常識の話
例えば、世紀の大発見や世界を変える大発明、これまでにないビジネスで大成功した等の偉業を成し遂げた人に対して、「常識を打ち破った」「常識にとらわれない発想で」「業界の常識を知らないからこそできた」と言った言葉で賛辞が送られることがよくあります。
その一方で、「非常識な人」「常識を知らないのか!」「そのくらい常識だろう!」といった非難や罵倒も日常的に使われている言葉です。
果たして「常識」とは知らない方が良いものなのでしょうか? それとも知っていなければならないものなのでしょうか?
そもそも、常識とは何なのでしょう?
まず、常識であることは正しいことを保証しません。
もしも常識が常に正しいのならば、「常識を打ち破った」とか「常識を覆した」とかした人は、間違ったことで偉業を為したことになってしまいます。
ダイエットとか健康法とかの常識って、しょっちゅうひっくり返っていると思いませんか?
また、常識であるならば誰もが知っていて当然、ということもありません。
「日本の常識は世界の非常識」なんてことを言う人もいますが、別に日本が特別世界の中で他の国と違っているということではありません。場所が変われば文化風習も変わり、常識も変わるというただそれだけのことです。
日本国内でも関東と関西など結構地域差があったり、世代で常識に違いがあったり、業界毎に常識があったり、男女で常識が違うことだってあります。
常識の通用する範囲は意外と狭い。そう思っていた方が良いでしょう。
正しいとは限らない、誰もが知っているとは限らない、これは逆に言うと、正しいからと言って常識だとは言えないし、多くの人が知っているからと言って常識であると断定できません。
また、正しくないからと言って常識ではないとは限らないし、知らない人がいるからと言って常識ではないとも言い切れません。
あなたが常識だと思っている事柄は、何を根拠に常識であると言えるのですか?
これ、真面目に考えてみるとかなり難しい問題です。その事柄の正しさをいくら示してもそれが常識であることの証明にはなりません。
辞書的な意味で言えば「常識」は、以下のようになります。
客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
「非常識」と非難されるのは、一般的な社会人として当然もっているべき知識や判断力が欠如していることを責めているのです。
「常識を打ち破った」ことを称賛される場合は、当たり前のことと思って深く考えなかった事柄の中に新しい有益な事実を見つけ出したケースです。
知らなくて非難される常識と、覆して称賛される常識とでは少々性質が異なります。
知らないと非難される常識は、社会のルールのようなものが多いです。この手のルールは正しいか間違っているかではなく、皆で同じルールを守ることで不要なトラブルを避け快適に生活できるという側面があります。
例えば、日本では車は左側通行、アメリカでは右側通行ですが、どちらが正しいということはありません。「海外では右側通行が常識だから、俺は日本でも右側通行で走る!」なんてことをやったら事故を起こしてしまいます。
車の左側通行は法律で決まっていることですが、もっと些細で日常的なルールでも守らない人がいると周囲に迷惑が掛かります。
皆で並んで順番待ちしている所に、「俺は常識に縛られない!」とか言って割り込む人は、常識を打ち破ったのではなく単なる自分勝手なわがままです。
一方で、常識を打ち破って称賛されるのは、「そんなことは不可能だ」と思われていることを成功させたり、「これが最も良い方法だ」と思われていたことよりもさらに良い方法を見つけたような場合でしょう。
つまり、常識外れに挑んでも本人が苦労するだけで周囲に対してはさして迷惑にならない場合が多いのです。
常識と似たような言葉に、「社会通念」があります。辞書によっては、常識→社会通念のこと。社会通念→常識のこと。みたいに書かれているかもしれません。
社会通念と言った場合、広く社会一般に通用する知識や考え方のようなイメージがあります。実際、裁判などで「社会通念上~~」と言う表現をする場合は、国内だいたいどこでも通用するような事柄を指すでしょう。
