悪魔憑きの裏話
いいねありがとうございます。
この話は短編小説『悪魔憑きの話』の内容を含んでいます。
一部予備知識なしでは意味の通じない所もあるので、先に『悪魔憑きの話』を読むことをお勧めします。
拙作の短編「悪魔憑きの話」を執筆しているときに考えていたことを少し書いて見ます。
私はいつもは、連載小説が完結した際に活動報告に完結した小説と一緒に短編小説もまとめて振り返ってみています。
しかし、「悪魔憑きの話」に関しては考えていたら長くなってしまったので、こちらに書くことにしました。
以前、痴漢撲滅を呼びかけるポスターを見たことがあります。
誰かが「痴漢です!」等と声を上げると、「痴漢だと!」「犯罪だ!」「許せない!」等々言いながらわらわらと人が集まって来るストーリーを漫画で描いたものです。
このポスターを見て、私にはどうにも痴漢冤罪事件の発生現場に見えて仕方がありませんでした。
何故だろうかと疑問に思ったので少し考えてみました。
原因は、「犯人側の描写が一コマもない」からでした。
どんな人物が何を考えてどんなことをしたのか、被害者や目撃者の証言と言った間接的な表現も一切ありません。
その結果、誰かが「痴漢だ」と言えば、捜査も裁判も事情聴取すらなく、一方的に痴漢であり犯罪であることが確定する。そんな風に見えてしまうのです。
ポスターでわらわらと集まってくる人間は直接現場を見たわけではありません。それなのに、ただ「痴漢です」と言う言葉に反応して「卑劣な!」「犯罪だ!」「許せない!」と一方的に決めつけて、描かれていない何者かを吊るし上げようとしているのです。
まあ、痴漢の様子を詳細に書くわけにもいきませんし、「俺はあんな下種じゃない」「あそこまで酷いことはしていない」から問題ない、などと考えられても困るから、仕方のないことなのかもしれません。
ただ、本当に一方的な決めつけだけで、反論も弁明も許さずに悪と確定してしまう行為は非常に危険なものがあります。
例えて言えば、SNSで誰かが「あいつが○○した犯人だ!」と言い出したら、事実関係を確認することもなく、あるいは「みんながそう言っているから間違いない」などと思い込んで罵詈雑言を浴びせかけるようなものでしょうか。
最初にデマを流す人は悪質ですが、そこに乗じて騒ぎ立てる人々が相手を傷付けます。
その極端な例が、この「悪魔憑き」の騒動になります。
この物語は、最初の村長の息子の言葉を笑い飛ばすか、せめて根拠を確認すれば騒動に発展せずに終わったはずなのです。
「あいつ、俺の女にしてやると言ったのに断ったんだ。悪魔憑きに違いない!」
「だったらこの村の女全員が悪魔憑きになるな。」
こんな感じで、バカ男がバカなことを言って顰蹙を買うだけで終わります。
脊髄反射で石を投げる輩がいるから問題になるのです。
もっとも、この話を書いた時に考えていたのは「痴漢冤罪」ではなく「えんがちょ」でした。
小学生くらいの時にの「えんがちょ」とかやっていた人、いますか?
この「えんがちょ」の風習自体はかなり古くからあるそうです。
本来は、犬の糞を踏んづけたとか、不浄なものに触れたことを周囲が囃し立てることで始まります。
不浄なものに触れることで「穢れ」を受けたとし、その「穢れ」を他人に擦り付けることで移すことができると考えられています。
その「穢れ」を移されないように防ぐ魔除けの呪文と仕草が「えんがちょ」です。
子供の遊びとして考えると、突発的に始まる変則的な鬼ごっこのようなものと考えることができます。
「穢れ」を受けた鬼から逃げ回り、鬼に捕まった者は「穢れ」を受けて次の鬼になる。「えんがちょ」で防げることを除けば鬼ごっこそのものです。
ただ、個人的には酷く差別的で陰湿な虐めに繋がる危ない遊びだと思うのです。
突発的に始まる鬼ごっこなのは良いとして、よほどとろい子供でなければすぐにみんな「えんがちょ」をして終了になります。
終了して全て元通りならば良いのですが、鬼役の子供が「穢れ」を受けた状態のまま仲間外れになったりします。
子供は結構残酷です。
下手をすると特定の子供が毎回ターゲットになって「えんがちょ」され、仲間外れにされてしまいます。
「えんがちょ」とは魔除けの言葉であるだけでなく、「縁がチョン(と切れる)」と言う意味の絶縁の呪文なのです(諸説あるようです)。
それに、子供の場合「穢れ」が移るという概念が理解できていなくて、単に「汚いもの」あるいは「病原菌」として捉えている場合があります。
「えんがちょ」で「穢れ」が移ることは防げても、「汚いもの」や「病原菌」からは距離を取りたいと思ってしまうでしょう。仲間外れ製造機なのです。
さらには、特定の子供を直接「汚いもの」「病原菌」扱いしてしまうことさえあります。
「○○菌」(○○には人名が入る)などと言って、その子供に触れた所から「えんがちょ」を始めるのを見たことはありませんか?
