トリチウムの話
「いいね」ありがとうございます。
福島第一原子力発電所に溜まる処理水の海洋放出が始まった後からだと思うのですが、Web上で奇妙な広告を見かけるようになりました。
色の付いた水の画像を表示して、「福島のせいで水道水が危険になった」「汚染水の放出で水道水の水質に異変が」みたいな文言が並んでいるのです。
たぶん、ショッキングなことを書いて注意を引き、クリックさせる戦略の広告なのでしょう。
短い文面の中にも、「色付きの水が出て来るなら浄水場か配水管の問題をまず疑うべきだろう」とか「海洋放出が原因と言うならば、その水道は海から取水しているのか」とかツッコミどころ満載です。
そのツッコミも含めてクリックさせる手口だと思うので私はその先を見ていません。フィッシングサイトだったりウイルスが仕掛けられていても嫌ですし。
まあ、「福島」というキーワードと時期的に話題に上っていることから連想させるだけで、リンクの先には全然関係ないことが書かれている可能性もあります。
しかし、不安を煽るような風説ばかり流れると、より悪質なデマがまかり通ることになりかねません。
冷静に正しい知識を確認する必要があると思います。
なお、私は専門家でも関係者でもない素人です。
つまり、ここに書かれた内容は素人でも簡単に手に入る情報ばかりです。
興味を持たれた方はぜひご自分でも調べてみてください。
そして、「自分で調べようともせずに何を分かった風なことを言っている!」とか言ってやってください。
さて、まずは放射能についての基礎知識です。
放射能とは放射線を放出する能力の事です。
放射能を持つ物質を放射性物質と呼びます。
放射能は、原子核の持つ性質です。
放射線は原子核から飛び出してきます。
放射能と放射線を混同している人もいますが、両者は別物です。
周囲に影響を及ぼしているのは放射線の方です。
放射線は高いエネルギーを持った粒子です(ガンマ線は電磁波ですが、光子と考えれば粒子の仲間と言えます)。
高いエネルギーを持って反応した物質に影響を与えるため、大量に浴びると体内で活性酸素が発生したり、DNAが損傷したりと体に害になります。
放射性物質があれば放射線を放出するので「放射能」でも「放射線」でも意味が通じる場面は多いです。
けれども、放射性物質が近くになくても強力な放射線を浴びれば害になりますし、放射性物質が近くにあっても放射線を完全に遮蔽したり、出て来る放射線が非常に微量ならば害にはなりません。
区別を知ることは大切です。
放射能を語る上で知っておくべきことが幾つかあります。
まずは原子核の構造についてです。
原子核は正の電荷をもつ陽子と、電荷を持たない中性子からできています。
原子核に含まれる陽子の数は、そのまま原子番号と同じです。つまり、陽子の数が原子の種類を決めます。
中性子は原始の種類には関係しませんが、原子の重さに影響します。原子核の陽子と中性子の数の合計を質量数と呼びます。
原子の種類を決めるのは原子核内の陽子だけなので、同じ原子だけれど中性子の数が違う、つまりちょっとだけ重さの違う原子が存在します。
原子の種類は同じだけれど、重さが違う原子(陽子の数は同じだけれども中性子の数が異なる原子核)のことを同位体と呼びます。
同位体まで含めた原子核の区別、つまり陽子と中性子の数で判別する原子核の種類を核種と呼びます。
原子の種類を決めるのは陽子の数だから、中性子の数は何個でも良さそうに思えますが、中性子の数によっては原子核が不安定になる場合があります。
不安定な状態とはエネルギーが高い状態なので、エネルギーを放出して安定した状態になろうとします。
不安定な核種が安定するために放出するものが放射線です。
同じ元素の同位体でも中性子の数によっては安定したり不安定だったりします。
不安定で放射線を放出する同位体を放射性同位体と呼びます。
一般に放射能と呼んでいるものの正体は、この放射性同位体の原子核の事です。
同じ種類の原子でも、放射能を持つ核種と持たない核種があることに注意してください。
(中には安定した核種の存在しない元素もあります。)
