なぜ学生は学生服を着るのか?
高校生の頃、五分間スピーチというものがありました。自分で決めたテーマを五分くらいにまとめてクラスメイトの前で喋るという、スピーチの練習です。
その時考えていて、結局使わなかったテーマが「なぜ学生は学生服を着るのか」というものです。
学生時代を思い出しながら書いてみたいと思います。
まず、このテーマを思いついたきっかけは、以下のような話を聞いたからです。
日本では中学生、高校生は制服を着て通学するのが一般的ですが、小学校に関しては制服の学校と私服の学校の双方があります。
制服の小学校と私服の小学校はだいたい地域ごとにまとまっているのだそうですが、制服の小学校と私服の小学校が混在する地域があり、そこでアンケートを取ったのだそうです。
「小学生は制服にするべきか、私服にするべきか?」
結果は制服派、私服派それぞれ別れましたが、どちらの意見もその理由の上位には「その方が小学生らしい」というものがありました。
(ずいぶん昔に聞いた話なので、今では状況が変わっているかもしれません。)
つまり、制服で通う小学生を見慣れている人は制服姿が「小学生らしい」と思い、私服姿の小学生を見慣れている人は私服の方が「小学生らしい」と見えるわけです。
小学校を制服にするか私服にするかを議論したいなら、「小学生らしい」という意見は排除しなければなりません。それは単なる思い込みに過ぎず、どちらに決まっても慣れればそれが「小学生らしい」に変わるからです。合理的な根拠にはなり得ません。
小学生だけではなく、中学生、高校生に対しても、「制服を着るのが学生らしい」という主張は単なる思い込みであり、何の根拠にもなっていません。「学生なのだから学生服を着るのが当然」などという主張に至っては、単なる思考停止であり、根拠を示していません。
スピーチのテーマとして考えていた当時、スピーチを始める前に先生に「なぜ学生は学生服を着るのか」という質問をぶつけて、「学生らしい云々」と言ったらスピーチでそれは理由にならないと全否定して、最後にもう一度同じ質問をぶつけようとか考えていました。
我ながら、性格悪いです。
五分間にまとめる自信がなかったこともあって断念しましたが。
さて、そもそも制服とは何でしょう?
漢字で「制服」と書くと単純に決められた服装という意味になりますが、英語で書くとuniformになります。
英語で「uni」は「単一の」という意味です。「form」の方は「形」とか「形式」という意味になります。つまり、集団で同じ格好(服装)をすることがuniformの本質になります。
集団で同じ服装を着る理由は、多くの場合その集団に所属する人をそれ以外の人と区別するためです。
例えば、軍隊では敵と味方を区別するために軍服を利用しています。
軍が戦争を行う上で避けたいことは、味方同士で殺し合う同士討ちです。
しかし、敵も味方も顔見知りな小規模な戦いや、「やーやー我こそは」などと名乗りを上げての一騎打ちならばともかく、何千何万という兵士が入り乱れての乱戦になると敵と味方の区別が困難になります。いちいち敵か味方かを確認してから戦うのは大変です。
そこで、同じ軍服を着ることで「同じ服を着ている者は味方」という状態にします。これならば一目で敵と味方が区別できるので、同士討ちの危険をぐっと減らすことができます。
スポーツなどの場合も同様で、特にチームで対戦する競技は多くの場合ユニフォームを着用します。
選手同士はともかく、選手が入り乱れると審判や観客からは誰が誰だか分からなくなる可能性があります。
そこで、チーム毎に目立って異なるユニフォームを着ることで、少なくともどちらのチームの選手かは一目で分かるようになります。
他にも、店で店員が制服を着ていれば客と一目で区別がつき、客から声をかけやすくなります。警察官は一目で警察官であることが分かる制服を着ることで、その場に警察官がいることを知らしめ、防犯の効果があります。
このように、ユニフォームには着用した人の所属や立場を明確にする役割があります。
学生服に関しては、少々事情が異なります。
学生服発祥の地はイギリスだそうです。
イギリスは社会的な階級がはっきりと別れた階級社会だそうです。社会的な階級によって、経済的な格差も大きいので、着ている服を見るだけで階級の違いが分かってしまったりするそうです。
しかし、さすがに学校内、学生同士にまで社会的階級を持ち込むべきではないと考えたのでしょう。
私服のままでは服装に親の社会的階級が現れてしまうので、全員に同じ服を着せてしまおうというものです。
つまり、他のユニフォームのように学生という集団を一目で見分けるためではなく、学生という集団の内部に目に見えた違いが現れないために作れら他のが学生服なのです。
(というような話を聞いた覚えがあるのですが、今になって検索してみてもそれらしき話は見つかりませんでした。何かの勘違いだったのかもしれません。)
さて、以上のことを踏まえて、日本の学生服は何のためにあるのでしょう?
