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駄文庫  作者: 水無月 黒
33/58

科学とは何か?

「いいね」ありがとうございました。

 科学とは何か?

 明確に答えられる人はいるでしょうか?


『科学は悪か?』でも触れましたが、科学と技術はよく混同されています。

「これが科学の力だ!」とか「最新科学で調べたところ~」みたいな言い回しでは、実は科学ではなく技術の方を指していることが多いのです。

 近年、科学と技術は車の両輪の関係で進歩してきました。

 科学の知識は技術の進歩に大いにく貢献しました。

 ニュートン力学は物体の運動をかなり正確に予測できます。機械などの設計段階からその挙動を予測できるため、試作して試行錯誤を行う回数を大いに減らすことができたでしょう。

 ボイル=シャルルの法則は熱と体積と圧力の関係を奇麗に表します。蒸気機関から始まる熱機関や冷蔵庫やクーラー等の設計には欠かせません。

 マクスウェルの電磁方程式は電気と磁気に関わる法則の集大成です。電気を使用した製品のほとんどが何らかの形でこの方程式やそこから導かれる各種計算式を利用して作られています。

 一方で、技術の進歩が新たな科学の知見を広めることも数多くあります。

 望遠鏡の発明は、それまで夜空に張り付く光の点でしかなかった星の詳細に迫り、また肉眼では見えない暗い天体の存在を明らかにしました。

 顕微鏡の発明は、知られていなかった微生物の存在を発見し、物体の微細な構造を知ることになりました。

 精密な測定装置や進歩した実験装置は、自然現象の精密な測定や再現を行い、考えられていた物理法則の検証などにも役立ちました。

 今や科学と技術は切っても切れない関係にあります。

 けれども、やはり科学と技術は別のものなのです。


 科学とは知識や知識の体系のことを言います。それが役に立つかどうかは関係ありません。

 世の中には役に立たない科学知識は山ほどあります。役に立たないから普段は表に出てこなくて知られていないだけです。

 イグノーベル賞などはそうした地味な研究に光を当てるものです。

 科学者自身の中にも「社会の役に立ちたくて研究をしている」という人や、「科学は人の幸福のために使うもの」といった考えを持つ人もいます。

 しかし、それはあくまで個人の動機や信条であって、科学そのものや科学者全体のあるべき姿というわけではありません。

 危険な研究が規制や制限を受けることは当然ですが、役に立ちそうもないから研究するなと言うのは間違っているでしょう。

 科学の根本にあるのは、世の中のあらゆることを知りたいという好奇心だと思うのです。

 まあ、絶対に役に立たないだろうと思われていた研究から、とんでもなく役に立つ技術が生まれることもあるわけですが。


 技術とは、何かの役に立つ手段や手法のことです。

 その中でも科学知識を応用した技術のことを科学技術と呼びます。

 その一方で、科学知識と無関係に確立した技術もたくさんあります。

 古くから伝わる伝統工芸などで使用されている技術はほとんどが科学知識とは関係ない技術でしょう。もしかしたら、既に伝統工芸扱いの科学技術もあるかもしれませんが。

 現代でも科学技術ではない技術は生まれています。

「主婦が考えたアイデア商品」が科学技術だと思いますか? 科学技術の場合もありますが、暮らしをちょっと便利にするアイデアは科学知識に基づく必要はありません。

 また、科学技術の産物を利用していたとしても、それだけで科学技術になるわけではありません。

 例えば、(やすり)をグラインダーに持ち替えたとしても、それで日曜大工が科学技術になるわけではないのです。


 ややこしいことに、技術に関する知識を集めた科学というものもあります。

 データサイエンスというものは、コンピュータや情報機器、データ通信の発達に伴って扱えるようになった多量の情報をどう利活用すればよいか? という技術的な要請から生まれた学問です。

 また、科学とは関係なく誕生した技術でも、科学的な見地から再評価される場合もあります。

 以前テレビで、「藍染は化学だ」と言っていた番組がありました。藍染の工程の中で複雑な化学反応が起こっていることを表した言葉ですが、もちろん化学者が藍染めを開発したわけではありません。

 ファラデー教授はロウソクの燃える様子から様々な現象を科学的に説明します。これも科学知識を利用してロウソクを作ったなどと言うことではありません。

 藍染やロウソクを見て「これが科学だ」と思う人はほとんどいないでしょう。

 けれども、科学知識を利用して改良を加えた、科学技術を用いた藍染やロウソクを作ることも可能なのです。


 藍染でも、ロウソクでも、最新のデジタル機器でも、そのものは人の手で作られた単なる製品です。

 製品を作り出すために使われている手段や手法が技術。

 技術を生み出すための拠り所にしたり、逆に技術や製品を調べることで得られた知識は科学。

 紛らわしいですが、それぞれ別物です。


 さて、科学だけでなく、科学者に対しても偏見や誤った認識があるのではないかと思います。

 おそらく、一般に広く浸透している科学者のイメージは、マッドサイエンティストです。

 科学者に限らず、日頃馴染みのない職業に関してどのようなことをする仕事なのか、あまりよく知らない人の方が多いでしょう。

 自分が直接かかわっていない職業に関するイメージの元になるのは、やはりマスメディアで紹介されたり登場する人物が中心になると思います。

 業界もののドラマなどが流行ると、その業界の人からは「そんな奴はいない」「そんな仕事の仕方はしない」みたいなことを言われても、ドラマで描かれたイメージが広まったりします。

 映画などで登場する科学者は、ほとんどがマッドサイエンティストです。マッドサイエンティストと明言されていなくても、やっていることはマッドサイエンティストになっていることが多いのです。

