多数決と民主主義
例えば、「多数決こそが民主主義の根幹であり、多数決の結果に逆らうことは民主主義への反逆である。」みたいな主張を見かけたことはありませんか?
ここまで強烈でなくても、「民主主義なんだから多数決の結果には従うべきだ」くらいに思っている人は多いかも知れません。
しかし、この考えは大間違いです。
多数決は手法の一つでしかなく、民主主義そのものではありません。
例えば、特定の思想を持った集団、あるいは一人のポスとボスに絶対服従の子分で構成される集団があったとします。
その集団が、集団外の一個人を取り囲んで無理難題を吹っ掛け、その場で多数決を取って「多数決で決まったのだから従え!」と迫ったとします。
これ、民主主義ではなくてただの数の暴力、あるいはいじめですよね。
これを民主主義だと主張する人がいたら、それは民主主義を理解していないか、あるいはわざと曲解しているかなので要注意です。
多数決さえ行えば民主主義になるわけではありません。
数の暴力を民主主義の欠点のように言う人もいるかもしれませんが、実際には民主主義が機能していないだけです。
多数決というのは組織の意思決定の手法の一つでしかありません。民主主義の政治でよく用いられる手法ではありますが、民主主義の基本でも本質でもありません。
民主主義の本質は、国の主権を国民の一人一人が平等に持つことにあります。
一人一人の持つ主権が正しく反映されるという意味で、民主主義の理想は全会一致を目指すところにあります。
このように書くと、「全員が同じことを考えている社会なんて気持ち悪い!」と言う意見も見かけたことがありますが、これも誤解です。
全会一致と言うのは全員が同じことを考えている状態ではなく、考え方も、立場も、利害関係も異なる様々な人々が議論を重ねて、全員が納得、最低でも妥協できるような案を作り出すことです。
少なくとも、民主主義が理想とする全会一致とはそのようなものです。
多数決は、全会一致までにかかる時間が非常に長くなる、あるいは完全に全員を納得させることが不可能と思われる場合に、議論を打ち切るための手法です。
政治というものは、たとえ完全無欠な最善案が出てこなかったとしても何もしないわけにはいきません。人々の生活や時には命がかかっているからです。
最善案が出てくるまで待って手遅れになるよりも、多少の問題があったとしても即座に何らかの手を打つ必要に迫られることも多々あります。
議論というものは参加者が増えるほど、全員を納得させることは難しくなります。
結論が出るまでに非常に長い時間がかかる、もしかしたら全員の納得する結論は出ないかもしれない議論を待っていては何もできません。
理想には届かないまでも民主主義を維持し、かつ国の運営に支障のない時間で結論を出す。そのために用いられるのが多数決による議論の打ち切りです。
民主主義の本質は全ての国民が国の主権者として国政に参加すること。そのために行われる議論こそが重要なのです。
議論の部分を蔑ろにして多数決を行ったところで民主主義とは言えません。
なぜ議論の打ち切りに多数決を用いるのかといえば、多数決にはメリットがあるからです。
まず単純に、間違える危険性が減ります。
多数派だからと言って正しい保証はないのですが、単純なケアレスミスならば多くの人が気付くでしょうし、指摘されれば納得するでしょう。
単純には判断できない難しい問題や、情報が足りなくて判断できない場合もありますが、判断がつかないならば多くの人が賛成する説得力の高い案から試してみるというのも合理的な方法ではあります。
次に、成功率が上がります。
異論はあっても方針が決まった以上は全力で政策を進める、と口では言っても納得のいかない仕事を完璧にこなすというのは難しいことです。
やはり仕事の目的と意義を理解して熱意をもってあたった方が能率は上がるし、問題を早期に発見して修正したり、何かあった時の対処も適切なものになる可能性が高いです。
逆に納得のいかない仕事を仕方なく行っていると、問題が発生しても隠したり、場当たり的な対応でごまかして、最終的に上手くいかないことも多いのです。
なるべく多くの人が納得し、賛同する事業ならば成功率も上がるでしょう。