すごく差別的でしょ?
「そんな差別的なことは全くない」と明るく楽しい小学生生活しか思い浮かばない人にはこの言葉を贈ります。
「やった方は忘れても、やられた方は忘れない。」
お気を付けください。
さて、鬼役を「汚いもの」「病原菌」と言う概念で捉えてしまうと、まともな鬼ごっこからさらに外れたものになってしまいます。
普通の鬼ごっこならば、捕まえた相手と鬼を交代します。「穢れ」を移すという考えの場合でも、移した後は「穢れ」から解放されます。
しかし、「汚いものに触れれば汚れる」「病原菌に触れると感染する」という考えでいくと、鬼は交代することなく単純に増えます。
一度「汚いもの」「病原菌」と認定されるとそこから復帰する手段が無いため、鬼が無限増殖するのです。
その鬼の無限増殖を止めているのが「えんがちょ」による防御です。
この歯止めが無くなると、遊びのコンセプトが変わってしまいます。
みんなで「えんがちょ」すれば鬼となった一人を仲間外れにする虐めになります。
しかし、歯止めが無ければ鬼が無限増殖を始めてしまいます。
「汚いもの」「病原菌」扱いで虐めていた者が、気が付くと少数派の狩られる者に変わるのです。
この虐げられている者が逆襲を始めると実は圧倒的に有利、と言う状況を考えて作ったのが「悪魔憑きの話」です。
「えんがちょ」を「子供のやることだから」と甘く見てはいけません。子供の遊びには人間の本質(の一面)が表れていたりします。
例えば、福島の原発事故の際、福島から逃げてきた人に対して、「放射能の検査が終わるまでは駄目」と避難所で受け入れを拒否したケースがあるそうです。
この話を聞いて、皆さんはどう思われましたか?
酷い話だと思いましたか?
仕方のないことだと思いましたか?
私は、「放射能に対して病原菌のようなイメージを持っていないか?」と思いました。
「放射能」とは放射線を発する能力の事です。
放射能を持つ物質を放射性物質と呼びます。
放射能は原子核の持つ性質なので、通常の化学反応や生物の活動では放射性物質の生成も消滅もできません。
病原菌と違って、放射能が人の体内で増殖することはあり得ません。
もしも福島から避難してきた人が放射性物質を浴びていたとしても、衣服や体に少量付着した程度でしょう。
同じ避難所に入るだけで周囲の人の健康を害するほどの強力な放射性物質をその身に浴びていたとしたら、本人が無事ではいられません。
避難してきた人に付着した放射性物質なんて、その人が被爆した残り香程度のものでしょう。
気になるなら服を着替えて風呂にでは入ってもらえば十分なはずです。
もちろん、避難所に都合よく着替えが用意されていないとか、入浴できる設備が無いとかいった事情はあるでしょう。
しかし、最大の理由は、目に見えない「放射能」に対する不安と恐怖だったのだと思うのです。
正しい知識や情報に基かずに、恐怖心から「えんがちょ」してしまったのです。
「被爆した人と一緒にいると自分まで被爆する。」
その思い込みは、「伝染病の患者が近くにいると自分も伝染病に感染する」という発想と同じものです。
つまり、放射能を病原菌と同じように考えているのです。
実際、広島や長崎の被爆者も同様の偏見で辛い目に遭って、被爆体験をなかなか語ろうとしなかった、と言う話もあります。
貴重な体験も、正しい知識も、全く活かされませんでした。
東日本大震災の後でどこも混乱していたということもあるでしょう。
偏見やら流言飛語に惑わされず、冷静に対処できた人も多くいるのかもしれません。
しかし、逆に言えば今後も世の中を混乱させるような大きな災害や大事件が起これば、似たようなことは何度でも起こるのです。