 物語の中のマッドサイエンティストは、途中経過を無視して何か妙なものを作り出す人のことです。

 ここにも科学と技術の混同があって、科学者と言うよりも技術者に近い存在なのです。

 元祖マッドサイエンティスト(たぶん)であるヴィクター・フランケンシュタインは途中経過を色々無視していきなり怪物(モンスター)を作ってしまいます。

 非道な人体実験を行う場合などもありますが、多くの場合マッドサイエンティストは何か奇妙なものを作り出します。

 マッドサイエンティストと明示されていなかったり、悪のマッドサイエンティストと敵対する味方の科学者であっても、物語の中では何か奇妙なものを作り出すことが多いのです。

 超兵器だったり、タイムマシンやその他奇妙な乗り物だったり、物語のキーとなる装置や薬剤だったり。

 初期の頃のスーパーロボットなどは科学者が個人的に作っていることがよくあります。地球の命運を握る超兵器を、科学者個人あるいは科学者が主体となる組織が開発・運用しちゃっているのです。

 自ら「神にも悪魔にもなれる」と豪語する超兵器を自宅の地下でこっそりと作り、基礎知識もなければ必要な訓練も受けていない孫に譲り渡すなんて狂気の沙汰としか思えません。

 現実の世の中でも、科学者が興味深い現象を発見あるいは解明して、「これを応用すれば世界が変わる」と話題になることがあります。

 あるいは、実験室の中では試作品ができていたりして、「後はコストさえ下がれば社会の問題が一気に解決する」などと言われることがあります。

 しかし、そこから先の永いこと永いこと。忘れ去られたころに予想外の形で実用化されたり、そのまま消滅することも珍しくありません。

 マッドサイエンティストは、そうした途中経過とそこにかかわる人々をすっ飛ばして、いきなり使える完成品が出て来るのです。

 また、ものを作り出す以外では、物語の科学者は解説者の役割となることも多いです。

 奇妙な事件の真相とか、奇怪な現象の原因なんかを説明したり、解決方法を提示する役割になります。

 物語の設定を視聴者に説明する役割なので、まず間違ったことは言いません。

 この解説役の科学者もマッドサイエンティストと似たような性質があります。

 誰も見たことのない怪獣の名前や弱点を言い当てたり、地球レベルの危機の回避方法を見つけたりします。

 ハリウッド映画などでは「とりあえず核爆弾をぶち込んで解決」みたいな展開もままありますが、何処にどのくらいの核爆弾を打ち込めばよいのかを示すのが科学者になります。

 時間をかけて研究を行い、多くの人の手で検証を行うといった手順をすっ飛ばしてずばりと正解を導き出す。

 過程を飛ばして結果を出すという意味で、マッドサイエンティストと変わらない科学者像が描かれるのです。

 困ったことに、メディアに露出する現実の科学者も同じように見えてしまうことが多々あります。

 テレビに科学者が登場する番組と言うのは、科学を解説する教養番組か、大きな発明や発見、あるいは珍しい自然現象などを報じる報道番組になるでしょう。

 教養番組ならばともかく、報道番組では結論を簡潔に明言することが求められます。科学者が重要な途中過程を丁寧に説明したり、まだ別の可能性があることを細かく説明しても、編集でスパッと切られるでしょう。

 芸能人に対してテレビに映る明るく楽しく前向きなイメージを持つのと同様に、科学者には分かり易い正解をきっぱりと言い切るイメージが付きまといます。

 芸能界の舞台裏とか芸能人のプライベートなどと違って、科学者の日常などと言う地味なものには需要がありません。

 こうして、「科学者」に対してマッドサイエンティストと大差ないイメージが残り続けるのです。


 オカルト系の物語で、「科学で説明できないことはない!」みたいなことを言って超常現象を否定する頭の固い科学者が登場することがよくありますが、これもマッドサイエンティストのイメージに近い科学者です。現実には存在しません。

 科学者の仕事は既存の科学では説明できないことを研究して説明できるようにすることです。科学で説明のつかないことが無くなってしまったら、科学者の仕事も無くなってしまいます。

 また、科学者であっても専門外の事柄に関しては素人と大差ありません。

 例えば、「幽霊なんて存在しない」と科学者として主張できるのは、幽霊の研究を長年続けて来た人です。そうでなければ、「門外漢が何を言っている!」という扱いになりかねません。

 まあ、門外漢であってもちゃんとした根拠や証拠を示して議論に参加することは可能なのですが、真面目に研究してきた人ならば「存在しないこと」を証明する難しさを知っているはずです。

 いわゆる、「悪魔の照明」になってしまいます。

 幽霊の実在を証明するならば幽霊を捕らえれば良いだけですが、存在しないことを証明するには個別の目撃情報を全て否定できたとしても足りません。

 幽霊が存在し得ないことを説明する理論を構築し、その理論が正しければ本当に幽霊が存在しないことを証明し、その上で理論が正しと言い切れるだけの証拠を見つけ出さなければなりません。

 どれひとつとっても容易なことではありません。

 その果てしなく面倒な作業をすっ飛ばして、結論をズバリと言い切ってしまうのがマッドサイエンティストなのです。

 ついでなのでもう一点。

 マッドサイエンティストの定番(?)として、「異端の研究を行って学会を追放された」などという設定がありますが、これもあり得ません。

 学会って、研究内容を発表したりして研究者が情報共有を行う場です。個別の研究者の研究テーマにまで口出しする権限はありません。その権限があるのは、大学や研究機関で研究費を出す立場の人間です。

 査読のある論文の掲載ならばともかく、学会での発表に内容による制限はありません。学会員ならば学生でも発表できます。気に入らない人間を排除することはできません。

 もちろん発表した内容に関する批判や反対意見はあるでしょうが、それは誰でも同じこと。

 むしろ、誰もが同意する当たり前の学説よりも、俄かには信じられずに喧々諤々の議論が巻き起こる驚愕の学説の方がよほど価値があります。

 ちょっとした批判にも耐えられずに逃げ出す、メンタルの弱いマッドサイエンティストってどう思います?

