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駄文庫  作者: 水無月 黒
19/58

著作権は誰のため?

 2021年はNHKの「みんなのうた」が放送を開始して60年目だそうで、ずいぶん昔に放送された懐かしい曲が再放送されています。

 ところでその10年前から、「みんなのうた発掘プロジェクト」というものが行われていたことをご存じでしょうか?

 放送された「みんなのうた」約1500曲のうち、500曲ほどがNHKに映像が残っておらず、再放送ができない状態だったそうです。

 そこで視聴者に情報提供を求め、各家庭で録音・録画したテープなどを提供してもらおうと言うのが「みんなのうた発掘プロジェクト」です。

 考えてみれば大胆なことをしたものです。

 私的複製の範囲内で録画・録音したものを、最終的に放送に利用しようというのですから、著作権法上のややこしい問題があるのではないかと思います。

 実際、提供できるのは放送を録画・録音したものだけでレコードは駄目だとか、提供しても謝礼は出せないとか色々と制約があったようです。

 NHKが頑張ったのだと思うのですが、正直、著作権法上のどのような問題があってどう回避したのか見当もつきません。

 このプロジェクト自体は素晴らしいものだと思いますが、法的な対応や利権関係の調整がしっかりできる大きな組織でないと実現は難しいと思いました。


 さて、私もアマチュアとは言え物書きなどをやっているのですから、著作権についても少し考えてみたいと思います。


 まず著作権と言う権利は人類文明の発祥と共に現れた古くからある権利ではありません。

 著作権と言う概念が生まれたのは、印刷機が作られた後になります。

 言ってみれば、著作権は技術と共に生まれ、技術の発展に伴って変化してきた権利なのです。


 まず、印刷機が発明される前は本は非常に高価でした。

 本一冊分を手書きで書かなければならないのです。同じ本をもう一冊作ろうと思ったら、やはり手書きで写本を作る必要があります。

 手間暇かかる分、本は高価になります。

 この状態ですと、著作権云々以前に本を書いて生計を立てる仕事が成り立ちません。

 本が高い分、購入する相手は限られてしまいます。何か月もかけて一冊の本を書き上げても売れるとは限らないのです。

 確実に需要のある本は、聖書や経典とか、歴史書、学術書など、内容や有用性がある程度知られた古典作品が多かったりします。無名の新人の本に手を出すもの好きは滅多にいないでしょう。

 この状況が変わるのは印刷技術が生まれてからです。

 日本でも、江戸時代に誕生した浮世絵などは、木版画で大量に刷られたことから値段が下がり、庶民の文化として根付きました。

 木版印刷は一枚物の絵画を印刷するのには手頃でしたが、書籍を印刷しようと思うとかなり手間です。書籍が普及するきっかけは、やはり活版印刷の発明でしょう。

 印刷によって本が大量に作られるようになったことで価格が下がり、特別な金持ちの人間だけでなく庶民の手にも入るようになります。

 その結果、薄利多売が可能になりました。極少数の金持ちに高値で売りつけるより、安価でも圧倒的多数に売れればその方が儲かる。そこに気が付けば一般大衆に広く読まれる本を作ろうとするでしょう。つまり、大衆娯楽小説が誕生します。

 ここで初めて娯楽小説を書くプロの小説家が登場します。たぶん、それ以前の作家は貴族などのパトロン付きか、舞台劇などのシナリオを書く人だったのではないでしょうか。

 印刷機を所有する出版社は、作家に依頼して大衆受けしそうな娯楽小説を書かせます。そしてできた本を大量に印刷して安く多く売り、作家の原稿料と出版の費用を超える利益を得ます。

 この新しく生まれたビジネスモデルは、やがて一つの問題に突き当たります。

 ヒットして売れた本に対して、他の出版社がそっくりそのまま同じ内容の本を印刷して売り出すことが物理的に可能です。

 成功した商売は後追いでまねされるのは世の常ですが、同じ内容の本をそのまま出版されると出版ビジネスそのものが成り立たなくなります。

 古典作品を出版するだけならばともかく、売れる小説を書く専業の作家を確保しようと考えたら、原稿料は大きなものになります。次の原稿を書き上げるまでの期間生活できるだけのお金を出さなければ作家家業を続けていけません。

