武の極み
世の中には武術をテーマにした物語があります。
強い武芸者が出てくる話もよくあります。
物語の中の武術はある意味何でもありで、人間離れどころか物理法則を無視したものまであります。
その一方で、実在の達人の逸話にも信じられれないようなエピソードがあったりします。
現実の武術を極めた先には何があるのでしょうか?
武の極みとか、究極の武術とか言うと、滅茶苦茶強力でどんな敵でも打ち倒す、みたいなものを考えるかもしれません。
しかし、実際の武術ではあらゆる状況、あらゆる敵に対して強いなどと言う都合の良いことはあり得ません。
強さとは相対的なものです。状況に応じて有利不利は変わります。
一口に戦いと言っても、素手で一対一の試合形式、武器を持った戦い、多対多の集団戦など様々な状況があり、必要とされる技術も違います。
試合か喧嘩か殺し合いかでも状況は変わってきます。
多くの武術ではある程度の状況――戦場を想定して技術が作られているものです。
どのような状況、どのような相手、どのような戦いでも常に最強などと言うのは夢物語に過ぎません。
武術はある意味すごく現実的です。負ければ最悪死ぬのだから、夢のようなことを言ってはいられません。反面、理屈の分からない神秘的な現象だとしても、使えるものは使います。
そして、現実の武術は、最終的には「効率」を求めるのではないかと思います。
武術は基本的に対人の戦闘技術です。
人間を一人を殺すために海を裂き山を砕くような威力は必要ありません。ナイフ一本急所に刺し込めばそれでそれだけで死にます。
技の威力を際限なく高める必要はないのです。一撃で人を打ち殺せる威力に達したら、それ以上の威力は無駄です。
代わりに必要になるのが効率だと思うのです。
例えば、「どんな相手でも一撃で倒せるが、体への負担が大きくて一日に十回しか使えない必殺技」を身に着けた人間がいたとします。
この人間を倒す方法は簡単です。雑魚十人をぶつけて必殺技を使い切らせ、その後に強い人間が出てきて倒せばよいのです。
戦う時期と相手が決まっている試合ならば、全ての相手に全力で当たることもできるでしょう。しかし、何人の敵を相手にどれだけの時間戦い続けなければならないか分からない戦場では、出会った全ての相手に無駄に全力を出していたらすぐに力尽きてしまいます。
混沌とする戦場を生き延びるために必要なことは、不要な戦闘を避け、最低限の力で相手を倒すことです。
過剰な威力によるオーバーキルではなく、効率よく戦うこと。
現実の武術の目指す「武の極み」はそこにあると思います。
究極は「戦わずに勝つ」「強い敵をどんどん味方にしていく」だと思うのですが、ここまで来るともう武術ではなくなる気がします。
しかし、一般的な「武の極み」のイメージは、「もの凄い必殺技で化け物のように強い敵を粉砕する」みたいなものでしょう。現実の武術と一般大衆が想像する武術には乖離があります。
多くの人にとって、馴染みがあるのは実在の武術ではなく、創作物における武術・武道でしょう。
作家や漫画家、シナリオライターは武術の専門家ではありません。あえて現実離れした設定にした部分以外でも、現実の武術を正しく反映している保証はありません。
私の知っている範囲ですと、小説家の今野敏さんが空手をやっているそうで、その小説に描かれた戦闘シーンはリアルというか妙な凄みを感じた憶えがあります。
しかし、多くの作家はせいぜい道場に見学か武道家に取材する程度で、他の作品の武術のイメージを踏襲して作品を作っている人も多いでしょう。
空想に空想を重ねれば、物語の武術は現実の武術からどんどんかけ離れたものになって行きます。
それに、たとえ作者が武術の経験者だったり、演技指導などで武術つに詳しい人に参加してもらったとしても、フィクション作品にはフィクション作品ならではの制約があります。
時には人体の構造や物理法則すらも無視する物語の武術が避けられない制約とは、強く、格好よく、分かり易く表現しなければならないという点です。
戦闘シーンで盛り上げるためには、強く、格好よく戦う必要があります。弱くて格好悪くて問題ないのは、ギャグかやられ役の雑魚くらいでしょう。
最もきつい縛りは「分かり易く」と言う点です。
現実の武術として考えると、分かり易いことは欠点です。自分の使う技を理解されたら、対処方法を研究されてしまいます。
漫画等では「一度見た技は通用しない!」みたいな展開もありますが、一度見ただけで理解できるほど単純で分かり易い技術ならば対抗手段だって考えられるでしょう。
他人に対策されないためには、敵対した相手にも近くで見ている人にも、「よく分からないうちにやられていた」となるのが理想的なのです。
秘伝とか門外不出などと言って秘匿するのも、敵になるかもしれない誰かに研究されることを避けるためです。
しかし、物語の場合は見ている側に伝わらなければ意味がありません。だからあえて分かり易い表現を行います。
例えば、時代劇のチャンバラシーンで、戦い始める前に刃が反対側に来るように刀を逆に持ち直すシーンを見たことがありませんか?