 なお、本気でくだらないと思われた学説、議論する価値すらないと思われた発表は、批判すらされずに黙殺されます。


 以前、「NHKスペシャル アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え」という番組を見ました。

 相対性理論で有名なアインシュタイン博士は、死後その脳が標本として保存されていたそうです。

 その脳が現在どこにあるのか分からなくなっていて、その行方を追うという番組でした。

 私が気になったことは、番組のナレーションで「アインシュタインの脳さえ見つかれば天才の秘密が明らかになる!」みたいなことを主張していたことです。

 肝心の「脳」を詳しく調べる前から、脳に秘密があると決めつけています。

 これは、アインシュタインは天才科学者だから、脳の構造が凡人とは違うはずだという思い込みであり、ある意味天才科学者を人間扱いしていません。

 アインシュタイン博士は宇宙人ですか?

 今の脳科学では、脳の構造を見ただけで「これこそが天才の秘密だ!」などと言いきれるとは思えません。

 一般人との違いがあったからと言って、それが天才的な思考を生み出した原因になっているか、それともむしろハンデになっていてそれを克服して偉業を為したのか区別がつくでしょうか?

 それに、本人の努力や苦労を無視して、「頭の作りが違うのだからすごいことができて当然」みたいな考え方は個人的にすごく嫌です。

 この手の偏見は様々なところに見られます。

 単なる職業の一つでしかない科学者を、人外とまではいわなくても自分とは違う種類の人間と思っている人はいませんか?

 受ける授業を選択する大まかな分類でしかない文系/理系の区別を、人間の種類の分類に使っていたりしませんか?

 理系だからなんでもかんでも理屈をつけて考えるはず、みたいな偏見に満ちた人物像を誇張して描いたのが、アニメ化もされた「理系が恋に落ちたので証明してみた。」という漫画でしょう。

 これは、実際にはあり得ないレベルの誇張です。

 例えば、漫画等で松尾芭蕉をイメージしたキャラクターに日常会話を全て七五調で喋らせるような作品があります。これは俳人を連想させるための極端な誇張であり、本当に松尾芭蕉やその他の俳人がそんな喋り方をすると思う人はまずいないでしょう。

 科学者や理系の人間が日常のあらゆる物事に理論や数式を持ち出すような誇張も、これと同レベルのあり得ないことなのです。

 でも、「誇張されているだけで、理系の人間はやっぱり理屈っぽかったり、何かと計算する人なんじゃないの?」みたいに考えている人もいるのではないでしょうか。

 それは科学者を同じ人間と思っていない種類の偏見なのです。


 私は『科学は悪か?』でNHKの「フランケンシュタインの誘惑」という番組に突っ込みを入れまくりましたが、それは科学者に対するステレオタイプを強烈に感じたからです。

 番組で主張された科学者に対する非難から逆算して、あるべき科学者の姿を考えてみましょう。

 研究内容に関しては何一つ間違ってはいけない。

 研究成果に関連することは、他人がやっていて権限のない事柄に対してまで責任を負わなければならない。

 法律に従うのは当然として、後の時代の(番組が想定する)道徳や倫理にも従う必要がある。

 政治的野心も、金銭的欲望も、名誉を欲する心も持たず、穏やかな人格者でなければならない。

 そんな人間いますか?

 特に第二次世界大戦前後のドイツの科学者に対しては、「命をかけてナチスに逆らった正義の使徒」か「ナチスに迎合した人殺しの手先」のどちらかしか認めないような論調が見受けられます。

 だから功罪両方ある科学者に対しては「二面性がある!」みたいに言います。

 そもそも、二面性の無い人間なんていると思いますか?

 それに、「功績を上げたから善人」「悪事に関係したから悪人」と結果から人格まで想定してしまっているから二面性になってしまっているのです。

 例えば、ハーバー博士の場合、空気から肥料を作った功績も、毒ガス兵器を開発した罪も、「祖国に貢献するために頑張った」という軸で見れば一貫していると思うのです。

 科学者に限らず、歴史上の偉人は完全無欠な人物像や、一面的なイメージが付きまとうものです。

 そこに人間的な側面を紹介することで意外性を感じて番組が盛り上がります。

 つまり、そんな番組が成立するほどに、科学者には人間的な側面が無いだろうという固定観念があるのです。


 さて、話を科学に戻します。

 科学そのものに関しても、科学と技術の混同以外にも多くの誤解があります。

 例えば、「科学は神を否定する」というのは誤解です。

 そもそも、科学的に神を否定するためには、まず「神」を定義しなければなりません。

 ちゃんとした定義も何もなく、人によって言うことがバラバラな対象を否定することも肯定することも科学的にできるはずがありません。

 神話で語られる出来事の一部を起こり得ない現象と言うことはできますが、神の存在そのものを論じることは科学の範囲外なのです。

「神を考える」でも触れましたが、基本的に神を持ち出すとそれ以上考えることを止めてしまいます。

 科学は人の頭で考えられる範囲しか取り扱わないので、思考を停止するための神は取り扱っていないのです。

 人の頭で完全に理解できる神様って、親近感は沸くかもしれませんが、ありがたみは減ると思いませんか?


