占いとの付き合い方
「いいね」ありがとうございました。
皆さんは占いを信じますか?
私は全く気にしていません。
信じる信じない以前に、未来を知ることは不可能です。
完全な占いや預言、未来覗などはタイムパラドックスを生み出します。
未来に不幸な出来事が起きると知ったら、それを回避しようとするでしょう。
回避できてしまったら、占いでも預言でも外れたことになります。
回避できないのならば、不幸な未来が実現することになります。
絶対に回避不可能な未来を知って、何の役に立つでしょうか?
絶対に当たるけれども、不幸な未来は避けることができる、などと言うのは都合の良すぎる話なのです。
神話や伝説・伝承などでは、未来を知ることの矛盾を上手に誤魔化しています。
よくある手法は、解釈次第でどうとでも取れる曖昧な言葉で未来を語る方法です。
最初は何のことか分からないけれども、事が起こって初めてあのことを言っていたんだ、と分かるものです。
後になってから意味が分かるため、予言された未来を変えようと行動することができず、タイムパラドックスが発生しません。
他の方法としては、結果だけを示して途中の因果関係が分からないため回避方法が不明になっている場合でしょう。
ライオス王は生まれた子供が将来自分を殺すという神託を受けて我が子を殺そうとしますが、殺すに忍びなく遠くに捨てました。その結果生き延びて成長したオイディプス(エディプス)に実の親とは知らずに殺されます。
エディプスコンプレックスの語源となった神話ですが、ライオス王が子供を手元で育てていればまた別の結果になったでしょう。
神託に示された未来から逃れようと行動したために、結局その通りの結果になってしまったという話です。
もうひとつ面白いのが、ギリシャ神話のカサンドラでしょう。
カサンドラは未来を予言する能力を得た代わりに、その予言を誰も信じない呪いをかけられます。
どれほど正しい予言をしても誰も信じないから、予言された未来は変わりません。
古代ギリシャ人は合理主義なのでこの辺りの整合性はきっちりと取ります。
物語だけでなく、実際の予言や占いでも似たような手法はよく用いられます。
特に曖昧な言葉で未来を語る手法は強力です。
人の心理として、興味のあることに関してはなんでもかんでも関連付けて考えてしまう傾向があります。
曖昧な予言や占いの結果は、後から実際に起こった事柄をちょっとでも連想させる内容が含まれていたら当たったように思えてしまうのです。
予言と言えば、日本でも一時期大流行して、1999年を無事に過ぎて下火になった「ノストラダムスの大予言」が有名です。
ノストラダムスの書いた予言集は詩集の形式で曖昧で難解な予言が山ほどあるので、歴史上の有名な出来事や最近起こった注目の事件などをこじつけし放題だったわけです。
日本で流行した「ノストラダムスの大予言」は様々な過去の出来事を予言詩と結び付けて「当たる」という印象を強め、ちょっと未来の人類滅亡というインパクトのある予言で関心を集めた五島勉氏の力作です。
ノストラダムスに限らず、曖昧な表現をする予言は多くあります。占いでも「○○運が上がる/下がる」のように曖昧なものはよくあります。
そして、後から実際に起こったことに当てはめて当たったような気になってしまうのです。
また、結果だけを示す方法も現実にあります。
結果を言い当てられるのならば、その予言なり占いなりは当たっているのではないか? と思うかもしれませんが、案外そうでもないのです。
例えば、地震に関する予言などがこれにあたります。
日本では年間1,000~2,000回程度の有感地震があるそうです。ニュースになるような大きな地震はずっと数が減りますが、適当な日付を言っても結構まぐれ当たりはあり得るのです。
予言ではなく、手法の詳細を秘密にした地震予知と称するものでも同じ手口を使う場合があります。
地震の発生場所や規模には触れずにただ日付だけを「予知」するような代物は占いと変わりません。
外れた予言や予知は忘れ去り、日本のどこかで起きた地震を当たった当たったと大騒ぎするのです。
結果しか語らないことも曖昧な表現の一種です。「地震が起こる」の一言で何処にどの程度の地震かは明言しないことで、まぐれ当たりも起こりやすくしています。
占いで「金運が上がる」と言われた場合、実際には年収や資産が減っていても、臨時収入があったり、欲しかった物が格安で買えたりすれば当たったと感じるでしょう。
はっきりと具体的に言っているように見えて、かなり曖昧なことを言っているのです。
未来を知ることの矛盾や怪しさとは別に、占いは本来の形を失っているものも多いのではないかと思います。
例えば、占星術の根っこは天文学と同じものです。
世界中の多くの地域で、古くから天体を観測してきました。
天体観測には趣味的な興味だけでなく、実用的な意味があります。
星を観測することでかなり正確に方角を特定することが可能です。羅針盤が発明されるまでは、目印のない海上で方角を知る唯一の手段が天測でした。
また、天体観測は暦の作成に直結しています。
太陰暦では月の欠け具合で日付を決めますが、それだけでは一年を正確に表せないので太陽や星を観測して暦を作ります。
日本でも、陰陽師の仕事の一つが天体観測をして暦を作成することでした。
周期的に起こること、毎年同じ時期に起こることならば天体観測によって予測ができます。潮の満ち引きなども月の観測からある程度予測ができます。
天体の観測により予測できることがある、という事実から「天体の運行が地上の出来事に影響を与えている」と考え、星を観測することでより詳しく未来を予測しようというのが占星術の始まりです(たぶん)。
それが、何をどうすれば夜空の星を見上げることもなく、誕生日だけで全てが決まってしまう星占いになるのでしょうか?