あれは、「これから行うのは峰打ちで、倒した相手は斬り殺されたのではなく気絶しているだけだよ」ということを分かり易く表現しているのです。
しかし、実際にはそのような真似はしません。戦っている相手に対して「これから峰打ちするよ」と宣言してしまえば、殺されることはないと思った相手が大胆にガンガン攻めることができるようになります。
本来峰打ちは、相手を打つ直前に刃を返す高等テクニックなのだそうです。
また、実は日本刀はとても折れやすい武器です。日本刀を手にした場合、相手の攻撃は避けるのが基本。受ける場合は最も丈夫な刃の部分で受けねばならず、刀の腹や峰の部分で受けたら折れる危険性が非常に高いのです。
刀の刃を返した状態で、相手の斬撃をうっかり峰の部分で受けたら、ぽっきりと刀が折れてしまっても不思議はありません。
更にもう一点、日本刀は刃を潰してあっても殺傷能力があります。
日本刀はそれなりの重さのある鋼鉄の棒です。そんなものでぶん殴られたら命に関わります。殺さずに気絶させるには絶妙な力加減が必要です。
色々な意味で、峰打ちは非常に高度な技術なのです。
しかし、一般の視聴者にはそのような難しいことは分かりません。
だから最初に分かり易く峰打ちをするというサインを送り、斬っていないから殺していないよ、という構図を作り出しているのです。
同じようなことをしているものに「○○の構え」というのがあります。
武術における「構え」というものは、攻防の動作を行う前の姿勢に過ぎません。
構えを工夫することで相手の動きに対応しやすくなったり、こちらの攻撃動作の起点になったりしますが、構えだけで特別強くなるようなことはありません。
映像作品ではこの「構え」を「これから凄い技を出すぞ」という合図に利用しました。
素人には雑魚を余裕を持って打ち倒す動きも、強敵をギリギリの攻防の末、僅差で破る動きも区別はつきません。
だから雑魚を調子よく倒していた戦闘をいったん止めて、それまで使わなかった特別な構えを見せて、ここからは今までとは違う油断のならない戦いだと示して緊迫感を高めるのです。
しかし、視聴者側には特別な「構え」によって凄い必殺技が出せたりパワーアップして強くなるような印象を与えているのではないでしょうか。
私はこれを、個人的に「構え信仰」と呼んでいます。
特別な「構え」には特別な力が宿ると考え、見よう見まねでもその「構え」をするとなんかちょっと強くなった気になる、というものです。
より強そうに、より格好よく、より分かり易く表現するために、実際の武術とは異なる動作をすることは様々な部分に現れます。
力強そうに見せるために不必要に溜や力みを見せたり、格好よく見せるために不要なポーズを挟んだり、分かり易くするために動作を大きく目立つようにしたり。
けれども、武術の達人から見れば、変な溜や力みで却って威力がなくなったり、無駄な動作で隙だらけだったり、狙いもタイミングも見え見えで簡単に避けられる稚拙なものに見えるのではないでしょうか。
中国武術には「花拳繍腿」という言葉があります。見た目は美しいが実戦では役に立たない、使えない武術という悪口です。
現実の武術としては不名誉な「花拳繍腿」ですが、物語の武術としてはこれこそが求められているものです。
舞台劇や実写の映像作品ならば役者の演技力で強さや格好良さを表現できますが、アニメやゲームになるとそれらを全て絵や動きや演出で表現しなければなりません。
実在の役者が演じるリアリティは大きなものがあります。
例えば、敵の攻撃をバク転で躱すシーンがあったとします。役者やスタントマンが華麗に決めれば、簡単にはまねのできない凄い技に見えるでしょう。
けれども、アニメで同じシーンを表現してもたいして凄くは思えないのではないでしょうか。アニメは言ってみれば絵空事です。現実には困難どころか不可能なことでも楽々表現できます。
だからアニメやゲームの戦闘シーンは実写よりも派手になりがちです。
役者が行えば迫力の「○○の構え」も動きが無い分地味になります。アニメで動きを止めればただの静止画になり、ゲームでは「たまに止まるんだけどバグってない?」と思われてしまいます。
