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駄文庫  作者: 水無月 黒


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人として

 先日街中を歩いていたら、道の先で警察官と年配の男性が何やら話していました。

 特に交通事故が起こった形跡もなく、何かトラブルがあったにしてもその男性以外の関係者は見当たりませんでした。

 その男性が警察官に食って掛かっているように見えましたが、何があったのかは分かりません。

 いえ、単なる通りがかりに懇切丁寧に説明されても困りますけど。

 ただ、その年配の男性が警察官に言っていた言葉の断片が耳に残りました。


「だから、人としてだねぇ……」


 最近私は思うのです。

 この「人として云々」と言う台詞はどうにも信用できない、と。

「人として間違っている!」

「それは人としてどうかと思う。」

「人として○○すべきだろう。」

 このような言い回しは、自分で勝手に想定した「人としてあるべき姿」を押し付けて、他人を自分に従わせようとする。

 あるいは、他人が自分の思うように動かなくて気に入らない時に、文句を言う正当な理由が無いから「人として」と言って難癖をつける。

 そんな使い方が容易にできるのです。

 その、「人としてあるべき姿」は誰が何を根拠に決めましたか? 単に自分が「それが当然」と思い込んでいるだけではありませんか?

 何だか気に入らないので、自分では「人として」は使わないように心がけています。

 もちろん、「人として云々」と言いたくなるような状況はあるでしょう。

 物語の悪役などは、読者から嫌われるために「人としてあり得ない」ほどに悪辣だったり自分勝手だったりします。

 現実にも、「人として」人格ごと否定されかねないことをやらかす人はいます。

 例えば、借金で破綻する人の行動パターンとして、以下のような話を聞いたことがあります。


 どうしても必要なお金が足りなくて困っているから、と泣付かれて仕方なくお金を貸したのだけれど、自分の財布に入ればもう自分の金と言う意識しかなく、「じゃあ、俺が奢るから飲みに行こう!」と借りた金で即座に散財を始める。


 もしも、「あ、俺それよくやる。」と自覚のある方いましたら気を付けてください。一部の人には人格を疑うレベルで嫌われている可能性があります。

 この、「困っているからと懇願されてお金を貸したのに、借りたお金を別なことに使ってしまう」という行為は、貸した側からすると腹立たしいものです。それこそ「人としてあり得ない」とか言ってしまうくらいに。

 しかし、この場合「人として」以外にも非難する理由はちゃんとあるのです。

 貸した側からすれば、お金を貸すことが目的ではなく、困りごとを解消する手助けをするための手段としてお金を貸したわけです。

 内容によっては、困るのは本人だけとは限りません。

「進学する子供の入学金が足りない」「病気になった親の入院費が必要」など深刻な状況ならば助けたいと思うのが人情です。

 その深刻な問題を解決するために渡したお金が、全然関係の無いことに使われてしまったら頭に来るでしょう。

 厚意を無駄にされた、あるいは裏切られたと感じるかもしれません。

 それで深刻な問題が解決されなかったら本当に無駄ですし、問題が解決しても「自分が金を貸す必要があったのか?」と言う話になります。

 結果として残るのは、不信です。

 好意的に考えても、泣付いてきたくせに本人はさほど深刻な問題と考えていなかったか、自分でできる範囲の努力(節約)をするつもりがなかったか、遊び代にするために必要以上の金額を借りたのか。

 あるいは深刻な問題なのに、そのために必要なお金の管理が全くできないのか。

 悪く考えれば、深刻な困りごと自体が嘘で、遊ぶ金を借りたくて騙したか。

 お金の絡む問題で不誠実なのは、いずれ深刻なトラブルに発展するでしょう。

 友達を辞めるには十分な理由になります。

 つまり、勝手に想定した「人としてあるべき姿」から離れていることが問題なのではなく、人となりを疑うレベルで問題行動があるから「人として」発言が出て来るのです。

 本当に問題のある人に対しては「人として云々」を禁じても問題点を指摘できるだろうし、逆に「人として云々」以外のまともな根拠が出てこない主張は怪しいと思っています。


 この「人として」以外にも、思い込みや決めつけを押し付ける言い回しが存在すると思います。

 例えば、「神の領域を犯す」と言う言葉も、あまりよく分からずに使われているのではないかと思っています。

 いったい、どこからどこまでが「神の領域」なのでしょうか?

 それは誰がどうやって決めているのでしょうか?

 生命を操るような行為は「神の領域」とされることが多いと思います。

 例えばクローン人間を生み出すことを「神の領域を犯す」行為だと主張する人は多いでしょう。

 けれども、古くから存在する宗教のどの聖典を見ても、「クローン人間を作ってはいけない」と明言されていることはないはずです。

 昔は、クローンと言う概念自体が存在していなかったのだから、そんなことが書いてある聖典は存在するはずがありません。

 神の意志を人が勝手に決めつけても良いのでしょうか?

