屁理屈の逆襲
「いいね」ありがとうございました。
私は割と幼い頃から理屈っぽい子供でした。
だから親から「また屁理屈を捏ねている」とかよく言われました。
でも、「屁理屈」とは理屈になっていない理屈、筋の通っていないいいかげんな理屈の事です。
深く追及されれば破綻するし、正論で叩き潰せるはずです。
でも、正論で叩き潰された憶えはありません。
理屈っぽいだけに自己矛盾は気にするし、破綻した理屈を押し通すよりもいったん引っ込めて考え込む質です。というか、論破されたら悔しくて根に持つから子供の頃の事でも憶えていると思うのです。
ですが、屁理屈と言われたことはあっても、正論で追い込まれた記憶は全くありません。
つまり、理屈の筋が通っていないことを看破されたわけではなく、付き合うのが面倒だから「屁理屈」と言って終わらせているのです。
まあ、子供相手にはよくあることです。
しかし、この「屁理屈」の一言で片付けることはレッテル貼りのようなもので、詭弁のテクニックの一つです。
屁理屈を詭弁で封じるという、結構とんでもないことをやっていたわけです。
私が理屈っぽい性格をしているせいか、「世の中、必要以上に理屈が軽んじられているのではないか」と思うことがあります。
物語の中などで、次のような台詞で相手を非難することがあります。
「それは理屈だ!」
情景が容易に思い浮かぶのではないでしょうか。
理論に固執し、既に現実と乖離している理論に従って行動しようとする者に対する一喝。
あるいは、理論的にはほぼ不可能に近い、もしくはリスクが高すぎて割に合わない事柄に挑戦しようとする者の反対を押し切る一言。
……まあ、この場合成功すれば勇敢、失敗すればただのバカになりますが。
ただのバカは置いておくとして、理論に溺れて現実を見ないのは頭でっかちの愚か者ですし、リスクや成功率の低さに恐れをなして何もしないのは臆病者か怠け者ということになるでしょう。
失敗した場合でも、状況によっては「たとえ失敗しても何もしないよりはまし」と言えるかもしれません。
状況にもよりますが、かなり説得力のある台詞でしょう。
しかし、この言い方では「理屈」そのものが悪いかのように聞こえてしまいます。
確かに、現実に合わない理屈に固執するのは悪いことです。
でもそれは、「現実に合わない理屈」――つまり、そもそも間違った理屈を持ち込んだ場合や、前提条件や例外を考慮しなかったり、理屈の適用方法を間違っていたりしていることが問題なのです。
例えば事前に綿密に計画を立てても計画通りにいかないことはよくあります。破綻した計画を無理に続行したらさらにひどいことになる場合も多いです。だからといって、計画を立てることそのものが悪いことにはなりません。
同様に、理屈通りにならない場合に臨機応変な対応が必要になるとしても、理屈で考えては行けないということにはならないでしょう。
また、理屈で考えると成功率が低かったりリスクがあるからといって、挑戦をためらってはいけない状況は確かにあるでしょう。
けれども、理屈を考えなかったからといって成功率が上がったり、リスクが無くなりわけではありません。
むしろ、成功率が低いからこそ少しでも成功率を上げる方法を考え、リスクが高いからこそ予めリスクへの対処を考える必要があります。
考えなしの行動は、失敗することの方が多いものです。
そもそも、理屈が駄目ならば何を用いれば良いのでしょう?
他人を説得しようと思ったら、理屈は必要です。
状況を丁寧に説明して、なぜそうなのか、どうしてそうするべきかを相手に理解させるために使用するのが理屈です。
道理とか義理とか言うものも、「こういう場合はこうすべし」という理屈の一つです。
理屈の代わりに感情に訴えて説得する方法もありますが、あまり説得したという感じはしません。
恐怖の感情に訴えて説得する。それは脅しといいます。
楽しみや欲求、欲望に訴える。それって賄賂とか悪魔の誘惑とか言いません?