日本で学生服が導入されたのは明治以降です。江戸時代以前は学校教育そのものがありませんでした。
明治には四民平等で江戸時代の身分制度は廃止されました。また、江戸時代辺りの日本の文化は上流階級が華美な衣装を見せびらかすというものではありませんでした。
イギリスのような、身分差を覆い隠すための学生服というのはピンときません。
また、学ランはドイツの陸軍、セーラー服はイギリスの海軍の軍服を元にしてデザインされたと聞いたことがあります(これも今になって検索したけどそれらしき話は見つからなかったので勘違いかもしれません。ただ、軍服を元に作られたことは確かなようです)。富国強兵策の一環だったのではないかと思います。
しかし、明治時代に、あるいはその後の時代に明確な目的を持って導入された学生服だとしても、今の時代にもその意味は残っているのでしょうか?
戦後、高度成長期に入り生活が豊かになると、「一億総中流」などと言われるようになりました。その後の不況などで経済格差が広がりましたが、それでも着ている服を見ただけで貧乏人呼ばわりされる状況ではないでしょう。
少なくとも今の日本では貧富の差を隠すための制服というのはほとんど意味が無いでしょう。
では、ユニフォームの一般的な目的に従って、同じ学校に所属する集団でいあることを一目で分かるようにするための制服でしょうか?
これもちょっと微妙なのです。学生服には学校ごとのバリエーションがあまりありません。男子の学ラン、女子のセーラー服、あとはブレザーがあるくらいで、それ以外は珍しい学生服扱いされます。
一目見てどこの学生か分かるのは「珍しい学生服」の中でも有名なものくらいで、あとはせいぜいどこかに小さく校章が入っている程度です。
そして、何よりも教師が同じ制服を着ていません。
学生服なのだから当然、と言って思考停止してはいけません。学校に所属することを表す衣装であるならば、同じ学校に所属する教員も職員も制服を着ていなければおかしいのです。
プロ野球で、ベンチから指示を出す監督が私服だったり背広を着ていたりしたらどう思いますか?
生徒の規範を示すべき教師は、率先して制服を着るべきでしょう。
なのに、なぜ学生だけが制服を着ているのでしょうか?
単純に考えれば、学生服によって一目で区別される集団は、個々の学校に所属する者ではなく、中学高校を含めた学生という集団になります。
なぜこの集団に対して見ただけで分かるようにする必要があるのでしょう?
ちょっと邪推してみます。
まず、幼稚園児はだいたい制服を着ます。これには実用的な意味があります。目立つ制服を着た幼児が一人でフラフラしていたら一目で迷子と分かります。
小学生くらいになるとある程度保護者から離れて行動できますし、周囲の大人に見つけてもらわなくても自分で助けを求めることもできるようになります。
そして、小学生くらいの子供であることは見ただけでだいたい分かります。だから小学生には制服を着せる必要はありません。
中学生高校生になると、発育の良い子供はそろそろ大人と区別がつきにくくなります。着る服装によっては、あるいは女子の場合は化粧をしたりすると本当に子供には見えないこともあります。
大学生になると、ほぼ大人扱いになります。同じ年齢でも進学しなかった人は働き始めていますし、最近では成人年齢を18歳に引き下げる法案も検討されています。
このように考えると、学生服によって見分けているのは、「子供であること」ではないかと思うのです。
発育が良くて図体だけはでかくても、社会的には権利と責任が制限される子供であるということ。これが学生服を見るだけで一目で分かるのです。
私が高校生の時分に考えていた結論が、こんな感じでした。
改めて思い返すと出所不明の怪しい情報とかもありますが、まあスピーチとして喋る分には突っ込まれることもなかったでしょう。
今になって考えてみると、惰性と思い込みで昔に導入された制度が続いているだけというのも結構有力な気がします。
明治時代の学校教育が始まったばかりの頃は、義務教育後に進学するするのは一部の優秀な学生に限られていたのです。そうしたエリートのみが着ることのできる学生服は、今の時代とはまた違った意味があったでしょう。
