異世界考
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異世界とは何か?
一言で言えば、「ここではないどこか」のことだと思います。
今自分のいるこの世界には無い何かがある、あるいは逆にこの世界にあって私たちの行動を制限する何かが存在しない。登場人物を自由に動かすために都合の良い舞台、それが異世界です。
世界の「世」の字は、元々三十を表す漢字が元になっているのだそうです。三十を表す漢字は、「丗」や「卅」になります。
一人の人が中心となって活躍するのはだいたい三十年なのだそうです。三十年経てば世代が交代する。だから「卅」を元に「世」の字が作られたのです。
つまり、世界の「世」の字は、時間的な範囲を表します。
一方、世界の「界」の字は、「田」が入っていることからも分かるように、空間的な範囲、その境界を意味します。
世界とは、時間的空間的な範囲を表す言葉なのです。その範囲の外にあるのが異世界です。
おそらく、「世界」の範囲は人が認識する範囲だと思います。
昔の人にとっては「世界」は狭いものだったでしょう。多くの人にとって、山の向こう、海の向こうは何があるかも分からない未知の異世界です。
時間的にも百年も昔ならば、一部の歴史を知る者以外は伝説・伝承などの昔話の世界でしょう。今とがらりと様相の変わった未来なんて、妄想の領域です。
昔の日本では、山の中は異界でした。里の常識が通用しない、山の独自の掟が支配する別世界だったのです。
橋は異界の入り口でした。多くの場合、川は別の国、別の領地との境であり、一度越えたら戻って来れない危険性もある場所だったのです。
やがて人々の交流が活発になり、遠く離れた場所の情報や産物が入って来るようになると、同じ世界として認識されるようになります。こうして世界は少しずつ広がって行きます。
そして、世界が広がるにつれて、異世界はより遠くの辿り着くことが困難なところへと移って行きました。
昔話などでも異世界と解釈できるものは多くあります。
例えば、「桃源郷」などはある種の異世界です。
中国では桃には破邪の力あるとされ、桃の木に囲まれて俗世の邪気から隔離された隠れ里的な存在が桃源郷です。
桃源郷は老子の思想における理想社会を体現しているのだそうです。
秦の始皇帝の圧政から逃れた人々の住む隠里で秦が滅んで漢が興ったことも知らなかったというあたり、「鶏の鳴き声が聞こえるほど近くにいても互いに行き来することがない」という自給自足の小さな社会になぞらえているらしいです。
桃源郷から戻って来て、もう一度行こうとしても二度とたどり着けなかったというあたりが異世界っぽいです。
日本でも、浦島太郎の「竜宮城」などは「絵にもかけない美しさ」という別世界で、さらにウラシマ効果の語源となった時間の不整合のような不可解な現象まであります。通常の手段では辿り着けない不思議な場所という意味で異世界です。
竹取物語では、かぐや姫の故郷である月の世界もまた異世界です。空を飛ぶ術のない人々には行き着けない場所であり、帝の軍勢をあっさり無力化する技術だか能力だかを持った連中の住む謎の世界です。
桃太郎の「鬼ヶ島」などは、倒してしまって問題ない鬼ばかりが住んでいて、倒しまくると金銀財宝を手に入れることができるというゲームのような世界です。
時代が進み、人々の行動範囲が広がると、身近なところから異世界が無くなります。山を越えても川の向こうも、海のかなたの遠くの国に行っても文化の差はあれ同じように人が暮らしていることが知られて行きます。
すると、その時代でまだ未知の領域に異世界を求めるようになります。それはアフリカのジャングルの奥地だったり、氷に閉ざされた極地だったり、海底やら地底やらだったりします。
地球上に未開の場所はほぼ無くなったと認識されれば、宇宙空間や別の惑星を舞台とした異世界が登場しました。さらには完全に空間的な繋がりの無い、場合によっては物理法則すら異なる異世界も現れたわけです。
考えてみると、千年以上前に月世界の住人を持ち出した竹取物語はそうとう先進的でした。
SFは現実逃避文学だと言われたこともあるそうです。
スペースオペラというと「宇宙を舞台にした冒険活劇」というイメージが強いですが、元々はSFにおける「ソープオペラ」だという揶揄を込めた意味で作られた言葉だそうです。
ソープオペラというのも日本ではなじみが薄いですが、昔アメリカで放送された連続ラジオドラマのことで、石鹸メーカーがスポンサーになることが多かったためソープオペラと呼ばれたそうです。
