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駄文庫  作者: 水無月 黒


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誤用だ! 誤用だ!

いいねありがとうございます。

 世の中には勘違いされていたり、誤解されたまま使われている言葉がたくさんある気がします。

 思いつくままに書いてみました。


・走馬灯

 走馬灯というと、人が死ぬ直前の一瞬にこれまでの人生を回想する現象のことだと思っていませんか?

 走馬灯というのは紙灯籠の一種です。

 描かれた模様や絵が中の蝋燭などの明かりで影絵となって、回転しながら映る仕組みになっています。

 別名、回り灯篭。

 「死の間際にこれまでの人生が走馬灯のように浮かんでは消える」

 と言った表現が有名ですが、「浮かんでは消える」部分を走馬灯で例えただけなので、別に死の間際に限定したものではありません。

 「走馬灯」だけで縁起が悪いとか言わないであげてください。


・方便

 嘘のことではありません。

 仏教の用語で人を教えに導くための方法のことです。

 「嘘も方便」は例え話とか、実在しない逸話などを利用して説明することではないかと思います。

 嘘ならば方便でも、方便ならば嘘でもありません。

 当然、人を騙す嘘をついても方便だと言えば許されるというものではありません。


・百聞は一見に如かず

 たまに、「視覚は聴覚よりもずっと情報量が多い」と言う意味でこの言葉を引き合いに出す人がいますが、それは間違いです。

 百聞の「聞」は伝聞の意味で、人伝に間接的に話を聞くよりも、直接自分で見聞きした方が正確で確実だということです。

 誤用を承知の上で視覚情報の重要性を訴えるだけならまだよいのですが、誤解を招くような使い方もあります。

 例えば、目撃者の証言をもとに作った再現フィルムや、CG合成したイメージ図などを示して、

 「百聞は一見に如かずと言いますが、映像で見ると分かりやすいですね。」

 みたいな台詞は完全に誤用です。画像にしたところで伝聞は伝聞、それは「百聞」の方なのです。

 事件の現場を撮影した監視カメラの映像ならば「一見」に近いですが、証言をもとに作った再現フィルムは不明な部分を想像で補った創作物です。役者の演技しだいで印象がガラッと変わる可能性があります。

 嘘や誤解や勘違い、誰かの勝手な解釈の入り込む余地のある伝聞を、真実をそのまま反映した一次情報であるかのように扱うことは非常に問題があるでしょう。


・転がる石には苔が生えぬ

 この言葉を「転がる石になるべき」と解釈しますか?

 それとも、「転がる石になってはならない」と解釈しますか?

 「転がる石になるべき」と解釈した場合、「転がる」は新しいことに挑戦するという意味になります。「苔」は動きを妨げる邪魔者と言ったところでしょうか。

 失敗を恐れず、常に新しいことに挑戦し続けていれば、世の中の変化や想定外の出来事にもきちんと対応できる柔軟性を失わない、と言った意味でしょう。

 一方、「転がる石になってはならない」と解釈した場合には、「転がる」は逃げるという意味になります。

 日本では「苔」は財産の象徴だそうです。「君が代」も「苔の()すまで」で終わっていますが、これは苔にまみれて朽ち果てた様子ではなく、豊かに苔を蓄えてそのまま御神体にでもなりそうな巨石のイメージです。

