次元の話
いいねありがとうございます。
例えば、こんな台詞を聞いたことはありませんか?
「四次元目は時間軸」
「四次元世界では時間旅行が可能」
私はこれ、凄く違和感があるのですが、皆さんはいかがでしょうか?
私は以前から「次元」という言葉変な意味で使われていると感じることがありました。
よくある「次元」に関する誤解の一つが、次元軸に順番と役割があるという考え方です。
「n次元は××の次元。」みたいな表現は軽めのSFやSF用語の混ざったファンタジー作品などで見かけることがあります。
異世界とかパラレルワールドとかに移動する経路として五次元とか六次元とかを導入する場合もあるでしょう。
しかし、次元軸に順番があるという考えも、特別な役割があるという考えも間違っています。
ちょっと考えて欲しいのですが、三次元の空間で三つの次元軸に順序や役割があると思いますか?
幾何学や物理学ではX軸、Y軸、Z軸の三つの座標軸で空間を表しますが、そこに順番や特別な役割はありません。
座標軸の名前は便宜上のものであり、入れ替えたところで位置を示すための記号が変わるだけで数式の形や意味が変わることはありません。
また、座標軸を傾けようが回転させようが、直交さえしていれば問題なく、どのような座標系を使用しても数学的物理的に等価であり、相互に変換可能です。
「縦、横、高さ」と表現すると、「高さ」だけちょっと特別に見えるかもしれませんが、これも人間の都合による便宜上のもので、三次元空間の性質とかではありません。
地球上では重力の影響で上下関係ができるので、重力の方向を基準に「高さ」方向を決めているだけです。地球の裏側に行けば「高さ」方向が逆転します。
三次元の世界において、座標軸に順番も、特別な役割も一切ありません。
数学的に言えば、次元の数は「互いに直交する直線を何本引けるか」です。
私達の住んでいる世界では、「互いに直交する直線」はどう頑張っても三本しか引けません。
だからこの世界は三次元と呼ばれます。
紙に図形を描く場合、「互いに直交する直線」は二本しか引けません。だから二次元と呼びます。
そこから類推して、「互いに直交する直線」が四本引ける世界があれば、それは四次元。五本引ける世界があれば五次元です。
三次元まではまあ理解できるでしょうが、四次元以上の世界を直感的に理解できる人は滅多にいないでしょう。
しかし、数学者は何十次元だろうと何百次元だろうと、結構好き勝手に想像して高次元空間における幾何学を考えています。
それは何十何百の次元軸の役割を順番に考えるたのではなく、ただ何十何百の互いに直交する直線を引ける空間というだけです。
任意に設定できる座標軸はあっても、特別な役割を持った次元軸はありません。
変わった性質を持った空間も考えられていますが、それは次元とはまた別の概念です。
次元の数は「互いに直交する直線」の本数であり、順番ではありません。
次元という言葉に対する変な誤解はどこから出てきたのか考えてみました。
次元に関してはこんな感じの説明を聞いた人も多いのではないでしょうか。
一次元は、直線上を進んだり戻ったりしかできない世界。
二次元は、平面上を前後左右に動ける世界。
三次元は、前後左右に加えて上下にも動ける世界。
素人にも分かり易いように、「互いに直交する直線」のような数学的な定義を略し、分かり易い特徴を説明したものです。
けれども、この説明では次元の数値が個数を表す数なのか、順番を表す番号なのかが分かり難くなります。
数学的には「互いに直交する直線」の本数を表す数です。この点を押さえておけば間違いありません。
しかし、これを順番を示す番号と解釈するとおかしなことになります。
一次元を「一番目の世界」とか「一つ目の次元」のような誤解が生まれます。
また、次元の数が増えるほどにできることが増える、あるいは制限が緩和されるように見えます。
ここから数の大きい次元ほど凄い、あるいは偉いという発想が出てきます。
ただ、三次元までは移動できる方向が増えるということで理解できるでしょうが、四次元以上を同じように理解することはまず無理です。
そこに、「四次元=時間」という考え方が入ることで、更に誤解が生まれます。
つまり、四次元では前後左右上下に加えて過去や未来にも移動可能。「四次元世界では時間旅行が可能」という発想です。
そこからさらに類推して、高次元の世界では私達にはできない何か特別なことが可能になると考え、それを次元軸の役割と捉えるのです。
そんな発想による高次元世界は、見た目は三次元のままで、次元の数が上がる毎に権限だか権能だかが順に増えて行く階層構造みたいなイメージなのではないかと想像しています。
この考えは間違っています。
四次元以上の高次元の超空間は、三次元空間で引くことのできる互いに直交する三本の直線、その全てと直交する方向に空間が広がっているというだけです。
重力によって上下関係ができるような方向性が存在することもありますが、それは次元としての特徴ではありません。
その空間内の何らかの特性があって、ある方向に対して特別扱いしているだけです。
例えば、「四次元世界では時間旅行が可能」という考えは、「三次元なら空を飛べる」と言っているようなものです。
「三次元なら空を飛べる」に納得してしまった人はいますか?
