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駄文庫  作者: 水無月 黒
22/58

呪いの話

 「呪い」と言うとどのようなものを想像するでしょうか?

 時間をかけてじわじわと人を苦しめ殺す、あるいは特定の条件を満たすと発動して人を苦しめたり困られたりする魔法やそれに類する超自然的な現象。

 そんなイメージではないでしょうか。

 このような「呪い」は、物語を作る上では非常に使い勝手が良いのです。

 タイムリミットまでに解呪できなければ死ぬ! と言う状況は話を盛り上げます。

 また、あまりに強すぎたり便利すぎたりする能力の持ち主を登場させると、敵がサクサク倒されて行くだけ、問題が何の苦労もなく淡々と解決していくだけのつまらない話になってしまいます。しかし、呪いによって行動や能力を制限されていることにすれば、ここぞというところでその呪いを回避する条件が整い、全ての能力を発揮して大活躍すると言う展開が可能になるのです。

 しかし、話の都合で便利に「呪い」を使ってしまうと「呪い」の変質がぼやけてしまいます。

 例えば、お金で人を呪い殺す呪術師と、暗殺専門の魔法使いに何か違いがあるでしょうか?

 特定の条件で発動する呪いとファンタジーな世界の自然現象を区別する意味があるのでしょうか?

 舞台装置としての「呪い」は、しばしば引き起こされる現象にばかり注目が行って、呪う側の存在がかすんてでしまっているように思えることがあります。

 そうなると、単に嫌な超常現象に「呪い」という名前を付けただけになってしまいかねません。


 そんなことばかり考えていたわけではありませんが、ある日ふと思いつきました。

 呪いの本質というのは、「不幸のお裾分け」なのではないでしょうか。

 呪いの儀式として有名な『丑の刻参り』では、その衣装等にも色々と意味があるそうです。

 例えば、頭に五徳を逆さまにして被りますが、あれはロウソクを立てる台にしているだけではなくて、五徳を仁義礼智信の五つの徳と見なしてその逆を行くことを表しているのだそうです。

 五徳と言ってもピンとこない人もいるかと思いますが、炭火等の上に鍋や薬缶を乗せる器具です。ガスコンロにも五徳がついていますが、あれは輪の部分が脚になっていてそこから伸びる爪で鍋などを支える形になっているので逆さまにして被るのには向いていません。理科実験で使用する三脚の輪っかを大きくしたようなものを想像してください。

 また、魔除けの一種に「大きな鏡を背負う」というものがあるのだそうですが、丑の刻参りでは「小さな鏡を胸元に仕舞う」という魔除けの逆を行うのだそうです。

 このように、善いことや魔除けの逆を行い、縁起の悪いことや禁忌をあえて冒すことで、悪鬼邪神をその身に降し、その力を借りて相手を呪うのだそうです。

 当然、悪鬼邪神の力を借りてただで済むはずがありません。自身の破滅は覚悟しなければなりません。

 自らを更なる不幸に突き落としてでも、相手に同じ苦しみを味わわせてやりたい。それが人を呪う気持ちだと思うのです。

 これを私は、「不幸のお裾分け」と表現することにしたのです。

 そして、このように考えるとよく分かることが、人を呪うことで自分が幸せになることはあり得ないということです。

 呪いの本質が自分の不幸を相手にも分け与えることである以上、呪って相手を不幸にすることのできる上限は自分自身の味わっている不幸の分までです。呪った相手よりも自分が幸福になることはあり得ないのです。

 「人を呪わば穴二つ」と言います。「穴」は墓穴のことで、「二つ」とは呪った相手と自分の分を意味します。

 他人を害するような真似をすれば、結局は自分も同じ目に遭うという意味で使われる言葉ですが、実際には自分が墓穴に片足を突っ込んだ状態で他人を引き込もうとするのが呪いというものなのではないかと思うのです。

 同じように、「人に見られると呪いは自分に返って来る」と言う話もよく聞きますが、実際には人を呪う行為で自分もさらに不幸のどん底に突き落としていることを認識するだけの話ではないかと思うのです。


 ここでもう少し、人を呪う心理について考察してみます。

 「他人の不幸は蜜の味」などと言いますが、意味なく他人を不幸にしようとする人はほとんどいないでしょう。

 極端な例を挙げると、人を殺すスイッチがあったとして、そのスイッチを押すことができますか?

 押せばどこかの誰かが一人死ぬスイッチを何の躊躇もなく押せる人間いたとすれば、それは相当な異常者、人として大切な何かが壊れてしまった人間だと思われることでしょう。

 これが、人を不幸にするスイッチでも同じことが言えます。他人を苦しめ不幸にすることに躊躇のない人間はどこか人としておかしいと判断されます。

 倫理とか、モラルとか、道徳とかで他者を害することは悪いことであると社会的に教育され刷り込まれています。この辺りのことが常識として共有されていないと殺伐とした社会になってしまいます。

 まともな社会生活を送っている人が、他人を不幸にする行為に出るにはそれなりの理由が必要です。

 人を呪う場合、その原動力となる感情は、恨み、辛み、妬み、嫉みといった後ろ向きの思いになります。

 自分はこんなに辛く苦しい思いをしているのに、その原因となった人、あるいは自分のことをよく知らないその他大勢の人が幸せそうにしているのが許せない。そんな幸せそうな人に少しでも自分の苦しみを思い知らせてやりたい。

 これが人を呪う気持ち、つまり「不幸のお裾分け」です。

 ここで気を付けなければならないのは、一度行動に移すと手段と目的が逆転することがよくあります。

 「自分の辛く苦しい思いを知って欲しい」が発端であっても、「とにかく相手を苦しめなければ気が済まない」という状況になりやすいです。

 人を呪う原動力が自らの不幸である以上、相手を傷つけ苦しめ不幸にするためには自分自身もより不幸で無ければならない。

 自分が不幸で苦しいから人を呪うのに、他人を呪うために自分をより不幸にするという本末転倒が発生します。

 人を呪う状況はある種狂気に憑りつかれたようなものなので、そうした矛盾に気が付かない、あるいは気が付いても止められないということになりかねません。

 これは、呪いの儀式のような超常的な現象に頼る場合だけでなく、他人を妬んで陰でこそこそと嫌がらせをするようなマネをする場合にも同じことが言えます。

 負の感情の赴くままに行動すれば、ずるずると不幸のスパイラルにはまり込む。物語としてはありがちですが、現実でもあり得る話です。


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