Wikipediaで「ソープオペラ」を調べると、「昼ドラ」のページに転送されていました。通俗的なメロドラマをソープオペラと呼んでいたようです。スペースオペラはそのSF版で、陳腐で通俗的な物語といった意味を込めたのでしょう。
また、スペースオペラをホースオペラ(西部劇)の焼き直しとみる見方もあったようです。舞台を昔のアメリカ西部から未来の宇宙に移し、馬の代わりに宇宙船を乗り回し、拳銃を光線銃に持ち替えて、西部の無法者や先住民の代わりにベムや異星人や宇宙の悪党をバンバン打倒して行くわけです。
初期の頃のSFでは、科学の進歩によって世の中が便利になり、不可能が可能になって人類の行動範囲が大きく広がるような明るい未来を描いたものが多くあります。
そうしたどこかの作家や科学者が考えた便利な未来のガジェットと、どこかで聞いたようなストーリーを組み合わせて粗製乱造したものが、悪い意味でのスペースオペラだったのではないかと思います。
そのような安直な物語が量産されたのは、それだけの需要があったということです。重厚な社会的テーマでも、人間心理を深く掘り下げた芸術的な作品でもなく、現実から目を背けてただ明るく楽しい未来社会に浸る。つまりは現実逃避の文学ということです。
ところで、この現実逃避文学が日本でも形を変えて流行っているのではないかと思っています。それが「異世界物」と呼ばれる数多くの作品です。
小説家になろうのサイトでも異世界転生/転移は別枠になっていて、それ以外にも異世界の話は山ほどあります。
どこかで見たような設定、どこかで見たような展開、どこかで見たようなキャラクター、どこかで見たようなチート能力。
そんな話がたくさん作られました。
異世界の話が大量に作られた背景には、異世界物の共通認識が出来上がったからだと思います。
中世ヨーロッパ風の剣と魔法のファンタジー世界という世界設定。
倒すべきモンスターや敵になったり味方になったりする様々な人外の種族。
魔法や異能など、話を盛り上げ活躍するための各種特殊能力。
テンプレ――ありがちな話の展開の型。
作者はこれらの大道具小道具を組み合わせて手軽に物語を作れますし、読者も分かっているから細かく説明する必要もありません。
皆さんも「ざまあ」とか「チート」とかいう言葉を最初に見かけたときに違和感を覚えませんでしたか?
慣れると何となく意味は通じますし、多数の作品で使われるようになるといちいち説明する必要もないという空気になります。
ただ、同じような設定、同じような展開を皆で使い回せば、当然似たり寄ったりの作品ばかりになります。
今でもちょっと流行ると似たようなタイトル、同じようなテーマの話が量産されています。
出だしは目新しいけど中盤になると似たり寄ったりの展開で「もうタイトルと関係ないよね?」みたいになったり、人外転生したけどあっという間に人型になって単なる異能バトルになったりする作品も珍しくありません。
単に趣味に合わないだけではなく、誤字脱字が多すぎたり、話の展開に脈絡が無かったり、理屈が破綻していたりと、読むに堪えない作品に出合った人も多いでしょう。
けれども、数多くの似たり寄ったりの作品の中には非常に面白い作品、何か光るもののある作品は確かに存在します。
拙い文章であっても勢いがあって、人を惹きつける魅力を持った作品。
流行りに乗っかっただけに見えて一点とんでもないアイデアを突っ込んだ作品。
ありきたりなテーマ、見たことありそうな話の展開であっても、共感できる心理描写や飽きのこない文章力で読ませる作品。
スペースオペラが「宇宙を舞台にした冒険活劇」として再定義されたように、優秀な異世界物の作品が拾い上げられ書籍化、コミック化、アニメ化などして一つのジャンルとして確立してきたのだと思います。
まあ、書籍化された作品の中でも玉石混交気味な気はしますが。
さて、いま日本で流行っている「異世界物」の特徴として、まず作者と読者が近いことが上げられます。
「小説家になろう」をはじめとする小説投稿サイトでは売れるかなど気にせずにアマチュア作家が作品を発表できます。また、読者からの反応もストレートに返ってきます。
読者側の願望が結構そのまま作品に反映されやすいのです。
異世界物の小説でありがちな主人公を思い浮かべてみてください。
オタク、いじめられっ子、引きこもり、ニート、社畜、おっさん。
身近にいそうな気がしませんか?