 一方、他社の出版した本をそのまま出版するコピー出版社の場合、ずっと安上がりです。何しろ、他社の出版した小説をそのまま自社で出版すれば、作家に原稿料を出す必要がありません。本を一冊買ってくるだけで済みます。

 本を作るコストが下がった分、相対的に作家に支払う原稿料は大きなものになります。同じだけ本が売れれば、原稿料が無い分利益は大きくなりますし、価格競争でも有利になるのでシェアを奪うことも可能でしょう。

 更に、売れ行きの良さそうな本だけを選んで出版すれば、不良在庫を抱えるリスクも減ります。

 結局のところ、自ら金を支払って新しい原稿を得ようとする出版社よりも、他社の出版した本をそっくりそのまま自社から出すコピー出版社の方がビジネス的に有利になります。

 しかし、この状態を放置しておくと、作家に原稿料を支払う出版社は競争に負けて倒産するか、作家に原稿を書かせることを諦めてコピー出版社に方針転換します。

 その結果、新しい小説を出す出版社は無くなり、残った出版社もコピーする元となる本が新たに出てこなくなるため、やがて売れる本が無くなって行きます。

 最終的には全ての出版社が潰れるか、少なくとも大衆向けの娯楽小説からは撤退することになるでしょう。

 この不毛な共倒れを防ぐには、出版業界の中でルールが必要になります。どこの出版社がどの作品を出版してよいかを決めるルールこそがコピーライト、著作権の始まりです。

 著作権と言うと作家側の権利だと思うでしょうが、実は出版社とか印刷業界の都合で生まれてきた権利なのです。

 まあ、ぶっちゃけ出版する本の利益を独占するための権利だったりしますが。それでも、安い書籍が一般に普及するには必要なことでした。


 さて、最初は印刷物の複製権(コピーライト)として現れた著作権ですが、技術の進歩と共に範囲が拡大されてきました。

 例えば音楽の場合、昔は生演奏しかありませんでした。音楽が聴きたければ、演奏される場所まで行かなければなりません。

 人の移動する範囲も限られていましたから、ずっと遠い地方で行われている演奏会に同じ曲が使われていたとしても、演奏を止めさせたり使用料を請求したりすることはほぼ不可能だし意味がありませんでした。

 しかし、技術の発達によって演奏した音楽を録音できるようになったり、放送などで遠く離れた場所にも届けられるようになったりしました。

 そうすると、音楽に対する新しいビジネスが生まれ、利権が発生します。利権がぶつかってトラブルも発生します。

 利害関係を調整してトラブルを防ぐために音楽も著作権で保護されるようになったのでしょう。

 音楽も技術の進歩によって著作権で保護されるようになったのです。

 他にも、写真機の発明と発展で写真が著作権の保護下に置かれました。

 映画関連の技術が発明され、商用に映画が実用化されたことで映像が著作権の対象になりました。

 印刷技術の進歩やコピー機の発明によって絵画やイラストも著作権で保護されるようになりました。

 汎用的なコンピューターが普及したことで、コンピューターのソフトウエアも著作権の対象になりました。

 技術が進み、味や匂い、触感などを記録・再現できるようになれば、そしてそれが金儲けに繋がれば、新たに著作権の保護対象になるでしょう。


 技術の発展とともに、著作権をめぐる環境は変わり続けています。

 例えば、コピー機の普及によって紙に書いた文章の複製が手軽に行えるようになりました。

 それまで著作権(コピーライト)の管理は主に印刷機を抱えている出版社や印刷所を押さえておけばよかったものが、そこいらじゅうでコピーできるようになったのです。

 カセットテープやビデオテープの普及は家庭で気楽に録音や録画することを可能にしました。

 レコードの作成には特殊な機器が必要ですし、映画のフィルムを複製する機会は一般人には無いでしょう。テレビ放送に使われる業務用のビデオテープなどの機器も一般には出回らないものです。