二次元を「前後左右には動けるけれども上下には動けない」と理解していると「二次元では上に移動できないから三次元でなければ空を飛べない」と考えるかもしれません。
しかし、上下の概念は重力の存在によって生じます。次元は関係ありません。
三次元でも無重力状態では上も下もありませんし、一次元でも二次元でも重力が働いているならば、重力に引かれる方向が下になります。
空を飛ぶことが困難なのは重力によって地上に引き落とされるからであり、空を飛びたいのならば空を飛ぶための何らかの仕組みが必要です。それは一次元でも二次元でも三次元でも変わりありません。
同じように時間旅行をしたければ時間を旅行するための仕組みを作る必要があり、それは何次元であっても変わりません。
そして、たぶんそれ以前に時間を旅行するという概念から問い直す必要もあるでしょう。
数学でも、多変量解析などでは様々な物理量やそれ以外の数量を高次元の超空間上の座標に配置して考える場合があります。
しかしこれは、例えば、縦軸と横軸に身長と体重をプロっとして、「この辺りは標準体重」「この辺りは太りすぎ/痩せすぎ」と分析する行為を、数多くのパラメータを使用した分析に拡張しただけのものです。
体重を自在に増減させることのできる「体重次元」の世界があるわけではありません。
次元そのものに意味があるのではなく、意味を持った数量を空間上に配置して図示しているだけなのです。
たぶん、「四次元」と「時間軸」が結びついたのはアインシュタイン博士の特殊相対性理論からです。
相対性理論以前、ニュートン力学の時代には絶対空間と絶対時間が想定されていました。理論上の必然性はないのですが、あらゆる物体の位置や運動を一意に特定できる絶対空間と、あらゆる人や物にも等しく均一に流れる絶対時間というものがあると考えると分かりやすかったのでしょう。
ニュートン力学では時間と空間は完全に独立した全くの別物でした。
一方、特殊相対性理論では時間と空間を同じものと考え、まとめて取り扱います。
光速不変の原理から絶対空間と絶対時間を捨てて時間と空間を一括して扱う理論を作り上げたのですからアインシュタイン博士の発想はぶっ飛んでいます。
ちなみに、光速不変と言うとマイケルソン・モーリーの実験が有名ですが、アインシュタイン博士はその実験事実から特殊相対性理論を作ったわけではないそうです。
理系の大学で電磁気学の講義を受けていれば一回くらいやることがあると思うのですが、マクスウェルの電磁方程式を真空中の平面波という条件で解くと、真空の誘電率と透磁率から光速を導くことができます。そこに光源や観測者の運動は関係ありません。つまり、電磁気学では光速は不変なのです。
特殊相対性理論とは、マクスウェルの電磁方程式とニュートン力学を両立させるために生まれた理論です。その結果、整合性を取るために棄てられたのが絶対空間と絶対時間です。
時間と空間の関係を相対的なものにした特殊相対性理論では、日常的な感覚では不可思議な現象が起こります。例えば光速に近い速度で動く物体が短くなるローレンツ収縮などが有名でしょう。
このローレンツ収縮は物体が押しつぶされて短くなっているわけではありません。高速で動く物体は外部の観測者から見て時間軸方向に傾くから、観測者側の三次元空間に投影された見かけ上は短く見えると言う現象です。
特殊相対性理論では時間と空間は本質的に同じものであり別々に考えることはできません。
そこでアインシュタイン博士は、この世界は三次元の空間と時間をひとまとめにした「四次元時空連続体」であるとしました。
だから、普段認識している三次元の他に、時間の方向にも空間が広がっている。そういう意味で「四次元目は時間軸」という言葉は正しいのです。
けれども、三次元世界とは別に四次元世界が存在すると言っているわけではありません。
この世界が時間方向も含めて実は四次元だったと言っているのです。