しかし、先にも述べたように常識の通用する範囲は意外と狭い場合もあります。下手をすると「町内の常識」とか「我が家の常識」みたいなものもあり得ます。
社会通念は常識の中でも特に社会生活を送る上で知っているべきもので、かつ広い範囲に浸透しているものを指すのでしょう。
社会通念よりも常識の方が範囲の広い言葉だと思います。
ここでもう一度、「常識とは何か」を考えてみます。
多くの人が「当然のこと」「当たり前」と思っていることが常識と呼ばれることは間違いないでしょう。
しかし、自分が常識だと思っている事柄を、どのくらいの人が当たり前のことと思っているかを調べる人は滅多にいません。
何が常識かなどと言う話題は日常会話ではなかなか出て来るものではありません。狭い範囲でしか通用しない常識を、世間一般どこでも誰にでも通用すると思い込んでいてもおかしくありません。
もう一つ厄介なのが、「みんながそう言っている」という場合の「みんな」が意外と少人数だったりすることがあります。極論すれば、身近な二~三人が同じようなことを言っていれば「みんながそう言っている」と感じます。
新興宗教やカルトなどにはまると、かなりとんでもないことを信じ込んでしまうことがありますが、同じことを言う人達に囲まれて「みんながそう言っている」状態でそれが常識になってしまうからです。
陰謀論を信じ込んだ人は、信じた内容に都合の良い情報を選択的に見て、都合の悪い情報を無意識にカットします。その結果、「みんながそう言っている」状態になりますます信じ込むようになります。
他とあまり交流のない小さな地域内で生まれた共通認識は、外には伝わらない代わりにその地では常識となります。
学校、職場、趣味の集まりなど、主に特定のコミュニティー内だけで話される話題は、人数が少なくてもそのコミュニティー内の常識になります。
親兄弟が同じことを言っていたら、子供は疑うことなく信じるでしょう。家庭内での常識が生まれます。
世の中には大小様々な常識が存在します。
もしかしたら、自分一人しか知らない常識などというものもあるかもしれません。
さすがに一人だけの常識を世間一般では常識として認めないでしょうが、ある人が常識だと思っていることを常識ではないと否定することは困難です。常識の一覧表とかありませんから。
一人だけの常識だと思っていたことが、どこかの地方や別の国では皆が常識だと思っているかもしれません。
そもそも、何人以上常識だと思っていれば常識と認められるという決まりはありません。
一般的に知られた常識かどうかを調べようとしてアンケートを取って行ったら、そのことで有名になって常識として定着するなどと言うこともあるかもしれません。
細かく見て行くと、常識かそうでないかの境界は曖昧です。
ある人が常識だと思っている事柄が、ある範囲では常識と認められ、ある範囲では常識とは考えられないという区別があるだけかもしれません。
そこでちょっと考え方を変えてみます。
どのような知識や考え方が常識なのかを考えるのではなく、その知識を人がどのように扱うのか。
そういう観点から考えると、常識とは「日常的に使用している知識のこと」ではないかと思い至りました。
つまり、常識と呼ばれる知識があってそれを学ぶのではなく、日常的に繰り返し使用されて条件反射のように出て来る知識のことを常識と呼ぶのです。
例えば、防犯も兼ねて町中で人に会ったら挨拶するという運動を推進している地域があります。その運動に参加していたとして、町を歩いていて人に会い、そのまますれ違って相手が見えなくなってから「あ、挨拶するんだった」と思い出しても手遅れです。
あるいは、ガソリンなどの引火しやすい可燃物が置いてある場所では火気厳禁です。ライターで火を点けてから「ここは火気厳禁だった」と思い出すような真似を繰り返していたら、いずれ火事になります。
日常的に使用する知識や考え方は、「こういう場合はこうする」と途中を省いて結論を出します。いちいち考え込んでいたらきりがないし、咄嗟に間違えたり失敗したりするかもしれません。
特に間違えてはいけない重要な事柄は、考えなくても正しい行動ができるくらいになる必要があります。
つまり、常識にする必要があります。
