表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
駄文庫  作者: 水無月 黒


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/58

神を考える

ブックマーク登録及び評価設定ありがとうございます。

「いいね」もありがとうございます。テーマもバラバラなエッセイなので、どの話が面白かったか参考にさせていただきます。

 神を定義することはできないか? そんなことを考えたことがあります。


 世の中には水掛け論になりやすい話題というものがあります。

 互いに自説を主張するばかりで話のかみ合わない議論というものは、対象をしっかりと定義して共通の認識を持たないために議論がすれ違う場合も多いのではないでしょうか。

 「神」に関する議論もその傾向があると思うのです。

 同じ宗教、同じ宗派の者だけならば共通の認識もあるでしょう。しかし異なる宗教間では神の概念も違ってくるでしょう。

 一神教と多神教、人格神と非人格神、何でもできる万能の神と決まったことしかできない神、恵みを与える神と災厄をもたらす神。

 宗教や神話によって神の性質も様々です。全部同じ「神」でまとめてしまったら混乱しても不思議はありません。

 日本では神と妖怪の境界が曖昧ですし、一神教などでは土着の神を天使や悪魔の形で取り込んでいる可能性もあります。

 ちゃんと定義できなければ、「それは本当に神なのか?」と言う部分で議論が止まりかねません。


 結論から言うと、私の神を定義する試みは失敗しました。

 おそらく世界中の誰もが認める神というものは存在しません。

 昔ネット上で、「あらゆる宗教の教義を調べて、その上位互換の宗教を作った」みたいな主張を見かけた記憶があるのですが、この手の試みはまず失敗します。

 あらゆる教義の最大公約数を取れば、「重要な部分が抜けている!」と言って認めない人が出て来るでしょう。

 逆に最小公倍数にすれば、余計なものがごてごてと付いて、下手をすれば矛盾を生じる受け入れ難い教義になります。

 例えば、十字架を背負った仏像を作ったとしても、キリスト教も仏教も「これは違う」と言うでしょう。複数の動物の要素を持つキメラは、そのどの動物とも別の存在なのです。

 結局のところ、色々な宗教をチャンポンにした新興宗教が一つ出来上がって終わりです。

 同じように、神の定義を作っても、自分の信奉する神を神として認めないような定義ならば、認める人はいないでしょう。

 しかし、世界中で信じられているあらゆる神を神と認めるために条件の緩い定義を作ると、およそ神とは思えないようなものまで神に含まれる恐れがあります。

 例えば信奉者がいれば神だとするのならば、悪魔崇拝者(サタニスト)が存在する以上は悪魔も神になってしまいます。

 そのような定義を作って何の役に立つのか? よく分からなくなって挫折しました。


 失敗したとはいえ、色々と考えてはみたのです。

 例えば、神を分類してみました。こんな感じです。


 1)哲学的な神

 2)宗教的な神

 3)力を持つ存在としての神


 神を分類したというか、神の構成要素を分類してみたようなものです。

 1)の「哲学的な神」とは、考えても分からない事柄を引き受ける存在としての神です。

 世の中にはいくら考えてもよく分からない疑問がたくさんあります。

 世界はどのように始まったのか?

 人間はどこから生まれてきたのか?

 空が青いのはなぜなのか?

 海の水が塩辛いのはどうしてか?

 素朴な疑問には、いくら考えても答えが出てこないものも多くあります。

 科学の進歩により答えの出た疑問もありますが、昔の知識や技術では絶対に解き明かせない世界の謎というものは存在します。

 そのようないくら考えても仕方のないことを引き受けてくれる存在が「哲学的な神」の役割です。


 2)の「宗教的な神」とは、行動の規範や正しさの基準としての神です。

 多くの宗教では神話や神の伝承を語り伝えるだけではなく、日々の生活をどう生きるかと言った指針になっていたり、禁忌のようにやってはいけないことを定めていたりします。

 おそらく原始的な宗教はその地域の生活や風習と密着していて、村の掟的なものと宗教的な戒律とあまり区別が無かったのだと思います。

 どこかの誰かが作った掟を押し付けられれば反発する人も出て来るでしょうが、神様が言っているならば従うほかないでしょう。

 理屈抜きで守らなければならない決まり事には、神様を根拠にすると便利です。

 例えば、経験上危険であることが判明していて立入禁止にしている場所があったとします。経験でしか分からない危機感は世代と共に風化していきます。ただ危険だから近付くなと言うよりも、神域とか禁忌とか言って神に禁じられたことにした方が安全を確保するためには確実なのです。

 また、日本の神話は記紀にまとまっていますが、神話から歴史に繋いで天皇による支配の正統性を主張しています。

 古代ローマ帝国では、皇帝の権威を高めるためにキリスト教を国教として取り入れました。ローマ皇帝を神から与えられた神聖不可侵な存在とすることで秩序を維持し、ローマ帝国苦を安定させようとしたものです。