 少しばかり上手くいかなかったからと言って仕事を投げ出すようなまねを繰り返していたら、いつまで経っても財産などは身に付かない、という意味です。

 この場合の財産は、金銭的な意味だけではなく、技術とか信頼とか言ったものも含まれるでしょう。

 調べてみると、元々はイギリスのことわざで、「転がる石になってはいけない」方の意味のようです。

 ところが、アメリカでは同じ言葉が逆の「転がる石になるべき」と言う意味で使われているそうです。

 元々ヨーロッパから転がり出た人が中心になって作ったのが今のアメリカと言う国ですから、常に新天地を求める気風が尊ばれたのでしょう。

 日本にこの言葉が入って来たのは大正時代辺りだそうで、意味は英国式です。日本古来の考え方とも一致したのでしょう。

 また、戦後に入ってからはアメリカとの交流も密になったことで、米国式の解釈も広まって行ったのだと思います。

 つまり、どちらの意味で使っても誤用と言うわけではありまわせん。英国式か米国式かの違いです。

 逆に言うと、どちらの意味で使っても反対の意味にとられる危険性があります。要注意です。


 ところで、一見同じ言葉を正反対の意味で使っているように見えますが、考え方次第では結局同じことを言っているのかもしれません。

 どちらの解釈でも、安易な選択をして楽な道を選ぶことを戒める言葉だと考えることができます。

 例えば、「転職を繰り返すこと」は「転がる石」の典型的な例でしょう。

 「転がる石になってはならない」解釈の場合、ちょっと失敗したり嫌なことがあるとすぐに仕事を投げ出して辞めてしまう情景を想像するでしょう。

 いわば逃げの転職です。再就職しても長続きしないから、何度でも同じことを繰り返してしまいます。

 「転がる石になるべき」と解釈している人でも、このような自堕落で場当たり的な生活を推奨はしないでしょう。

 むしろ、まともに働く気もないその日暮らしをずーっと続けているという意味で、悪い意味での「転がらない石」と言えるでしょう。

 一方、「転がる石になるべき」と解釈した場合、「転職を繰り返すこと」は様々な職業を体験して技術や知識、人脈を作る行為として肯定的にとらえるのではないでしょうか。

 ただ行き当たりばったりに雇ってくれるところに就職するのではなく、明確な目的や目標を持ってそれに見合う仕事を探して働く。

 辞める時も仕事を投げ出したり辞めさせられるのではなく、次の仕事をするために周囲に惜しまれながらも自発的に辞める。

 同じ職場で仕事を続ければ安穏とした生活を送れるとしても初志貫徹して次の仕事に移る様は、周囲の状況に流されないという意味で「転がらない石」と言うこともできます。


 同じ言葉でも複数の解釈ができるように、同じ状況でも解釈次第でどんな言葉を当てはめるかは変わります。

 表面的な状況や言葉の綾に囚われずに、その本質的なところを見極めたいものです。


・年の功

 「年の功」と言う言葉を、年長者が無条件で偉いというニュアンスで使っていないでしょうか?

 それは間違いです。

 例えばここに年配の熟練職人がいたとします。

 既に年老いて体力も腕力も若者に劣り、視力や聴力も衰えているはずなのに、物を作らせたら誰よりも速く正確に奇麗に仕上げます。

 若者の追随を許さない熟練の技を見せつけた達人がこう言うのです。

 「なあに、年の功さ。」

 この言葉は謙遜です。

 凄い技を披露できたのは、何も自分が特別な人間だとか、他人には無い才能を持っていたということではない。

 自分が特別偉いのではなく、研鑽を積んで来た年月の功績である。

 そう言った謙遜の意味で「年の功」なのです。

 もしかすると若い者たちに対して、「お前たちもいずれはこのくらいできなければならないんだぞ!」という戒めの意味もあるのかもしれません。

 ただ年上なだけではなく、その年月をかけて行って来た研鑽こそが重要なのです。

 「亀の甲より年の功」と言う言葉もあります。

 亀の甲羅は古代において亀卜(きぼく)で用いられた占いの道具です。つまり占いに頼るよりも、経験豊富な専門家の意見を聞くべきだという意味になります。

 また、謙遜の言葉であると考えると、年長者に「さすがは年の功」と言葉をかけることは実は失礼な行為なのです。

 謙遜の言葉を他人に向けて使うのは間違っているのだから当然です。

 「さすがは年の功」に対して「そんな年じゃない!」とか「年寄扱いするな」等と年齢を問題にして返すパターンもありますが、それとは別に「経験年数が長いのだからそれくらいできて当然で、あなたが特別偉いわけではない」という意味合いになってしまうのです。