怒りの感情に訴えて説得する。それは煽るといいます。
同情の感情に訴えかける。泣き落としは納得したのではなく、泣かれるのが嫌だから仕方がなく同意しただけという気がします。
いずれにしても、あまり良い結果になる気がしません。
また、他人を説得するだけでなく、目的を達成するために何をしなければいけないかを考える時にも理屈を使用します。
どのような行動をすればどんな結果になるか、その結果を受けて次に何をするか。
逆に目的を達成するにはどんな行動をすべきか、その行動を行う準備として何をする必要があるのか。
そんな風に筋道立てて物事を考えていくには理屈が不可欠です。
理屈をすっ飛ばしてただの直感で決断して毎回上手くいくのは物語の中だけです。
錯覚などではなく、勘によって偶然以上の確率で正解を引き当てる人がいたならば、そこには理屈が隠れています。
例えば、「長年の経験による勘」などというものは過去の事例を根拠にした理屈です。「前はこれで上手くいったのだから、今回もこうすべき」これも立派な理屈です。
過去の体験や事例を詳しく調べて、そこに規則性や法則を見つけ出すことで理論や理屈は生まれます。それを無意識で行っているのが勘なのです。
理屈の裏付けのない勘が正解を引き当てる道理等ありません。
結局のところ、理屈であることを批判しているように見えて、「お前の理屈は間違っているから俺の理屈に従え!」という主張に過ぎないのではないでしょうか。
理屈に関連して最近気になることがあります。
それは、「ロジックハラスメント」という言葉です。
状況は、まあ理解できます。
例えば、仕事で失敗した時に理詰めで責め立てられるような場合。自分が悪いことは分かっているので反論もできません。けれども、責め立てられれば苦しい思いをするものです。
正しいことだからと言って何を言っても良いことにはなりません。
名誉棄損罪をご存じでしょうか。
他人の身体を傷付けた場合は傷害罪になりますが、身体は無事でも名誉を傷つけた場合に適用されるのが名誉棄損罪です。
人の名誉を傷つけたことが問題なので、たとえ言っている内容が間違いなく事実であっても名誉棄損は成立します。
極端な例で言うと、ある人の親が過去に死亡事故を起こしたことがあるとします。
その人に対して、「あいつは人殺しの子供だ!」と吹聴する人がいた場合、名誉棄損が成立します。
言っている内容に嘘はありません。しかし、たとえ事実であっても、その事実が人を傷付け苦しめます。
本人に責任の無いところで傷つき苦しむ人がいることが良いことだとは思えないでしょう。
しかし、正しいこと、正論を主張することそのものを悪いことのように扱うのはよくないと思うのです。
ロジックハラスメント対策が行き過ぎて、正しいことを正しいと言えない社会になったらそれはそれで問題です。
名誉棄損の例で言うと、名誉棄損が成立したとしても、必ずしも名誉棄損罪として罪になるとは限りません。
例えば、ある政治家が汚職をしていたとして、「あの人は汚職をしている」と公言すれば名誉棄損は成立します。
しかし、「名誉棄損で訴えられるから政治家の不正を報道しない」などと言う世の中になったら汚職だらけになりかねません。
もちろん、ありもしない汚職をでっちあげて汚職政治家だと言い張ることは罪ですが、名誉棄損罪の適用には公共の利益との兼ね合いで結構難しいものがあります。
同じように、ロジックハラスメントに対しても、ただ正論を封じたり、論理的な話を止めさせたりするような対応をすれば必ずどこかで問題が発生します。
例えば、重要な安全確認の手順をせずに大事故を起こしたような場合に、「ロジハラになるから強く注意できなかった」なんて言ったらロジックハラスメントどころではない非難が国中から集中することでしょう。
それに、ちょっと考えてみてください。
理詰めで反論もできずに責め立てられることは確かにつらいでしょう。
しかし、同じ状況で正論抜きだったらどう思います?