「非常識」であると非難されるのは、常識を持っていないからという曖昧なものではなく、問題を起こさないために必要不可欠な知識を常識レベルで身に着けないまま行動している点だと思います。
ガソリンスタンドの店員が火気厳禁を知らずに給油をしながらタバコをふかしていたら。
料理店の店員が衛生概念も知らず床に落ちた料理をひょいとさらに戻して客に出したら。
「知らなかった」では済まされません。「その程度のことも知らないなら、その仕事をするな!」あるいは「教育が終わるまで客の前に出すな!」と言われるでしょう。
職業関連だけではありません。
車を運転する時に交通法規を常識にしておかなければ事故を起こすでしょう。道路標識を見たり、対向車と衝突しそうになってから「この場合どうするんだっけ?」と考えていては遅いのです。
公共の施設を利用する場合は、利用するためのルールやマナーを守る必要があります。さもないと誰かに迷惑をかけたりトラブルになったりします。頻繁に利用する施設ならば、利用方法も常識にすべきでしょう。
隣近所との交流は、節度とか距離感とかを間違えるとトラブルになります。問題を起こさないように互いに気を使っていれば、自然と付き合い方のルールができます。日常的に顔を合わせる相手だから、それが常識になります。
重要なことは、知らないだけでも非常識と非難される類の常識は、理由や根拠がちゃんとあるということです。
事故を起こさないため、あるいは互いに迷惑をかけないため、ルールや手順が存在しているのです。
もしもその「常識」を知らない非常識な人がいたら、「常識なのだから従え」ではなく、その「常識」が必要な理由をきちんと説明してください。
誰もその理由を説明できない場合、その「常識」が形骸化している可能性があります。
ただ忘れられているだけでちゃんとした理由があり、今でも機能しているのならば問題ありません。しかし根拠の前提が失われていて無意味な行為になっていたら、それは常識ではなく迷信になります。
例えば、ガソリンスタンドは火気厳禁です。直接給油している近辺だけでなく、敷地内は原則火気厳禁です。ガソリンスタンドを利用する人は常識にしなければなりません。
しかし、そのガソリンスタンドが廃業して、跡地が住宅になったのにもかかわらず、火気厳禁の「常識」だけが残ったらどうなるでしょう?
ガスコンロも使えない家が出来上がります。この場合の常識は、明らかに迷信です。
たまには常識の意味も考えてみないと、「雨天決行で雨乞いの儀式を行う」みたいな意味不明なことを行ってしまうかもしれません。
それからもう一点。
「素人は怖い」とよく言われます。
この言葉を、「何も知らない素人だからこそ常識にとらわれない新しいことができる」みたいに考えている人はいませんか?
前向きに考えることは良いことですが、安易に考えているのならば要注意です。
特に知らないことを武器であると考え、素人考えをガンガン推し進めようとする人が身近にいると厄介です。仕事上の上司や顧客がこのタイプだと、無茶振りされて無理であることを説明するのに四苦八苦することになります。
素人の怖さの本質は、火薬庫で火遊びするような怖さだと思うのです。
例えば、ド素人の営業が、開発中の新製品の売り込みに顧客となる企業を訪問して回ったとします。
開発中の製品であることをいいことに、顧客の要望や他社製品との比較であれもできる、これもできる、できなくてもできるように作らせると安請け合いをし、更にガンガン値引きをして契約を取ってきたとします。
これ、当人にとっては「営業の常識にとらわれずに素早く契約を取って来て大成功」のつもりかもしれませんが、会社にとっては大迷惑です。
採算の取れない契約をいくら取って来ても利益は上がらず、下手をすれば働けば働くほど損をします。
開発側も突然無茶な要望をねじ込まれて、コストが増大したり、納期に間に合わなくなったり、品質が悪化したりすることもあります。
期待した製品が出来上がらなければ顧客にも迷惑が掛かります。
採算を度外視した値引きは、ダンピング扱いで違法行為に当たる可能性もあります。
ここまで極端な営業を許す会社はまずないでしょうが、ただ常識を外れただけでは上手くいかない可能性の方が高いのです。
素人の恐ろしさとは、周囲を巻き込んで自滅しかねない点ではないでしょうか。
