十分と思うかもしれませんが、それでは大人の行うべきSDGs活動は何なのか分かるでしょうか?

 結局一般人はゴミの分別をして「地球が喜ぶね」とか言ってごまかして終わりませんか?

 個人的には太陽光発電とEVを蓄電池として利用する組み合わせは有効だと思うのですが、初期費用は掛かりますし、太陽光発電が設置できる家ばかりではないので対応できる人は限られているでしょう。

 他にも「SDGs対応」や「サステナブル」を謳う製品を積極的に購入するという方法は、メーカーに踊らされているだけかもしれませんし、利用方法を間違えると却って悪影響になる場合もあります。

 それに、自分一人だけが正しい行動をしていても大した効果はありません。

 しかし、「これこそが正しいSDGsだ!」などと発信しても、デマやらステルスマーケットやらに埋もれてしまいます。下手をすると悪意無くデマをまき散らす一人になりかねません。

 大勢の人に協力して欲しいことなのに、何をどう行うかの判断を個々人に任せては上手くいかないのです。

 正しい情報をしっかりと報道することが必要になります。

 SDGsの概要を周知するだけの時期はもう過ぎています。

 企業の取り組みや有名人が行っているSDGs活動を紹介するのも良いですが、まねできるとは限りませんし、同じことをすれば正しいとも限りません。

 信頼のおける公共の組織が公正な立場で評価と検証を行い、結果を公表することが、今は何より重要だと思うのです。

 そのような報道が増えてくれればよいと思います。


 特に何もしなくても、普通に生活していればそれでSDGsの目標が達成できる、そんな「無為自然」が実現できれば一番なのですが。

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