そこで「○○の構え」の代わりにど派手な演出の必殺技が多用されることになります。
現実にはあり得ない表現ができるからというだけではなく、現実よりも誇張しないとちゃちに見えかねないのです。
達人の技をモーションキャプチャーして動作の細部まで丁寧に再現すればそれはそれで凄い作品になると思うのですが、素人に理解できるかはまた別の話です。
結局、アニメ、ゲームの武術はどんどん派手に、現実離れしたものになります。
力強さを示すために、服が破れるほどに筋肉が膨れ上がったり。
速さ示すために残像を残して姿を消してみたり。
凄い威力の攻撃を受けきったことを示すために、足元にクレーターを作ってみたり。
気合を入れただけで爆風が巻き起こって雑魚が吹っ飛んだり、一天にわかに掻き曇り背後に雷鳴が轟いたり。
分かり易い強さと言うと、物凄く力が強い、捉えられないほど速度が速い、どんな攻撃でも微動だにしないほど頑丈、スタミナが膨大でまるで疲れない、みたいな感じではないでしょうか。
しかし、この分かり易い強さとは肉体の強さのことです。筋力も、反応速度も、体の頑強さやスタミナも、鍛えられる上限というものがあります。
だから、アニメーションで描かれる分かり易い強さは、人外の領域に突き進んで行きます。
しかし、現実の武術は人間の限界を超えた超生物を生み出すものではありません。鍛えていない人よりは強い肉体になるでしょうが、スポーツ等他の方法で鍛えた場合よりも強靭になる保証はありません。
武術というものは、体格に恵まれていたり、力が強かったり、反応速度が速かったりと、何もしなくても生まれつき強い相手に勝つための技術という側面があります。
人外の肉体を得ようとする行為は現実の武術とは正反対なのです。
アニメやゲームでは、音声付きの動画と効果音やBGMによる様々な演出が使えますが、漫画になると静止画と文字だけによる表現になります。
小説になると絵による表現もほとんど無くなり、文章だけで強さなり格好良さなりを表現しなければなりません。
視覚的な演出が制限されると、その分理屈っぽくなります。
フィクションにおけるリアリティとは、「現実と同じ」ことではありません。説得力こそが重要になります。
例えば、一度負けた相手と再戦して今度は勝ったとします。すると、なぜ勝てたのかをちゃんと説明する必要があります。
現実のスポーツ等でも、絶対に勝てないと思われていた選手やチームが勝利をつかむ、大番狂わせとか、奇跡の大勝利といったことは稀に起こります。
現実の出来事だからこそ奇跡の勝利として話題になりますが、物語の中の、特に強敵に対する勝利にはきちんとした理由が必要です。
もの凄い特訓をして強くなったとか。
とんでもない必殺技を伝授されたとか。
相手の弱点や強さの秘密を見つけて攻略法を作り出したか。
根性とか、気合とか、怒りでパワーアップとか言った場合でも、なぜそこまでして戦うのか、どうして勝利に執着するのか、何をそんなに怒っているのかといった背景をしっかり説明する必要があります。
理由をしっかりと説明しなければ読者は納得しません。つまりリアリティを感じられない、嘘っぽい物語になってしまいます。
だから強さに理由を付け、理屈によって必殺技の破壊力を説明します。
しかし、現実の武術は理屈で動いているわけではありません。
理論はあっても体験してみないと分からない場合も多いでしょう。体を動かす技術には言葉で説明することが難しい場合が多くあります。
例えば、言葉では「足を踏み込んで、腰を捻って、拳を突き出す」と順番に動作を説明していても、実際には体の各所が全て同時に動いていたりします。
武術の理論は物理的に正確なものではなく、体感的なイメージで説明される場合もあるので、頭だけで考えていると変な誤解をしかねません。
また、当たり前のことは説明しないので、古くから伝わる教えなどは当時の常識を知らないと理解できない場合もあります。例えば、日本人は明治時代に体の動かし方そのものを西洋風に矯正しているので、歩き方すら江戸時代以前とは異なっているのです。小学校とかで行進の練習なんかをするのは、明治時代に歩き方を矯正した名残です。
誤解に曲解、さらに話の都合も加わって、現実離れした超理論が生まれます。