 また、「科学で解明できない超常現象」などと言うこともありますが、これも違います。

 超常現象と呼ばれるのは、科学で解明されていない現象ではなく、常識的にあり得ないと思われる現象のことです。

 科学的に説明できる現象であっても、それを知らずにあり得ないと思えば超常現象扱いされます。「こっくりさん」などは明治時代に井上円了が仕組みを看破していますが、いまだに心霊現象扱いする人は多いです。

 逆に、科学で解明されていない現象でも、それが当たり前だと思えば超常現象とはみなされません。

 二足歩行を工学的に再現できるようになったのは二十世紀の終わりごろですが、人が二本の足で歩けることを超常現象だと思った人はいないでしょう。

 どこぞの地方には決まった手順でフグを漬物にすること毒が抜け、フグの肝まで食べられるようになるのだそうですが、なぜ毒が無くなるのかは科学的に解明されていません。これ、超常現象だと思いますか?


 科学に関する誤解でよくあるのが、分野や対象によって科学か非科学が決まると言うものではないでしょうか。

「○○なんて非科学的なこと」のような言い回しはよく聞きますが、これ実は間違っているのです。

 本来、何を研究対象にするかで科学か科学でないかが決まることはありません。自然現象を研究すれば自然科学、人の行動や活動に関する研究は人文科学にと呼ばれるだけです。

 例えば、魔法を科学とは相容れない存在であるとする物語はよく見かけます。

 けれども、魔法を科学的に否定した人はいません。

 神様の不在を証明できないのと同様に、魔法を科学的に否定するためには魔法とは何かを明確に定義しなければなりません。

 そもそも、「魔法」と言う言葉には「本来不可能なことをどうにかする都合の良い何か」みたいなニュアンスがあります。

 無茶な要求に対して「そんな都合の良い魔法はない」とか、不可能に思われたことをやり遂げると「どんな魔法を使ったんだい?」みたいな言い方をします。

 この場合、「魔法」は実在しないことが前提だから否定する意味もありません。

 実在する技術としての魔法が存在するのならば、それは科学の研究対象になり得ます。

 物理現象を引き起こす魔法ならば、物理学。

 人の精神に作用する魔法ならば、心理学や脳科学。

 人の身体に作用する魔法ならば、医学や生理学。

 過去の魔法使いの社会的役割などに関しては、歴史や民俗学。

 研究して解明できる保証はありませんが、研究してはいけないという決まりは科学側にはありません。


 しかし、科学的な研究があまり行われない分野は確かにあります。

 科学者も人の子ですから、報われない研究はやりたがりません。

 例えば、アメリカでUFOが大きな話題となった際に、コロラド大学による調査が行われています。

 結果として、UFOが地球外から来た証拠はない、という結論で終わっています。

 科学者の調査としては妥当な結論です。確証も無しに安易に憶測で断定することはできません。

 しかし、明確な回答を期待していた一般の人々は満足しません。

 特に狂信的なUFO信者は自分たちのの望む回答以外は認めません。

 本当のUFOは未確認飛行物体、つまり空を飛ぶ正体不明な物であるのに、UFOと言えば宇宙人の乗り物の事みたいな認識が一般に広がってしまいました。

 この結果、科学者は真面目に仕事をしたのに世間からは認められず、変な陰謀論に巻き込まれて嘘つき呼ばわりされるのです。

 こんな仕事、やりたがる人はなかなかいないでしょう。


 心霊現象なども科学とは相容れない分野のように思われるかもしれませんが、科学で研究してはいけないということはありません。

 十九世紀のヨーロッパでは交霊術が流行り、交霊会も数多く行われました。

 この交霊会に科学者が乗りこんで、しかしトリックを見つけることができずに、「何か未知の力が働いているに違いない」みたいな考えに至ったという話もあるそうです。

 実は、霊媒者による心霊現象や超能力者による様々な奇妙な能力のように、特別な人間の引き起こす不思議な現象は科学では扱い難いものです。

 科学者はある意味疑うことが仕事です。

 常識を疑い、これまでの通説を疑い、他人の研究結果を疑います。

 しかし、意外と人は疑いません。

 他人の実験や観測の結果に、ミスや勘違いや別の要因が含まれるのではないかと疑っても、実験や観測を行ったことが嘘だとは疑いません。

 そこまで疑っていると研究が進まないからです。

 だからこそ、実験データ等研究の捏造は大問題になります。

 しかし、特別な人間だけが起こすことのできる特別な現象となると、必ずトリックを用いた詐欺師が入り込んできます。

 金や名声のために超常現象を演出する者、霊感があるとか超能力者だとか言われて引っ込みがつかなくなった者、もしかしたら超常現象だと信じて無意識にトリックをやっている人もいるかもしれません。

 UFOやネッシーの写真や動画にも必ず偽物が入り込みます。

 無意識に行っているものならばまだしも、意図的に人を騙そうとするトリックを見抜くことは科学者の得意分野ではありません。

 そして、トリックや偽物を暴いたところで、科学的な意義はほとんどなく、科学者の業績にもなりません。

 科学で取り扱わない分野や対象は、科学で解明できない現象のことではなく、科学者が興味を持たない、あるいは科学以外の部分で障害が多くて研究が進まないように分野です。

 科学者だけでなく研究費を出す側の思惑もあるので、社会的に怪しいとか役に立たないとか思われる事柄に関しても科学の研究はなかなか進まないものです。


 科学の反対の言葉は何かと聞かれたら、「オカルト」と答える人も多いのではないでしょうか。

 しかし、この「オカルト」という言葉もよく分からないままに使われている言葉だと思うのです。

 心霊現象や神秘的な現象をオカルトと呼ぶことはまあ良いでしょう。

 超能力をオカルト扱いする場合もあります。超能力は超心理学という科学の分野のはずなんですけれど。

 UFOをオカルトと呼ぶ場合もあります。本来の未確認飛行物体としての意味はともかくとして、宇宙人の乗り物としてのUFOは「地球よりもはるかに進んだ科学技術の産物」と考えられていたはずです。