放射線を放出すると、原子核の状態が変化します。エネルギを―を放出しているのだから当然です。
放射線には、アルファ線、ベータ線、ガンマ線の三種類があります。
厳密には他にも色々あるのですが、放射能と言う場合はこの三種類でだいたい間に合います。
これは、放射線が発見された当初その性質を調べるために磁場をかけて見たところ、右に曲がる、左に曲がる、曲がらず直進の三つに分かれたので、その三種類にギリシア文字のαβγを当てはめたものです。
正の電荷をもつアルファ線の正体は、ヘリウムの原子核と同じものです。アルファ線を放出することをアルファ崩壊と呼びます。
アルファ崩壊すると、放出した粒子の分原子核から陽子が二個、中性子が二個減ります。その結果原子番号が二減り、質量数が四減って別の核種になります。
負の電荷をもつベータ線の正体は、電子です。ベータ線を放出することをベータ崩壊と呼びます。
ベータ崩壊では、原子核内の中性子が一個陽子に変わります。その結果、質量数は変わりませんが原子番号が一つ増えて、やはり別の核種になります。
電荷を持たないガンマ線の正体は、波長の短い電磁波です。ガンマ線を放出することをガンマ崩壊、もしくはガンマ壊変と呼びます。
ガンマ壊変は少々特殊で、ガンマ線を放出しても核種は変わりません。ただ同じ核種のまま、エネルギーの高い不安定な原子核からエネルギーの低い安定した原子核に変わります。
いずれにしても、同じ原子核が同じ現象を二度三度と繰り返し起こすことはありません。
放射能とは、放射線を放出する毎に失われて行く使い切りの能力なのです。
次に重要なことは、半減期です。
放射性物質は、その核種によって一定の確率で放射線を放出し、別の核種(もしくは状態)に変わります。
同じ核種の放射性同位体を集めて、それが放射線を放出して元の核種の数が半分になるまでの時間を半減期と呼びます。
核種によって、放射線を放出する確率は一定で、半減期は決まっています。
例えば、半減期が一日ならば、一日後にはその核種は半分、二日後にはさらに半分の四分の一、三日後には八分の一とどんどん減って行きます。
ただし、半減期が長い核種もたくさんあります。
よく年代測定に使用される炭素14は半減期が五千七百年くらいあります。ウラン238なら、半減期は四十五億年近くあります。
また、放射線を放出して別の核種に変わったとしても、変わった後の核種が安定しているとは限りません。
実際、幾つもの原子に変わりながら何度も放射線を出す核種も存在します。
最終的には安定した核種に変わって終わるので、長い目で見れば放射能は時間とともに消えて行きます。
しかし、短い目で見れは簡単には放射能は無くならないし、一時的には放射線が強くなることもあり得ます。
それからもう一点、放射線は核反応の産物です。核反応は化学反応とは全くの別物です。
化学反応は原子と原子がくっついたり離れたりする反応です。
反応の主体となるのは原子核の周囲を回っている電子で、原子核は正の電荷を持っていることと原子の質量の大部分を持っていることでしか関与しません。
化学反応の影響は原子核の内部までは届かないのです。
福島の原発事故の後、除染などで出た放射性物質の問題が話題になっていた頃、「微生物か何かで放射能を分解できないか?」みたいなことを言う人を見かけたことがあります。
残念ながら、これはできません。
生物の中で起こっていることは化学反応です。核反応を利用している生物がいれば大発見ですが、現在のところそのような生物は見つかっていません。
薬品と反応させようが、加熱して沸騰させようが、電気分解しようが、微生物に発酵させようが、化学反応の影響は原子核の内部までは届きません。
放射性物質を創り出したり、消し去ったり、半減期を早くしたり遅くしたりすることもできません。
できることは、放射性物質と思われる元素を抽出することくらいです。
それも、放射性物質を集めるのではなく、特定の元素を抽出するだけです。
ある原子の安定した同位体と放射性同位体を分離することは非常に困難です。
以上の予備知識をもとに、本題の海洋放出に関して考えてみます。
まず、福島で海洋放出が行われたのは「処理水」です。