大法螺吹いていること承知の上で超理論を展開している作者も、現実にはあり得ないと知りながら超理論による超展開を楽しんでいる読者もいるかと思います。
その一方で、ちょっと誇張しているだけで現実の武術をうまく表現しているつもりで超理論になっていたり、読者もうっかりと現実の武術の理論だと信じてしまうこともあるでしょう。
〇めはめ波とか〇重の極みとか、割と本気で練習したことのある人もそれなりにいるのではないでしょうか。
え、私ですか? 我流で寸勁の練習をしたことがあるくらいです。
それはともかく、武術を体験することなく頭の中だけで考え出した武術の理論は、同じく頭の中だけで考える読者には容易に受け入れられる可能性が高いのです。
実際に武術をやっている人からすれば無茶苦茶な理屈でも、武術未体験の多くの読者にとって納得できるものならば、それはリアリティのある物語として広まります。
こうして現実の武術とはかけ離れた理屈が世間に浸透していきます。
たぶん、私もどこかで大嘘書いているだろうなーとは思っています。
武術に限らず、一般大衆には偏った、あるいは誤解されたイメージが広がっているものはよくあります。
武術の場合は体験しないと理解しにくいだけでなく、敵対者に対策されないために技術は公開せず、しかし活躍だけは宣伝する必要がある、というややこしい事情があります。
古武術などが神秘的に語られる背景には、肝心な部分は秘されたうえで、誇張や誤解を含む武勇伝が華やかに伝わっているからではないかと思うのです。
もっと身近で有名な武術でも誤解されている場合があります。
昔、アニメかゲームで、「空手の練習をする」と言っていきなり瓦を割り始めるシーンを見たことがあります。
この場面のおかしさが分かりますでしょうか?
空手で瓦などを割る行為は「試割り」と呼ばれ、鍛えた拳等の威力を試す、言ってみればテストです。
つまり、「勉強する」と言っていきなりテスト問題を解き始めるようなものです。もっと極端に言えば、「ダイエットする」と言っていきなり体重計に乗るようなものです。
おそらく物語の主題が空手では無いため、「空手と言えば瓦割」というありがちなイメージに従って安易に瓦割をやらせたのだと思います。
武術としては有名な空手でさえこんな調子です。あまり知られていない武術関連ではさらに色々と好き勝手な解釈が付いている可能性があります。
個人的に気になったものをいくつか挙げてみます。
・縮地法
普段あまり聞かない言葉だと思うのですが、漫画や小説でいつの間にか広まった感があります。
多くの作品で「縮地」と言えば短距離瞬間移動的な超高速移動として描かれています。
しかし、現実の技術としてこれはあり得ません。
「縮地」という言葉が多くの作品に登場するようになったのは、特定の作者の造語ではなく実在の武術に存在する名称だったからです。
ならば現実的な技術としての縮地法が存在するはず。
そんな感じで、私は拙作の『最弱勇者は叛逆す』の中で、自分なりの解釈を行った「縮地法」を登場させてみました。
私の解釈は、間合いを狂わす歩法です。
これ相手に使われると結構怖いですよ。届かないと思った攻撃が届き、避けきったはずの刃に斬られるのです。
間合いを詰めるための歩数が一歩違えば、左右どちらの足で踏み込むかが変わります。つまり、攻撃が右から来るか左から来るかが逆になります。
人間、常に少し先を予測しながら行動しているので、確信していた予想が外れるというのは非常に怖いものがあります。
歩いていて段差に気付かず、あるはずの地面に踏み下ろした足が空を切った時の恐怖、経験ありませんか? 10cm程度の小さな段差でも一瞬パニックになって動きが止まるでしょう。
戦闘中にパニックを起こせば、致命的な隙を生みます。
ただ歩いて攻撃するだけで相手の意表を付ける恐ろしい歩法なのです。
超高速移動は、それが可能ならば非常に強力な武器になります。しかし、ただ速いだけならば理解しやすいものです。
それに人が反応できないほどの高速移動ならば、距離が限られているとか一直線にしか移動できないとか制限も大きいでしょう。何度も見て研究すれば対策も考えつくかもしれません。