この世界とは別に時間を移動できる四次元世界みたいなものを想像している人は、相対性理論を誤解しています。
さて、数学的な意味の「次元」以外にも「次元」という言葉は使われる事があります。
例えば、物理学の世界では、数学的な意味での「次元」ももちろん使用しますが、物理量がどういった量の組み合わせでできているかを示す事も「次元」と言います。
長さ、時間、重さ(質量)と言った基本的な物量を組み合わせて様々な物理量を表現することができます。
面積は長さ×長さの次元、体積は長さ×長さ×長さの次元、速度ならば長さ÷時間の次元。角度とか比率などは無次元の量になります。
次元の異なる物理量をそのまま比べても意味はありませんし、次元を押さえておけば物理量を掛けたり割ったりした結果が何を意味するのかも見当が付きます。
まあ、この意味での次元を専門的な話以外で使うことはまずないでしょうが。
また、文学的な意味での「次元」ならば、「次元が違う!」みたいな使い方をします。
類義語に、「レベルが違う」「格が違う」という表現もあります。
これは、技量とか実力とかが大きくかけ離れていることで、量的な差が質的な違いにまで昇華されているような状態を指します。
例えば、子供の頃に親に買ってもらったラケットでやったバドミントンは、相手の打ち返しやすい所にシャトルを放り込んでラリーを長続きさせる西洋羽根つきでした。それが、オリンピックなど一流選手の試合を見たら、凄い勢いで打ち合う格闘技だった。
あるいは、正月に親戚が集まって行う百人一首は和歌を詠みあげた後に札を探すのどかなかるた取りでした。しかし、競技かるた等を見ると反射神経と腕の動きの速さを競う「畳の上の格闘技」でした。
こういった、競技そのものが全くの別物になってしまうような、試合で争う点が変わってしまうような状況を指して「次元が違う」と表現します。
もちろん格闘技に変わることだけではありません。
最近は「異次元の少子化対策」などという言葉を聞きます。
これは、数値が何パーセント増減したといった話では終わらず、問題解決の手法や社会の仕組みまで変えるような変革を意味します。
言った本人がどう思っているかはさておいて、従来の方法と比較することが無意味になるような質的な変化を目指すからこそ「異次元」とか「次元の違う」とか表現するのです。
また、「気合や根性で次元の壁を突破する」といった展開も、数学的な次元ではなく、文学的な意味での次元と考えれば納得がいきます。
文学的な意味での「次元が違う」は「量的な差が質的な違いにまで昇華する」事なので、気合や根性や凄い努力でその量的な差を埋めることができれば、同じ次元に手が届くことになります。
気合や根性程度で圧倒的な技量差を埋めることなどできるはずもないのですが、小手先の技術をパワーで打ち破る物語は多いのであまり違和感がないのでしょう。
次元に対する誤解は、この文学的な意味での「次元」と数学的な意味での「次元」とを混同したところから始まったのかもしれません。
さらにもう一歩踏み込んで考えると、文学的な意味での「次元」は「視点」「観点」「切り口」といった意味合いになると思います。
これが本来の意味での「次元」なのでしょう。
スポーツなどの競技の場合、とにかく貪欲に勝利を目指さなければならないプロの視点と、可能な範囲で楽しむ初心者の視点では全く異なる考えになります。これが「次元が違う」ということです。
同じ出来事に対しても、より広い範囲や遠い未来まで視野に納めることを「高次の判断」と表現します。
逆に、目先の利益に拘って一歩も引かないで争う様子を「低次元の争い」などと言います。
物理量に関する「次元」は、「長さという観点で考える物理量」「時間という観点で見た物理量」と言った意味になります。
数学的な「次元」は、「直線上の移動や位置関係のみ」という切り口で考えたものを一次元、「平面上の位置関係や運動に限定」という切り口ならば二次元のように考えます。
