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駄文庫  作者: 水無月 黒
12/58

夫婦別姓問題

2021年6月25日追記。

2021年12月24日蛇足追加。

 たまに話題に上るようになって、そのまま消滅することを繰り返している気がする夫婦別姓ですが、最近またちらほらと話題に上がってきたように思います。

 まあ、今多少話題になってもコロナ禍やらオリンピックがどうなるといった話題に隠れて自然消滅しそうですが。

 私個人の意見としては、他人の名前に興味はないので、選択的夫婦別姓制度ならば導入されても何の問題もないと思っています。

 むしろ、どうしてそこまで他人の姓にこだわるのか理解できないです。


 そもそもの話、なぜ日本は夫婦同姓になったのでしょうか?

 もともと「姓」と言う文字は、女偏が入っていることからも分かるように、血筋を表すものだそうです。

 結婚したところで、自分の血筋、生みの親が変わることはありません。だから中国では昔から夫婦別姓が当然でした。中国では姓や名を変えるというのは、別人になる必要があるよほどの事情がある場合に限られていたそうです。

 同じ文明圏である韓国でも夫婦別姓ですし、日本でも昔は夫婦別姓でした。

 日本史では女性のフルネームが出て来ることが少ないので分かり難いですが、例えば、源頼朝と結婚した北条政子を源政子と呼ぶことはありません。

 ただ、日本での名前の扱いは中国とは少々異なっています。

 中国では、「姓」と「名」後はニックネーム的な「(あざな)」だけですが、日本では「氏」「姓」「名字(苗字)」それに「官位」などもくっつけて名乗ったりするので少々ややこしいです。

 日本の場合、以下の様になっていたみたいです。

 「氏」……同じ先祖を満つ血族集団の名前。

 「姓」……朝廷が与えた位。氏姓制度の(かばね)で、平安時代中期あたりで廃れた。

 「名字」……同じ氏族の中で区別する名称。屋敷のある場所の名前や、領地の名前が使われることが多かった。

 基本は同じ祖先をもつ血族集団の「氏」があり、そこに位を表す「(かばね)」が付いたり、細分化して「名字」が付いたりしているようです。

 「夫婦別姓」と言いますが、法律的には「氏」を使っているのだそうで、正しくは「夫婦別氏」と言うのだそうです。

 いずれにしても、日本でも同じ祖先をもつ血族集団を表す名称が基本なので、結婚したくらいで変わるものではなさそうです。


 さて、日本で夫婦同姓になったのは明治に入ってからです。

 なぜ明治政府はそれまでの慣習を捨てて、夫婦同姓にしたのでしょうか?

 これは完全に私の邪推なのですが、事務作業の省力化のためだったのではないかと疑っています。

 徳川家の江戸幕府を打倒し、日本という国家の形を大きく変え、一気に近代化を推し進めた明治政府は、強大な力を持って改革を推し進めたイメージがあるかもしれません。

 しかし、明治政府の内情は、金無し人無しのかなり貧弱な状況だったはずです。

 発足当時の明治政府は討幕運動を主導した薩摩や長州の人間が要職に就きましたがそれだけでは足りません。政府を動かすには多くの役人が必要です。

 天皇を国の中心に据えましたが、それで人材が増えるわけではありません。むしろ、天皇の近くにいた公家は、近代化を邪魔する排除すべき勢力です。

 さらに廃藩置県で幕藩体制を完全に廃止しました。それまで各藩の地方自治に任せていた内容を政府が一本化して行うようになり、同時に各藩で働いていた多数の武士の離反をまねきました。

 実際に明治政府内には江戸幕府の下で働いていた役人が登用されていたりするようです。それでも離反する役人はいたでしょうし、新しく人材を育てるにも時間がかかります。

 日本の大改造やら近代化の促進やらで仕事が増えたのに、役人は減るのです。様々なところで知恵と工夫を凝らして省力化しなければやっていられなかったことでしょう。

 そうした政府の仕事の省力化の一つとして、夫婦同姓があったのではないかと思うのです。

 戸籍というものは、ぶっちゃけて言えば、税金を取るための仕組みです。

 江戸時代までは、各藩毎の独立採算制だったので、江戸幕府は直轄地である江戸の住民だけを管理していればよかったのですが、明治政府は日本全土の国民すべてを管理する必要があります。