 真面目に考えると何をオカルトに含めるかは難しい問題です。

 まあ、一般には雑誌「ムー」に掲載されたらオカルトで良いのかもしれませんが。

 元々オカルトは「隠されたもの」という意味の言葉が由来になっているそうです。

 表面的に現れる事象、はっきりと目に見える世界を扱うのが科学(サイエンス)

 その裏に隠された真実、目には見えない世界を扱うのがオカルト。

 そんな感じに役割分担されて、相補的に世界の真理を探求していく、というのが本来の姿だったのだと思います。

 おそらく哲学なども「思索によって世界の真理に至る」みたいな感じで同じところを目指していたのだと思います。

 ただ、哲学は早々に「世界の真理」みたいなものは諦めて、「人はどう生きるべきか」といったテーマに切り替わっています。

 科学(サイエンス)とオカルトの関係は、科学や技術の進歩によって崩れました。

 宇宙の神秘だった天体の運行は、重力の概念により地上の物体と同じ方程式で扱えるようになりました。

 悪霊の仕業扱いだった伝染病も、細菌の発見によって感染の仕組みが明らかになりました。

 見えない光であるX線が発見され、レントゲン写真により可視化されました。

 こうして、オカルトの取り扱っていた内容がどんどん科学(サイエンス)の側に移って行きました。

 オカルトに残ったのは科学者が手を出したがらない、例えば人を疑わなければならないような代物です。

 科学(サイエンス)に移行しなかったのは、確認することができない不確かなものや、詐欺師が跋扈する怪しげなものばかりだったのでしょう。

 そして、不確かで怪しげなものの割合が多くなったオカルトに、元々はオカルトでもなんでもなかった怪しげなものが次々と流入したのです。

 これは、オカルトにとって不幸な出来事でしょう。

 見えない世界を扱うオカルトの知識は、明確に表面に現れず検証が難しい分、慎重に取り扱う必要があります。

 誰かの思い付きや願望をそのまま鵜呑みにするのではなく、むしろ科学(サイエンス)よりも厳しい批判の目と深い考察が必要になると思うのです。

 そういったことを主張できる人は、そのまま科学の方に移ってしまったのではないでしょうか。


 さて、ここでもう一度最初の問いに戻ります。


 科学とは何か?


 科学が知識や知識の体系であることは間違いないでしょう。

 しかし、その知識の分野や対象で科学か科学でないかが決まるわけではありません。

 さらに、その知識が正しいかどうかで決まるものではありません。

 最先端の科学なんて、しょっちゅう覆っています。

 それでは、科学と非科学を分けるものは何なのでしょうか?


 私は、科学とは「パブリックな知識」のことだと思います。

 つまり、誰にでも公開されていて、誰もがその正しさを検証して良くて、誰でも異説や新説を唱えることができる。

 誰が唱えた説であっても、多くの人に支持されれば通説となって世界中で共有される。

 そういう知識のことを科学と呼ぶのだと思います。

 逆に、科学ではない知識とは、特定の個人や集団の中だけで共有される知識の事です。

 例えば、ただ一人、あるいはごく少数の天才のみが理解できる理論などと言うものは、どれほど正しくても科学とは呼べません。下手をするとその天才の言葉を無条件で信奉する宗教のようになってしまいます。

 企業秘密や軍事機密なども科学ではありません。科学的な用語を多用し、既存の科学知識を利用していても、秘密にしている部分は科学ではないのです。

 科学全盛で情報の伝達や共有が簡単に行える現代で、広く共有しない知識と言うものは主に二種類あると思います。

 一つは公開しないことでメリットがある場合です。

 企業秘密や軍事機密などは、知識を独占することによりライバルに対して優位に立つためのものです。

 先祖伝来の秘伝の製法とか、「松茸の生えている場所は家族にも教えない」とか、秘匿される知識は色々とあります。

 異世界に行って現代の科学技術を再現して大活躍する物語はよくありますが、知識を独占することで優位に立つという意味でそれは既に科学では無かったりします。

 もう一つは、そもそも共有することが困難な知識です。

 言葉で伝えることのできる知識ならば、共有することは難しくありません。文書として残しておけば後世にまで伝えることも可能です。

 しかし、言語化できない知識、体験しなければ理解できないような知識は広範囲に共有することが難しいのです。

 体を使う技術に関しては体験しないと分からないものも多くあります。ノウハウ(know-how)が言葉で説明できる技術や知識を指すことが多いのに対して、コツと言うと言葉で説明できないものの場合が多いです。