風水なども占い扱いされていますが、元々は風水は占いではありません。
本来の風水は、都市や家など住環境を整備するための知識の事です。
昔の生活を想像してみてください。エアコンも優秀な建築素材もない時代に、風回り、水回りの悪い家では住んでいられないでしょう。
風回りが悪いと夏に暑かったり冬に寒かったりします。水回りが悪いと湿気で壁や柱が腐ったりカビや雑菌が増殖して病気になったりします。
つまり、風水で健康運が上がるというのは、快適で清潔な住環境を整備することで病気やストレスを防ぐということです。
また、心や体を病むと治療のために出費が増え、仕事に支障が出て収入が減ります。
つまり風水で金運が上がるというのは、住環境が快適→心身共に健康→治療費が不要で仕事も順調→金運が上がった!
ということです。ずいぶんと遠回りなことをしていると思いませんか?
日本では血液型占いも流行っています。これも元は血液型性格分類と呼ばれるものの流行から始まっています。
ゲームとかマンガとかのキャラクターに、輸血をするわけでもないのに血液型が設定されるようになったのはこの流行が原因です。
占いではなく血液型性格分類とか血液型性格診断とか呼ぶと科学的なものにも聞こえますが、こちらも科学的根拠は一切ありません。
心理学の世界では、人の気質(性格の元となる先天的な部分)をA型、B型、C型のような型に分けて分類する考えがあるそうです。
この気質の型を安直にABO式の血液型にあてはめたものが血液型性格分類とか血液型性格診断とか呼ばれるものになったのだろう、と私は勘繰っています。
気質も血液型も先天的なものだから関係性を考えるのは自由ですが確認されていませんし、後天的な性格まで結び付点けるのは飛躍し過ぎです。
さらに、血液型占いとなると何を根拠にしているのかも不明です。
占星術も、風水も、血液型も、占いになった時点で元の意味や思想は失われているのです。
さて、さんざん悪しざまに言っていますが、私は別に占いが「あってはならない悪いもの」だとは思っていません。
胡散臭いことを承知の上で、占いと正しく付き合えば良いだけです。
私は占いには二種類あると思っています。
一つは占い師と占われる人が対面で行う占い。
もう一つはテレビや新聞、雑誌に掲載される不特定多数に向けた占い。
この二つは少々性質が異なります。
まず、一対一で行われる占いは、カウンセリングのような役割があると思います。
占い師に見てもらおうと思う人は、単なる冷やかしを除けば、何らかの悩みを抱えている者でしょう。
悩み事を抱えた人は、その悩みを他人に話すだけで心が軽くなることはよくあります。独りで悩んで行き詰まっていたことが、誰かと相談したらたちまちに解決したなどと言うこともあるでしょう。
しかし、悩みごとの内容によっては身近な家族や友達には話せないことなどもよくあります。
そんな時に役に立つのが占い師です。仕事なので誰の悩みでも聞いてくれます。こちらは金を払う客で、相手は赤の他人なので遠慮もいりません。
また、悩んでいるときに有効なアドバイスは、案外当たり前の事だったりします。
奇想天外なウルトラCでパパっと解決みたいなことは滅多になくて、またそういう奇天烈な解決方法を用いるにしても関係者が考えて実行すべきです。
だから、アドバイスとしては「当たり前のこと」になりがちなのですが、例えば親から当たり前のことを言われたら「そんなことは分かっている!」と反発してしまうこともあるでしょう。
一方占い師ならば、当たり前のことをさも特別なことのように大げさに表現する術を持っています。
同じ内容でも、言い方や演出しだいで聞く側の印象は変わります。
どこかのおっさんの小言やおばさんの説教では聞く耳持てなくても、超自然の神秘的な存在からのメッセージならば素直に聞き入れられるということもあるでしょう。
だから、占い師は何を言うか決めていても、もっともらしく占って見せます。
コールドリーディングで客の過去や悩みを言い当ててみせるのも神秘的な演出の一つです。
占い師が見るのは、未来でも世界の真実でもなく、客の心理です。
ついでに言えば、占い師は接客業です。
客がなんか納得した気になる答えを返せればそれで良いのです。
それは別に客を騙しているわけではありません。
悩んでいる者にとって必要なことは、動き始めるきっかけです。