・小遣い

 子供の頃、親から小遣いをもらっていた人は多いでしょう。

 子供に小遣いを与えられないほど貧しい家庭と言うのはそもそも子供を育てられるのか疑問です。

 逆に凄い大金持ちで、言えば何でも買い与えるとか、限度額無制限のクレジットカードを渡してあるから現金を使わない子供などと言うのはマンガの中の話でしょう。

 子供の小遣いは、お金の管理や使い方を学ぶためのものでもあります。

 一方、大人になってからも小遣いを受け取る場合はあります。

 ……別に成人してもなお親の脛を齧り続けるという話ではありません。

 働いて得た給料を一旦家庭の財産として家計に入れ、そこから一部を小遣いとして普段使いの財布に入れるというものです。

 このことから、「家計に入れたお金は家庭全体のために使用するもの、自分のために好きに使ってよいお金が小遣い。」と言うイメージを持っている人が多いのではないでしょうか?

 小遣いの本来の意味は違うと思うのです。

 「小遣い」と言う字をよく見てください。()う金額が()さいことが小遣いの本質なのです。

 家計を管理するために家計簿をつけて出費を管理することは基本ですが、細かすぎる買い物を全て記録するのは大変です。

 筆記用具を忘れて慌ててその場で買ったシャーペン一本。

 暑かったので自販機で買って飲んだジュース一本。

 突然雨に降られたのでコンビニで買ったビニール傘。

 そのような細々として物を、それも家族全員分全てを家計簿に記載するのは困難でしょう。

 しかし、少額の品でも数が集まると無視できない金額になります。毎日出勤前に喫茶店で五百円のコーヒーを飲めば、月に一万円くらいになります。

 そこで細々とした出費をまとめてこのくらいだろうと、予め家計から分けて管理するのが小遣いなのです。

 だから、本当は小遣いを貯めて高価な買い物をするというのは間違っています。家族に内緒で、あるいは文句を言わせずに高い買い物をするために小遣いを利用するのは、言ってみれば裏技です。

 また、自分だけの趣味や楽しみのための出費に対して、「そういうものは小遣いから出すべきだ」と言う主張も間違っています。

 それなりの金額で、種類や数が多すぎないのならば家計で管理しても良いのです。

 あるいは、家庭全体の出費と、家族それぞれの個人的な出費を分けるならば、「小遣いから出すべき」ではなく「自分の財布から出すべき」と表現する方が正しいでしょう。


・先手必勝

 この言葉は真理です。

 詰将棋や詰碁でも後手で行うことはありません。先手として勝利を決定する一手(詰碁の場合は生き死にを決める一手)を打ちます。

 しかし、物語的には先に手の内を見せた方が負けるパターンが多いので、後手の方が強いのではないか? と言うイメージを持っている人も少なからずいると思います。

 物語の場合は、話の都合の要素が強いです。まず敵側の攻撃で凄い強さを見せつけ、ピンチになった主人公側が大逆転することで物語を盛り上げるのです。

 それとは別に、先手という言葉に対する誤解があるのではないかと思います。

 先手とは、単に先に攻めることではありません。

 詰将棋の場合、攻め手は必ず王手をかけ続けなければなりません。受け手側の持ち駒は、攻め手側の王と持ち駒以外で盤面に現れていない駒の全てです。たとえ一手でも受け手側に余裕を与えてしまえば、盤上のどこかにいるはずの攻め手側の王に対して王手をかけられてしまいます。