 政治的に利用されている面も多分にあるでしょうが、国のトップが安定していないと国民の生活も厳しいものになります。

 秩序を維持するための基準として、神様に登場願ったわけです。


 3)の「力を持つ存在としての神」とは、人にない力を持つ存在としての神です。

 天地を創造したり、人類を生み出したり、様々な奇跡を起こしてみたり。

 全知全能の神もいれば、決まったことしかできない神もいますが、どこの宗教、神話の神様でも、人には持ち得ない何らかの力を持っているものでしょう。

 場合によっては人間も神になります。

 他の人には到底成し得ない偉業をやり遂げた人に対しては、「○○の神様」と神様扱いされることもよくあります。

 例えば、野球の神様ベーブ・ルース。漫画の神様手塚治虫。

 学問の神様菅原道真はちょっと違いますが、大宰府に左遷されて亡くなった後に怨霊となって何人も取り殺し、神に祀り上げられました。

 いずれにしても、普通の人にはまねのできない、何らかの力を持った存在をまとめて神と呼ぶのです。


 さて、頑張って分類してみたのですが、その先が続きませんでした。分類して何が言えるか? と言う点で行き詰りました。

 それにこの分類はそれぞれあまり差がありません。

 「宗教的な神」は人には決められないはずの絶対的な正しさを引き受ける存在と言う意味で、「哲学的な神」と差がありません。

 「哲学的な神」は人には理解できないような現象や事柄の原因、そういう不思議な力を持った存在として「力を持つ存在としての神」に統合されます。

 また「宗教的な神」の正しさや絶対性を担保するのは、神が世界や人々を創造した存在であると言うことや、神罰や奇跡を起こして見せるという点で「力を持つ存在としての神」の要素が強くあります。

 結局のところ、「力を持つ存在としての神」に集約されます。

 おそらくは神と呼ぶことのできる必要条件が、人を超えた何らかの力を持っていることなのだと思います。

 ただし、神の十分条件は規定できません。

 ある人々が「神」と呼ぶ存在を、別の人々は「悪魔」と呼んだり「妖怪」と呼んだり「怪物」と呼んだりします。

 神と化け物は紙一重です。


 私は個人的に、人の思い描く神は人間の都合や願望を反映した幻想だと思っています。

 別に無神論者とかではありません。そもそも定義すらできない存在を否定することは不可能です。

 ただ、たとえ神と呼べる存在が実在していたとしても、それが人の思い描いた神と完全に一致するとは思えないのです。

 人の身で神を完全に理解することは不可能でしょう。逆に完全に理解できてしまったら、その程度の存在が本当に神なのか? という疑念がわくでしょう。

 だから、神話や宗教で語られる神は、人の理解できる範囲で想像したものです。

 日本の神話は天皇家に伝わる神話を中心に編纂されました。おそらくは天皇家や有力な豪族の祖先を神格化したもので、だから人と交配可能な生物のような側面があります。

 ギリシャ神話は元々独立した神話を主神ゼウスを中心に統合しています。ゼウスが浮気を繰り返すのは、他の神々や過去の英雄をゼウスの子供として取り込むためだそうです。

 旧約聖書の、つまりユダヤ教の神は人と同じような姿をしていて、アダムとイブやカインとアベル達と共に暮らしていました。神の国であるエデンの園は、天上ではなく地上の一地域として描かれています。

 中国人の思い描く天界は、天帝を頂点とした人と同じような社会を構成しています。神に願い事をするときは天の紙幣とされるものを燃やして天に届ける(つまり賄賂)風習もあります。

 神話に登場する神々の服装や持ち物は、その神話を伝えてきた人々の(昔の)衣装や道具類であることが多いです。

 神話で語られる神々の性格とか精神的なものは人間と大差ありません。

 日本でもギリシャでも、神々は喜び悲しみ怒り悩みます。人とは異なるルールがあっても、人には理解不能な理屈で動いているわけではありません。

 理解に苦しんだり違和感のある言動は、神話を語った昔の人々の常識や状況を理解していないから不思議に思えるのではないでしょうか。

 人が語る神の姿は、人の基準と人の理屈で作り上げられた物語です。

 その背景に自然の脅威があったり、人々の歴史があったり、もしかして本当に神と呼べる存在の干渉があったとしても、人が語る以上はやはり人間の作り上げた物語なのです。

 そして人の思い描く神には人の都合が入り込みます。


 神は人を愛し慈しみ導く存在。

 神は人々に恵みを与える。

 神は悪人を裁き、善人を祝福する。


 神様は人間を特別扱いし過ぎていると思いませんか?

 神という高位の存在が、なぜ人間に対して導いたり、見守ったり、恵みを与えたり、人の法や倫理に合わせて裁いたりするのか?

 見方によっては、神様が人間のために必死になって働いている状態です。

 人の思い描く神は、人間にとって有用で、都合の良い存在なのです。

 人を裁く厳しい神でも、悪を罰し善人を救う便利な存在です。

 疫病神とか自然災害をもたらす恐ろしい神でも、祀ったり祈ったりすることで災厄を引っ込めてくれる可能性のある有用な存在です。

 人は人にとって都合の良い存在として神を見ています。

 役に立たない神は、誰も信仰しようとは思わないでしょう。


 例えば、こんなことを考えたことはありませんか?