読者に近い、もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない、あるいは将来そうなるかもしれない、そんな人物が主役になっているのです。
そして、現実世界でのしがらみなどから解放された主人公が、異世界で何をするか?
チートで無双、ハーレムを作る、成り上がる、国を作る、スローライフを目指す。
読者の願望が現れていると思いませんか?
チートな能力は苦労することなく他者を圧倒する力を手に入れて大活躍したいという思いの表れです。
魔法などがある代わりに文明が送れていたりするのは、現代社会の知識でチートを行って優越感に浸るため。
また、それが主題でない物語でも料理関連で活躍するエピソードを入れることはよくあります。マヨネーズで無双したり、カレーや唐揚げとかで偉い人を虜にしたりするやつです。
料理は誰にでもできる知識チートです。料理人にならなくても家庭料理くらいならば作れるものです。
現代の便利な科学技術は、知識だけあっても周辺の技術が無ければ実現しないものが多くあります。その点、家庭料理ならば食材があればどうにかなると思えることが多いのです。
この手の話を読んで、マヨネーズの作り方を調べた人もいるのではないでしょうか。マヨネーズは材料を混ぜるだけでできるので、レシピを知っていて材料さえあれば簡単に再現できるものです。
他にも、スローライフなどと言うものは世相を反映しています。色々とストレスの多い現代社会から解放されてのんびり生きたいという願望そのものです。
正に現実逃避の文学です。
もう一つの特徴として、コンピューターゲームの要素が強く入っています。
レベルがあって、ステータスが見えて、スキルがある。モンスターを倒せば経験値が入ってレベルが上がる。
実際の仕事とは無関係に職業が決まっていて、職業によってステータスの傾向や特別なスキル、装備できる武器や防具が決まる。
いずれもRPGのゲームシステムです。
ゲームにおけるレベルやステータスの数値は現実を物凄く単純化しています。現実的に考えれば、身体能力をいくつかの観点から数値化して、それを元に戦闘をシミュレーションするためのものです。
ただし、現実の戦闘を忠実に再現することは放棄し、数値に基く計算をルールとしているのです。
単純なステータスの値では表現しきれない部分を乱数やサイコロで代用し、運のような現実にはあり得ないパラメータなんかも導入しています。
このゲームのシステムを取り入れたことで、物語の異世界は私達の現実の世界とは順序が逆転する部分が出てきます。
例えば、現実の武道ならば修行して実力が身に付いたことを認められて段位が上がりますが、ゲームの世界では条件を満たしてレベルが上がった後に強くなる、と順番が逆になります。
つまり、現実を表現するための数値としてのステータスではなく、数値に合わせた結果が現実として現れるのです。
ゲームのような世界を「努力が報われる世界」という作品もありますが、実際には単純化されたため成果が分かり易いだけであり、また正解が存在することが保障されている世界でもあります。
実際のところ、求められているのは努力が報われる世界ではなく、自分が主人公になる世界です。
また、ゲームにおける職業のシステムも、こういう仕事をしている人はこういったスキルを持っていて、ステータスにはこういった傾向があるはず、という現実を反映させようと考えられたものです。
しかし、ゲームのような世界では、職業に就くことで必要なスキルが得られ、職業に応じてステータスが変化する、と因果関係が逆転してしまうのです。
アイテムボックスとかストレージとかインベントリとかは、ゲームを進めるうちに入手したアイテムが大量に溜まって、「こんなにたくさんの物を持ち歩いているなんておかしい!」といった発想から出て来たものです。
インベントリという言葉は、本来は商品や財産の目録のことで、つまりアイテムの一覧のことを指すものだったようです。
スキルとしての「鑑定」なども、文章で明記しなければ判断できないゲームの特性を反映しています。本来の鑑定は自分の知識と経験から合致する情報を引き出しますが、ゲームの鑑定スキルはプレイヤーの知らないゲーム内の設定を表示するものです。
チートという言葉も、ゲームのデータを改竄するなどの不正から来た言葉です。
ただ理不尽に強かったり、異様に有能な人物に対してもチート扱いすることもあるようですが、本来の意味で考えれば真っ当に努力してその強さを得た人や正規の手続きを経て力や知識を得た人に対して使う言葉ではないですよね。
中世ヨーロッパ風のファンタジー世界と言うのもゲームで広まったイメージだと思います。スライムが最弱のモンスターというイメージと共に有名RPGで広まった世界観です。