私の同作品では、超高速移動を行う『せつな』という必殺技を登場させました。この『せつな』という技には致命的な欠点を複数設定しています。
強すぎる必殺技なので使える場面を制限するという物語上の都合もありますが、それ以外にも「他人が見て反応できない速度ならば、自分だって反応できるはずがない」という考えに基いています。
つまり、『せつな』は途中で止められない。止めようと思う前に相手を斬り終わっています。
途中に障害物があっても避けられない。避けようと思う前に衝突します。
また、超高速に加速したら、同程度の距離と時間を使用しなければ止まれません。『せつな』は最高速度の地点で斬る技のため、相手を斬った後に必ず一定距離進みます。つまり、相手の背後に壁があれば激突するし、崖の手前に立っていた場合は落ちます。
縮地も超高速移動と解釈した場合は同じような欠点が存在すると考えられます。人間の反応速度そのものを高めるたり物理法則を捻じ曲げたりする技術はありませんから。
見えない超高速よりも、見えていても何が起こったか分からない歩法の方が技術としては高度だと思います。
・活人剣
斬った相手を元気にする剣技なんて、何の冗談でしょう?
本当にそんなことが可能だとしても、医術とか応急手当的な技術に分類して、剣術とは分けるものでしょう。
以前、殺人剣と活人剣の話を聞いたことがあります。
殺人剣……相手の動きを殺して相手を斬る技。
活人剣……相手の動きを活かして相手を斬る技。
殺人剣にかかれば、相手は得意な技も出せずに、なすすべもなく斬られてしまいます。
一方、活人剣では、相手は自由に動き回っているつもりですが、その動きを利用されて斬られてしまいます。
活人剣の方が高度な技術であり、いずれにしても相手を斬り殺すことが目的です。
活人剣を「人を活かす剣」と言う扱いをするようになったのは、江戸時代に入ってかららしいです。
徳川家が天下を取り、殺伐とした戦国時代が終わった後には、平和で安定した世の中になって欲しいと考えるものです。豊臣秀吉も刀狩を行いましたが、江戸幕府としてもこの先武装蜂起するような者が出ることを望みません。
武士である以上は武芸を修めることは必須だが、その武術でむやみに人を殺す時代は終わった。これからは剣(武士)が人を活かす時代だ。
そんな意味を込めての「活人剣」なのでしょう。
・蹴りは拳の三倍の威力
この言葉はある意味正しく、ある意味間違っていると考えています。
まず、三倍という数値ですが、計測した結果とかではなく感覚的な物でしょう。
数にはイメージがあります。
百、千、万といった大きな数は覆しようのない絶対的な差という印象がありますが、二や三はちょっと微妙です。
現時点で三倍の力の差があるならばそれを覆して勝つことは困難でしょう。
しかし、初心者や未経験者が訓練を重ねて最初の三倍の力を身に着けることならば可能だと思いませんか?
今は無理でも努力次第で追いつけるかもしれない、というのが三倍のニュアンスです。
次に、脚力と腕力を比べれば、脚力の方が強いことが多いと考えられます。
武術や格闘技に限らず、スポーツや肉体労働をしたことのない人でも、二本の足で立って歩いている以上は脚の力は鍛えられています。
脚には上半身の全体重が乗っているので、歩くだけでウエイトトレーニングを行っているようなものです。
一方、腕の方は何もしなければほとんど鍛えられることはありません。
箸より重いものを持ったことが無い人でも腕の重さ分の重量を持ち上げていますが、それは腕を動かせるというだけです。
つまり、腕の筋肉よりも脚の筋肉の方が圧倒的に強い人が多いのです。
脚は腕よりも強いと言うのは多くの人について正しいでしょう。
でもこれは全く鍛えていない人の場合です。
ロッククライミングとかやっている人なら片手で軽く全身を持ち上げられるくらいには鍛えています。
足の不自由な人は、痩せ衰えた脚の筋肉の代わりに腕の筋肉が凄いことになっていたりします。
それに、拳は腕力だけで打つものではありません。
ボクシングでも空手でも、「もっと腰を入れて打て」みたいな指導をしている場面を見たことがありませんか?
