タイムパラドックスの話
時間旅行を行うSFに付き物なのが、タイムパラドックスと呼ばれるものです。
タイムパラドックスとは時間を移動することで因果関係に矛盾が発生するというものです。有名なものとしては、「親殺しのパラドックス」があります。
もしもタイムマシンで過去に戻り、自分が生まれる前に自分の親を殺してしまったらどうなるか。
自分が生まれる前に親を殺してしまえば、自分は生まれてくることができない。つまり、親を殺しにタイムマシンに乗って過去へ行くことができない。
過去に戻って親を殺さなければ、自分は生まれて来る。つまり、過去にタイムマシンに乗って戻って親を殺しに行ってしまう。
このように、過去に行って親殺しをすると結果が不明のおかしなことになります。この過去を変えることで生じる矛盾をタイムパラドックスと呼びます。
この問題は、結果が原因より先に現れることによって発生し、SFに限らずファンタジーなどでも時間を遡るようなイベントがあれば起こり得ます。
また、実は未来視や絶対に当たる占い・予言の類でも同じことが起こります。
物語の中で、このタイムパラドックスへの対処方法はいくつかパターンがあります。
1)矛盾を発生させない
例えば、親殺しをしようとすると妨害が入って絶対に実行できない。あるいは殺したと思ったら、本当の親ではなかったことが判明した等々。
特に優れた作品では、まるで推理小説の謎解きのように、過去に戻って行った行為がしっかりと整合性を持って未来へつながることになります。
物語としてはすっきりとまとまるのですが、ある意味歴史の改変はできません。
物理的に歴史の改変が不可能ならば過去に戻る意味があまりなく、何のために過去に戻るのか、過去で何をどこまでできるのか、といったあたりを考えないと話を作り難いです。
また歴史を改変しようとする行為そのものが歴史に組み込まれているような物語は、ちょっとしたことで破綻しやすく、過去に戻る人物の行動を制限する設定を作っておくなどの工夫をしないと話を作るのは難しいでしょう。
いずれにしても、話を作るためには全体を通しての整合性を考える論理的な思考が必要になります。
2)パラレルワールドで解決
過去を改変する前の世界と、改変した後の世界が並行して存在すると言う設定です。
これはある意味万能です。親殺しを行ったとしても、親が殺されて自分が生まれなかった世界と、親が殺されずに自分が生まれた世界が別々に独立して存在するのです。
しかし、この考えでは自分の過去は決して変わらないのです。過去に戻って親殺しをしたとしても、元の世界に戻ってくれば親殺しをしたという事実はなく、普通に親から生まれた自分が存続しているのです。
親殺しを行った世界に留まった場合は、元の世界ではタイムマシンで過去に旅立ったまま消息不明となり、改変後の世界ではどこの誰でもない正体不明の異世界人になります。
改変後の世界に居座れば当人の認識としては過去を変えたことになります。しかし、例えば過去を改変して悲劇を回避した場合、悲劇の起こった元の世界を見捨てて都合の良い世界に移っただけということもできるわけです。
3)気にしない
矛盾を一切気にせず、過去を改変した結果だけを都合よく反映させる、と言う方法です。
かなりいいかげんな話ですが、タイムマシンとかタイムパラドックスを主要なテーマとしているわけではない作品ではよく用いられる手法です。
理屈はよく分からないけれど結果としてそうなったとか、細かい矛盾は神様がどうにかしてくれたとか言った感じで、都合の悪い部分は無視します。
基本的に、過去の改変に成功したら過去を変えようとする動機が無くなるので、「親殺しのパラドックス」と同じ矛盾が発生します。真面目に考えていたら理屈が追い付かないでしょう。
他にも、「何者かが過去を変えようとしたため、登場人物が消えかかる」といった演出や「過去が改変されて改変されて起こらなかった出来事を憶えている/思い出す」などといった演出を行う物語もよくあります。しかし、過去を改変した結果が途中経過を無視して現在に現れるのは理屈に合いませんし、存在しない過去の記憶というものはもはや妄想です。
ストーリーの核心に絡むような理論とかでない限り、小難しい理屈を並べるよりも、理屈は分からないけどそうなったで押し通した方が良作になることが多いのでしょう。
考えなしにやりすぎるとご都合主義が目立ってしらけるかもしれませんが。
