BL文化論
評価設定ありがとうございます。
皆さんはBL(Boys Love)は好きですか?
私は男なので全く興味はありません。
しかし、BLは今や一大カテゴリーになっていることも事実です。
いったい、BLの何が腐女子を惹きつけここまで大きく発展してきたのでしょうか?
現在BLと呼ばれているものは、かつては「やおい」と呼ばれていました。1970年代あたりの漫画同人誌から広まった言葉のようです。
「やおい」という言葉は、「山なし」「落ちなし」「意味なし」の略だそうです。この「やおい」という言葉自体にはBL的な意味はありません。
「山」とは山場、つまり物語の盛り上がる部分です。「落ち」は結末であり、これで話は終わったと読者に安心感を与えるものです。
最後に「意味」とは、読者に伝えたいこと、作品を通しての作者からのメッセージのことです。
これらの「山」「落ち」「意味」は読者を楽しませ、あるいは考えさせるための、作者が読者のことを考えて作られるものです。
つまり、「やおい」とは読者を完全に無視した、作者がただ描きたいから描いただけの独りよがりの作品を意味します。
このような作品はとてもではないけれども商用には出版できない、同人誌ならではのものでしょう。
しかし、いくら同人誌であっても、つまらないだけの作品が顧みられることはありません。ましてや同じような作品を作る作家が続出して一つのジャンルを形成することなどありえません。
ただ、読者を置いてけぼりにした作者の独りよがりの作品でも、例外的に読者に受ける場合があります。それは作者の思いに多くの読者が共感してしまった場合です。
作者と読者の距離が近い同人誌ならではの現象でしょう。共感できない者にとっては箸にも棒にも掛からないつまらない話であっても、共感できる者にとってはこれこそが自分の求めていた作品だと言うことになるのです。
そうして、一部の若い女性の間で熱狂的に広まったのが今でいうBL作品群であり、「やおい」と言えば男性同性愛作品を指すようになったのでしょう。
どうして若い女性にここまでBL作品が浸透したのか。男には理解できない深遠な理由があるのかもしれませんが、まあわかる範囲で考えてみましょう。
まず、ヒントは若い女性が対象であることでしょう。
若いと言っても、さすがに小学生以下は範囲外でしょう。18禁作品も多いことですし、多少フライングしていても十代後半から二十代前半あたりがメインではないでしょうか。
このくらいの年代は男女問わず性的なものに興味があるものです。当然女子にも、男子と同様に性欲はあります。
しかし、性的なものは下ネタ、つまり汚いものでもあります。汚いものをこそ愛する、というのはかなり上級者です。
また、日本では文化的に女子が性的な言動をすることは憚れました。特に昔は男子以上に女子は性的に抑圧されていました。
それに、文化的なものだけでなく、その後の妊娠出産も含めて性行為に対する負担やリスクは女性の方が大きいものがあります。
結果として、女子にとって性的なものは興味を惹かれると同時に、汚くて怖い忌避すべきものとなります。おそらくその傾向は男子よりも大きいでしょう。
この性に対する興味と忌避、この相対する感情にどう折り合いをつけるのか?