正式にはALPS処理水と呼ばれています。
「汚染水」などと言うと、核廃棄物まみれの汚水を何の処理もしないままにそのまま垂れ流している、という誤解を受けかねないので「ALPS処理水」または「処理水」と呼んでいるそうです。
ALPSは多核種除去設備(Advanced Liquid Processing System)のことだそうで、62種類の放射性物質を規制基準以下まで除去できるそうです。
原子炉から出て来る放射性物質はだいたい全て分かっています。
有名なものは、セシウムとかストロンチウムなどでしょう。
分かっていないものがあるとしても、寿命(半減期)が短すぎですぐに消滅してしまうか、微量過ぎて検出できないか、影響を気にしなくてよい物になります。
放射性物質と言っても、化学的な性質は変わりません。放射能があろうとなかろうと、該当する物質を除去する処理を行えば、水の中から取り除くことができます。
そうやって、各種方法で取り除いても、最後まで取り除けないのがトリチウムです。
さて、トリチウムとは何か?
「○○チウム」と言う名前からして金属をイメージする人もいるかもしれません。
しかし、トリチウムは金属ではありません。水素の放射性同位体です。
水素原子は最も軽い元素です。
陽子一個だけの原子核の周りを電子が一個回っている。これが水素原子です。
水素には同位体が三種類あります。
一つは、陽子一個だけの水素。重水素と区別して軽水素と呼ぶこともあります。
水素の同位体の中で最も数が多く、通常「水素」とだけ言えばこの核種のことを指します。
二つ目は、重水素。デューテリウムとも言い、陽子一個と中性子一個からなる原子核を持ちます。
重水素は安定した原子核で、放射能を持ちません。
三つ目が、三重水素。トリチウムです。陽子一個に中性子二個からなる原子核を持ちます。
トリチウムは放射性同位体で、半減期が約12年、ベータ線を出してヘリウム3になります。
他にも、もっと中性子の数の多い水素の同位体もあるそうですが、不安定過ぎて一瞬で別の核種に変わるので自然界には存在しないそうです。
トリチウムの何が厄介かと言うと、普通の水素と分離することが困難な点にあります。
水は酸素と水素の化合物です。
その水を構成する水素の一つまたは二つがトリチウムに置き換わったものをトリチウム水と呼びます。
処理水に含まれるトリチウムとは、このトリチウム水のことを指します。
つまり、水の中にトリチウムと言う異物が溶け込んでいるのではなく、一部の水そのものがトリチウムでできているのです。
他の核種、例えばセシウムならばセシウムだけ、ストロンチウムならばストロンチウムだけを取り出せばよいのです。
それが放射性同位体か安定同位体かは気にする必要はありません。
化学的な性質がほとんど変わらない同位体を分離すると言う面倒な作業をせずに、化学的な手法で水と分離すればよいのだから方法はいくらでもあります。
しかし、トリチウム水と言う形で水の中に混ざっているトリチウムを取り除くには、水から水を分離する必要があります。
トリチウム水も化学的には普通の水とほとんど変わりません。
ALPS処理水とは、限りなくただのの水なのです。
まったく方法が無いわけではありません。
化学的にはほとんど差の無い同位体でも、重水素ならば水素の二倍、トリチウムならば三倍の重さがあります。
この重さの差が物質の振舞いに影響を与えます。
例えば、トリチウム水の沸点は約104℃です。
沸点の違いを利用すれば、蒸留することでトリチウム水を濃縮することができます。
また、電気分解を行うと普通の水素の方が分解されて出てきやすいそうです。
この性質を利用すれば、普通の水を酸素と水素に分解し、残ったトリチウム水を濃縮することができます。
しかし、これらの方法でトリチウムを除去することは困難です。
蒸留して分離する場合、トリチウム水ではない水を沸騰させて蒸発させる必要があります。
考えてもみてください。福島第一原子力発電所の敷地内のタンクに溜まり続けている何万トンもの処理水全てを一度蒸発させる必要があるのです。
どれだけ燃料が必要でしょう?