さて、「どうせタイムマシンなんて作れないのだから、タイムパラドックスなんて気にせず話の都合に合わせた結末にすればよい」と考える人もいるでしょう。それはそれで真理です。
しかし、アインシュタインの相対性理論によって、空間と時間が等質なものであることが判明しました。また、ブラックホールやワームホールを利用すれば時間を移動することも可能という研究もあります。これ、SFではなくて物理学の話です。
もう少し真面目に、現実世界の話としてタイムパラドックスに付いて考えてみても良いのではないかと思うのです。
実際、理論物理の研究者は色々と考えていると思います。いずれはもっと具体的にタイムパラドックスを理論的に説明したり、何らかの実験で検証したりするかもしれません。
ここではもう少し別な角度から考えてみたいと思います。
例えば、相対性理論でも「これは矛盾しているのではないか」という議論がいくつもありました。有名なものとしては「双子のパラドックス」などというものがあります。
しかし、相対性理論そのものに矛盾はありません。矛盾に思えるのは、誤解や勘違いで相対性理論を正しく適用していないためです。「双子のパラドックス」で言えば、「相対性」という言葉にとらわれ過ぎて、異なる運動を行っているにもかかわらず同じ結果になるはずだと思い込んでしまった点が誤解になります。
タイムパラドックスの場合も、物理現象としてどうなるか以前に、何か矛盾が生じると思い込むような勘違いがどこかに存在するのではないでしょうか。
時間旅行やタイムパラドックスについて考える時に問題となるのは、私たちの常識の中には均等で一様に流れる時間というものが根強く組み込まれていることです。
例えば、「変化」という言葉は、ある時点での状態と、そこから少し時間の経った後の状態の差分を意味します。
「運動」ならば、注目した物体の位置を時系列に従って並べてみたものです。
このように、私たちの日常的に使用している様々な概念に、過去から未来へと流れる時間が前提として入ってしまっているのです。
アインシュタインの特殊相対性理論がなかなか受け入れられなかった背景には、このような常識が邪魔をしていたからでしょう。系によって時間の流れが変わったり、同時性が成り立たないといったことは気を付けなければ見落としてしまいがちです。
これが、過去や未来に行ったり来たりすることを考えると、更にややこしいことになります。
「過去を変える」という言葉を注意深く考えてみてください。
この「変える」という部分は「変化を起こす」という意味の言葉であり、その中にすでに時間の概念が含まれています。
また、「過去を変える」と聞いて思い浮かべることは、過去のある時点の何らかの状態を変化させてその後の出来事を別な流れに変えることでしょう。
しかし、「変化」とはある時点とその後の別の時点との差分です。完全に同じ時点で同じ対象の状態を比較すれば、差分は必ずゼロです。変化は存在しません。
ちょっと数式で書いてみましょう。あ、計算とかはしないので数学が苦手な人も身構えなくていいです。
まず、「運動」は次のような式で表すことができます。
x=f(t)
ここで、xは位置。ベクトルにすれば二次元でも三次元でも表せます。tは時刻。f(t)は各時刻の位置を表す関数、つまり運動を表現する関数です。
この運動の式を用いると、「変化」というものは次のように表すことができます。
Δx=f(t+Δt)‐f(t)
このΔtはわずかな時間を表します。Δxはわずかな時間たった後の位置の差分、つまり変化です。
変数xを位置ではなく、別の状態を表す値にすれば、運動以外のさまざまな「変化」も同様の式で表すことができます。
さて、タイムマシンで過去のある時刻に戻ってその時点の位置xを変更してみましょう。
仮に、過去の時刻t0、その時の位置をx0とします。そして、改変後の位置をx0'としましょう。
すると、過去を改変した変化は、以下の様になります。
Δx0=x0'‐x0=f(t0)‐f(t0)=0
おや? 差がありません。過去の改変に失敗しました。
失敗した原因は運動を示す関数f(t)をそのままにしていたからです。運動を変えずに特定の時刻の位置だけを変更することはできません。
そこで改めて、改変後の運動を次のように定義します。
x'=f'(t)
そして、改めて過去を変えた変化を式で表すと、次のようになります。