例えば、性行為に至らない範囲の純愛の物語で満足するのかもしれません。
汚い部分をうまく隠して、性行為を美しく表現するのかもしれません。
Boys Loveというのも、性の汚い部分を隠したものではないかと思うのです。
若者にとって、異性はある種未知の存在です。未知だからこそ、勝手な妄想が可能になります。
同性の性は自分と同じであるから汚い部分を否定できません。しかし、異性に関しては汚い部分を知らないために美しいだけの性として扱うことができるのです。
男を知らない乙女の特権と言えるでしょう。
まあ、中にはいくら現実を知っても妄想の世界に浸れる人や、汚いものをこそ愛する上級者に進化しちゃった人もいるかもしれませんけど。
それからもう一つ。
異性の同性愛というものは、自分には関わらない安全な対象なのです。
一般的に女性より男性の方が力も強く、性行為の負担やリスクも女性の方が大きいため、女性が男性に襲われるという図式が出来上がっています。まあそのせいで男性のセクハラ被害が軽視されるという問題も起こっていたりしますが。
性欲溢れる男性が自分に向かって来るとなると恐ろしいものがありますが、向かう先が他の男性となれば自分には実害のない、安全な観賞用の性となります。
同じようなことが、「ベルサイユのばら」のオスカルや宝塚の男役など男装の麗人に対する女子からの人気にも言えるのではないかと思います。つまり性行為にまで至らない、安全な疑似恋愛の対象だということです。
フィクションとしてのBLではなく、現実の同性愛について考えると、日本は歴史的に寛容な国でした。
男同士の恋愛は、平安時代から存在していたようです。
平安貴族にとって結婚は政略結婚で、後継ぎとなる子を作ることは義務です。それに下手に隠し子などができてしまうと後々面倒なことになりかねません。
平安貴族の男性にとって、女性との恋愛は縁遠かったのです。
そのため、女性との恋愛の代わりに、警護として身の回りにいた男性の武士と恋愛を楽しんだ、という話を聞いたことがあります。
まあ、同性愛を文化として積極的に推奨したわけではなく、平安貴族、戦国武将、お寺など、男ばかりが寄り集まる環境で発生している感じではありますが。
それにしても、男同士の恋愛が別段非難されることもなく堂々と歴史に残っているのです。寛容な文化だったと言えるでしょう。
歴女と呼ばれる女子の一部(一部だよね?)には腐女子が紛れ込んでいるのではないかと考えています。
この分だと女性同士の同性愛についても寛容そうですが、女性は歴史の表舞台にはなかなか出てこないのでよく分かりません。
ただ、女性の地位が低い社会では、女性は男性の庇護下にないと生き辛い場合があります。
あぶれた男が男同士でくっつくのに対して、あぶれた女は一夫多妻で乗り切ったのかもしれません。
同性愛に関して厳しいのは、やはり西欧諸国でしょう。
単に嫌われているだけではなく、時代によっては同性愛が違法だったりします。
コンピューターの黎明期に活躍し、第二次世界大戦中はドイツの暗号解読なども行ったイギリスのアラン・チューリングは同性愛の罪で逮捕されています。
LGBTの問題などでは欧米の方が進んでいるイメージがありますが、欧米の方がそれだけ差別や偏見が深刻だったということなのです。
欧米で同性愛に対して厳しいのは、キリスト教の影響ではないかと思います。
旧約聖書で神に滅ぼされたソドムの町の話があります。この話から生まれたのが「ソドミー」(ソドムの罪)という言葉です。聖書の記述から男色のことと解釈されることもありますが、ソドミーという用語は不自然な性行為を指すものだそうです。
厳しい環境で生きる少数民族にとって、少子高齢化はかなり致命的です。しばらくの間は年寄が頑張ってどうにかなっても、やがて労働力が足りなくなって生活を維持できずに絶滅。あるいは他民族に吸収されて消滅する運命が待っています。
旧約聖書の――つまりユダヤ教の神様の苛烈で容赦のない性格から考えると、ユダヤの民の生活環境はかなり厳しいものだったのだと思います。
厳しい環境だからこそ、マンパワーは重要で、社会を支える労働力を確保するためにしっかりと子供を産み育てる必要があります。
「産めよ増やせよ地に満ちよ」というのは、ユダヤ教の成立過程で民族の存続が危ぶまれるほどの人口減を経験したのではないかと想像しています。
日本でも昔は「どれだけ仕事ができても結婚して子供を育てなければ一人前とは認められない」みたいな風潮がありました。もっと過酷な環境では子供が生まれてこないような性癖そのものが罪となったのでしょう。
日本で同性愛が忌避されるようになったのは明治に入ってからでしょう。実際に、明治時代の一時期に日本でも男色行為を禁止する法律があったそうです。