 「全知全能唯一絶対の至高の神が存在するのならば、どうして悪が存在するのか?」

 全知全能と言うのはそれ自体矛盾を含んだ、もしくは人には理解しきれない厄介な概念です。

 全知全能の前には「知らなかった」も「仕方がなかった」もあり得ません。前者は全知を否定し、後者は全能を否定することになるからです。

 この世に悪が存在する理由は二通りしかありません。「全知全能の神が存在しない」か「全知全能の神が悪の存在を認めている」かです。

 宗教的には様々な理由や解釈が行われるのでしょうけれど、神の絶対性を否定するか、神の悪意(最低でも悪を黙認する)を認めるかの二択であることは変わりません。

 変わった考え方としては、「全知全能の神は存在するが、それとは別に不完全な偽物の神が存在する。この世界は不完全な偽神が作った世界だから不完全なのだ。」みたいなものがあります。

 グノーシス主義と言うのだそうですが、「全知全能の神」と「不完全なこの世界」の間に「偽神」を置くことで両立させています。

 まあ、それでも全知全能の神が悪のはびこる不完全な世界を黙認していることに違いはないのですけれどね。

 全知全能の神なのだから、格下の偽神の行いも、その結果不完全な世界で苦しむ人々のこともお見通しで、それを是正することも可能なはず! 放置しているのは関心が無いか、それでよいと思っているから!

 結局、自分の信奉する神を持ち上げまくって完全無欠の存在と主張すれば、不完全なこの世界との間に矛盾を生じます。

 それでも色々と理屈を並べて世の中の悪や不条理を是正しない神を擁護しようとする背景には、神に対して強大でかつ人に優しい存在であって欲しいという願望があります。

 人々が最も恐れるのは、強大な力を持ち絶対的な存在である神が人間に無関心、あるいは悪意を持って無造作にその力を振るうことでしょう。

 人の迷惑を一切顧みず、あるいは人を苦しめるために振るわれる神の力は天災としか言いようがありません。

 この人を愛さない、人に優しくない神々の恐ろしさを描いたのがH.P.ラヴクラフトのクトゥルフ神話です。

 ラヴクラフトは人には理解できない宇宙的恐怖を描いたと言われています。しかし、クトゥルフ神話の神々を整理して体系化していくと、怪獣大図鑑になります。

 愛のない神は怪獣と同じなのです。


 神と人との関係は、人が神を求めているのです。逆はありません。

 物語によっては人の信仰心が神の力の源になっている場合もありますが、それも神が人に好意的に関わる理由付けの設定です。

 私は、人が神を求める理由は悔しいからではないかと思っています。

 人間、いくら頑張って努力しても望んだ結果を得られないことはいくらでもあります。

 丹精込めて作った農作物が、嵐で一夜にして全滅することもあります。

 必死になって受験勉強したのに、試験当日に風邪をひいて受験できないなんてこともあります。

 部活で一生懸命練習してきたのに、新型コロナウイルスの流行で試合そのものができなくなったスポーツもありました。

 百年に一度の大雨に耐えられるように作られた堤防が、千年に一度の大雨で決壊して大洪水になることもあります。

 ちょっとした偶然や不運、自然災害などのどうにもできないことで長年の苦労が水泡に帰す。

 それはとても悔しいことです。

 特に不運とか、予測を超えた自然の猛威とかが相手では、努力でどうにかなるものではありません。

 努力が足りなかったのならばまだしも、努力すらできなかったのでは悔しさも並々ならぬものでしょう。

 そこで神様の出番です。

 人には制御できない偶然も、突然襲って来る自然災害も、神ならばどうにかできます。と言うか、人にはどうにもならないものを司る存在として神を想像します。

 人にはどうにもならないことは、神様に任せる。

 人の身では努力すらできなかった事柄に対して、神に願う、神に祈るという形で僅かばかりでもできることが増えるのです。

 「苦しい時の神頼み」「人事を尽くして天命を待つ」と言うやつです。

 もちろん、神に願ったところで、必ずしも願いが叶うわけではありません。

 しかし、ただ何の意味もなく努力の結果が水泡に帰すのと、神様に願いが聞き届けられなかったのとでは受ける印象が変わります。

 神様にだって都合というものがあります。神様だからと言って、全ての願い事を叶える義理はありません。

 人間同士で例えると、お偉いさんに要望を出しても却下されることは珍しくありません。

 納得はしなくても、そういうものだ程度に理解はできるでしょう。

 次はもっとガンガンとお祈りして神様に願いを聞いてもらおうと前向きになったり、何か神様を怒らせるようなことをしていないかと自らを省みる場合もあるでしょう。

 今回上手くいかなかった分、どこかで予想外の幸運を与えて帳尻を合わせてくれることを期待するかもしれません。

 最悪、恨みや怒りの矛先を神様に向けて、天に向かって悪態をついて留飲を下げるとかやるかもしれません。

 結果は同じでも、意味の無い偶然や自然現象よりも、遺志を持った神様がいた方が何かと心が休まるのです。

 だから人は神を求めます。

 そして自らの心の平安のために都合の良い存在としての神の姿を作り上げるのです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