 相手が一時的にでも放置できるような手を先手とは言いません。

 相手が無視できない一手。相手はこちらの打った手への対応に追われることになる、そんな一手を先手と呼びます。

 逆に、後手に回るとは相手の打った手への対応で手一杯になり、自分のやりたいことができない状態です。

 詰将棋では王手をかけ続けることが先手でしたが、ものによっては攻撃だけが先手ではありません。

 例えば守りを固めて相手が攻めきれないようにするとか、逃げ回って翻弄するとかでも相手にとって無視できないならば先手になり得ます。

 先手を取るとは主導権を握ることです。

 先手必勝とは、主導権を握り続けた方が勝つということです。


・性善説と性悪説

 世の中、タイトルを聞いただけで中身を理解した気になって、変な誤解をするということがよくあります。

 この「性善説」「性悪説」というのも中身を知らないまま誤解している人が多いのではないでしょうか。

 「性善説の正体」の回でも触れましたが、性善説と性悪説はどちらかが正しければもう一方は間違っているといった相反する関係ではありません。

 性善説は悪人が存在しないとは言っていませんし、性悪説も人の善性を否定しません。

 物凄く単純化すると、二つ合わせて「人には善い面もあれば悪い面もある」といった感じです。

 人には善いことをしたい気持ちがあるからそれを引き出せというのが性善説。

 人は放っておけば何か問題を起こすから対策をしておけというのが性悪説。

 いずれも政治的な思想です。

 たまに「ここは性善説で考えて~~」みたいな表現で、悪いことをする人がいない前提を置くことがありますが、これは間違いです。

 性善説は悪人が存在しないことを保証しません。

 そもそも、「性善説が正しければ悪人は存在しない」のならば、現実に悪人が存在している以上、性善説は間違っているということになってしまいます。

 性善説で考えるならば、どのようにすれば善い行いになるのかを知らしめる啓蒙活動等を行うことになるはずです。

 家庭でできるCO2削減方法とか、マスクや手洗いをするといった感染症対策とか、こういう場合はこうすればこうすれば善いということを周知すれば、善いことをしたいと考える大勢の人が実行するだろう。それが性善説の考え方です。

 一方、「性悪説で考えて~~」のように性悪説を引き合いに出す会話は聞いたことがありません。

 しかし、性悪説に通じる考え方は世の中に色々とあります。

 性悪説で言う「悪」は結果的に良くないことを示し、そこに悪意の有無は関係ありません。

 人の生来持っているものだけでは社会を上手く回して行けず、何らかの不都合が生じるというのが性悪説です。

 例えば、「ポカヨケ」は性悪説であると考えられます。

 人間どけだけ注意していてもポカミスをやらかしてしまいます。ポカミスを「悪」ととらえれば、人は自然なままでは「悪」を避けられないと言う性悪説に一致します。

 つまり、ポカミスは避けられないから、その前提で対策をしておけと言うことです。

 また、先ほど性善説の例として挙げた啓蒙活動も性悪説から導き出せます。

 人の生まれ持った本能だけでは何をどうすれば善い行いになるのかを知ることはできません。

 生来備わっているものだけでは善は成せない、このことを「性は悪」と表現します。

 生まれつきだけでは足りないから、後天的に学習してどうすれば善いことができるかを学ばなくてはいけない。

 つまり性悪説で考えても啓蒙活動は必要になるのです。

 性善説で考えても、性悪説で考えても同じ結論に辿り着く。面白いと思いませんか?


・偽善

 偽善とは何でしょう?

 多くの人が思うのが、上辺だけの善行、善意からではなく何らかの打算や人を助けてやっているといった優越感等のために行っている行為と言ったところでしょうか。

 誰が言ったのかは知りませんが、「成さぬ善より成す偽善」などと言う言葉もあります。

 行為そのものは善行と呼べるものであり、しかしそこに善意はない、そんなイメージではないでしょうか。

 しかし善意の有無が問題なのだとすると、偽善を見分けることは困難になります。

 善行やそれによって得られた名声を隠れ蓑にして裏であくどいことをしていたとか、助けた人を見下すような発言をしていたとか、客観的な証拠があれば偽善であると言い切ることもできるでしょう。

 しかし、純粋な善意で善行を行う人と自己満足のためにやっている人が全く同じことをしていたら、外から見て見分けることはできません。内心が日頃の言動に滲み出ているとしても、身近な人以外は分からないでしょう。

 そして厄介なことに、「それは偽善だ!」「この偽善者め!」と言った非難や罵倒は善意のかけらもない人には響きません。

 善意で行っているつもりがあるからこそ、誤解されれば悲しいし、自分の行為は偽善なのかと悩むのです。最初から偽善であることを自覚し、善行を目的のために利用している人ならば、その程度の非難では心を痛めません。

 そもそも、「偽善」という言葉の入る余地のない完全無欠な善行というのも不自然ではないでしょうか? 私利私欲のない完璧な善人なんて存在するでしょうか?