注意して欲しいのは、この意味での「次元」も視点や観点の違いであって、優劣やどちらが偉いなどと言うことは無いのです。
オリンピック選手やプロスポーツの選手は技術が高いことは間違いありません。
しかし、一流選手のスポーツに対する考え方だけが正しくて、素人の考えが間違っているとは限りません。
むしろ、「人生の多くのものを犠牲にしてスポーツを極める極一部の者」の極端な価値観よりも、「ほどほどに楽しむ大勢の人」の世界観の方がよほど重要かもしれません。
また、大局的に考える「高い次元の判断」の方が低い次元よりも重要と考えるかもしれません。
しかし、大局的な視点と言うものは細部が見え難くなる事も多いものです。
「みんなこれでうまくやっているのだからお前も合わせろ」と言って苦しい思いをしている少数派の人を切り捨てるのは間違っているでしょう。
「来月になれば完璧な制度が出来上がるからそれまで待て」と言って今にも死にそうな人に手を差し伸べないのは、弱者を見捨てることになります。
次元の高い低いはあくまで視点の違いであって、相補的なものだと思います。
もう一つ、比喩的な意味で使用されるのが、漫画やアニメのキャラクター等を指して「二次元」と呼ぶ使い方です。
厚さを持たない、平面上に描かれた絵を「二次元」の世界とみなし、その二次元の絵の中にしか存在しないキャラクターを「二次元」と呼ぶわけです。
この場合、架空の、絵空事の存在を「二次元」、それに対して実在する存在を「三次元」と称して区別します。
昔、こんな冗談(冗談だよね?)があったそうです。
アニメやゲームにしか興味のないオタクな人に対して、
「お前は、二次元の女と三次元の女とどちらが良いんだ!」
と問うたところ、
「二次元に決まっているだろう! ポリゴン女のどこが良いんだ!」
と答えたとか。
質問した側は、二次元=架空の女性と三次元=実在の女性を比較したつもりの発言でしたが、答えた側は二次元=最初から「絵」として人手で書かれた奇麗なイラスト等、三次元=立体モデルから計算して描かれた3DCGと解釈したのです。
3DCG、特にゲーム等でリアルタイムに動かすものは、少ないポリゴンでどうにか人に見える荒い作りだった頃の話です。
まさか3DCGで動き回る美少女ゲームが普通に作られる時代になるとは思わなかったでしょう。
ここで言う二次元/三次元は元々は数学的な意味での「次元」でしたが、そこに非実在/実在という意味合いを乗せたことで別物になりました。
絵に描かれた存在を「二次元」と呼ぶならば、文字や言葉だけで語られる存在は「一次元」と呼ぶべきではないかと思うのですが、そのような言い方はしません。
架空の存在としての「二次元」だけで事足りるからか、あるいはアニメマンガゲーム等絵的に表現されたキャラクターのみを考えているかだと思います。
また、架空のキャラクターと実在の俳優などを組み合わせた「2.5次元」なんて言葉も生まれました。
数学的には少数の付くフラクタル次元なんてものもありますが、そうした数学的な概念とは無関係な言葉として使われています。
架空の存在を実在の役者が演じるのは、演劇だったらたいがいそうだと思うのですが、わざわざ「2.5次元」と表現するのは絵に描かれたキャラクターを舞台で再現することを強調しているのでしょう。
さて、異世界の物語には割と次元の概念が付き物です。
単にここではないどこかの世界が舞台になっているだけならばともかく、他の世界と行き来するような場合には「次元が云々」のような話が出やすいです。
おそらくはパラレルワールドの概念がその発端になっていると思います。
パラレルワールド――並行世界は「すぐ近くにあるけれども決して交わることの名の別の世界」の事です。
私達の認識する世界は三次元(時間方向も含めれば四次元)の方向に大きな広がりを持っていますが、それ以外の方向には全く移動することができません。