攻め立てられるのだけれど、そこに正当な理由はない。それは、理不尽と言うものです。
よくある「ざまぁ展開」の話は、最初に主人公が理不尽な目に遭って追い出されたり死にそうになったりします。
その後の「ざまぁ」の部分はいくつかのパターンがありますが、その一つが「より強い権力を持った人が出てきて自分勝手な言い分を正論で粉砕して行く」と言うものです。
理不尽を正論で粉砕して、「悪は滅びた!」とすっきりするのです。
これ、悪役側から見たら、正論で追いつめられる、正にロジックハラスメントを受けている状態です。
私達はロジックハラスメント(を行うこと)が大好きなのです。
もしも「正論で責められるよりも、理不尽な方が良い」という人がいたら、それは「何時如何なる時でも自分は正しい」ことを望んでいるのだと思います。
そして、何時の日か正論で理不尽を粉砕する日を夢見ているのです。
やはり私達はロジハラ大好きなのです。ただ、正論で粉砕される間違った側になりたくないだけで。
たぶん正論の封じられた世界では、不具合が出るだけでなく、ストレスが溜まりまくります。
ロジックハラスメントについて、個人的に疑問に思っていることがあります。
まず、正論を主張すること、論理的に話すことが本当に問題になっているのか? という点です。
例えば、「正しいことかもしれないが、そんな言い方はないだろう。」と思ったことはありませんか?
つまり、正論の部分ではなく、言い方の問題で人を傷付けているのです。
また、他人を「責め立てること」が目的で、そのための手段として「正論」を用いているだけならば、やはり「責め立てる」部分が問題なのだと思うのです。
この場合、都合の良い「正論」が用意できなければ「ロジックハラスメント」の代わりに「理不尽」になるだけだと思います。
そもそも、論理とか理屈とか言うものは、考えの違う相手を納得させて、共通の結論を導き出すために使用するものです。
相手からの反論が止まった状態で一方的に「論」が続くのはおかしいのです。
相手が正しいと認めたら正論の役割はそこで終わります。納得しない場合は、何処が納得できないのか相手を理解してから次に進まなければなりません。
一方的に主張される正論というのは、考えの押し付けか、独り言に過ぎません。「論」が正しいか否か以前の問題なのです。
もう一つの疑問点は、その「正論」は本当に正しいのか? という点です。
「正論なのだから正しいに決まっているだろ。」と言うのは短慮です。
人間のやることに「絶対に正しい」を期待してはいけません。
その主張が「正論」であることを何を持って保証しますか?
世の中の「正論」の多くは、「正論らしく聞こえること」くらいに思っていた方が良いです。
例えば、「ちょっと考えれば分かるだろう!」という台詞があります。これ、かなり正論に聞こえるはずです。
何か失敗をやらかして、後から考えれば失敗して当然な行為をしていたなどと言う経験をしたことのある人は多いでしょう。ちょっと考えれば分かる失敗です。
しかし、その「ちょっと考えれば分かる間違い」を犯したことのない人はいますか?
ちょっと考えただけで防げるミスや失敗を誰でも完全に防げるというのならば、「ポカヨケ」なんかは必要ないのです。
正論を言うのならば、失敗を責めるよりも失敗を防ぐための正規の手続きを疎かにしたことを問題にすべき。失敗を防ぐための手順が無い、あるいは手順に従ったのに失敗したのならばその対策が必要になります。
また、「後からならば何とでも言える。」というのも正論です。
もしも、事前にその失敗を誰でも予測して回避可能だと言うのならば、そういう本人が事前に注意喚起をしたり対策を講じるべきでしょう。誰しもしょうもないミスをしたり考えなしに動くことがあるということは「ちょっと考えれば分かること」です。
特に叱責しているのが上司ならば部下に対する監督責任があります。「考えれば分かる」ことを考えていなかったか分かっていなかったのです。
これ、我ながら完璧な正論だと思うのですが、叱責されている当人が言えば、「屁理屈を言うな!」とさらに怒られるでしょう。
正論の扱いなんて、そんなものです。
厄介なことに、九割正しい「正論」でも、一割の間違いでとんでもない結論に至ることはよくあります。
戦前くらいに流行っていた「優生学」は「進化論」や「遺伝学」などだいたい正しい知識をベースにしています。