失敗した最善策よりも、成功した次善策の方が状況は良くなることも十分にあり得ることです。
それから、失敗した場合のリスクを減らすことができます。
どれほど優れた政策を完璧に実施しても、未来を完全に見通すことができない以上、失敗する可能性は常にあります。
もしも多数派の推す政策を排して、少数派の政策を実施したとします。
それでも大成功を収めれば問題ないのですが、失敗した場合、その政策を立案、支持、採用した一部の人達に対する非難は苛烈なものとなります。最悪暴動やクーデターが発生します。
同じ失敗した政策であっても、多くの者が賛成し採用された案であれば、非難の声よりも擁護する意見が増えるでしょう。
政策が失敗した上に政局も混乱すると、国の存亡にかかわる事態になりかねません。
特に重要な政策を実施する際にはなるべく多くの者の賛同を得ることが肝心なのです。
以上、多数決のメリットを並べてみましたが、これは別に民主主義に特化したものではありません。
専制君主制の国で、国王が家臣の意見を聞いて政策を決める場合でも、多数決によって同じメリットが生じます。
王政の国でも、国の主権者である国王が、多くの家臣の意向を無視できないということは普通にあります。
民主主義の歴史は意外と古くからあります。紀元前五世紀頃の古代ギリシアのアテナイで民主主義の政治行われていたことは有名です。
アテナイの民主主義は市民が法案に直接賛否を投票する直接民主制でした。古代ギリシアの都市国家という小さめの国家であり、参政権があるのも成人男性に限られる(女子供、外国人、奴隷は対象外)など、人数が制限されていたからできたのではないかと思います。
その後、古代ローマでも共和制時代には平民の参加する民会とか、執政官を選挙で選んだりとか、民主主義っぽいことも行われています。
しかし、その後の中世のヨーロッパで民主主義が主流になったわけではありません。まあ、共和制の国も存在したし、議会を開いたり選挙を行ったりすることもあったようですが。
少なくとも、何処の国でもこぞって民主主義に移行するというほど素晴らしい政治制度だったわけではありません。
民主主義というのは、意外と難しいものです。
ありそうな誤解として、「民主主義は大多数の民衆の望みを叶えるもの」と思っている人いませんか?
これは違います。
ちょっと考えてみてください。例えば専制君主制の国の場合、主権者である王様の願いを叶えることが国の政治だと思いますか?
国の主権者は、国の方針を決定する権利を有する代わりに、その結果に対する責任を負います。
例えば、国民の大多数がお金が欲しいと思っているからと、紙幣を大量に刷って全国民に大金をばらまいたとします。一時的には皆喜ぶかもしれませんが、その後に待っているのはインフレです。総量が増えた分、お金の価値が下がるだけなので、好景気とは関係のないインフレが発生します。下手をすれば通貨そのものが信頼を失って、経済が破綻します。
政治というものは、国民の要望をそのまま実行すればよいというものではありません。政策を実施した場合のリスクやデメリットもちゃんと考慮して、問題が発生したらどれほど面倒でもしっかりと対処しなければなりません。
だから、考えなしに「お金がないならジャンジャン印刷すればいいんじゃね」という人がいたなら止めなければならないし、止めきれずにハイパーインフレが発生したり、為替で通貨が暴落したりしたら、国民生活への悪影響を少しでも減らすために何らかの手を打たなければないりません。
民主主義国家ならば、この責任と負担は最終的に全ての国民にかかってきます。
未成年の子供に参政権が無いのは、政治的な判断を行う十分な知識が足りないということの他に、子供には責任を負う能力が無いためでもあります。
民主主義の難しい点は、全ての国民が政治的な判断力を持つ必要があるという所です。
国民の大半が自分の仕事で手一杯で、識字率も低く、法制度も経済の仕組みも国際情勢も何も知らない。そんな人間を何人集めたところでまともな政治を行うことはできません。