Δx0=x0'‐x0=f'(t0)‐f(t0)
この式を先に書いた「変化」の式と見比べてみてください。全然別物です。
つまり、何気なく過去を変えるとか言ってしまっていますが、日常的に使っている「変える」とか「変化」といった言葉とは全く別のことが起こっているのです。
全く別の現象に同じ名前を付けていたら勘違いしたり混乱したりして当然です。矛盾だって発生するでしょう。
また、過去の改変に成功したのならば、改変前の運動であるf(t)は存在しなくなります。f'(t)に置き換わってしまうので、過去にも未来にも観測されません。
比較対象が無いので差分を取ることができません。つまり、過去を変えたことを認識することはできません。
多くの過去改変物語では無視していますが、タイムマシンに乗って過去を変えた人にとっても、改変後の過去が唯一の過去になるのです。
過去を変えることに成功したら、過去を変えたのではなく、過去に起こったことをそのまま起こしたことになるのです。
時間旅行をしたり、過去を改変しようとしたりといったことを考える時、私たちの普段認識している時間とは別の時間の流れを無意識に想定しているのではないかと思います。
例えて言えば、映画のフィルムの編集みたいなものでしょうか。
フィルムを前の方に巻き戻して行けば過去に、先の方へ進めて行けば未来へと行くことができます。
過去のある時点のフィルムを切り貼りすれば、過去を変えることもできます。
そして、映像の中で表現される時間、映画が上映される時間、編集作業を行う時間の全てが別物です。
二時間の映画の中で何百年という歴史を物語ることもできます。逆に、十分間の出来事を一時間、二時間かけて表現することも可能です。
同様に、二時間の映画を何か月もかけて編集するとか、三十分のドラマを何日もかけて編集するとか普通にあるわけです。
この辺りの時間の不整合を矛盾していると思う人はいないでしょう。
この映画のたとえを利用してタイムトラベルを考えてみると、「時間を遡って過去を変える」という時点で無意識に編集者の視点で考えています。
過去から未来へと続く一連の歴史を俯瞰的に見て、そのある一時点に手を加えて歴史を「変える」。改変前後の世界を比べて「変わった」と言えるのは編集者の時間の流れの中だけです。
しかしながら、実際にタイムマシンに乗って過去に戻り、過去を改変する行為を行うの編集者ではなく映画の登場人物に相当する人なのです。
ここで、映画の編集者の時間と、登場人物の時間を混同することになります。
この混同こそがタイムパラドックスの元凶ではないかと思うのです。
もしも映画の登場人物の視点ならば、過去が変わったことを認識できません。改変後の過去以外の過去は存在しないからです。
もしも映画の編集者の視点ならば、過去から未来へと続く歴史がどの時点で何度変わっても問題ありません。フィルム内の時間と編集者の時間は別物だからです。
しかし、「過去を変える」という編集者の時間内での出来事を、「過去は唯一つ」である登場人物の時間に押し込めようとしたら当然矛盾が発生するでしょう。
編集者の視点で考えれば、「親殺しのパラドックス」は違った見え方がするはずです。
「自分が生まれる前に親を殺してしまえば、自分は生まれてくることができない。つまり、親を殺しにタイムマシンに乗って過去へ行くことができない。」
この部分はまあ良いとしても、
「過去に戻って親を殺さなければ、自分は生まれて来る。つまり、過去にタイムマシンに乗って戻って親を殺しに行ってしまう。」
これは言い切れなくなります。
「親が殺されなかったのだから、当然その子供がタイムマシンに乗って親を殺しに行くはずだ」と言うのは改変前の過去がなかったことになる登場人物の視点に立った意見です。
編集者は過去を改変する前と後を認識します。つまり、
「親から子が生まれ、その子が成長してタイムマシンに乗って親を殺しに行く。」
「親が死んだので、子供が生まれず、親を殺しに過去へ行くことができない。」
「親が殺されなかったので、子供が生まれて来る。」
これらの歴史の流れの変化は、編集者から見れば世界に蓄積されるのです。
親を殺すという過去の改変も、子供が生まれず過去の改変ができなくなるという現象も、すべて編集者の時間の中で起きた世界の変化です。
時間の流れを含んだ世界そのものが変化しているのだから、過去に戻って親殺しをする前までの世界と、子供が生まれなかったために親殺しが起こらなかった世界は全く同じではありません。だから、必ず同じことが起こるとは限らないのです。