 当時はコンピュータもなければ、コピー機もありません。戸籍は全て手書きで作成していたのです。全国民の戸籍を作るのはさぞや大変だったことでしょう。

 だから、省力化のため(だけではないでしょうけれども)に色々と工夫を行っています。

 例えば、「氏」「姓」「名字」といった複雑な名前の体系を排して、「氏名」に統一しました。ついでに、それまで「名字」等を持たなかった人たちも強制的に同じ形式の氏名を名乗るようにしています。

 祖先から受け継いできた大切な「姓」だと思っていたら、実は明治時代に上からのお達しで仕方なく適当に付けただけの「姓」だった、などということもあり得るのです。

 名前のフォーマットを統一することで、台帳に記入する手順を統一化し、余計な手間を省くことができます。

 また、通り名と本名のように複数の名前を持つことを禁止したり、安易な改名を禁止したりもしています。これは、別人になりすますことを防ぐとともに、戸籍の記載を単純にしたり修正する手間を省く効果もあります。

 夫婦同姓もまた、この省力化に貢献します。

 夫婦同姓にしておけば、戸籍には世帯主だけ氏名を記載し、妻子は名だけを記載すればよくなります。

 当時の人々の生活を考えればこれで十分だったのでしょう。

 江戸時代の日本人はほとんどが農家でした。農家の仕事は基本一家総出で行います。子供から爺さん婆さんまでできる範囲で仕事を行い、収入は個人ではなく家単位に入ります。

 農業以外の仕事も似たようなものです。商業でも工業でも、家単位で仕事をするものが多く、勤め人は少数の例外でした。

 昔の人の生活は、家が仕事の単位だったのです。嫁入りと言うのは、単に夫婦になるということだけではなく、夫の家業の一員となることを示していました。

 永久就職などと言う言葉がありましたが、専業主婦になるよりも、もっと古い時代の方が意味的には合っていたわけです。

 家単位で仕事をする者が多かった時代には、税を取るための戸籍としては、家単位手で管理すれば十分だったのです。個人単位に収入を管理しようとするとかえって曖昧になってしまいます。

 どこの家にどけだけの収入があって、その収入で何人養っているか。そこからどれだけ税を取れるかを判断する元になる資料が戸籍です。

 その家の娘が結婚して家を出たら元の戸籍から抜き、嫁ぎ先の家の戸籍に追加すればよい。どこの家から移ってきたかは税の取り立てには関係ありません。

 国としては管理する必要のない情報だったので省いてしまったわけです。


 さて、もしも私の邪推の通り、本当に明治政府が事務作業の簡略化のために夫婦同姓を決めたのだとしたら、反対意見などは出なかったのでしょうか?

 たぶん、その当時はほとんど気にする人はいなかったと思います。

 そもそも、江戸時代まで庶民は苗字を名乗れなかったのです。昔からずっと「姓」「名」でやって来た中国程のこだわりはなかったでしょう。

 また、夫婦同姓で最も影響を受ける女性は、当時ほとんど社会的発言権がありませんでした。

 さらに、明治時代は文明開化だ近代化だで、日本の古いものがガンガン捨てられた時代です。名前くらいに構っていられなかったのでしょう。

 こうして、夫婦同姓は明治時代の勢いに紛れて日本に定着したのだと思います。


 明治時代に導入された夫婦同姓の制度は、その後しばらく問題にはなりませんでした。

 昭和に入り、終戦直後あたりでも日本人の半分は農家だったそうです。つまり、家を単位とした税と戸籍の制度はまだまだ有用でした。

 その後、高度経済成長期に入ると人々の生活は一変します。企業に勤めるサラリーマンが一気に増えます。

 徴税の中心が、家から企業に移り、法人税や従業員の所得税などの源泉徴収が大きなものになってきます。

 税制度に関しては時代に合わせて色々と修正が入ったことでしょう。しかし、この時点では戸籍制度に関しては大きな問題はありませんでした。

 会社勤めになって親と異なる職に就く者が増えましたが、核家族化が進んだためそういう人はどんどん独立して別世帯になって行きました。

 また、サラリーマンの妻はほとんどが専業主婦になり、働くにしてもパートかアルバイトで家計を助ける程度、家庭の収入の中心は世帯主である夫が担うというのが一般的になりました。