つまり、四次元を超える超空間において私達の世界を見ると、ある方向には紙よりも薄いペラペラな状態の可能性があります。(実は私達が認識できていないだけで、実は大きな広がりを持っている可能性もあります。誰も確かめていないので。)
すると、そのほとんど厚みの無い方向ならば、すぐ近くに別の世界があっても互いに行き来することはできないし、認識することもできません。
これが「次元の壁」と言うものです。硬いわけでも厚いわけでもありません。たとえ1ミリ以下の僅かな距離でもそちらに進む方法が無いからたどり着けない別世界。
どれほど近くても永久に交わることがない、それ故に「並行世界」と呼びます。意味的には平行線ということで「平行世界」でも良いのかなという気がします。
移動する方法が無いから行き来できないだけで、方法さえあれば一瞬で行ける可能性もあります。
まあ、可能性があるだけで、「隣の世界まで十キロ歩く」とか「百万光年以内には別の世界はなかった」とかいう可能性もありますが。
いずれにしても、三次元の空間のどの方向、時間も含めた四次元時空連続体のどの方向でもない方向に進まなければパラレルワールドの世界間を移動することはできません。
パラレルワールドが存在するためには数学的な意味での「次元」、高次元の超空間が必要になり、世界を行き来するには超空間を移動する必要があります。
だから、異世界を渡り歩く際には「次元」というキーワードが出てきやすいのです。
物語の中だけでなく、現実の物理学でもパラレルワールドや別の宇宙のような概念が出てきます。
例えば、量子力学ではパラレルワールドの概念が出てきます。
量子力学は不思議な世界です。
シュレディンガー方程式はミクロの世界、量子の振舞いをとても良く表現します。
しかし、その意味するところを直感的に理解することは難しいでしょう。
方程式を解いて得られる波動関数は虚数を含む複素数です。虚数は現実には存在しない数であり、古典的な物理学では虚数が現れる解は実在しないものとして捨てられます。
波動関数の絶対値の二乗が確率を表すのですが、統計的な確率ではなくて、確率の波としか呼べないものが量子の本質だというのです。
原子の構造として原子核の周りを電子がぐるぐる回る「惑星モデル」のイラストやCGを見たことがある人は多いでしょう。
しかし、このモデルは既に否定されています。
電子は軌道上を一個の粒子としてぐるぐる回っているのではなく、存在確立の波として広がっていると考えられています。
しかし、ここで一つ疑問が生まれます。
量子力学の考え方は様々な証拠から正しいことが分かっているのですが、実際に観測されるのは軌道上に広がる確率の波ではなく、一個の電子だけなのです。
この不思議に対して「コペンハーゲン解釈」では、電子を観測した時点で電子が見つかった場所では確率が1に、それ以外の場所では0に収束してしまうと考えました。
しかし、この考えには一つ大きな問題があります。
観測することで確率が収束する、つまり波動関数が変わってしまうのです。シュレディンガー方程式からは導けない現象です。
これに対して、「エヴェレットの多世界解釈」と言うものがあります。
確率が収束するのではなく、ある場所で電子が見つかる世界、別の場所で電子が見つかる世界と世界の方を分けて考えます。
全体としてシュレディンガー方程式が成立しますが、観測者側も異なる世界に分岐するため特定の場所で見つけた一個の電子しか認識できません。
有名な「シュレディンガーの猫」の思考実験で言うと、「コペンハーゲン解釈」では箱を開ける前の箱の中は50%元気な猫と50%死んだ猫が入り混じった不可思議な状態で、箱を開けた瞬間に100%生きた猫か、100%死んだ猫のどちらかに確定します。
一方、「エヴェレットの多世界解釈」では箱の中に生きた猫の入る世界と死んだ猫のいる世界が重なった状態と考えます。箱を開けると観測者側も生きた猫を観測した世界と死んだ猫を観測した世界に分かれます。