正解は分からなくても決断しなければならない時と言うものはあります。
重要なことは、何を言われようとも最終的に自分で判断して、決断することです。
それが正しい占いとの付き合い方です。
ちゃんと割り切って利用すれば、本当に未来を見ることのできる占い師よりも、客自身から答えを引っ張り出せる占い師の方が役に立つはずです。
逆に、やってはいけないことは、占いに頼り切ることです。
結果がどうなろうと占い師は責任を取ってくれません。
それに、占い師のテクニックは悪用すれば客の思考をある程度誘導できます。
あんまりホイホイ言うことを聞く客になると、占い師側も魔がさして霊感商法に手を染めることになるかもしれません。
余談ですが、占い師は客に対して悪いことが起きる不吉な未来を示すことがよくあります。
これ、客商売としての占い師の立場から考えると、一種の保身なのです。
悪いことが起きると言って、本当に悪いことが起こればそれは占いが当たったということになります。
不幸なことではありますが、占いが当たったからと言って占い師を責めるのはお門違いでしょう。
悪いことが起きると言って、実際には悪いことが起こらなかったり逆に良いことが起こった場合は占いは外れたことになります。
しかし、「悪いことなんか起こらなかったじゃないか!」と文句を言う人はまずいないでしょう。「占いを聞いて注意していたから悪いことを避けられた」という言い訳もできます。
一方、悪いことは起こらない、あるいは良いことが起こると占った場合、本当に悪いことが起こらず、良いことが起これば何の問題もありません。
占いは当たって占い師の株が上がり、客の方も不幸に見舞われずに全員満足です。
しかし、悪いことは起こらないと占っておいて、実際には悪いことが起こった場合、占いが外れただけでは済みません。
悩みを抱えた客にしてみれば上げて落とされた形になり、占い師自身が恨まれる可能性が高いのです。
つまり、良い未来よりも悪い未来を占った方が、占い師の身は安全なのです。
それからもう一点。
占い師を頼る人は何らかの悩みを抱えた者、つまり将来に不安を感じている人です。
悩みが解消されて将来への不安が無くなれば、もう占いに来なくなります。
だから、占い師の戦略としては、特に悩みのない冷やかしの客に対しては、楽しいことを言って相手の気分をよくさせ、今後も遊びで占いに来るように仕向ける。
悩みを抱えた客に対しては、悩みを軽くする言葉をかけつつも不安を煽ってリピーターになるように仕向ける。
というのが上手いやり方になります。
下手に占いにはまると、ずーっと不安を抱えた人生になりかねないので気を付けましょう。
この、不安な気持ちが多いほど客が集まる商売(?)は占いだけではありません。
新興宗教とかカルトなどは社会に不安が広まるほど信者が集まります。
だからこの手の教祖とか予言者とかは悪い出来事をバンバン予言します。
終末の予言を掲げる新興宗教なんかは珍しくありません。
終末の予言が当たったことは一度もないんですけどね。
さて、占い師と対面で行われる占いはカウンセリングの要素がありますが、テレビで放送されたり新聞・雑誌に掲載される占いは占われる対象の個別の事情を考慮しません。
マスメディアを通じて届けられる占いは、占い師(?)からの一方通行で、悩み事を聞くというプロセスがありません。
同じ一方通行でも、御神籤ならばまだ運試しの要素があります。決断を後押しするくらいの役には立つでしょう。
テレビの占いコーナーで紹介される今日の運勢は、星占いなら十二種類、血液型なら四種類、日本全国同じ星座、同じ血液型の人は同じ運勢が語られます。
どれ程優れた占い師でも、何百万人いるか分からない人の運勢を同じ言葉でまとめるのは無茶でしょう。
たとえどれほど正しくても、この手の占いは大雑把な傾向くらいしか言えないはずです。
ただ、不特定多数向けの大雑把であいまいな占いだけに、自分の状況に当てはめて「当たっている」と思い込みやすいものです。
占いの嵌っている人にとっては、まるで自分に向けて占っているように思えるかもしれませんが、それは錯覚なので依存しないように注意しましょう。
この手の不特定多数向けの占いというのは、生活に彩を加えることが目的なのではないかと思うのです。
毎日毎日、同じような生活を繰り返していると感じている人はいませんか?
