性善説の正体
人間、タイトルだけ見て勝手に中身を想像して勝手に誤解する、ということがよくあるのですが、「性善説」と「性悪説」と言うのもタイトルで誤解されている最たるものでないかと思うのです。
よく、「ここは性善説で考えて」という言い方がありますが、これは「性善説」に対する誤解をそのまま利用している言い回しになります。「性善説」というものは、人が悪いことをしないと保証するものではありません。もしも「性善説」が悪いこと行う人はいないという主張ならば、悪人がいる時点で「性善説」は間違っていると証明されてしまいます。
また、「性善説」と「性悪説」はどちらか一方が正しければもう片方は間違っているという背反二律的な対立関係にあるものではありません。人をどういう側面から見るかと言う違いであって、どちらも正しいことを言っているのです。
まず、「性善説」の「善」と言うのは、善いことをしたいという心を指します。
人は誰でも善いことをしたいという気持ちを持っている。これは誰かに教えられたり、努力して身に付けるものではない。生まれつき持っているものであるから、性は善であるという説なのです。
性善説の背景には儒教の徳治政治の考え方があります。人は誰しも善いことをしたいという気持ちを持っているのだから、上に立つ者が率先して手本を見せれば自ずとうまく収まるという考えです。
一方の「性悪説」の「悪」は悪意や悪心と言った気持ちの問題ではありません。結果としてうまく行かないこと全般、間違い、失敗、能力不足などひっくるめて「悪」と呼んでいるのです。
勉強したり、練習したりすることなくいきなり一人前の社会人としてやっていけるはずがない。つまり後天的に学習や修行などで知識や技術身に付けなければ、生まれ持った本能と才能だけでは社会は成り立たないから「性」は「悪」と言うわけです。
例えて言えば「社会のルールは教えられなければ分からないよね」とか「修行もせずに一人前の仕事ができるか!」と言う話が「性悪説」なのです。
さて、「性悪説」の方は、「世の中複雑になって来ると、いろいろ勉強しないと駄目だよね」ということで納得できると思うのですが、「性善説」で説く善意はどこからやって来たのでしょうか?
「性」が「善」ということは、その善性は本能に近いところに刻まれているのだと思われます。
そこで、時代をずーと遡り、人が国を作り文明を発展させる前、より動物的な生活をしていたころを想像してみましょう。
人は群れる生物です。動物としては弱い部類なので、仲間同士助け合わなければ生きていけません。
特に小規模な群れで厳しい環境を生きている場合、仲間の死は群れ全体の力の低下を意味し、群れごと自分の死に直結します。
「善」や「悪」の定義は難しいものがありますが、こういう原始的な生活の場合は割と簡単です。
つまり、「群れ全体の利益」=「自分の利益」=「善」となるのです。
環境が厳しければ厳しいほど、「善」を為さない者のいる群れは消滅しやすく、逆に「善」を為そうとする者ばかりの群れは生き延びやすいでしょう。
あるいは、「善」を為さない怠け者や、群れに不利益をもたらす「悪」の者は群れを追い出されて野垂れ死にするかもしれません。
そう考えれば、本能に「善」を為そうとする気持ちが刻み込まれていても不思議ではありません。
この、生き延びるために自分が所属する集団全体の利益を考えるというところが、「性善説」の根源になっているのだと思います。
それともう一つ、善いことをしたいという気持ちと、他者に認められたいという承認欲求とは関連があるのではないかと思うのです。
小さな群れで厳しい環境を生きる場合、どれだけ頑張っても犠牲は出るものです。どうせ犠牲が出るのならば、なるべくなら群れの利益に貢献しない者に犠牲になって欲しいと思うでしょう。
別に冷徹な合理主義でなくても、有能な者がいなくなれば群れ全体の生存率が下がるのです。有用な人物程優先して助けようと思うのは自然でしょう。
つまり、他者から有益な人物であると認められていると何かあった際に助けてもらえる可能性が高まるのです。
群れ全体の利益になる善を為し、それを周囲の人間に認知されること、それが生き延びるために重要なことだったのだと思います。
さて、人が増えてきて世の中が複雑になって来ると、社会の利益と個人の利益が一致しない状況が発生します。あるいは、社会の利益と個人の利益が連動していてもそれが分かり難くなります。
更に所属する集団も家庭から国家まで大小さまざま存在し、それぞれで利害が対立することさえあります。こうなると、何が善いことなのか分からなくなってきます。
「荘子」の中には、泥棒が孔子をやり込める話が書かれています。これはライバル関係にある儒教を皮肉るものですが、その中で「泥棒にだって仁義はある」と言うのです。
儒教で重要視する仁義礼智信等は泥棒の集団の中にもしっかりと存在し、泥棒家業を行う上で大いに役に立っているというのです。
このような話も、「性善説」の「善」が帰属する組織への利益のことであると考えれば説明できるのです。
犯罪組織であってもテロ組織であっても、その組織に対して貢献できる行為ならば組織内では善い行いということになります。
世間的には悪であっても、組織内では善と言えるわけです。つまり、善いことをしたいという欲求を満たすことができるのです。
「性善説」が正しくても、組織的な悪が無くならない理由の一端にはこのような理由、つまり個人の善性があるからではないかと思うのです。