打撃系の技で最も威力の高いものは、蹴りでも拳でもなく、体当たりです。
つまり、威力を高めようと思ったら、拳でも蹴りでも全て体当たりに近付いていきます。
拳は拳から当たる体当たり、蹴りは足から当たる体当たりと言う具合です。
結局は、手技か足技かではなく、どれだけ鍛えた技なのかという問題になります。
もの凄い破壊力を持ったパンチを繰り出すボクサーが、普段練習もしていないキックを繰り出せばもっと威力があるなんてことはあり得ません。
真剣に武術や格闘技を修業している人に対しては、その内容を無視して「蹴り技の方が強い」などと決めつけることは間違っています。
この言葉は武術をやっていない人から出た俗説ではないかと個人的に疑っています。
・一人斬り殺せば初段
別にゲームではないのだから、敵を倒せば経験値が入ってレベルアップするという話ではありません。
これは心構えの問題です。
いくら技を磨いても、実戦では殺意を持って攻撃してくる相手に呑まれて何もできないことも珍しくありません。
よく「心技体」などと言いますが、武術で鍛える「心」とは「正しい心を持った人格者になる」ことでも「優しい心を持つ」ことでもありません。命の危機が迫っていても慌てず冷静に考えて行動できる強い心を意味します。
これは私見ですが、試合と喧嘩と殺し合いは別物です。
試合では、鍛えた技術の高い方が勝ちます。
喧嘩では、死んでも自分を曲げない根性のある方が勝ちます。
しかし、殺し合いの実戦では、殺し殺される覚悟、あるいは狂気が必要になります。
対等な戦いを想定するならば、こちらの攻撃が相手に届く間合いでは、相手の攻撃もこちらに届きます。
相手に一撃いれる瞬間に躊躇えば、つまり相手を傷付け殺す覚悟が無ければ、相手の間合いで隙を晒して致命的な一撃を喰らいます。
逆に相手の間合いに踏み込む勇気が無ければ、つまり失敗すれば死ぬ覚悟が無ければ、自分の攻撃を相手に届かせることはできません。
殺す覚悟と殺される覚悟は裏表の関係です。殺し殺される覚悟が無ければ戦いの舞台に上がることすらできないのです。
最初の一人を斬り殺すこと――事故でも物の弾みでもなく、自らの意思で殺すということはその覚悟がしっかりとできていることを表します。
覚悟のできている者とできていない者では大きな差があり、殺し殺される覚悟ができて初めて戦いの舞台に上がることができる。それを「初段」と表現しているのでしょう。
ところで、「一人斬り殺せば」とは随分と物騒な言葉です。しかし、この言葉が登場したのは殺伐とした戦国時代ではなく、江戸時代以降の平和な時代だと思います。
何故かといえば、「初段」と言っているからです。
武術に段位制を持ち込んで同じ流派門弟の間で強さの序列をつけるようになったのは、平和な時代になってからだと思われます。
戦乱の時代では、習い覚えた武術の技を実際に使う機会はいくらでもあります。戦乱で死なないように必死で鍛錬し、その上で自分なりに工夫する必要もあります。
一方、平和な時代になると武術の技を実際に使う機会はほとんどありません。現代の日本ならば一生実戦を経験しないで終わる人が大部分でしょう。
使いもしない技術を学びたいと思う人がいるでしょうか?