しかし、その結論は遺伝性の病気を疑われる者、あるいは先天的に劣っているとみなされた者に対して避妊手術を強制する「断種」です。
今の時代から考えれば、「優生学」は「人間を品種改良」するものであり、人を家畜扱いする行為です。しかし、当時の人はそれで社会が良くなると本気で信じていたのです。
最終的には大間違いでも、途中に幾つもの「正しいこと」が混じることで間違いに気付き難くなっているのです。
当時の人が「優生学」に疑問を持ったとしても、「進化論が間違っているのか?」「遺伝の法則は確認されている。」などと返されてしまいます。
ロジックハラスメントの問題以前に、「正論」の正しさを常に気にすべきだと思うのです。
誤った正論を推し進めた先には悲劇が待っています。
セクハラ以降、「○○ハラ」という言葉がたくさん作られました。この世は嫌がらせで満ちています。
様々なハラスメントの中で、最初の「セクハラ」は別格です。
おそらく、今のセクハラ対策は行き過ぎています。
差別の問題などでよくあるのですが、意識を変えるためにあえて一時的に行き過ぎた対策を取ることがあります。
例えば、会社の幹部社員に女性枠を設けて女性幹部を増やし、女性社員の昇進を阻む制度や慣習、その他の阻害要因を洗い出す、みたいな取り組みがあります。
これは、女性を優遇する差別の一種になるのですが、そのくらいやらないと男性中心で組み立てられてきた職場の構造が変わらないのです。
セクハラも、その根源に女性差別、女性蔑視の社会的慣習が大きな要因となっています。
特に数が多く、長年苦しんできた女性の被害者をいち早く救済することが急務でした。
そのため、「女性が男性から不愉快な言動を受けること」がセクハラであるという認識が広まりました。
男性側に、「女性が嫌がっている行為である」という意識が低かったため、「女性が不快に思ったら何であれセクハラ」くらい強引に啓蒙する必要があったからです。
そう言えば、「セクハラは何をしたかではなく、誰がしたかで決まる」なんていう言葉も聞いたことがあります。「ただしイケメンに限る」の親戚みたいなものです。
実際には、男性から女性へのセクハラだけでなく、女性から女性、女性から男性、男性から男性、全てのパターンのセクハラが存在します。
セクハラの概念も浸透したことですし、そろそろ広い意味でのセクハラを冷静かつ真面目に考えるべきだと思うのです。
セクハラというと、助平または女性差別の強い男性が女性に対して不当に不愉快なことを強要するイメージが強くありませんか?
漫画等で描かれる「セクハラ野郎」は覗きや痴漢行為を繰り返すほぼ犯罪者な男で、撃退されて酷い目に遭うところまでがお約束です。
このセクハラのイメージが他のハラスメントにも影響を与えているのではないかと危惧しています。
つまり、ハラスメントを行う人物は、モラルの欠けた犯罪者的な人間で、徹底的にやっつけて排除しなければならない。そんなイメージはありませんか?
パワハラ上司ならば部下を人とは思わず、公私混同して奴隷のごとくこき使うとか。
アルハラならば、酒に弱い人間に吐くまで飲ませ、急性アルコール中毒で病院送りにしてしまうとか。
セクハラにしても、助平根性や差別意識から女性が嫌がっているのを承知の上で行っている人ばかりではありません。
「こんなことがセクハラになるとは思わなかった」「女性が嫌がっているとは知らなかった」
言い訳ではなく、本当にそう思っていた人が大勢いるのです。
ハラスメント対策は、悪意を持って嫌がらせをする人だけでなく、気付かずに他者を不快にさせているケースについても対処しなければなりません。
セクハラ対策には、男女の認識の差を埋める活動が重要になるのです。
他のハラスメントも同様で、パワハラ上司を左遷させたり、アルハラ酔っぱらいをトラ箱にぶち込んだり、アカハラ教授を辞めさせたりだけでは不十分なのです。
もちろん、ロジックハラスメントも同様です。
ロジックハラスメントの問題を真面目に考えている人ならば、「正論を主張することを控えよう」とか「正論を振りかざす人を排除しよう」などとは言わないでしょう。
間違った主張が退けられ、正しい主張が通ることは絶対に必要です。
ただ、誤りを指摘したり、正しいと思うことを主張するだけで無意味に傷付く人が出たり人間関係がぎくしゃくしたりしていてはやってられません。