 また、死者の復活を禁忌と考える人も多いでしょう。

 キリスト教あたりでは、死者の復活は神のみに許された御業のような扱いになっているのではないでしょうか。

 でも、現実問題として、死者の蘇生はやっていますよ。

 昔の死の定義は、心臓の停止でした。

 けれども、今の医療現場では心臓が止まったくらいでは諦めません。

 人工心肺を使えば血流と酸素の供給を確保できるので、その間にどうにか心臓の再起動を試みます。

 心停止した人への救急対応で心臓マッサージを行いますが、あれは止まった心臓の代わりに血流を確保するための処置だそうです。

 AEDの動作原理は、正常に鼓動しなくなった心臓を電気ショックで一度停止させ、その後正常に再起動することを期待するものです。

 一度殺して、その後蘇生させているのです。

 心臓移植手術も行われていますし、人工心臓の研究も進められています。

 心停止した人が蘇生する例は昔からあったはずですが、それは神の奇跡とみなされていたのでしょう。

 しかし、現代では心停止した死者を意図的に蘇生しています。

 神の領域をばっちり犯していると思うのですが、いかがでしょうか?

 禁忌を犯していると感じないのは死の定義を変更して心停止ではまだ死んでいないことにしてしまったからです。

 神の領域を人の都合で変更してしまっていませんか?


 余談ですが、キリスト教原理主義者の多いアメリカでは、人工妊娠中絶の是非をめぐってしばしば争いが起こっています。

 女性の権利として不本意な妊娠を中絶することを容認する是定派と、子供(胎児)の命を守るとする否定派がかなり激しく争うことがあります。

 否定派の根本にあるのは宗教的なもので「産めよ増やせよ地に満ちよ」と言う聖書の言葉に従っているのでしょう。

 人によっては避妊すら駄目だと言うそうです。

 私も安易な妊娠中絶は避けるべきだと思います。けれども、人工妊娠中絶を希望する人の事情も深刻です。

 性犯罪の犠牲者等で、望まぬ妊娠を強いられた女性に対して、それでも産み育てることを強いたとして、母親になった女性も生まれてきた子も幸せになれるのでしょうか?

 中絶を否定する人達は、望まれずに生まれてきた子供に対して何の責任も負いません。

 と言うことで、反対派の人は中絶手術を行う病院を取り囲んで営業妨害するとかではなく、妊娠中絶を希望するような事情のある人に対して出産までの費用を負担し、生まれてきた子供を養子として引き取って幸せに育てるという活動をすべきだと思うのですが、いかがでしょうか?


 余談をもう一つ。

 私は「神の領域」とか「神の領分」とかは、人が手出しをできない領域の事だと思っています。

 ただし、「神の領域だから人は手出しをしてはいけない」ではありません。

 人が理解できない制御できない何も手出しができないから、「神の領域」として神様に預けてしまっているだけなのです。

 昔は世界がどうやって始まったのか、人類がどのように誕生したのか、知るすべはなかったので神様に丸投げしました。

 疫病の流行を止める方法が無かったため、神に祈るしかありませんでした。

 こういったこと、全て「神の領域」だったのです。

 しかし、知識が増え技術が進むと、人が手出しできる範囲が広がりました。

 宇宙の始まり、地球の誕生、生命進化から人類の登場まで、神様に頼らなくてもある程度説明できるようになってきました。

 細菌やウイルスが発見され、病気が伝染する仕組みも分かり、感染を防ぐ手段も色々と作られました。

 神の領域が人の領域に変わって行ったのです。

 人が手を出すことが可能になった時点で、それは全て人の領域だと思うのです。

 人の領域になった以上、人が考え、人が判断し、人が責任を負うべきです。

 自分たちのことを他の存在にゆだねるのは間違っているでしょう?

 新しい知識や技術に対して、危険性を重視して封印するか、正しく利用して世の中を良くするか、考え判断することを放棄してはいけません。

 そして、判断して実行した結果は人が責任を負わなければなりません。

「それは神の領域だから手を出してはいけない」と主張する人に対して私は言いたい。

「何時まで神様に甘えているつもりだ」

 リスクを恐れて技術を封印した結果、人類が衰退して行くという結果もあると思うのです。

 けれど、それは神の意思ではなく、人類の決断した結果として受けれるべきだと思うのです。



「倫理」と言う言葉も「神の領域」「神の領分」「人として」と似たような感じで使われていると思います。

「それは倫理的に問題がある」

 これ、「神の領域を犯す」と言って非難するケースで宗教色を排除した場合によく用いられます。

 ここでも同様の質問をしてみます。


 その「倫理」って、誰がどうやって決めたのですか?