 また、禅宗は仏の教えの中でも「言葉にならない教え」を伝える宗派なのだそうで、そのために数多くの言葉を費やし、更にそれを否定します。禅問答というやつです。

 そういった言葉では伝わり切らない知識や技術は、指導者を付けて体験する必要があるため広がり難いですし、一度途絶えると再現が困難になります。


 特に秘密にする必要もなく言葉で伝えることのできる知識でも、広く共有して科学として扱われていないものもあるでしょう。

 そういった知識は科学として探求する必要性を感じる人が少ないのでしょう。

 けれども、予想外なものを研究している科学者は意外といたりします。


 科学の強みは、誰でも参加できるという数の力にあります。

 重要なことは、この「誰でも」という部分です。

 国も、人種も、文化、宗教、性別、年齢、職業、社会的立場等に関係なく、科学者である必要もなく、誰でも自由に参加できる知的探求。それが科学です。

 逆に言うと、立場も考え方も違う様々な人を全て納得させるだけの普遍的な真実を見出して行く必要があるということです。

 ここで勘違いしてはいけないことは、多数決で真実が決まるわけではないということです。

 誰でも自説を主張できますが、客観的な根拠や明快な理論によって他人に判るように説明する必要があります。

 他人の説に賛同することも反対することも自由ですが、こちらも同様に客観的な根拠や明快な理論によって賛否を主張しなければ意味がありません。

 ただ感情的に「賛成」「反対」の意思表明をしたところで、それは学説に対して賛成したことにも反対したことにもならないのです。

 その説の内容を正しく理解し、その説の欠点問題点矛盾点などを指摘して初めて反対することができます。

 その説が正しければこれまでの謎や疑問が解消したり、理解が進んだりすると認めて初めて賛成する意味があります。

 中身を知ろうともせずに騒いだり、その成果をただ利用するだけの外野は数の内に入りません。

 だから、公開され、共有される知識でもその範囲が狭いとあまり大きな進展は期待できません。一族秘伝の技術などと同じレベルです。

 しかし、交通が発達して離れた地域との交流が盛んになり、印刷技術などにより知識の共有が容易になると参加者が増加します。

 また、知識が技術として応用され、生活の役に立ったりお金を稼げたりすれば興味を持つ人が増えて、研究者も増加します。

 こうして知識の共有と活用が進むにつれて、科学は加速度的に進歩して行ったのでしょう。

 広範囲の人に共有され、様々な人が議論に参加するようになると、全ての人を納得させることが難しくなってきます。

 特定の地域や宗教の中では常識だったり前提だったりすることが、別の国や文化では当たり前ではなくなります。

 様々な考えを持つ人々全てを納得させるために証拠を探し、自説の不備を探して修正し、疑問に対する回答を用意します。

 こうして試行錯誤と切磋琢磨を繰り返した後に、誰もが認めざるを得ない有力な説が残ります。

 科学だから正しいのではありません。

 ちょっとでも疑問があれば多くの人が検証を繰り返して一番正しそうな説が残っただけなのです。

 だから、科学の知識は丁寧に勉強して行けば誰でも理解して納得できるようになっています。

 ただ、現在の科学の知識は量が多すぎて全てを理解するには時間がかかり過ぎるだけです。

 論理というのは小難しいことではなく、誰が見ても正しいと判る簡単なことを積み上げて、複雑で難解なものを理解する方法なのです。

 難解な理論でも科学者だけが理解できる特別なものではありません。誰にでも理解できることなのです。

 理解できなかったとしても、それは頭が悪かったからではありません。やる気か根性が足りなかったから、もしくは教え方に問題があったからです。


 科学の強みが数の力である以上、議論に参加する人数が極端に減った時が科学の終焉でもあります。

 もしも理論が複雑になり過ぎて、一生かけてもほとんどの人が理解できない理論は多人数による十分な議論ができず、検証が不十分になります。そこが科学の限界になるでしょう。

 ただ、科学の理論と言うものはなるべく単純明快な理屈で多くの事柄を説明できることを目標とします。

 ニュートン力学は三つの法則であらゆる物体の様々な運動を記述します。

 マクスウェルの方程式は四つの式であらゆる電気と磁気の現象を説明します。

 物理学の大きな目標の一つが、物理学で扱う四種類の力をまとめて説明できる「万物の理論」と呼ばれるものです。

 最新の科学というと複雑で難しいものを想像するかもしれませんが、別々の事柄と思われていたものが同じ理論でまとめられたり、複雑だと思われていたことが簡単なことの組み合わせで説明できるように単純化されたりします。

 科学の進歩によって単純化された良い例が地動説でしょう。

 天動説では惑星の動きが無茶苦茶複雑です。逆行したりすることもそうですが、黄緯(黄道からのずれ)はかなり複雑な振動をします。

 だから天動説では惑星は地球の周りを回転運動(従円)しながら、その軌道上でも回転運動(周転円)し、さらにその軌道自体も複雑に揺れ動きます。

 それが地動説になると、地球もその他の惑星も太陽の周囲を楕円軌道で回るだけのシンプルなモデルになります。

 必ずしも単純明快な理論に向かうとは限りませんが、科学者はより簡潔な理論、あるいは簡潔に表現できる手法を考え続けるでしょう。

 おそらく理論が難しくて科学が行き詰まることは無いと思います。

 科学が衰退するとすれば、人々が好奇心や探求心を失い、正しいと云われていることを何の疑問も持たずに受け入れるだけになった時でしょう。


 世の中には「科学教」などと言う人がいます。科学や科学の成果を妄信する人を揶揄する言葉です(他に意味で使っている人もいるかもしれませんが)。

 しかし、この言葉は非常に失礼だと思うのです、主に宗教関係者に対して。

 だって、「科学は正しくて宗教は間違っている」という認識があるからこそ、「科学教」という言葉で相手を貶めることができるのですから。

 けれども、「科学だから」と何も考えずに無条件で正しいとしてしまう人に対しては、「それは科学では無くて宗教か何かではない?」と感じてしまいます。

 本当は宗教だって、聖典に書かれたことや教祖の言葉をただ無条件に従うのではなく、その言葉の真意を考え、今の社会や実生活にどう当てはめていくかを試行錯誤するものではないでしょうか。