不用意に人を傷付けることなく、言いたいことはしっかりと主張できる環境を作ること。それがロジックハラスメント対策の要点となります。
日本でもディベート教育を行うべきだという意見があります。
私も有益だと思うのですが、反面ちゃんと教育できるのかという不安があります。
ディスカッション(discussion)を議論と呼ぶのに対して、ディベート(debate)は討論と訳されています。
議論とは、一つのテーマに対して複数の人が意見を出し合い、より良い結論を導き出すことを目的とします。
私はこれを、「他人の頭を利用して自分の考えをブラッシュアップする行為」だと考えています。
重要なことはより良い結論、つまり間違いを修正してより正しい、あるいはより有益な意見に到達することです。
自分の意見を修正したり方向転換したり大きく飛躍させたりと、自身の考えを変えることが重要な成果になります。
一方、討論は異なる意見を持つ人たちがそれぞれの主張を行い、相手の考えを排して自分の考えを押し通すことが目的です。
いわば、言葉による殴り合いです。
討論の場合、「正しいこと」は武器の一つに過ぎません。
例えば、外交などの場合、たとえ相手の主張が正しいとしても国のためには譲れません。間違っていると分かっていても正しさを主張するし、正しいからと言って何もしなくても他国が認めてくれるなんて甘いことはありません。
自分の主張の重要な部分を変えることなく、相手もしくはその他大勢の第三者を如何に納得させるかが重要なポイントになります。
自分で書いていても何だか悪辣な側面のある討論ですが、それを教育に取り入れることは二つの利点があると考えています。
一つは、自分の主張を人に分かるように説明する練習になることです。
自分の思っていることを、他人に正確に伝えることは意外と難しいものです。
小学校の頃、作文を書く時に「事情を知らない他人にも分かるように」みたいな感じで指導を受けたことはありませんか?
これ、「小学生にも手できる簡単なこと」ではなく、「子供の頃から練習する必要のある重要なこと」です。
普段から付き合いのある気心の知れた相手ならば、大雑把な会話でも何となくで通じます。
業者とか弁護士とかに客として相談に行く場合は、プロとしての話術で的確に悩み事を引き出してくれるでしょう。
しかし、こちらに合わせてくれる相手や状況ばかりではありません。
自分が会社の社員として顧客や関係する他社の人間に説明するような場面で、社内でのみ使われている用語を多用したり、職場内部の慣習や事情を察してくれと言っても理解が得られるはずがありません。
相手に理解できる言葉を選び、必要な補足説明を加え、誰でも納得できるように簡潔かつ論理的に説明して行かなければなりません。
ディベートの練習をしていれば、対立する相手であっても、自分の考えを正しく伝える技術が身に付くはずです。
立場や考え方の違う相手にもきっちり自分の意見を伝えられるようになれば、言いたくても言えない、何と言ってよいのか分からなくて悩むなんてことは無くなるでしょう。
もう一つのポイントは、普段とは違う観点から物事を考える練習になることです。
競技としてのディベートは、与えられたテーマに対して、賛成、反対という立場を設定して討論します。
この際、競技者本人がどう考えているかは関係ありません。「自分はこのテーマは正しいと思うので賛成の方で」みたいな希望は受け付けません。
つまり、正しいと思っていることに反対したり、間違っていると思うことに賛成したりします。
これって、普段はあまり行われないことです。
たいていの人は、どうしても自分が正しいと思うことを正しいと認める根拠を探し、間違いだと思っていることを否定する理屈を考えてしまうものです。
あえて逆の立場に立って自分が否定していた人、あるいはまったく関心を持たなかった主張を行う人の考えを体験することは、非常に有意義な経験になるでしょう。
物事を多面的に考える良い訓練になると思います。
うまく活用すれば有用だと思う反面、ちゃんと教育できるのか? という点が個人的に不安です。
ディベートを教えるのならば、教える側もディベートを正しく理解している必要があります。
例えば、「アイデア出しのためにブレインストーミングをやろう。」などと言いつつ、いざ始まると他人の意見に駄目出しをしまくる人っていません?