 業界内でのルール違反にだけ気を配ればよかった音楽や映像の複製が、一般家庭で普通に行われるようになったのです。

 しかし、この時点ではそれほど深刻な問題にはなりませんでした。

 コピー機で本一冊を全てコピーするのは大変で、個人で行うのは割に合いません。

 アナログで記録するカセットテープやビデオテープは複製を繰り返すたびに劣化するので無限に複製されることはありません。高品質な音や映像を楽しみたければ、複製ではなく原本を買うでしょう。

 私的複製の範囲なら問題ないと考えられたのでしょう。

 問題が深刻になるのは、無限に複製しても劣化しないデジタルデータが登場してからです。

 デジタルデータの著作物というと、コンピューターのソフトを除けば、最初に普及したのはCDでしょう。

 ただ、CDの登場当時はCDのコピーに関してはあまり問題視されていませんでした。CDもレコードと同様にプレスによって量産するため、家庭で気楽にデジタルコピーできるものではありませんでした、当初は。

 しかし、パソコンにCD-ROMが搭載され、ついでCD-Rが普及した時点で音楽の無限デジタルコピーが可能となってしまいました。

 これまで、業界内で相互監視していればよかった著作権の問題が、これ以降は不特定多数の消費者というコントロール不可能な対象にまで広がったのです。


 一人一人逐一取り締まることが困難な一般消費者の中で発生する不正コピーを防ぐにはどうすればよいでしょうか?

 方法の一つとしてコピーができないように、コピーガードの仕組みを導入することが考えられます。

 CDはそう言ったコピー対策の必要性が認識される前に登場したので、デジタルデータの音声をパソコンに取り込むことを防ぐ方法がありませんでした。

 後からCCCD(Copy Control CD)というものも登場しましたが、いろいろと問題があって不評で、またCCCDにしたことで違法コピーが減って売り上げが伸びたという事実もなかったため消滅していきました。

 コピーし放題のCDの状況を反省してか、DVDやBlu-rayでは最初からコピーガードの仕組みが規格に組み込まれています。

 日本ではテレビ放送もデジタル放送に切り替わった時点でコピーワンスとかダビング10とかいったコピーガードが組み込まれました。

 技術的に防ぐだけでなく、コビーガードを回避してコピーすることも、そのためのツールを販売することも違法になりました。

 本気で悪質な違法コピーに対してはともかく、一般の視聴者がうっかり違法なコピーを行う危険性はだいぶ減ったでしょう。

 しかし、この手のセキュリティーは強化していくと利便性が低下することがあります。

 コピーガードのないCDで提供された音楽は、リッピングすればパソコン上から複数のCDをまとめて連続再生したり気に入った曲だけピックアップして再生することも簡単になりました。

 一方、DVDやBlu-rayになるとリッピングが禁止されたので、画像を再生する際には常にディスクを入れておく必要があります。複数のDVDを自動的に切り替えて再生できるディスクチェンジャーはあまり普及しなかったようです。

 ビデオテープの時代には私的利用の範囲内で好きなだけ複製ができていたテレビの録画データが、デジタル放送になったら回数制限がかかりました。

 音楽以上に作成にお金のかかる映画やドラマなどの映像作品は、映画の興行収入やビデオソフトの売り上げがなければ作り続けることはできません。

 デジタル放送を録画した画像がDVD並の品質で無制限にコピーできたら、作品のDVDの売り上げが減少するかもしれません。そうするとDVDで売り出す予定のすぐれた作品がテレビで放送されなくなるでしょう。

 優れた映像作品を視聴したければコピーガードによる保護は不可欠、そのために多少不便な事があっても仕方がないのです。


 本当にそうなのでしょうか?