なお、どちらの考えも「理論」でも「仮説」でもなく「解釈」と呼ぶのは、観測できない部分、つまり確かめようのない事柄についての考察だからだそうです。
本当に別の世界があるのかを確認する方法はありません。
しかし、SF小説にパラレルワールドの概念を持ち込んだのは、おそらくこの「エヴェレットの多世界解釈」が発端でしょう。
ファンタジー世界や別の惑星のような異世界ならばそれ以前にもあったでしょうが、「この世界とそっくりで同じ人もいるのだけれどどこか違う世界」「歴史上の出来事が食い違うことで生じたIFの世界」のようなパラレルワールドは、「観測結果の違いで分岐する別世界」の延長上に想像することができます。
パラレルワールドを行き来する物語や、量子コンピュータのことを「無数の並行世界で同時並行で計算するから速い」みたいに説明する話は「エヴェレットの多世界解釈」の影響でしょう。
量子力学から考えられるパラレルワールドと言うものは、素粒子ならば相互干渉するような近接した世界です。おそらく高次元の超空間で、この世界においてはほとんど厚みの無い方向に存在するのでしょう。
量子力学の他にもう一つ、別の世界を想定しているのが宇宙論です。
マルチバースと言って、今私達の入る宇宙の他にもたくさんの宇宙が存在すると考えるものです。
例えば、インフレーション理論では宇宙誕生直後に急激な膨張があったと考えられていますが、その過程で無数の宇宙が泡のように生まれたと言うものです。
また、ブラックホールの内部とビックバンが理論的に似ているということから、ブラックホールの向こう側に新しい子宇宙ができると考える人もいます。
量子力学から考えられたパラレルワールドがすぐ近くに合って決して交わることのない別世界であるのに対して、宇宙論から出て来る別の宇宙は事象の地平の彼方にある永遠に到達できない世界です。
ブラックホールの向こう側の世界に対してなら一方的に情報を送ることも可能に思えますが、その場合受け取る側は過去からメッセージがやって来ます。
ビッグバンの痕跡を解析していたら、「Hellow world」などと表示されるかもしれません。
マルチバースの別宇宙の場合は次元の概念は次元の概念はあまり関係なさそうに思うかもしれませんが、意外とそうでもありません。
宇宙と別の宇宙の関係を模式的に示す際に、宇宙の外から見たイメージ図を用いることがあります。
これは、高次元の超空間から宇宙を見たイメージです。
ブラックホールのような空間の歪みの表現も同様です。
よくあるのが、二次元の平面を三次元上で歪ませた図、縦横にマス目上に線の入った平面の一点を押し下げて漏斗状(あるいはアリジゴクの巣)の形状を作るやつです。
あれは、三次元に広がる空間を一次元落として二次元の平面で表現し、四次元の視点を三次元で代用した表現なのです。
また、SFでよく出てくる「ワープ航法」は、事象の平面の向こう側に到達する技術です。
「ワープ(warp)」とは「歪み」とか「歪める」と言った意味で、空間を歪めて目的地までの距離を短くし、超光速移動を実現するといった概念です。
この場合の「空間を歪ませる」というのも、高次元の超空間で三次元の広がりとは別の厚みの無い方向に折り曲げるイメージになります。
物理学の理論で用いられる次元は数学的な次元ですし、その物理の理論を用いたSF作品でも数学的な意味での次元を用いているものは多くあります。
例えば、ドラえもんの「四次元ポケット」は、意外とまっとうに数学的な次元です。
ただし、四次元と言っても時間を含む時空間の事ではなく、三次元のどの方向にも含まれず、この世界の物体が厚みを持たない方向を加えた超空間の事です。
皆さんは伊能図――伊能忠敬が作成した日本地図である「大日本沿海輿地全図」のことをご存じですか?