ブレインストーミングの重要なルールに、「その場で判断したり結論を出したりしない」と言うものがあります。アイデアをふくらませる段階で終わらせてはいけません。
ブレインストーミングに必要なルールを無視してしまったら、それはもうブレインストーミングではありません。
同様に、ディベートもルールを守って行わなければディベートとして成立しません。
競技としてのディベートは、どんな手を使ってでも勝たねばならない陰謀と謀略の渦巻く交渉の場ではありません。
ルールに従って論戦が行われる競技です。
特に教育用に行われるディベートは、教育に有用でなければなりません。
単なる悪口と揚げ足取りの応酬になったら、むしろ悪影響になるでしょう。
教える側がちゃんと理解していて正しく指導する必要があるのですが、中途半端な理解で行うと色々と変なことになります。
例えば、ディベートの勝敗は、第三者である審判を納得させた方が勝ちになります。
この原則を理解していないと、ディベートの主題をそっちのけで、とにかく相手の意見を否定し合うだけの泥仕合になりかねません。
やたらと相手を論破したがる人、いますよね。
ちゃんと相手の主張を正しく理解して問題点を指摘するのなら良いのですが、内容を無視して発言者の人格攻撃とかを始めたりしたら最悪です。
下手をすると人間関係が壊れます。
残念なことに、議論や討論に関する悪い例は世の中にごろごろしています。
スポーツなんかでもそうなのですが、競技として行う以上はルールの範囲内で創意工夫を重ねて全力で戦うものです。
つまり、発言者の人格攻撃だろうと、相手の発言に対する妨害工作だろうと、ルールで禁止されていなくて有効ならば、必ずやる奴は出てきます。
ちゃんとした専門の外部講師を呼べばそんな変なことにはならないはずです。
しかし、「最近授業でディベートが流行っているからわが校でもやってみよう!」みたいなノリで予算も準備期間も十分に取らずに担任教師に丸投げ! とかやったら変なことになるかも知れません。
そこまでの無茶ぶりでなくても、教師に一度講習を受けさせただけでディベートの授業をやらせるとかでも細かいところで不具合が起こりそうな気がします。
ディベートの審判は明確な審査基準に基いて判定し、勝敗を決めなければなりません。
学校教育の一環としてディベートを行うのならば、学生同士で討論して教師が審判を行うことになるでしょう。
つまり、教師は審査基準に則した観点で双方の主張をチェックしながら聞く必要があります。
決して、「何となくこっちの方が正しそうだから」「自分はこのテーマは賛成だから賛成側の勝ち」「お気に入りの学生が頑張っているから」みたいな理由で判定をしてはいけません。
また、詭弁をしっかり見抜く必要があります。
詭弁は人を誤った認識に導いたり、論点を本題から関係の無いものにずらす技法なので、詭弁ばかりうまくなっても建設的な議論はできません。
教育にディベートを取り入れたら詭弁の達人を量産してしまった、というのは勘弁してほしいです。
クラス担任が通常の業務の合間にディベートの勉強をして生徒にディベートを教える、というのはかなり大変なことだと思うのです。
特に、全国の学校でカリキュラムに含めて一斉に始める、とかやったら変なディベートを行うところが必ず出て来るのではないかと思います。
誰かがやらかしそうなことを勝手に想像して書いて見ます。
・最初にテーマに対して学生に賛否を問い、そのまま賛成反対に分かれてディベートを行う。
ディベートは普段から思っている自分の考えを主張する競技ではないので、これはあまりよろしくありません。
むしろ、学生自身の賛成/反対を逆にした方が色々と考える訓練になるのではないでしょうか。
・ディベートの審判を学生の多数決で行う。
学生に審判をやらせる方法もあるとは思うのですが、その場合は正しく判定できていることを教師がチェックする必要があります。
ディベートの審判は審査基準に基いて客観的に判定を下すものです。
個人的な感情や、何となく流されて判定してはいけません。
特に、理由を明確にしないまま多数決で勝敗を決めることはやってはいけないことです。
下手をするとただの人気投票になったり、詭弁家や扇動者を育成する授業になりかねません。
・クラス内での決め事を、ディベートの結果で決める。