平和な時代でも熱心に武術を学びたいと思わせるために、色々と工夫を凝らしています。
例えば防具を付けて竹刀で打ち合う試合を多用すること。血気盛んな若者には勝負を付けるスポーツ的な要素が受けたことでしょう。
段位制の導入も修業をしてどのくらい腕前が上がったかを客観的な数値で示すもので、武術を学ぶモチベーションを上げる効果があります。
古流剣術等では、試合も何もなくただひたすら型稽古を繰り返し、最後に免許皆伝で終わるみたいなこともあるそうです。
つまり、段位制を前提にしている以上、剣道に段位制が導入された後の平和な時代に生まれた言葉です。
また、平和な時代だからこそ、磨いた技を過信して殺し合いの場に出ることの危うさを警告しているのではないでしょうか。
・攻防一体
「攻防一体の構え」とか「攻防一体の技」などと言えばとても格好良いです。物凄く高度な技術、奥義とか必殺技の類を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、実は「攻防一体」は基本中の基本なのです。
素人が力任せに暴れるのではないのだから、武術の技はきっちりと攻撃と防御がセットで組み込まれているものです。
防御を考えていない攻撃は脆いです。
ただでさえ攻撃の瞬間は防御が甘くなるのに、防御を完全に捨てた攻撃では、相手が避けたり受けたり耐えきったりしたら、自分が隙だらけになります。カウンター攻撃を決められたら大ダメージを受けるでしょう。
攻撃に繋がらない防御に先はありません。
どれだけ相手の攻撃を防いでも攻撃ができなければ勝てません。ただ耐えるだけの防御では攻め続けられるだけです。隙あらば反撃可能だからこそ相手も警戒し、結果的に有効な防御となるのです。
だから、武術の技に攻撃だけ、防御だけなどと言う中途半端なものはほとんどないはずです。
攻撃する技の中に相手の反撃に対する防御が含まれることは当然です。
空手でもボクシングでも、突き出した拳の反対側の手は頭部などの急所を庇う位置に置くものです。
防御の技も、ただ相手の攻撃を防いでダメージを減らすだけではありません。
相手の攻撃を受け流し、体勢を崩させて反撃を繰り出す隙を作ろうとします。そこまで考えて作られているからこそ技なのです。
防御を考えない攻撃などと言う特殊なものは、必殺技に分類されるでしょう。
相手の反撃能力を奪った後の必殺のタイミングで放たれる技。これならば防御は必要ありません。
あるいは、そのまま戦っても勝ち目がないと悟り、一発逆転を狙って放たれる大技。それでだめならばどのみち勝てないので、後先考えずに防御を捨てます。
物語でも、強大な敵相手に「防御を捨てた乾坤一擲の大技」で勝負をかけるという展開がよくあります。これってつまり、普通の技には捨てることのできる防御が含まれているということなのです。
改めて言うと、武術において攻防一体は当たり前なのです。
攻防一体でない技の方が、特殊な場面でしか使えない特殊な技なのです。
・居合
居合という言葉を知っている人は多いでしょう。
しかし、居合とは何かと問われても、刀を素早く鞘から抜いて斬り付けるくらいのイメージで、居合術とか居合道とか呼ばれる武術の体系を持った一つの流派が存在することを知らない人も多いのではないでしょうか。
創作物では洋風ファンタジーにも居合を登場させたりしますが、扱いはやはり素早い抜き打ちがほとんどです。
下手をすると、抜いて斬って鞘に納めるという動作だけで、技として考えているかも怪しい感じの作品もありました。
居合を技術として扱っている場合も、「鞘を使って剣を加速する技」と言ったところです。
現実の居合は、もっと理不尽なものです。
居合のコンセプトは、自分は刀を鞘に納めて柄に手もかけておらず、座った状態(居)で、既に抜身の刀を手にした敵に出会い(合)、その状態から敵に斬られる前に斬るというものです。
圧倒的に不利な状況を技術でひっくり返す。発想からして無茶です。
無茶を通すためにはあらゆるものを利用します。
刀が鞘に納まった状態から始めるのだから、鞘から抜く動作も攻撃の動作の一部に利用することは当然です。そして、相手よりも先に斬るために刀をできるだけ素早く振るでしょう。
しかし、刀の物理的な速度は攻撃を当てるための手段の一つに過ぎません。目的はあくまで相手より先のこちらの攻撃を当てることです。
武術における「速さ」は物理的な速度のことではなく、動作の終了時刻のことではないかと思うのです。