また、強力な攻撃魔法といったものもおそらくはゲームから始まった概念です。本来魔法使いは頭脳労働者であり、戦闘要員ではありません。
ゲームの世界に転生とか、ゲームのキャラの能力を持って異世界にといった話は、ゲームの世界に行ってみたいという願望が現れた作品です。
現実の世界では勉強でも仕事でも今一つでも、やり込んだゲームならばそれなりに上手くできる、ゲームの主役になれば大活躍して充実した人生を送れる、みたいなことを考えたことのある人も多いのではないでしょうか。
最近では、「ガチャ」とか、「レアリティ」とか、「☆いくつ」とか、「ログインボーナス」といった要素を取り入れた作品も見かけます。ソーシャルゲームの影響でしょう。
ゲームから異世界への流れはまだまだ続いています。
辛い現実からゲームに逃げる、その流れでゲームのような異世界の物語に逃げ込んでいるのでしょう。
話は変わりますが、唯一無二のものに名前はありません。
例えば、太陽は一つしかないので固有の名前はありません。「太陽」というのは普通名詞で、別の恒星系に行って惑星上からその母星となる恒星を見上げたら、それを「太陽」と呼ぶことになります。
もしも太陽が二つある世界ならば、それぞれの太陽に名前が付いたことでしょう。
月も一つしかないので、名前がありません。「月」というのは普通名詞で、惑星を廻る衛星のことを月と呼びます。
同じように、世界は一つしかないので名前がありません。
この世界に呼び名はありません。
死後の世界を「あの世」と言うのに対して「この世」と言う場合もありますが、名前というのともちょっと違います。
異世界に行った人の物語で、「地球から来た」みたいに言う場合がありますが、「地球」は現在人の住む範囲の一番大きな名前になります。
同様に、別の世界を知らない異世界の人々にとっても世界には名前がないはずなのです。
異世界への転移や転生を司る神ならば、複数の世界を認識していて、それぞれの世界に名前を付けていても不思議はありません。
異世界から頻繁に人を召喚していたり、異世界から大勢の人が迷い込んで来る世界だったら異世界の存在を認識して名前を付けているかもしれません。
しかし、意図的に異世界を行き来していたり、複数の異世界をきちんと区別して認識しているような場合でなければ名前を付ける必然性は薄いと思うのです。
ただ漠然とこことは違う世界があると言うだけの認識ならば、「この世界」と「別の世界」で間に合ってしまいます。
まあ、神様から世界の名前を聞いている設定もあり得るわけで、異世界の人が世界の名前を知っていても問題になるほどではありません。
個人的に気になるのは、異世界に対して元の世界のことを「現実世界」と呼ぶ作品があることです。
VRゲームの話ならば問題ありません。ゲームの世界は人為的に作られた架空の物語で、ログアウトした先は現実の世界です。
しかし、異世界から返って来た時に、元の世界を「現実世界」と呼んでしまったら、それまで行っていた異世界は現実ではない世界ということになってしまいます。
主人公、あるいはそれ以外の異世界転移者にとっては、現実の世界としての異世界に行っていたのではないのでしょうか?
小説家になろうのジャンル分けとしては、「異世界」に対して「現実世界」となっています。
しかし、これは読者や作者の視点で、作品の舞台が現実の世界に似ているか、全然違うかという区別に過ぎません。フィクションである以上、どちらも架空の世界の話です。
特に、異世界で得たスキルや魔法やアイテムなどを元の世界に持ち込む場合は、「ハイファンタジー」の世界から「ローファンタジー」の世界に戻ったということになります。
一方、登場人物からすれば、夢でもVRでもない現実の世界としての異世界に行ってきたという認識のはずなのです。
異世界に行ってきた本人にとってはどちらの世界も現実であり、片方だけを「現実」と呼ぶのはおかしいと思うのです。
まあ、私個人としてそういうタイトルの作品を見かけたというだけで、内容を詳しく読んだわけではありません。
もしかすると登場人物は「現実世界」と言っていないかもしれませんし、行ってきた異世界を現実ではないと認識している主人公の話かもしれません。
根本的な原因は、この世界に対して共通認識としての名前が付いていないことでしょう。
何らかの形で空想上の存在でない異世界が見つかれば、この世界にも名前が付くと思うのですが、何か良い名前はないでしょうか?
現実の異世界が見つかったのに、こちらの世界を「現実世界」とか「Real world」とか「三次元世界」とか変な名前になったらちょっと悲しいと思うのです。
この話は、心の棚を三段くらい増設して書きました。