「神の領域」と言う場合は聖典やら神話やらから関係ありそうな話をこじつけて神の意志を推し量りますが、「倫理」の場合は神様関係ありません。

 全て人の手で考え、人の手で決定するのが「倫理」です。

 神の定めた絶対的な「倫理」がどこかにあるわけではありません。

 辞書的な意味で言えば、「倫理」とは社会生活で人の守るべき道理、行動の規範です。

 多くの人が集まって作る社会では、人々の意見や利害が対立して様々な問題が発生します。そうした問題を放置しておくと困る人が大勢出て、最悪社会が成り立たなくなります。

 だから、様々なルールを作って問題が発生しないように、あるいは問題が発生しても無難な解決ができるようにします。

 罰則を作ってでも強制的に守らせようとする重大なルールが法律です。

 みんなで守れば不愉快な思いをしなくて済むガイドライン的なものがマナーやエチケットです。

 法律で禁止されていない、あるいは禁止し難いことでも多くの人が無節操に行えばいずれ重大な問題が発生する。そのような事柄に対してどう向き合うか、それを考えて行くのが倫理です。

 身近な例では、「映倫」(一般財団法人栄華倫理機構)が映画を審査してレイティングを行っています。

 映画は一般大衆に与える影響が大きいものがあります。特にテレビが普及する以前はその傾向が顕著でした。

 青少年の健全な育成に悪影響を及ぼす映画、などと言うものがあれば上映禁止になっても当然と思うでしょう。

 しかし、なんでもかんでも禁止してしまうと表現の自由を侵害するという別の問題が発生します。

 表現の自由の侵害は深刻な問題です。戦時中に反戦的な映画はすべて禁止、のような偏った思想の誘導が行われる恐れがあります。

「青少年の健全な育成」と「表現の自由」、どちらも重要な事柄を両立させるために、レイティング等のルールを決め、審査基準を作ったのです。

 生命倫理なども同様です。

 例えば、臓器移植の技術によって、これまで助からなかった病人の命を救うことができるようになりました。

 反面、臓器売買が横行すれば金のために臓器を売って自らの健康を害する者、犯罪に巻き込まれて臓器を奪われる者などが現れます。

 よく考えて制度やルールを作らなければ、助かる命以上に失われる命や後々まで苦しむ者を生み出してしまいます。

 そして、制度や基準は一度決まったらそれで終わりではありません。

 社会が変わる時、技術が進む時、人々の意識が変わった時、予想外の事件が起こった時。

 様々なタイミングで見直し、本当にこれで問題なかったのか検証し、新たな問題が発生しないか検討しなければなりません。

「それは倫理的に問題がある!」と言う台詞は、本来は何時何処でどうやって決まった「倫理」にどう反しているのか、そういったことをきちんと理解した上で使わなければなりません。

 結構難しいと思うのです。

 倫理には理由があります。

 倫理的問題とは具体的に何か、どのようなメリットとリスクが対立しているのか。

 そこまで行かなくても、どういった基準やルールが存在していてどこにどう抵触しているのか、くらいのことは理解していないといけないと思うのです。

 そうでなければ、自分の勝手に思い描いた「倫理」を何の根拠もなくこれこそが世界標準だ、と一方的に他人に押し付ける状態になりかねません。

 倫理って、倫理学と言う学問ができるほどに奥の深いものです。

 私は、ちょっと怖くて倫理を主張できる気がしません。


 さて、話を「人として」に戻ります。

 自分勝手に人としてあるべき姿を押し付けて他人を非難するような真似は良くないと思います。

 非難すべき正当な理由があるにしても、「人として」でまとめられると胡散臭く感じます。

 正当な理由に上乗せして、個人的に気に食わない的なものを込めているのではないかと勘繰ってしまいます。

 しかし、「人として」には別の使い方があります。

 私利私欲を捨てて世のため人のために身を粉にして働く、あるいは「貧乏くじ」として誰もが嫌がるけれども大切な仕事を率先して引き受ける。

 そうして皆から称賛されても、

「人として当然のことをしたまで。」

 と謙遜する。

 すごく格好良いと思いませんか?

 とても格好良いと思うのですが、これはこれで問題があります。

 この手の美談は、なかなかまねのできないことだからこそ話題になります。

「人として当然なのだから、お前もやれ!」

 などと言いだされたら堪ったものではありません。

 その堪ったものではないことをやらせた極端な例が、第二次世界大戦末期に行われた特攻です。

 祖国のため、そこで暮らす家族を守るため、命を賭して戦うことは美談です。

 でも、その美談にあやかって、死ぬことを強要しては駄目でしょう。

 特攻は志願制だったようですが、「志願しないやつは非国民」では実質強要です。

 敗色濃厚な戦時下と言う特殊な状況とは言え、特攻に志願して死ぬことが「人として当然」状態になっていたのです。

 たぶん、最初にやった人って、乗っていた機体がやられてどうせ死ぬならとヤケクソで敵に突っ込んで行っただけじゃないかと思うのです。

 ただのヤケクソを美談にしちゃったから、率先して死ぬことが「人としてあるべき姿」になっちゃったのです。

 戦時中の思想が極端すぎるとしても、「皆が徹夜で頑張って仕事しているのに先に帰るとは何事か!」みたいなブラック企業的な発想もあります。

 残業や徹夜が当たり前の職場では、自分の仕事は終わっていても同僚に付き合って残業するのが「人として当然」な企業文化だったのでしょう。

 たぶん働けば働くだけ儲かった昭和のバブル期の風潮だから、まともな企業ではもうそんなことはないと思うのですが……


 いずれにしても、「人として当然」を押し付ける風潮はとても問題があると思います。


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