 不正コピーによる被害額は評価が難しいものがあります。

 例えば、不正にコピーされた映像作品がネットで公開され、百万回ダウンロードされたとします。

 しかし、その不正コピーがなければ百万人分映画の入場者が増えたり、あるいは百万本分ビデオソフトの売り上げが増えたりするとは限りません。

 無料で手に入らなければその作品を視聴するつもりのなかった人もいるでしょう。

 不正コピーされた映像を見るまで、その作品そのものを知らなかった人もいるでしょう。

 場合によっては、その画像を見た人が作品を気に入って映画館に見に行ったりビデオソフトを購入したりすることもあるかもしれません。

 もちろん、不正コピーの映像を手に入れたことで映画館に行くのを止めたりビデをソフトの購入を見送った人もいるでしょう。

 どのように計算したにせよ、結局はあり得たかもしれない利益の減少分です。確実な被害額を言い当てることはできません。

 それに、コピーガードのないCDが現在まで販売を続けているという実績があります。

 CDはデジタルデータのままパソコンに取り込んだり、データの形式を変換してパソコンやスマホ、別のデジタルオーディオ機器で再生することも可能です。デジタルデータの状態でのコピーも技術的には無制限にできます。

 それでも、「儲からないから誰も音楽をCDで出さない」という事態には陥っていません。

 実はコピーガード機能を持つ音楽用のディスクメディアも存在します。色々問題のあったCCCDは別としても、DVDのオーディオ版のDVD-Audioとか、CDよりも高音質のSACDなども著作権保護機能を持っています。

 DVD-Audioはほとんど普及しませんでしたが、SACDの方はプレイヤーが一般家庭でも購入で来るくらいに下がっていたようです。音楽レーベルやミュージシャンが本気になれば、CDを捨ててSACDに移行することもできたのではないかと思います。

 音楽と映像作品とでは違いがあるかもしれませんが、無条件に「技術的にデジタルコピーを禁止しなければ作品そのものが作られなくなる」とは言い切れないでしょう。


 さて、著作権の問題というと不正コピーの防止が取り上げられることが多いですが、そもそも著作権の目的は、「著作者の努力に報いることで、文化が発展すること」です。

 元々は出版業界が利益を独占するために生み出されたものだとしても、今の著作権の表向きの役割は文化芸術を発展させることにあります。

 著作者の権利を保障するのもそのための手段ですし、不正コピーを防止することも著作者の権利を確保するための手段、つまり手段の手段です。

 テレビのCMで違法アップロードを止めるように訴えるものを見ましたが、「違法だからダメ」「捕まるからダメ」ばかりでもう少し誰がどう困るかの説明をしても良いのではないかと思ったことがあります。手段を目的にしてしまってはいないでしょうか?

 もしも著作権法やその運用が文化の発展を阻害する要因になっていたら本末転倒になってしまいます。

 どのような法律や制度、技術も完全無欠ではありません。良い面もあれば悪い面もあるでしょう。

 コピーガードの仕組みは、特に悪意のない人が知識不足などでうっかり著作物を私的利用の範囲を超えてばらまいてしまう事故を防ぐ優秀な手段です。

 その一方で、長期的に見ると作品を消失する危険を大きくしているのではないかと思います。

 例えば、五十年くらい先にNHKが事故か何かで画像を消失してしまい、もう一度「みんなのうた発掘プロジェクト」を行ったとします。

 二度目の「みんなのうた発掘プロジェクト」は、たぶん今回以上に作品が集まらないと思います。

 HDDレコーダーは便利ですが、容量に限りがあるので古い録画は消す必要がありますし、レコーダー自体が壊れたら再生できません。

 永く残すためにはDVDやBDに書き込んで保存することになりますが、DVD-RやBD-Rなどの書き込み可能なメディアは経年劣化でやがて視聴できなくなります。安物のメディアを使ったり、保管環境が悪いと数年を待たずに読めなくなることもあるそうです。

 販売されるDVDやBlu-rayはプレスで作るため割と丈夫なのですが、今度は権利上の問題が出てきます。今の「みんなのうた発掘プロジェクト」でも市販のレコードは権利上の問題から受け付けていません。

 NHKは「みんなのうた」を文化として残したければ、年々増え続ける番組の映像を全て保管し続けなければなりません。同じことは「みんなのうた」以外の番組にも、HNK以外の放送局にも言えます。