 生活や仕事は変わったけれど、家毎に主要な仕事が一つあってそれで暮らして行く構図はあまり変化なかったのです。


 状況が変わってきたのは、昭和の末期、1990年代あたりからでしょう。

 一つは、女性の社会進出が進んだこと。

 それまでは、学校を卒業したら花嫁修業して結婚、あるいは一応就職しても結婚したら寿退職して専業主婦、と言うのが普通だった女性が、このころから本気で仕事でキャリアを積むようになります。

 もう一つは、土地バブルの崩壊から始まり、長く続く不況です。

 不況で収入が減ったり、就職難で非正規社員にしかなれずに収入が安定しなかったりして、夫一人の収入ではやっていけない家庭が増えました。

 結果として専業主婦ではなく共働きを選択せざるを得ない家庭が増え、女性の社会進出をさらに推し進めました。

 その後も、好況だったと呼ばれる時期はあっても、専業主婦が当たり前の世の中には戻りませんでした。

 女性の社会進出に伴い、夫婦同姓が問題になってきます。

 それまでの日本の職場の多くは男性社会でした。会社に女性がいても、結婚したら辞める腰掛社員か、結婚後に家計を助けるために働きだしたパートタイムのおばさんが主でした。

 また、結婚したならば男性の側の姓に合わせることが慣習になっていました。

 つまり、一般的な職場では従業員の姓が途中で変わることはまずなかったのです。従業員が結婚して姓が変わったことでどんな問題が起こり、どう対処すればよいのかと言ったノウハウがほぼ無かったわけです。

 結婚して姓が変わることでどのような影響が出るのかは、職場や仕事の内容で変わります。しかし、日本の職場では名前ではなく姓の方で呼び合うことが多いので、多少なりとも影響はあるでしょう。

 そして、特に影響が大きい場合には、仕事か結婚かの二択を迫られることになります。経済的に仕事を辞められない場合は、結婚を諦めるか先延ばしにすることになります。


 姓が変わるだけでそこまで仕事に支障があるのか? とか、影響があっても一時的に手間がかかるだけではないか? と思う人もいるかもしれません。

 しかし、人によってはかなり深刻なことになる場合があり得ます。

 私の聞いたことのある範囲で、最も厳しそうだったのは研究職の場合です。

 研究職の仕事は、書いた論文で評価されますが、論文の署名は戸籍上の氏名を記載しなければならないのだそうです。

 この縛りにはちゃんとした意味があります。

 論文を評価する指標の一つに、どけだけ多くの人の論文で引用されたか、と言うものがあります。多くの人に引用されたということは、多くの別の研究に役立った優れた論文ということになります。

 もしもペンネームによる論文の執筆が許されたら、百のペンネームを駆使して自分の論文を引用した百の論文を書き上げ、百人から引用された優れた論文をでっちあげることも可能になってしまいます。

 だから、論文は本名で執筆する必要があります。

 しかし、戸籍上の氏名を記載するということは、結婚して姓が変われば、それ以降は変わった後の姓で論文を執筆する必要があります。

 同じ研究者の論文なのに、結婚の前後で執筆者名が変わることになります。

 所属する研究機関内での評価だけならば、旧姓の論文も本人の分として扱えばよいだけですが、話はそれだけで済みません。研究論文は一般に、広く海外にまで公開されるものです。

 よく、新しい技術とか、科学的新発見とか、自然現象などが話題になった時に、TVなどで専門家を呼んで意見を聞いたりします。あらゆる専門家をTV局で確保しているはずはないので、話題に応じた専門家を探して出演依頼します。

 専門家を探し出す簡単な方法が、関連する論文をたくさん書いている研究者を検索することです。

 この時いちいち旧姓の論文と合算して集計、などということはしないでしょう。

 つまり、姓を変えることは、対外的に過去の研究業績を捨てる覚悟が必要になるのです。

 TV出演の他にも講演依頼なども同じようにあるだろうから、うまくすれば出演料や講演料でそれなりの収入になります。研究職と言っても高い給料をもらえるとは限らないので、これらの収入は馬鹿にならないでしょう。

 やはり仕事を取るか、結婚を取るかの二択になります。特に研究者同士のカップルの場合など、結婚が遅れることになるでしょう。


 何か姓を変えたくない事情があって結婚をためらうようなことはそれ以前からもあったと思うのです。ただそれは個別の個人的な事情ということで、社会的な問題としては取り上げられなかったのです。