明治時代の日本は西洋列強に追いつこうとなりふり構わず頑張った時代です。その際捨てられたものも多くあったでしょう。
かつての武士が髷を落とし、和服を捨てて洋装になったのも、未開の民族の変わった格好として珍獣扱いされるのを避けるためだったとか。
性に関する風習・風俗などはあまり表立って語られることのない影の文化です。目標とする先進国の人々に蔑まれながら守る意義を感じなかったのでしょう。
そして、一度捨てられ、一般に馴染みが無くなると、そこに偏見が入り込むようになります。
AIDSが問題になった初期のころ、アメリカではゲイのコミュニティーを中心にAIDSが蔓延したため、AIDSをゲイの罹る病気だという認識が広がりました。
日本でも、「最初、エイズはホモを撲滅するために生まれた病気だと思っていた。」みたいなことを言う人もいました。日本に入ってきたAIDSは初期のころは性病としてではなく、非加熱血液製剤による薬害としてであったにもかかわらずです。
アメリカからAIDSの情報と一緒に、同性愛に対する偏見まで輸入してしまったのです。
他にも、創作物が偏見を助長しているのではないかと思うことがあります。
漫画や小説に登場する同性愛者に対してはステレオタイプな表現が多くないでしょうか。
すね毛はぼうぼう、髭の剃り跡は青々しく、筋肉ムキムキの大男が、肌もあらわな女物の服を着て身をくねらせ、野太い声でオネエ言葉を喋る。ギャグ要員としてありがちです。
あるいは、好みの同性がいたらぐいぐいと迫り、相手の意思を無視して押し倒そうとする。そのような現実にいたらうっとおしい、一つ間違えれば犯罪者な人物として描かれることもあります。
物語の登場人物ならばこのくらいの個性は欲しいところでしょう。
しかし、現実にはそんなに濃い人間はいない、いたとしても例外的な極一部でしょう。
極端に誇張された特徴や、極一部の問題行動を、集団全体の一般的な特徴とみなして差別してしまうのは厄介です。
実際の同性愛者というのは、言われなければ気付かない存在なのだと思います。自分の性癖を普段から全開でアピールする人なんて滅多にいません。
元々マイナーな存在である上に、ぱっと見区別がつかない程度に目立たないとなると、ほとんどの人は同性愛者の実態をよく知らないのだと思います。
実は私もよく知りません。ただ、好きになった相手が同性だったとか、恋愛対象として興味を持てるのが同性だけだったとか以外は特に異性愛者と変わらないのではないかと想像しているだけです。
実態がよく分からない場合、目立つ例があればそれがその対象のイメージとして広まってしまうことがよくあります。
たとえフィクションでも、他に参考になる情報がなければ、それがそのもののイメージになってしまうのです。
最後に一つ。
これは完全な邪推なのですが、同性愛者を毛嫌いする人は、実は自身も同性愛の素養があるのではないでしょうか。
本来他人の趣味嗜好など気にする必要のないものです。見ず知らずの誰か、あるいは単なる知人があまり一般的でない趣味を持っていたとしても、自分には何の影響もありません。気にする必要はどこにもありません。
逆に言うと、気になるのは自分に何かしら関係すると思っている場合じゃないでしょうか。
自分の家族や親友が変な趣味にはまると心配になりますし、自分に実害のある趣味嗜好が流行ると困ります。
同性愛の場合はどうでしょう?
子供が同性愛者だったら親は慌てるでしょう。孫が望めないという点で困るかもしれません。でも毛嫌いするのとは違うと思います。
同性愛者から実害を被るケースは少ないでしょう。同性からぐいぐい迫られたり押し倒されそうになるのは嫌でしょうが、元々マイナーな同性愛者の中でもごく一部の強引な相手に狙われる危険性を考えても仕方がないでしょう。そもそも、強引に迫られる危険性は同性よりも異性の方が高いのです。
関わる可能性のほぼ無い人のことが気になるのは、気になる要因が自身の中にあるからではないでしょうか。
アンチもファンの内というやつです。
もっと言うと、ホラー映画などの吸血鬼やゾンビの恐怖と同じようなものではないかと思うのです。
吸血鬼に咬まれると吸血鬼になる、ゾンビに殺されるとゾンビになる。一度吸血鬼やゾンビになったらもう人間には戻れず、人を襲う化け物の仲間になってしまう。
だから吸血鬼やゾンビは完全に全滅させなければ安心できないのです。
同様に、同性愛者と関わると自分も同性愛者になって戻れなくなるのではないか、という恐怖から毛嫌いしているのではないでしょうか。
つまり、自分自身が同性愛者になってしまう可能性を感じている人が、同性愛者を嫌悪するのではないか、というのが私の邪推です。
まあ、実際には刷り込まれた偏見で嫌悪しているだけの可能性が高いのでしょうけれど。