 また、コピーガード付きのDVDやBlu-rayで販売した映像は、著作権の保護期間が過ぎても複製することができません。やはり、著作権の切れた作品は誰でも自由に便利に利用できるようになるべきではないでしょうか。

 まあ、技術的な問題は技術的に解決可能だったりします。DVDの発売が1996年らしいのでそろそろ25年、あと25年か45年もすると著作権の切れたDVDから映像を取り出して売り出す商売を始める者も現れるかもしれません。


 それからもう一点。

 作家とか漫画家とかアーティストとか著作権者の側の人間は、しばしば著作物の保護期間の延長など権限の強化する主張や活動を行うことがあります。

 しかし、この著作権者を強くし過ぎて、著作物の使用制限を強固にし過ぎると、実は著作物を作る側も困ったことになってしまいます。

 クリエイターは著作物を作る人間ですが、同時に他の著作物を使用する者でもあります。

 芸術は模倣から始まるものです。

 小説を読んでいて、どこかで聞いたような台詞や見たことあるような展開に出会いこともあるでしょう。

 音楽でも似たようなメロディーとか、実はコード進行が一緒で別の曲の歌詞をそのまま歌えるものとかもあったりします。

 漫画ならば絵柄や構図が似ていたり、あるいはキャラクターだけ変えて話の展開がそっくりな作品があるかもしれません。

 他者の作品の影響を受けていないクリエイターなどまず存在しないでしょう。

 あからさまな盗作は取り締まらなければならないでしょうが、細かい類似点をいちいち挙げて盗作の疑いをかけていたら、創作活動そのものがストップしかねません。

 著作権の保護期間についても、むやみに延ばせばよいというものではありません。

 極端なことを言えば、「著作権の期間を永遠に延長、既に期限切れで消滅した著作権も全て復活」などということをしたら、いつ紫式部の子孫が現れて権利を主張し始めるか戦々恐々とする人が出ることでしょう。源氏物語は現代語訳だけでなく、漫画、映画、アニメ、ドラマ他、多数の二次作品が作られています。

 宮沢賢治の作品の著作権が切れたタイミングで「銀河鉄道の夜」のアニメ映画が作成されたり、著作権の切れた作品をテキストとして公開している青空文庫のような活動もあります。

 保護期間を終了させ、誰でも自由に扱えるようにすることで二次作品などの新たな文化活動が行われるのです。

 著作権の保護期間を変更するならば、子々孫々まで権利が残ることで著作者の意欲が上がり良い作品が数多く作られることへの期待と、保護期間が終了し誰でも自由に作品を利用できることで新たな作品が作られる期待とを見合わせて適切な年月を見定める必要があるでしょう。

 著作者の死後何年で決まる個人の著作物の保護期間と、公開した年からの年数で保護期間が決まる法人の著作物とでは保護期間を分けて考えた方が良いのかもしれません。


 最後に余談を一つ。

 「みんなのうた60」と銘打って過去の懐かしい歌が色々と放送されていますが、その中で「勇気一つを友にして」という歌があります。

 ギリシャ神話のイカロスの物語を題材にした歌で、1975年に放送されたもののようです。

 良い歌だと思います。

 良い歌ではあるのですが、元となったギリシャ神話の話を知っているとちょっと……たまには父親のダイダロスのことも思い出してあげてください。

 ギリシャ神話のイカロスは、別に勇気をもって大空に挑んだわけではありません。元々は塔または迷宮に幽閉されていたダイダロスとイカロスの親子が、幽閉場所から脱出するために取った手段が空を飛ぶことだったのです。

 しかも、ダイダロスからは太陽に近付いてはいけないと忠告されていたにもかかわらず、空を飛んだことで調子に乗って忠告を忘れ、目的を忘れ、意味なく危険に突っ込んで行ったのがイカロスです。

 蛮勇ですらなく単なる考えなしの危険行為を行ったイカロスを、勇気ある者だと讃えることは間違っているし、やってはいけないことだと思うのです。


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