伊能図は測量結果を基に詳細に描かれた大図と、それを縮小した中図、小図が作られましたが、このうち大図は全て合わせると体育館の床いっぱいに広がるような巨大なものです。
しかし、どれほど巨大でも紙に書いた地図です。その大きさは主に二次元の広がりに限定されています。
だから、折り畳み積み重ねれば、体育館のような床面積が無くても、小さな保管庫に収めることができます。
同様に、三次元ではどれだけ巨大な物体でも、厚みを持たない方向を加えた四次元空間で折りたためば、小さなポケットに収まるという理屈です。
ただし、重さが何処に行ったかは知りません。そのあたりの緩さが藤子・F・不二雄のSF(少し不思議)なのでしょう。
理論を重視したハードSFならば実際の物理学の理論を尊重し、数学的な意味を意識して「次元」と言う言葉を用いるでしょう。
しかし、舞台背景等に理論や用語を拝借しているだけの作品の場合、理論でも用語でもかなり適当に解釈することも多くあります。
「こまけーこたぁいいんだよ! 面白ければ!」という精神です。
間違っていることを承知で話を面白くするためにあえてそう書いている場合もあれば、誤解したまま正しいと思って書いている場合もあるでしょう。
作家にとっては読者に通じればそれで良いので、物理的数学的に正しいか? なんてことは二の次です。
間違ったことを書いて突っ込まれるなんて言うのは、人気作家だけの特権です。
特に、どこかの作品で有名になった設定やアイデアなどは多くの作品で使い回されることもあります。
正しいか間違っているかは関係なく、作者と読者とで共通認識になっているので気にせず使えるし意味も通じます。
何となく「次元」と言う言葉も深く考えずに共通認識として使える用語になっている気がします。
通じるのだからそれでよいのかもしれませんが、個人的には違和感を覚えることもあるのです。
たとえて言えば、海外の映画の中に描かれる誤解や偏見に基づく日本人や日本の風景を見るような違和感です。
例えば、神様的な存在を「高次元の存在」と呼ぶことがありますが、これは文学的な意味でしょう。
人間の知り得ないことを知り、理解の及ばない因果を読み解き、人の認識外の広範囲、長期間の事柄について判断を下す。
自分のことで手一杯の一般人よりも、自国の利益を優先する国のトップよりも、全人類のために活動する者よりも高い視点の存在と言えるでしょう。正に次元の違う存在です。
まあ、「世界のためには人類が滅びても仕方ないよね」とか言い出しかねない次元の高さなのですが。
しかし、文学的な意味での「次元」に数学的な意味での「次元」を混ぜてしまっていることも多々あります。
高次元の存在に「この次元では云々」とか「三次元世界では~~」などと言わせている作品を見かけることがあります。
これは明らかに世界の性質を示す言葉であり、数学的な意味での次元です。
確かに、三次元より次元数の多い世界に暮らしている者は、私達よりもずっと多くのものを見て理解している可能性があります。
三次元の存在である私達は、二次元の紙に描かれた文字や絵を一望して把握できます。
おそらく二次元世界の住人の視界は線状になるはずなので、面で見る私達の方が情報量も多く、直感的な理解も早いでしょう。
そこから類推すれば、四次前世界の住人は三次元空間を一望することが可能で、三次元構造の把握と理解は私達よりも容易でしょう。
三次元幾何学が苦手な人も多いと思いますが、高次元の住人は一目瞭然で理解できてしまうのです。
また、視野が広いことを「次元が高い」と高さで表現するのは、高い位置から見下ろすことで広い範囲を見ることができるからです。
地上で暮らす人間は、重力の影響で大雑把に見ると二次元的に活動しています。
だから、上から俯瞰してみると全体として何が起こっているのか一目瞭然、となることが多いのです。