ディベートは、勝った方が正しいというものではありません。
あくまでも、どちらがより説得力のある主張をできたかということを比べているにすぎません。
クラス全体に関わる重要なことを決めるのならば、討論ではなく議論を行わなければなりません。
討論と議論の違いをはき違えていると、ディベートの悪い面ばかりが出て来そうです。
・ディベートに負けた方に何かペナルティーを科す。
ディベートも勝敗を付ける競技であり、やる以上は真面目に勝利を目指して努力しなければなりません。
体育の授業などでも、授業の一環だからと無理に競技に参加させられている生徒にやる気を出させるために飴と鞭を用意することはよくあります。
でもこれ、やり過ぎると問題が生じます。
負けた時のペナルティーとして、何か悪いことをした時の罰と同じことを指せたりしたら、負けること=悪という認識が刷り込まれます。
体育の場合で言うならば、体の弱い生徒というものは存在します。同じだけの身体能力を得るのに人の何倍もの努力が必要だったり、少しでも無理をすると体を壊して努力そのものが困難な人もいます。
最初から体が丈夫でちょっと強かったり速かったり器用な人間と比べて「負けたお前は努力が足りない」みたいな扱いになったらやっていられないでしょう。
ディベートの場合も同様で、世の中にはその場その場で気のきいたセリフがポンポン出て来る人もいれば、時間をかけてじっくりと深く考えることが得意な人もいます。
負けたからと言って頭が悪いということにはなりません。
ディベートを教育に取り入れる目的は、生徒に様々な事柄を考えさせ、それを自分なりの言葉で表現させることにあります。
勝敗に拘るのではなく、何をどう考え、それをどう表現したかをちゃんと評価しなければいけないのです。
ロジックハラスメントの問題の根底には、「間違いを許さない社会」があるのではないかと思うのです。
間違えた者は悪であり、その主張は何一つ受け入れられない。
正しい者は勝者であり、何を言っても許される。
極論ではありますが、そんな風潮はありませんか?
間違いや失敗が許されないからこそ、正論によって「お前が間違っている」と突き付けられることで苦しみます。
正論を主張する側は間違っている相手が「悪」だと思っているからこそ責め立てます。
あるいは、相手が正しいと自分が間違っている「悪」「敗者」になってしまうから、必死になって相手を責め立てるということもあると思います。
本来議論ならば、自分の誤りに気付いたら素直に訂正し、相手の間違いは話し合いの中で修正して行くものです。
討論でも――あらゆる手段を使ってでも勝たなければならない言葉による戦争ではなく、競技としてのディベートならば――間違っていると思う主張でもしっかりと聞き、しっかりとした理由を示して反論しなければなりません。
相手の主張の間違いを正したとしても、主張した本人を否定することはやってはいけません。
教育にディベートを取り入れた場合、相手の間違いを指摘する場合でも人格攻撃になるようなことはせず、何処が問題なのかを冷静に指摘する練習になるはずです。
間違いを指摘される場合も、感情的に反発するのではなく、冷静にその内容を受け止める必要があります。その上で自分の考えを修正するなり反論を考えるなりします。
ディベートの練習をすることで、ロジックハラスメントにならずに自分の考えを主張し、また他人からの指摘を冷静に受け止めることができるようになるのです。
狙い通りに正しく教育できていれば、の話です。
正しく教育できればディベートを通じて他人の考えを理解したり、説得力のある根拠を示しながら自分の考えを主張したり、感情的に責め立てることなく相手の間違いを指摘したりできるようになるでしょう。
しかし、ディベートが競技である以上、勝敗に拘って本来の目的を忘れてしまうことがあり得るのです。
例えば、学校教育の中に体育の授業があるのは、学生の健やかな育成を目指しているからです。
運動を通じて健全な身体を作り、あるいは体を動かすことでストレスを発散し、心の健康も保つ。
決してプロのスポーツ選手の養成とか、運動が苦手な学生を苦しめることが目的ではありません。
しかし、体育の授業で競技形式のスポーツを行う場合、その勝敗が重要視されることはありませんか?