常識から外れただけで成功するという保証はどこにもありません。
根拠を失って迷信化した常識や、最初から意味の無い思い込みばかりではありません。根拠のある常識ならば、安易に逸脱すれば当然問題が発生します。
それに、たとえ意味を失っていたり、悪い側面のある常識だとしても、その常識から外れるだけで成功するとは限りません。そんなに簡単に上手くいくならば誰かが既にやっているものです。
常識を打ち破るためには、常識にとらわれなかったり常識を知らないだけでは不十分です。
常識にとらわれないためには、常識だから正しい/間違っているという判断を行わず、なぜそれが常識になったのか、その常識が正しい範囲や条件は何かを見定める必要があります。そして、常識の通用しない領域を試行錯誤しながら求める成果を出さなければなりません。
常識を知らない人は、常識から自由です。しかしそれは、何から始めてどこへ向かえばよいかと言った指針が全く無い状態です。先人が常識になるまで試行錯誤した成果を利用できず、一から模索する必要があります。
当然、偉業を成し遂げた人はそれに見合う努力をしているものです。その努力の一部でしかない「常識を疑ってみる」「常識の逆をやってみる」等だけを真似しても意味がありません。
後になって思えば簡単なこと、と思えるのは正解を知ったからにすぎません。
正解から逆算すれば簡単に思えることでも、その正解を見つけ出すまでには無数の可能性を手探りで模索しなければならないこともよくあります。
常識から外れた無数の可能性の中には、成功よりもはるかに多くの失敗が存在するものです。
最後に余談を一つ。
一見簡単に見えても最初に思いつくのは大変なことのたとえに、「コロンブスの卵」という言葉があります。
しかし、コロンブス自身は安易な思い付きで失敗した人なのではないかと思っています。
コロンブスが大西洋を西に進んで行ったのは、地球は丸いから西に進んで行けば遥か東の国である日本に着くと考えたからです。
黄金の国ジパングを目指したのはスポンサーから資金を得るための口実でもあるのでしょうが、地球の大きさを随分と小さく見積もっています。
アメリカ大陸に到着した時に、「日本を通り越してインドまで来てしまった」と思った(だからアメリカの先住民を「インディアン」と呼ぶようになった)そうなので、本来の半分以下のサイズで考えていたことになります。
これはコロンブスの問題というよりも、当時知られていた世界がそれだけ小さかったという側面もあるのでしょう。しかし、地球が丸いことは古代ギリシャ時代から知られていて、紀元前にはエラトステネスが地球の大きさを測っています。
コロンブスは都合の悪い情報を無視して、成功する可能性にかけたのかもしれません。
いずれにしても、西周りで日本に到達することはできませんでした。余計に大回りになることが分かっただけでも大きな成果ですが、当初の目的は失敗しました。
西周りに航海して日本までの航路をショートカットする目論見は潰えましたが、代わりにコロンブスはアメリカ大陸に到着します。
それまでヨーロッパの人々に知られていなかったアメリカ大陸に行く航路を発見したことは偶然の産物です。コロンブスは新大陸を探していたわけではありません。それでも大西洋の西に向かう価値はないという常識を覆しました。
今の世界地図を見れば、大西洋を西に進めば誰でもアメリカ大陸に行きつくと思うかもしれません。しかしそんなに簡単なことではないのです。
大西洋を横断する航海はコロンブスが予想したよりもはるかに長く困難なものだったでしょう。予想以上の長い航海に耐えられるだけの準備と未知の海域を進む航海技術あってこそ成し遂げられた偉業です。
地球の大きさを甘く見積もったまま、準備が不十分な状態で海に出たら、途中で引き返すか海の藻屑になっていたでしょう。
コロンブスの凄いところは、大西洋を西に向かう航路の有用性を認めさせ、国の許可を得たり資金を出させたりしたことではないでしょうか。
ただ、アメリカ大陸にやって来たコロンブスが行ったことは、インド人だと思い込んでいた平和で友好的な先住民に対する略奪と殺戮です。
日本にコロンブスがやってこなくて本当に良かったと思います。