被災者同士で助け合う美しい光景もあれば、どさくさに紛れて火事場泥棒をする者やデマに踊らされて酷いことをする人も出て来るのです。
「悪魔憑きの話」では死人が出にくいように条件に細工をしました。
――悪魔憑きを殺せば悪魔憑きになる。
この条件や、悪魔憑きでなくなる方法が存在しないことも含め、逆襲に転じれば実は虐げられている方が圧倒的に優位になるように仕組んであります。
それでも死人を出さずに事態を終息することができたのは物語の都合、つまりご都合主義の要素が大きいのです。
一つ間違えば主人公が野垂れ死んで別の誰かが悪魔憑きに指名されるとか、村人vs悪魔憑きの仁義なき戦いが始まるとか、自分の行為を棚に上げて復讐を始めるやつが出て来るとか、酷い結末になる可能性もあったでしょう。
時に現実は小説よりも過酷です。
同様の事件が現実に起きたら、多くの犠牲者を出し、人間関係をずたずたに引き裂く結末だってあり得ます。
もちろん、この物語に登場する悪魔憑きの伝承は架空のものであり、現実には存在しないでしょう(たぶん)。
ですが、悪魔憑きの物語の要点は、誰かを悪者にして自分の安心安全を確保するスケープゴートです。
そういう意味で、「悪魔憑きの話」は現実に起こり得ます。
そして、歴史上何度も様々な形で「悪魔憑き」に相当する人々が誕生し、迫害されてきました。
魔女裁判などもそうですし、関東大震災の際にはデマを信じて朝鮮人の虐殺が行われたそうです。
ヘイトスピーチとか、ネット上の「炎上」なんかも同じようなものではないでしょうか。
群集心理が働くと、人は理性をかなぐり捨て、いくらでも残酷になれるものです。
普段はどれほど真面目で善良な人でも、むしろ真面目で善良な人ほど一度「これが正しいこと」と信じ込むととんでもないことをやってのけます。
自分は関係ないと思ってはいけません。誰だって被害者にも、加害者にもなり得るのです。
被害者になると悲惨ですが、加害者になった場合、自分が加害者だと認識していないことが問題です。
自分が正義であり、勝者の側である場合は特に気を付けてください。
その行為は本当に正義ですか? 関係の無い不平不満をぶつけているだけではありませんか?
その行為は本当に世の中のためになっていますか? 反論できない相手をいたぶって愉悦に浸っているだけではありませんか?
その義憤を向ける先は本当に正しいのですか? 相手の事や問題となった出来事についてどれだけ正しく理解していますか?
実在しない悪魔を恐れるあまり、自分が悪魔になっていませんか?
「悪魔憑きの話」の最後の主人公の考察は、実は間違っているというか抜けている部分があります。
悪魔憑きを迫害する村人から悪魔憑きになったことで、悪魔から解放されたわけではありません。
ただ立場が逆転して混乱して憎悪を向ける対象を見失って感情がリセットされただけです。
悪魔憑きになった村人がおとなしくなったのは反省したからではなく、自分の行いを無かったことにしているからです。
デマを信じて中傷誹謗や嫌がらせを繰り返した人が、嘘であると判明した後も「デマを流した奴が悪い」と反省も謝罪もせずに「私は何の力も持たない一般人です」と知らん顔をするのと一緒です。
同じ村で悪魔憑きの騒動は再び起きないでしょうが、似た様な別の事件なら起きるかもしれません。その時は主人公も含めて誰もが加害者になり得るのです。
悪魔は誰の心の中にでも棲んでいます。
私の中にも、あなたの中にも。
自分だけを例外だと思っていると、とんでもないことをやらかしてしまうかもしれません。