 人を偽善者呼ばわりする行為は、実質的にあまり意味の無いレッテル貼りだと思います。

 重要なのは、その善意が本物かではなく、善行に隠れた悪行が無いか、善行を盾に迷惑行為をゴリ押ししてはいないか、という点ではないでしょうか。


 それからもう一点。

 ここまでの話は偽善と呼ばれても行為自体は善い行いであることが前提になっています。

 しかし、本当に危険な偽善とは、悪しき行為を善行であるかのように見せかけることではないでしょうか。

 例えば第二次世界大戦の末期、特攻が行われました。今の世の中ならば兵士の命を徒に損なう非人道的な作戦として非難されるでしょうが、当時は過大に戦果が報じられたこともあり熱狂的に支持されていました。

 国のため、祖国の人々を守るため命を賭して強敵を倒すというのは美談です。しかし、命を捨てることを強要するならばそれはただの生贄です。

 特攻の場合、建前上は志願者に行わせるという点も(たち)が悪いです。味方を確実な死へと追い込む悪質な行為を、自ら命を捨てて国を守った英雄と言う美談にすり替えています。

 本来ならば悪行であることも、善いこと正しいことと思わせてしまう。これこそが最も危険で悪質な「偽善」ではないでしょうか。

 別に戦時中という特別な状況でのみ起こることではありません。

 人を傷つけかねない悪質なデマを、「それが本当ならば一大事」と善意で拡散する人がいます。

 海外では妙な陰謀論にはまって、罪もない人を極悪人と思って襲撃する事件も起こっているそうです。

 ヘイトスピーチは国やら人種やら民族やらの括りで人を差別し悪しざまに言う行為ですが、やっている本人は「あいつらが悪いのだから自分は正しい」などと思っているのではないでしょうか?

 最近ではウクライナ情勢に関連して、ロシア料理店が非難されたり嫌がらせを受けたりすることもあるそうです。

 善意でもって悪意を広め、正義を振りかざして人を傷つける。上辺だけの善行と言う意味での「偽善」よりもよほど恐ろしいことです。

 悪行を善行に偽装した「偽善」は、善意でそこに乗っかってしまっても加害者になります。

 知らずに偽善に加担する加害者にならないように気を付けたいところです。


・内弁慶

 誤用でも誤解でもないですが、ちょっと思いついたのでここに書いておきます。

 内弁慶とは、家庭内では勇ましく威張り散らしているけれども、家の外ではおとなしく意気地のない様子です。

 要は、多少の無茶も許してもらえると分かっている身内にだけは強く出られる、ある種の甘えでありみっともない姿です。幼い子供ならばともかく、いい年をして内弁慶と言うのは恥ずかしいことです。

 ここでふと思いました。

 内弁慶の逆、言ってみれば外弁慶ならば立派な人なのでしょうか?

 家庭内では優しいパパだけれど、家の外では家族を守るために猛然と戦う企業戦士……とかだったらちょっとカッコいいかも知れません。

 しかし、内弁慶の内と外を逆にしただけではそんなに格好良くはなりません。

 例えば、支配的な毒親に逆らえずに家の中ではおとなしいが、外ではその鬱憤を晴らすべく立場の弱い相手を見つけて苛め抜く陰湿ないじめっ子。

 あるいは、我が子には甘くて悪いことをしても叱りもせず、一方で外部、例えば学校などに対しては理不尽な要求をしつこく繰り返すモンスターペアレント。

 社会的に見れば、内弁慶よりも外弁慶の方がよほど面倒だと思いませんか?

 検索してみると、「外弁慶」と言う言葉も最近使われているらしいです。内弁慶の逆の意味で、育児関係などで使われているみたいです。

 親の前でだけは良い子になる「外弁慶」の子供は、子供なのに親に甘えられないということで家庭環境にちょっと問題がありそうです。


 それにしても、威張り散らしている乱暴者の代名詞にされた武蔵坊弁慶がちょっぴり不憫です。



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