これ、天日に晒して蒸発させるとかでは駄目なのです。沸点の違いで分離するのだからきっちり百度で沸騰させる必要があります。
ついでに、蒸発した方にトリチウム水が混じっていない保証はありません。
水は百度未満でも蒸発して行きます。湿度百パーセントにしておけば大丈夫だと思いますが、局所的にでも104℃を超えればトリチウム水も沸騰します。
トリチウムをある程度取り除いて安全基準以下にした水を放出することになるでしょう。
電気分解する方法でも同様です。
トリチウム水ではない水を片端から酸素と水素に分解する必要があります。
どれほどの電力が必要になるでしょう?
それに、分解した酸素と水素をそのままにするわけにもいきません。下手をすると水素爆発を起こします。
分解した酸素と水素を再び水に戻して放出する必要があります。
これを安全にかつ大規模に行おうとすれば大掛かりな設備が必要になります。事故を起こすと水素爆発を起こしてトリチウムを大気に放出します。
さらに、普通の水素の方が電気分解して出てきやすいだけで、トリチウムが絶対に電気分解されないということはありません。
あまり実用的ではないでしょう。
どちらの手法も「トリチウム水ではない普通の水を取り除く方法」なので、ある程度の濃度があるトリチウム水をさらに濃縮する場合には良いのですが、大量の水の中から希薄なトリチウム水を取り出すことには向いていません。
福島第一原子力発電所に溜まる処理水は、地下水が流入して希釈されまくった結果量が増えてしまったものです。
調べていたら処理水の中のトリチウムの総量を推定したものがありましたが、多く見積もってもトリチウム水20g程度と計算されていました。処理水の総量は100万トンを超えているのですが。
それに、どれ程優れた技術が開発されても100%完璧にトリチウムを除去することはできないでしょう。
安全基準以下までトリチウムを除去した水か、安全基準以下まで薄めた水かの違いでしかないと思うのです。
ところで、処理水に含まれるトリチウムはどこから来たと思いますか?
トリチウムは核融合の燃料として使用されますが、もちろん核融合発電は実用化されていない技術です。
何処かから持ってきて溜めておいたもの、ではありません。
自然界に存在しない核種は、核反応によって生成されます。
そして、原子炉の中は核反応が活発に行われている場所です。
トリチウムが生成されるには幾つかのパターンがあります。
まず、水分子を構成する重水素が中性子を取り込んでトリチウムになるケース。
普通の水の中にも少量ですが酸素と重水素が結合した重水が混じっています。
陽子一個と中性子一個からなる重水素の原子核に中性子がぶつかって結合すれば、陽子一個と中性子二個のトリチウムになります。
核分裂反応では大量の中性子が放出されるので、一次冷却水に含まれる重水がトリチウム水になります。
次に、核分裂で生成するケース。
ウランやプルトニウムの原子核が分裂した際にできる生成物は、セシウムとか要素とかストロンチウムと言った水素よりも大きな原子なのですが、たまに三体核分裂と言って核分裂で三つの原子核に分かれることがあります。
この三体核分裂で三つに分裂した一つがトリチウムになります。
他の核分裂生成物と一緒に燃料棒の中に留まっているはずなので通常は外に漏れませんが、事故で燃料棒が破損すれば漏れ出るでしょう。
他には、ホウ素の同位体であるホウ素10が中性子を吸収してトリチウムを生成する場合もあります。
制御棒などに使用されるホウ素には質量数が11のものと10のものがあり、そのうち質量数10のホウ素の原子核に中性子がぶつかるとホウ素が核分裂してトリチウムが出てきます。
発生したトリチウムは酸素と反応すればトリチウム水になるので、一次冷却水の中にトリチウムが溜まって行くことになります。