毎日同じように朝起きて、同じような格好で学校に通学し、あるいは職場に通勤し、朝昼晩と似たようなものを食べ、といった具合に代り映えのしない毎日を送っていると感じることはありませんか?
昨日と変わらない今日にちょっとした変化を取り入れたいと思った時に利用できるのが、この手の占いです。
同じ占いのコーナーでも、毎回違うことを言ってくれるのです。自分の行動に手軽にちょっとした変化を取り込めます。
また、曖昧で大雑把な分、個性が出ます。
例えば「ラッキーカラーは赤」と言われて、頭の上からつま先まで真っ赤に染め上げるような阿呆な真似をする人はいないでしょう。何処にワンポイント赤を入れるかという点にその人の個性が現れます。
普段意識していないようなことに考えを廻らせてみる、そのきっかけとして利用できるのです。
そんなことを考えて作られているのかは知りませんが、不特定多数向けの占いコーナーは、占いとしてもそれほど真面目に占ってはいないだろうと思っています。
本職の占い師が監修していればましな方で、ただのライターさんがそれっぽい言葉を並べているだけのものも多数あるだろうなと思っています。
使い方を間違えなければそれで十分ですし、使い方を間違える人にはどれだけ真剣に占っても同じことです。
この手の占いで多いのは星座か血液型だと思うのですが、星座なら十二個、血液型ならば四個文章を考えればよいだけなので、作る方も楽なのです。
別に本気で未来を知ろうとか、自分の運命を考えるとか高尚なことは考えていないので、占いそのものの由来とか根拠とかはどうでもいいわけです。
今後、新しい種類の占いが流行るとしても、いくつかに分類されて自分が何処を見ればよいのか分かり易い形式のものになるでしょう。
私は、占いと言うものはどれほど正確でよく当たるとしても、道路標識か案内看板みたいなものだと思うのです。
占い師は案内人みたいなものです。
正確な案内があれば、目的地に最短で着くことができます。
お腹が空いているならば、レストラン。
体調が悪いのならば、病院。
映画を見たければ、映画館。
DIYをやりたければ、ホームセンター。
いいかげんな案内人なら、適当に商店街とかショッピングモールとかを指すかもしれませんが、それでもそれなりに役に立つ場合が多いです。
本気で道が分からなくなっているときは、棒が倒れた方に進むだけでも状況を打開できることもあります。
事故を誘発する道路標識とか、人を騙して危険に向かわせる案内人とかは排除すべきでしょうが、役に立ったり立たなかったりする看板をすべて撤去する必要はありません。
しかし、重要なことは目的地を決めるのは自分自身だということです。
案内人や看板に目的地を委ねるというのはおかしな話です。
案内人に行先をお任せしていいのは、観光旅行の時くらいでしょう。それも、観光地の名所を回るという客側の目的が前提です。
人生丸投げとかされたら、占い師だって迷惑でしょう。
街中で見かけた案内看板の案内する先をいちいち確認して回る遊びは、人に迷惑をかけない範囲ならばやっても問題ないでしょう。
しかし、強迫観念に囚われながら案内看板を探し出して、その看板の案内する先を確認しないときが住まないとなったらもう病気でしょう。
同様に、テレビや雑誌の占いを見落としたと言って慌てたり、占いで示されたラッキーアイテムなどを必死になって集めるようになったら、病的と言えます。
占いは、大凶が出ても笑って済ませられるほど気楽に行うか、できることはやりつくして後は運任せの状態で、それで失敗しても諦めて受け入れる覚悟で頼るのが正しい付き合い方ではないかと思うのです。
それから、自分たちで楽しむ分には良いのですが、当然のような顔をして人を巻き込み、無理やり誕生日だの血液型だのを聞き出そうとするな!