この物事を俯瞰的に一望できる視点と言うイメージから、数学的な次元の数の多さと視点の高さと言う意味が混ざって「高次元」と言う言葉に統合されます。
さらに、次元に対する誤解である「高次元=偉い」「次元の数が増える毎に何か凄いことができるようになる」といったイメージが混ざり込んできます。
この結果「高次元の存在」は「何か崇高あるいは神聖で、人間にはまねのできない凄い能力を持った神のような存在」といったイメージになるのです。
しかし、「視界が広い」とは物理的に広範囲を見渡せることだけを指す言葉ではありません。
物理的に広い視野から得られる各種情報を拾い上げて統合し、最善を考え上げる思慮の深さこそ「視野が広い」「高次元の判断」と呼ぶのでしょう。
天空の城から地上を見下して「人がゴミのようだ」とか言う人のことを「次元が高い」とは呼ばないでしょう。
たまたま次元の数の多い、つまり直交する直線をたくさん引けるだけの世界に生まれ、私達に比べて情報面で有利だったり、不思議な能力を使えたりしたとしても、それだけで「高次元の存在」になれるとは、ちょっと思えないのです。
たぶんみんなそのことに気付いているから、「高次元の存在」がラスボスとして敵になる物語もちょくちょく作られるのでしょう。
神のように強大だが、崇高と言うよりも尊大で傲慢で人格的にも尊敬できない、言ってみれば悪の権力者をパワーアップしたような存在として描くのです。
もう一つ、物語の中でありがちなのが、「次元」を「空間」や「世界」に近い意味で使っているケースです。
例えば、「次元」を冠した魔法や異能は、空間操作系の魔法や異能の上位版のような扱いになっていることが多いです。
空間魔法が同じ世界内で転移するのに対して、次元魔法が異世界と行き来するみたいな使い分けです。
また、「この次元では~」みたいな言い回しも、「この世界では~」と置き換えてもたいして違いが無い場合が多いです。
作者的には世界のランク的な意味か、次元軸の機能的な意味での制約があるといったニュアンスを出したいのかもしれませんが、そこまで詳細に説明が無いことがほとんどです。
作品の中核をなす設定とかでない限り、雰囲気作りのためだけの設定を細かく説明するのは冗長になってしまうからでしょう。
言葉のイメージを共有していれば何となくニュアンスは通じます。
あくまで何となくなので、読者と作者のイメージが食い違っていると微妙に微妙な感じになります。
また、「次元切断」とか「次元斬」のような必殺技が登場することがありますが、これはもう何を斬っているのか分かりません。
これが空間を切断する系統の技だと、空間を切断することでその中に存在する物体の防御力を無視して切り裂く攻撃か、空間だけを切り貼りして切り離したように見えて実は繋がっているかみたいなことになります。
しかし、次元を斬るとはどういうことでしょうか? さすがに三次元を斬って二次元にするとかではないでしょう。
ありそうなのが、三次元空間を超える超空間にまでその効果を及ぼす斬撃、みたいなものです。
本体がこの世界の外にいる相手にも届く攻撃になりますが、ただ凄い攻撃であることを示すために世界の外にまで威力をまき散らしていたらすごくはた迷惑な攻撃でもあります。
あるいは「次元」を世界に付随する機能として捉えた場合にその機能を破壊する特殊な攻撃なども考えられます。
魂とか精神体とかの実体が存在する場所を世界に付随する「次元」として、そこに直接届く攻撃などです。
まあ、別に「次元」である必要はないので、しっかりと設定を作っていないとただ凄い技と言う雰囲気だけのものになりますが。
こんな具合に、私は物語の中で「次元」と言う言葉が出て来ると色々と考えてしまうことがあります。
殴って破れる「次元の壁」っていったい何? とか、「次元の狭間」って本当は「時空の狭間」の言い間違いではないだろうか? とか。
皆さんはいかがでしょうか?