軽水炉で使用されている一次冷却水は軽水、つまり普通の水なので重水素を含む重水はごくわずかです。
また原子炉が正常に動作している場合は三体核分裂で発生するトリチウムは燃料棒内に留まるはずです。
しかし、ホウ素に中性子が当たってできるトリチウムがあるので、事故を起こさなくても原子炉が稼働していればトリチウムは作られ続けます。
事故を起こした福島第一原子力発電所では燃料棒内部のトリチウムも放出されて量が増えていると思いますが、他の正常に稼働している原子炉であってもトリチウムは作られ続けています。
そして、トリチウム水を普通の水と分離することは、どこでも困難です。
世界中の原子力発電所で、トリチウムの放出は行われています。
私は正直、原子力発電を行っている国は、今回の海洋放出に文句が言えないと思っていました。
実際、アメリカも韓国も政府としては文句を言っていません。
下手に非難をすると、自国に跳ね返ってきます。
トリチウムの危険性を訴えた結果、では自国の原子力発電所はどうなっている? と疑問に思った国民が調べた結果、自国でもトリチウムを放出していると知ったら?
場合によってはかなり面倒なことになると思います。
だから、中国が堂々と抗議したことはとても意外でした。
中国も間違いなくトリチウムを放出しています。海洋放出とは限りませんが、河川だろうと地中だろうと蒸発させて大気に放出しようと、水の循環に乗っかって自然環境にばらまかれます。
中国は、よほど情報統制に自信があるのでしょうか。
トリチウムの放出に関しては、他の放射性核種に比べて規制が緩いのだそうです。
「放射能」に関して恐ろしいのは強力な放射線を浴びることの他にもう一つ、内部被爆の問題があります。
体内に入った放射性物質から放出される放射線によって内側から被爆する現象が内部被爆です。
内部からの被爆と言うと恐ろしく感じるかもしれませんが、内部でも外部でも問題になるのは線量です。
ぶっちゃけ、体内に入った放射性物質が、放射線を放出する前に体外に排出されてしまえば何の影響もありません。
自然界にも放射性物質は微量ながら存在していて、内部外部を問わず非常に少量の放射線ならば日常的に浴びているのです。
その線量が限界を超えて大きくなったときに問題が起こります。
内部被爆で特に問題になるのが、生物濃縮です。
生物は特定の物質を体内に溜め込むことがあります。放射性物質でも化学的には普通の元素と同じですから、生物に吸収され溜め込まれる場合があります。
例えば、チェルノブイリ原発事故の直後、放射性ヨウ素によって甲状腺癌になる人が増えたそうです。
人体に吸収されたヨウ素は甲状腺に集まります。その性質によって、原子炉から放出された放射性ヨウ素も、人体に吸収された後甲状腺に集まりました。
平均的に散らばっていれば影響のない量の放射性物質でも、一ヵ所に集まれば局所的に強い線量になります。
甲状腺癌が増えた原因は甲状腺に放射性ヨウ素が集まって濃縮された結果です。
原子力事故に備えてヨウ素剤を用意しているところもありますが、先に必要十分なヨウ素を摂取しておくことで放射性ヨウ素が甲状腺に集まることを防ぐためのものです。
(ヨウ素剤は放射性ヨウ素に対するもので「放射能」の特効薬ではありません。また、ヨウ素の過剰摂取も害になるので使い方に注意が必要です。)
放射性ヨウ素以外でも、自然界にそれほど豊富ではなく、生物に必要な元素ならば体内に蓄積されます。
人体の内部だけでなく、食物連鎖を通じて濃縮される場合もあります。
だから線量の少ない低レベルなものでも放射性物質の管理には気を使います。自然界にはほとんど存在しない放射性元素は、どこでどのように濃縮されるか分からないからです。