つまり、相手が防御や回避を行う前に届けばその攻撃は「速い」。逆に防御や回避が間に合ってしまえばその攻撃は「遅い」となります。
これがスポーツの場合、例えば百メートル走ならば、同じスタート地点から同時に走り始めて、百メートル先のゴールに先に着いた方が勝ちです。
しかし、武術の場合は先にゴールに到着することのみが重要で、過程は問いません。
走行妨害は当たり前。相手より先に走り出すフライングは当然のように狙うし、五十メートルの位置からスタートしたり、走り出してからゴールを変更するようないかさまだって可能ならやります。当然お互いに狙います。
スポーツでは純粋に鍛えられた肉体の能力を競います。百メートル走ならば百メートルをいかに短い時間で走れるかという限界に挑みます。
しかし、武術では肉体的に鍛えられる上限――生まれ持った才能では勝てない相手に勝つために創意工夫を行います。
そうした創意工夫の集大成が居合の「速さ」なのです。
最後にもう一点。
私は、武術には二つの側面があると思っています。
一つは命のかかった場面で使用する、人を殺す技術としての武術です。
これは本当にシビアです。いざという時に弱ければ、何もできないまま死んでしまいます。
だから、生き延びるために、大切なものを守るために、倒さなければならない敵を倒すために、あらゆる手段を講じます。
武術は目的を達するための一つの手段に過ぎません。必要ならば習い覚えた武術の技を投げ捨てて、体力とか根性とかただの運とかで勝負が決まることもあるでしょう。
物語で描かれる武術のイメージはだいたいがこれではないでしょうか。
もう一つが、師匠から弟子へ、過去から未来へと受け継がれる伝統技能としての武術です。
これはある意味、伝統芸能とか伝統工芸とかと同じです。
長い時間をかけて受け継がれ、少しずつ洗練されて行く技術。それは文化でもあります。
逆に、受け継がれなければ武術として成立しません。
百年に一人の天才にしか理解できない武術の技は伝えられることなく消滅し、ただ個人の武勇としてのみ残るでしょう。
如何にして技術を後世に伝え、文化として発展させていくか。個々の「凄い技」よりもこちらの方が武術にとってはよほど重大な課題なのです。
長く続いた伝統は尊いものです。
ただ、勘違いしてはいけないのは、単に昔と同じことをそのまま踏襲することが伝統ではない、ということです。
老舗の料亭などでは、先代の料理人の味をそのまま真似しただけでは常連さんに先代と比較され批判されることになるのだそうです。
伝統の意味を理解し、時代や状況に応じて必要ならば適宜変更を加え、時には自分の工夫を付け加える。そこまでやって伝統を守ることになるのです。
長い時間をかけ、多くの人の手を経てその時代に合った価値を生み出し高め続けてきたから伝統は尊いのです。
武術においても、伝統文化として後世に残そうとする活動は日々行われています。
中でも柔道は大成功した例だと思います。
柔道の創始者である嘉納治五郎は、別に柔道の凄い技で他の柔術の流派を下して行ったわけではありません。
元々は数ある柔術の流派の一つでしかない柔道を日本を代表する武道にまで押し上げたのは、嘉納治五郎が教育者としてとても優秀だったという点にあると思うのです。
柔道は近代化が進む当時の日本の状況に合わせて教え方を工夫しています。
例えば、神秘的なイメージもある武術の技を合理的な説明を加えて初心者にも分かり易く解説しました。
秘伝として一部の人たちの間でだけ伝えられてきた技術を広く大勢の人が学べるようにした功績は大きいでしょう。
また、柔道で食っていける状況を作り出したのもこの人です。
警察とか警備員とかで柔道を習っていると就職に有利になるようにしたり、柔道人口を増やしたことで柔道を教える仕事が成り立つようにしたりしています。
明治時代には日本でも武器や軍の組織が近代化して、戦場で武術が使われることは無くなりました。
武術そのものが過去のものとして消滅しかねない時代に、その時代に合った形で武術の価値を示し、広く一般に普及させて見せたのです。これは偉業です。
武の極みと言うと個人の強さに目が行きがちですが、ただ自分一人だけが強くなっても、それは化け物のように強い個人が現れただけであり、武術と呼べるものではありません。
その強さが技術として共有され、後世に伝えられて初めて武術として、伝統文化として成立するのです。
つまり、武を極めたその先にあるのは、後進の育成ではないでしょうか。