体育の成績は身体能力の高さを評価します。試合で活躍し、勝利した方が好成績になると学生側も考えるでしょう。
試合に勝つために無理を重ねれば、怪我をしたり体を壊したりします。
生徒に無理をさせ続ければ、健全な身体を作るという体育の目的に反してしまうのです。
授業としての体育でそこまで無理をさせることはないと思うのですが、例えば生徒に校庭などを走らせて、「ビリになったやつはもう一周走ってこい!」と指導するような体育の授業を見たことはありませんか?
手を抜いてちんたら走っていた生徒ならばともかく、本当に体力が無くて必死に走っても追いつけない生徒に追い打ちをかけるのは状況によってはかなり危険だと思うのです。
体育の授業中の死亡事故で最も多いのは突然死だそうです。
ディベートも競技の勝敗に拘ると、教育に導入した目的を忘れます。
授業の科目としてディベートを組み込むと、ディベートで勝てる生徒に対して高い成績が付きます。つまり、生徒は勝つために必死になります。
これ、行われたディベートの勝敗以外の要素を大きくすると、教師の主観が入りやすくなるんですよね。気に入った生徒への採点が甘くなるのを防ぎきることは難しいのです。
客観的でごまかしの効かない採点基準というと勝負の結果というのは非常に分かり易いのです。
それでも審判の贔屓目は入りますが、学生の前で根拠を示して判定しなければならないのであまり露骨なことはできません。
だから、ディベートの授業で成績を上げたい学生はあらゆる手段を使って勝ちに行きます。
学生が成績を上げるためにする努力をナメてはいけません。「その努力を日頃からの勉強に使え!」とか言いたくなるほど色々やります。
たぶん、「教師別よく使われるディベートのテーマ」とか「その教師の好みの話の展開」とかいった情報は出回るでしょう。
そして、「詭弁にとして判定されないギリギリの詭弁で話を逸らす技術」「人格攻撃と思われない範囲で相手にプレッシャーをかける方法」等奇妙なテクニックが磨かれるのではないかと思います。
また、「授業中はバレない大嘘」を使う者も出るでしょう。「何かで聞いた話」くらいに言っておけば故意に嘘をついたのか誤った情報を仕入れただけなのか見分けが付きません。
そんな感じで、その場限り、授業で行われるディベートでのみ通用するテクニックが幾つも作られて行くでしょう。
それでも、そのテクニックを使いこなすだけの能力が必要になるので、ディベートの成績は議論の巧さの指標としてある程度意味を持ちます。
議論に強い生徒が育成されたことでディベートの授業に成功したとみなすかもしれません。
しかし、あくまで競技に勝つための技術が磨かれることになるので歪みが生じます。
特に中途半端に技術のみを身に付けた場合、相手を否定することばかりうまくなりかねません。
話術はうまいが他人を否定することに熱心で、常に審判(決定権を持つ人物)の顔色をうかがいながら、平然と嘘をつく。
そんな人物は議論の邪魔にしかなりません。
また、他人を言い負かすことが大好きで、相手の言い分を都合よく捻じ曲げて反論する技術に長けた人間が増えれば、ロジックハラスメントも激化するでしょう。
結局、どちらにもなり得るのです。ロジックハラスメントを抑える方向にも、増加させる方向にも働きます。
教育で知識や技術を教えることはできますが、それをどう使うかは本人次第なのです。
他人に打ち勝って上に登らなければならない競争社会や、論破して優越感に浸るような風潮をどうにかするべきではないでしょうか。
特に間違いを許さず、間違えた発言だけではなく、人そのものを否定するような風潮は無くなって欲しいものです。
個人的には、ディベートの授業よりも、議論のやり方を学ばせるべきではないかと思っています。
議論でも討論でもその場で出た結論が必ず正しいとは限りません。
単にその場で一番説得力があったというだけです。
本当に重要な事柄ならば、その場で「これが正しい」と決めつけるだけでなく、本当に正しいのかを検証する手順を決め、間違っていた場合にどうするかを決めておきます。
結論が出てそれで終わりではなく、後々まで責任を持たなければならないことをしっかりと教えて欲しいと思うのです。