 本来、科学は信じるものではありません。

 どれほど権威のある偉い人の言葉でも、好きなだけ疑ってかかってきたからこそ進歩してきたのです。

 科学の正しさは、様々な角度から異論を唱え、疑問をぶつけ、議論と検証を行って来た積み重ねの結果から来ています。

 だから、最新の科学はだいたい間違っています。

 完全に否定されなくても、修正されたり一部否定されることはよくあります。

 例えば、宇宙の年齢は何度も更新されています。

 そもそも、昔は宇宙は始まりも終わりもない永遠不変の存在と考えられていました。

 宇宙全体が膨張や収縮することを理論的に示したのは一般相対性理論でしたが、アインシュタイン博士自身は永遠不変の宇宙を信じていました。

 後に「生涯最大の間違い」と語った「宇宙項」は定常的な宇宙を導くために導入されたものです。

 宇宙の膨張を発見したハッブル博士は、最初に宇宙の年齢を20億年と計算したそうです。当時知られていた地球の年齢よりも短く、当然間違いです。

 その後、宇宙の年齢として80億年から200億年くらいの範囲の数値を見たことがありますが、観測技術の進歩によって137億年という数値が出てきました。これでほぼ決まりかと思っていたら、今は138億年になっています。

 今後も新しい理論とか、新しい発見とかがあればこの数値が変わる可能性はいくらでもあるのです。

 こうして何度でも疑って検証して新たな視点から議論を繰り返す過程を経ることでより正しい答えに近付いて行く、それが科学のやり方です。

 発表した時点からほぼ完成形だったニュートン力学や相対性理論も、様々な角度から検証されています。

 検証は一度や二度で終わるものではありません。技術が進歩して精度が上がれば何度でも、あるいは新しい方法や別の条件を思いつけばその度に検証は行われます。

 そうした検証作業は現在に至るまで行われ続けています。決して「天才の言ったことだから正しいに決まっている」と無条件で受け入れられたわけではありません。

 その検証の過程を飛ばして「これが正解」と断定する行為は、どれほど科学っぽい用語を使用していても科学ではありません。

 それを疑似科学と呼びます。

 SFで使用される疑似科学は「こういう理論でこんな現象が起こるとしたら」「こんな技術が実用化されたら」という発想で作られた物語(フィクション)です。

 物語の中では検証が十分に行われた後という設定でしょうが、「最新の理論では○○○だから、×××」などときっぱりと言い切ってしまうのは疑似科学かマッドサイエンティストです。

 フィクションとして分かってやっている分には疑似科学でも問題ありません。

 しかし、現実の問題に疑似科学を持ち込まれると困ってしまいます。

 疑似科学と言うものは、どれほどよく考えられていても最初に提唱した時点での科学の仮説以上のものではありません。

 つまり、だいたい間違っています。

 それに、疑似科学には「こうだったら都合が良い/面白い」といった願望のバイアスがかかっていることが多いのです。

 科学の理論でもそうした願望が入っている場合も多々ありますが、別の考えを持つ人と議論を重ねることで単なる思い込みの部分は修正されて行きます。

 けれども、疑似科学では間違えていたら間違えっぱなしになります。

 特に「こうであって欲しい」という願望から生まれた「説」は、不備や不具合から目を逸らして固執する事もよくあります。

 例えば、「相対性理論は間違っている!」という主張をする人がいますが、その中には「光の速度を超えられなければ、宇宙旅行ができないじゃないか!」と考えている人がきっといるでしょう。

 こうした、願望を満たすための説には、同じように願望を満たしたいと思う人が集まります。その多くは科学者でも地道に科学の探求を行おうとする者でもなく、ただ科学の成果を享受するだけの人です。

 それは疑似科学に限りません。後に病的科学と呼ばれるようになった「常温核融合」の騒動では、追試に成功したという報告が相次ぎました。

 それでも、常温核融合は科学の研究として行われていたので、批判や懐疑の目を持って当たる人が大勢いました。結局、発表された研究内容も、成功したと主張する追試も核融合の発生を証明するには至りませんでした。

 実はこれ、常温核融合という現象が否定されたのではなく、懐疑的な人を説得できるだけの十分な証拠を出せなかったというだけのことです。なので、今後もし常温核融合が確実に発生すると確認されたとしても、この時の判断はひっくり返りません。

 しかし、疑似科学の場合、特に科学の議論に堪えない稚拙な理論に対しては、まともな科学者は相手にしません。

 批判的な意見に晒されず、様々な角度からの検証が行われなければ、間違えや不具合は見逃され、たとえ正しい考えだったとしても、さらなる応用や発展が制限されることになります。

 そして、深い知識を持つ専門家を納得させるきちんとした理論や研究ではなく、素人を丸め込む雑な例え話や詭弁に終始することになります。

 これ、本人が疑似科学をするつもりが無くても、否定的な人とのまともな議論を避け、簡単に言いくるめられる人とばかり相手にしていると陥りやすい状況です。

 新興宗教やカルトなどでもそうなのですが、無条件で肯定する人ばかりが集まるととんでもないことでも信じ込んでしまう者です。「みんなそう言っている」から、深く考えずにそれが当たり前になってしまうのです。

 科学的な用語を使っていても科学とは呼べない理屈を展開し、現実離れした結論を導き出す。

 考えることを止めてしまった人は、そんなとんでもない理屈をあっさりと受け入れてしまいます。

 本人は考えているつもりでも、素人を丸め込む詭弁や穴だらけの理論を鵜呑みにしているだけの場合もありがちです。

 世の中には詳しく説明しても、「難しくてわかりませんでした。でも○○だから××だと思います。」みたいな発言をする人もいます。ネット上で実際に見かけました。他人の話を聞かずに自分の主張を繰り返すだけの人とは、議論が成立しません。

 何が正しいかではなく自分が信じたことを優先し、それが「正しくなかったら困る!」みたいな状態になったら科学とは別のものです。信じることを前提にしたら、それは信仰です。

 一般的にはとっくに否定された、あるいは証明できていない学説を正しい「科学」と信じ、反対する意見を受け付けない人々は、外から見れば宗教のように見えます。

 この手の疑似科学にはまった人が自分たちの主張を認めない世間や科学者に対して「既存の学説に固執している!」とか「科学教だ!」みたいに主張したりすると、滑稽で皮肉な話だと思います。


 しかし、ちょっと気を付けてください。

 果たして私達は、不可思議な理論を信じ込んでしまった人たちを笑えるのでしょうか?