多数決のメリットである間違い難くなる効果も、必要な知識がに基づくまともな判断を下す能力のない人が大多数では機能しないでしょう。むしろ、真面目に考えられた現実的な政策が、都合の悪い部分を無視した夢物語に覆い隠される危険性が高いです。
民主主義が成立するためには、ある程度の教育と、政治的な情報の共有が国民全体に行き渡ることが必要不可欠になります。
古代や中世に行われた民主主義的な制度は、実際には知識階級の人のみが参加していたとかではないかと思います。
間接民主主義はそのあたり現実的な制度になっています。
国民から選挙で選ばれた代議士が法律の制定など政治を行うわけですが、これは参加する人数を減らして議論が収束しやすくする効果の他に、政治を専門家に行わせるという意味があります。
具体的な法律や政策の立案、審議は政治の専門家として勉強してきた代議士に任せ、その代議士(候補)が一般向けに噛み砕いて説明する政治の方針やこれまでの実績から一般の国民は任せる代議士を選ぶ。
この方式ならば、全ての国民が政治に精通している必要はありません。多くの国民が政治に参加しつつ、専門家のちゃんとした判断で政治を進めることができます。
私見ですが、民主主義というのは為政者にとって優しいシステムなのではないかと思います。
一国の主権を担うということは、非常に重い責任を負うことになります。
特に古代の祭政一致の社会では、自然災害も為政者の責任になったりします。
日本のどこかの地方には、村の各家が持ち回りで神を祀る風習があるそうです。何か問題が起こると、祀り方が悪かったからと責任を問われるため、一軒の家だけでは荷が重かったからだそうです。
国レベルの責任は、個人で背負うには重すぎます。
国が滅びる時には、だいたい王様相当の人が殺されます。
古代ローマ帝国の皇帝は、短期間で何人も殺された時期があったそうです。敵にではありません。この皇帝では敵に勝てないと判断したローマ人の手で、別の皇帝を立てるために殺されたのです。皇帝の任期は終身なので、殺さなければ新皇帝を立てられなかったからです。
歴史的に見ても、王とか皇帝とか独裁者とかには殺したり殺されたりと血みどろの殺伐とした出来事がありがちです。
その点、民主主義ならば平和的です。
国を代表する人物が、多くの人から見て「こいつじゃ駄目だ」と判断したら、ちゃんと引きずりおろす手段が用意されています。殺し合わなくても政権交代が可能なのです。
平和裏な政権交代を拒否し、大衆の支持が離れても政権を手放すまいと頑張れば頑張るほど、政権崩壊時に殺される危険性が高まります。
民主主義ではない独裁政権が長続きしたければ、民衆の不満が爆発しない程度に善政を敷くことが重要だったりします。
専制君主制というのはある意味理想的な政治形態です。
君主というのは、本来は国を治める能力を持つ者を指す言葉だったそうです。
正しく国を治める能力を持った人物に全ての権力を持たせれば、最善の政策を素早く行うことができます。不正を働く奸臣を排除することも容易でしょう。
しかし、君主たり得る能力が無い、あるいは国をよくする気が無い者が君主の地位に就いた場合、悲惨な結果になります。
最悪の政策を素早く連発されたら、国は滅茶苦茶になります。
クーデターで政変が起こったり、独立して新しい国が興った場合、独裁的、強権的な政府になりやすいと思います。新しい国を作るような時には、一部に強い反対のあるような政策でも一気に行う必要があるため、強い政府が必要だからでしょう。
そして独裁政権のままずるずると年月が過ぎると、民主化を求める反政府団体が誕生して国内が不安定になるなんてこともよくあります。
一方、民主主義の場合、最善の政策を素早く行うことは難しいです。その政策が最善であることを多くの人に納得させなければならないから時間がかかります。
特にリスクやデメリットを伴う政策は賛同を得ることが難しくなりますし、時間のかかる政策は途中で政権がひっくり返って中途半端で終わる可能性もあります。
しかし、誰がどう見ても愚行と分かる政策はそう簡単には実施されないでしょうし、明らかに失敗した政策ならば政権交代してでも中止するでしょう。
最善は望めなくても、最悪は避けやすい。それが民主主義の特徴だと思うのです。