それからもう一点。学生に同じような服装をさせることで、見た目で管理しやすくしようとしているのではないか、とも思えます。
この場合学生服は、皆で同じ格好をするという意味のユニフォームではなく、決められた服を着るという意味の制服になります。
その昔、不良とかツッパリとかヤンキーとか呼ばれた学生たちには独自のファッションがありました。
基本は学生服なんだけれど長かったり短かったり、変な加工がしてあったりと規定外のもの。頭髪も染めたり脱色したりパーマをかけたり。リーゼントなどはマンガ等で不良を表す記号と化しています。
校則とか学校指定とかからは逸脱しているのですが、似たような格好になるのが不思議なところです。いわば不良のユニフォームです。
不良独自のファッションは、制服や頭髪の規定に対してちょっと外れた所にあります。もしも最初から制服や頭髪の規定が無ければ、いかにも不良な格好というものは存在しなかったでしょう。
学校側からすれば、制服を決めて頭髪の規定を作っておけば、そこから外れた学生を見つけるだけで不良として目を付けるべき学生が分かります。
一目見ただけで学生を管理できる。これが制服を導入するメリットになっているのです。
そう考えると、「服装の乱れは心の乱れ」などと言って厳しく指導するのは、「不良を見つけ出すのに邪魔になるから紛らわしい格好をするな!」ということになります。
普通の学生は同じような格好をしてもらわないと一目で見分けられなくて困るわけです。
少々穿ち過ぎた見方かもしれませんが、見た目で問題のある学生を発見しようとする行為は行われているのではないでしょうか。
「天然パーマはストレートパーマをかけろ! 元々茶髪なら黒く染めろ!」という話が本当にあったことか、変な校則を揶揄する作り話かは知りません。
しかし、都立学校の四割で「地毛証明書」の提出を求めるというニュースが流れたのは、昭和でも平成でもなく令和に入ってからのことです。
つまり、髪形や髪の色で学生を差別する教育がずーと続いていたのです。生徒の個性を尊重する教育とか言われ始めたのは何時からでしたっけ?
服装や頭髪にこだわって学業を疎かにしないように、といった側面もあるのでしょうが、ここまで来ると見た目で問題のある学生を炙り出す為の仕組みであると疑いたくなります。
もしかすると、校内暴力が吹き荒れ、学級崩壊とかが問題になっていたころには、多少強引にでも教師や学校に反抗的な学生をどうにかする必要があったのかもしれません。
かつての校内暴力はかなり深刻だったそうです。学生と言っても、高校生くらいになると本気で暴れられたら教師も危険です。
学級崩壊の方も深刻です。一部の生徒の影響でまじめに勉強する気のある学生まで授業を受けられなくなる。これは教育を受ける権利の侵害になります。
このような深刻な状況をどうにかするためには、反社会、反体制に傾倒して問題を起こしそうな学生を早めに見つけて対処する必要があったのでしょう。
そして、そのためにきつめの校則で学生を縛って、それで音を上げた者を炙り出すという方法は有効だったのかもしれません。
しかし、それはあくまで非常手段、戒厳令とか非常事態宣言のようなものです。状況が改善されたら速やかに解除すべきものでしょう。
それに、反抗心が外見に現れるのは、教師や学校に正面から歯向かう分かり易い学生だけです。
表面上は優等生を装い、裏でたまったストレスを弱い立場の学生にぶつけるようなタイプには効果がないどころか、陰湿ないじめをエスカレートさせる危険すらあります。
校内暴力が社会問題だったのは前世紀の話。今はいじめの問題の方が大きいでしょう。
服装や頭髪のチェックに労力を割くよりもやるべきことがあるのではないでしょうか。
今までそうしてきていたから惰性で続けるとか、建前の理由に執着するのではなく、その時々の状況に合わせてメリットとデメリットをしっかりと考えるべきでしょう。
中学、高校の教師の皆さん、「学生はなぜ制服を着るのか?」を学生に対して合理的に説明できますか?
地毛証明書を書かせてまで厳しい頭髪の規定を守るメリットとデメリットをきちんと言えますか?
日頃お忙しいとは思いますが、たまにはなぜその規則があるのか?、規則が無くなるとどうなるのか?、その本質的なところを真剣に考えてみませんか。