しかし、トリチウムは少し事情が異なるのです。
トリチウムは水素の放射性同位体であり、トリチウム水の形で自然環境に放出されます。
水は生物に必要不可欠なもので間違いなくあらゆる生物に吸収されますが、ありふれた物質でもあります。特に海中では周囲全て水です。
水を溜め込んで濃縮する生物などいません。と言うか、水を濃縮って意味が分かりません。
どんな生物でも、水を吸収し、体内で利用し、代謝に伴う老廃物などと共に体外に排出します。
化学反応を利用してトリチウムを分離できないのと同じ理由で、生物の体内でトリチウムが濃縮していくことは考えにくいのです。
だから、トリチウムに関する生物濃縮は起こらないと考え、排出基準は他の核種に比べて緩くなっています。
これは別に日本だけの事ではなく、どこの国でも緩めの規制でトリチウムを放出しています。
ただ、世の中に絶対と言うことはありません。
トリチウムをトリチウム水の形で生物内に濃縮する可能性は低いと思います。
けれども、水素原子が使用されている化合物は水だけではありません。
植物は光合成で二酸化炭素と水から炭水化物を作ります。
油にもアミノ酸にも水素は使われています。
そうした有機物のどこにトリチウムが入り込むか分かりません。
もちろん、化学的には普通の水素と変わらず、トリチウムだけ集まるようにことは無さそうに思えます。
しかし、普通の水素の三倍重いトリチウムは化学反応でも差異のある場合もあります。
特定の物質が合成される時にトリチウムが優先的に反応したり、何らかの有機物が分解する反応でトリチウムが含まれているとうまく分解されないといったことがないとは言い切れません。
ただの水を濃縮するのは無理でも、特別な有機物ならば濃縮されることもあり得ます。
また、もっと単純に、普通の水よりも重いトリチウム水が海の底に溜まり、深海魚がトリチウムまみれになるなどと言うこともあるかもしれません。
深海魚ならあまり関係ない、と油断してはいけません。ウナギは深海で産卵すると考えられています。どのような影響が出るか分かりません。
いずれにしても、今後の研究の成果を注視していきたいところです。
処理水の海洋放出が始まり、その影響を注意深く監視している今、何か新しい発見があるかもしれません。
もしも、トリチウムの予想外の危険性が見つかったりしたら一大事です。
ことは福島や日本だけの問題にとどまりません。
世界中の原子力発電所で運用の見直しに迫られ、各国の原子力政策にも影響が出るでしょう。
これまで世界各国の原発からトリチウムを放出してきたのです。
安全基準が変われば、放出の規制も厳しくなります。
トリチウムの放出が禁止されれば、どこの国の原子炉でも多かれ少なかれ今の福島第一原子力発電所と同じ悩みを抱えることになると思うのです。
トリチウムだけを分離することは困難で、無理に実施してもコスト的に見合わないでしょう。
わずかな量のトリチウムを外部に漏らさないために、大量のただの水を溜め続けなければならないのです。
たぶん福島では処理水の海洋放出による直接の害は出ないと思います。
福島で海洋放出に反対している人もそのことは分かっているのでしょう。放射能の不安よりも風評被害を気にする声が大きいように思いました。
けれども、予想外のトリチウムの害が見つかった場合、今度は逆に「トリチウムの毒性はそれほど高くない」とか「我が国の原発は福島とは違う」「事故を起こしていないから問題ない」などと言いだす人が出るのではないかと思います。
トリチウムの放出が禁止されると困る人は必ず出て来るので。
放射能や放射線は、目に見えない脅威だけに恐ろしく感じます。
しかし、訳も分からずに不安がっているだけではただの風評被害を生むだけです。
正しく知って、正しく恐れましょう。