 奇妙な理論を主張する人が少数で、中心となる人物が目立つ特定の人ならば分かり易いでしょう。

 けれども、いつの間にか一般に広まって、「みんなそう言っている」状態になってしまった大嘘をどれだけの人が見抜けるでしょうか?

 科学の分野は幅広く、各専門分野は多くの人が時間をかけて深く研究されています。

 一人でその全てに精通することはまず不可能でしょう。

 一流の科学者であっても、専門外の事柄については正しい知識を持っていると限りません。

 まして、専門家でも何でもない一般人には何が正しいのか判断の付かないことも多いでしょう。

 知らず知らずにとんでもない勘違いを「これが科学だ!」とか思いこんでいる可能性は十分にあるのです。

 世の中には大嘘や勘違いが溢れています。

 低温下で電気抵抗が0になる現象を「超電導」と表記しているものをよく見かけます。あれは正しくは「超伝導」です。電気が抵抗なく流れるだけの現象ではありません。

 テレビ番組で「アインシュタインの理論が原爆を作った」と言っているものがありました。確かに特殊相対性理論は核分裂によって発生するエネルギーの出所を説明することができます。

 しかし、相対性理論やその数式をどういじくっても原爆の作り方は出てきません。

 原子爆弾を開発するために必要となるのは、どんな物質をどうすれば核分裂を起こすのかという知識と、核分裂を連鎖的に起こさせるための理論です。

 皆さんは、ヒッグス粒子が発見された時のことを憶えているでしょうか?

 ヒッグス粒子は質量の起源とされ、その発見は研究者だけでなく広く一般にも話題になりました。

 この時、ヒッグス粒子の説明としてよく行われていたのが、「ヒッグス粒子が物質に纏わりついて動きを阻害することで質量が生まれる」と言うものでした。

 この説明、大嘘です。

 そもそも、質量がある(つまり「重い」)ということは、動き難くなるだけでなく、止まり難くもなるのです。動きを阻害する摩擦のような性質では説明しきれません。

 素粒子物理学で重力以外の力を統一した「標準モデル」が完成するまでには相当な苦労があったそうです。

 その中で解決しなければならない問題の一つに「どうして素粒子は質量を持っているのか?」と言うものがありました。

 理論上はあらゆる素粒子の質量は0になってしまうのだそうです。しかし、現実には光子以外の素粒子には質量があります。

 そこで、本来質量を持たない素粒子がどうやって質量を獲得するかというプロセスが研究されました。

 そんな中、「こんな性質を持った『場』が存在すれば、色々と辻褄が合う。」という考えが出てきて、それが「ヒッグス場」なのだそうです。

 最初は、「そんな都合の良いものがあるわけがない」と思われていたようですが、研究が進むうちにだんだんと現実味を帯びてきて、ヒッグス粒子が発見されたことで存在が確認されました。

 素粒子物理学では『場』が存在すれば対応する粒子も存在することが当たり前になっているので分かり易い「ヒッグス粒子」が話題になりましたが、「ヒッグス場」の方が重要だったようです。

 こういった経緯で、ヒッグス粒子の発見により標準モデルが完成して、素粒子の質量に説明が付くようになりました。

 けれども、この長ったらしい説明を一般向けのニュースで行うのは難しいということで、「ヒッグス粒子が質量の起源である」という部分だけ伝わるように解説した結果なのでしょう。

 大嘘なのですが。

「ヒッグス粒子を下から上へ流すことで質量を消し、反重力を実現する!」とか言われたら信じてしまう人もいるのではないでしょうか。

 大手メディアであっても、こうした大嘘や嘘でなくても誤解を招く報道を平気で行います。

 それは、素人の読者や視聴者にも分かるように、あるいは()()()()()になれるように工夫した結果です。

 難しい最先端の科学を、素人にもすっきりわかる簡単な解説が行われ、その理論から導かれる未来像や応用技術を断定的に言い切っていたら注意しましょう。

 そこにはおそらく、様々や簡略化や比喩表現、科学者以外の人間が行った推定や妄想が混じっています。

 下手に分かった気になって、理解したと思った理屈を展開していくととんでもない結論にぶっ飛んで行く恐れがあります。

 とんでもなくぶっ飛んだ考えでも、素人向けの解説を素人の理論でいじくって素人好みの結論を出すのです。

 素人でなくても、専門外の人が深く考えなければ正しいものだと信じ込んでしまっても不思議はありません。

 気付かないうちに疑似科学の信者になっている可能性は、誰でもあるのです。

 うっかり信じ込んでしまったとしても、そこで思考停止に陥らないように気を付けたいものです。

 真っ当な科学の議論もできないのに、受け売りの知識を披露して「これが科学だ!」などと主張するのは、とても恥ずかしいことだと思うのです。


「悪魔の証明」

悪魔の存在を証明するにはデーモン閣下を連れて来ればそれで終わる。

だが悪魔が存在しないことを証明するためには、閣下が悪魔ではないことを証明してもそれで終わりではない。

閣下がどれほど善い人かを力説したところで、閣下よりも悪い悪魔が存在することを否定できないのだから。

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