条件が異なっているから、「親が殺されなかったから全てがなかったことになって、もう一度子供がタイムマシンに乗って親を殺しに行く」歴史の流れになるとは言い切れないのです。
成長した子供が親殺しに行かないかもしれません。あるいは、親が殺されなくても子供が生まれてこないかもしれません。
個人的な想像ですが、編集者の時間の中で、親が殺されたり殺されなかったりを繰り返しているうちに少しずつ世界が変化し、整合性が取れたところで安定して歴史の変化が無くなるのではないかと思います。
登場人物側の視点で見れば、編集者視点で過去の改変の影響が伝搬している最中には奇妙な現象を目撃するかもしれませんが、最終的には矛盾のない歴史のみが残り、それ以外は認識できません。
つまり、親殺しに失敗して諦めて帰るか、親殺しに過去に戻ること自体が無くなるか、と言ったあたりが「親殺しのパラドックス」の解なのではないかと思います。
編集者の視点、つまり過去から未来へと流れる時間を俯瞰的に見て、過去や歴史そのものが変化する様子を観察できる。そんな視点で世界を見れば、時間に対する印象も変わって来るでしょう。
私たちは時間を過去から未来へと流れるものとして捉え、原因に対して結果が現れる因果関係で物事を考えています。
しかし、時間の流れの外側から俯瞰的に見た場合、過去の原因から未来の結果を生み出す、つまり因果関係を生じさせる作用と、空間的に離れた物体等に影響を及ぼす作用とは本質的に同じものではないかと思っています。
相対性理論では空間と時間は本質的に同じものであると言います。それはつまり、時間に対しても空間に対しても同じ物理法則が当てはまるのです。
過去のある一点に変更を加えた場合、その影響は因果律に従って未来へ、だけではなく空間方向にも過去に対しても伝搬するのだと思います。
ただ、時間を含めた世界全体の変貌は時間の概念に縛られた私たちには認識できません。せいぜい変更を加えた地点から光速で届く範囲、事象の地平面の内側に対する影響のみが観測できるといったところでしょう。
実は認識できないだけで、タイムマシンなどが無くても未来から過去への干渉は日常的に発生しているのかもしれません。
最後にもう一つ。
私はここまで「矛盾を発生させない」方向でタイムパラドックスの解消を考えてきました。少なくとも世界の中にいる人にとっては、最終的に矛盾の無い歴史しか認識できないという考えです。
ではもう一つの有力な解法である「パラレルワールドで解決」する方法はあり得るのでしょうか?
個人的には「ない」と考えています。物語としては面白くても、現実としてはあり得そうもないと思っています。
パラレルワールドそのものは存在しても良いと思っています。量子力学でも「エヴェレットの多世界解釈」とか、宇宙論でもマルチバースと言って複数の宇宙が存在するという考えもあります。
しかし、タイムパラドックスの解消に利用されるのは「もしもの世界」です。
もしもあの時別の選択肢を選んでいたら、今頃どうなっていたか? そういった本来あり得ない空想上のものを別世界と言う形で実現する、かなり都合の良い考えです。
物理学的にも世界が分岐すると考える根拠はありません。
そもそもある出来事を境にほとんどそっくりな複数の世界に分かれると言う現象は説明が付きません。増えた世界の分の質量とかエネルギーとか何処から出て来るのでしょう。
自然現象と考えると、人の行為でのみ世界が分岐するというのもおかしな話ですから、様々な物理現象に対して世界の分岐が発生し続けるでしょう。分岐したそれぞれの世界でも分岐が発生するから、指数関数的に世界の数が増えて収拾がつかなくなります。
それに、時間と空間は本質的に同じものであるから、時間的に世界の分岐が発生するのならば、空間的にも世界が分岐するはずです。ちょっと想像もつきませんが。
物語の背景設定としては、考え得る全ての可能性を内包し、都合の良いものを選んで持ってこれるという点で無限に分岐するパラレルワールドは使い勝手が良いのです。
ただ現実には、将来技術が進むなどしてパラレルワールドの実在が確認されたとしても、歴史のどこかで分岐した「もしもの世界」ではなく、この世界とは別にずっと過去から並行して存在していた世界になるのではないかと思っています。