 しかし、女性の社会進出が進むとともに、他の諸々の女性差別・男女不平等の問題と共に表面化したのだと思います。

 最初は特殊な事情でも、数が増えれば、そして継続的に発生すれば社会問題と化します。仕事に影響が出るならば、当人の気持ちの問題ではなく、実害を伴う案件になります。

 そして結婚の障害になるということは、少子化問題に関わってきます。少子化対策を真面目にやるならば、その気のある男女が結婚することを妨げるものは、可能な限り排除すべきです。

 そうした時代の背景から出て来た解決案が、「選択的夫婦別姓制度」なのだと思います。

 この「選択的夫婦別姓制度」は問題解決の手法としてはかなり優秀です。

 まず、「姓」を変えることで生じる不具合の全てに対応することができます。そもそも「姓」を変えなくてよいという制度なのだから、確実です。

 また、実質的に法律を変えるだけで済むため、低コストで実現できます。戸籍システムに修正が入るかもしれませんが、現状でも国際結婚をした場合に夫婦別姓が認められていることもあり、大きな変更は必要ないでしょう。

 少なくとも、個別の職場で発生している問題を調べ上げて、問題の内容毎に解決するための法案を作ったり行政指導したり、といったことを行うよりも簡単で確実です。

 補助金を出す制度のように、継続して資金を投入する必要もありません。その後制度が正しく運用されているかの監査を行う必要もありません。非常に安上がりです。

 それに、デメリットがほとんどありません。

 必要な人が夫婦別姓を選択できるというだけで、既に結婚して同姓になっている人にも、これから結婚して夫婦で同じ姓を名乗りたいと思う人にも何の影響もありません。

 また、法案が成立して選択的夫婦別姓制度が始まったとしても、本当に必要な人以外はほとんど夫婦別姓にしないと思います。

 日本では、これまでの慣習から外れ、他と違うことをしようと思ったら勇気と覚悟が必要です。

 例えば、法的には結婚時に男性側女性側どちらの姓に合わせても良いはずなのですが、ほとんどの場合男性側の姓に合わせます。よほどの理由がない限り男性側が姓を変えることはありません。当人は納得しても親が認めなかったりします。

 時には、夫が妻側の姓になるだけで「婿養子」とか言われたりします。本当の婿養子は妻側の親と養子縁組をすることで、単に妻の側の姓を名乗るだけでは該当しません。それほど、夫側が姓を変えることは珍しいのです。

 このように、特に日本では同調圧力が強いので、そこまでしても結婚したいと決意した人でなければ夫婦別姓は選択しないでしょう。

 少数派を選択することのリスクは、決意した本人に負ってもらうことになります。


 夫婦別姓に関する議論は感情論に走ったり、思い込みや決めつけが多いように感じます。

 私はどちらかといえば賛成派なので、反対派側の意見に理不尽なものを感じることが多いです。しかし、夫婦別姓賛成派の中にも変なことを言う人はいます。

 夫婦別姓になれば、姑から「○○家の嫁になったのだから云々」などと言われなくて済む、というのは夫婦別姓の趣旨をはき違えているとしか思えません。

 姑との関係を改善しなければ別の何かで文句を言われるだけだろうし、その手の姑は夫の姓に合わせなくても嫁扱いに変わりはないと思うのですよ。

 また、反対派の意見としてよく見かける「夫婦別姓にすると家族の絆が薄れる」というのは根拠が弱いと感じます。

 昔から夫婦別姓でやって来た中国とか韓国は家族の絆が弱いと思いますか?

 明治になって夫婦同姓が明文化される前の日本では家族の絆は弱かったのでしょうか? それとも、夫婦同姓になってから、同じ姓に頼らなければならないほど家族の絆が弱くなったのでしょうか?

 それに、仮に「家族の絆が薄れる」が正しいとしても、それがどう実害に結びつくのかがよく分かりません。

 絆が薄れるのだから、離婚が増えるということでしょうか?

 しかし、いくら何でも夫婦別姓が認められただけで夫婦同姓の家庭まで絆が弱まるということはないでしょう。そして、夫婦別姓を選択したからと言って必ず離婚するというほど強力な効果はないはずです。

 つまり、問題が生じるのは夫婦別姓を選択した家庭の中のさらに一部になります。

 現状、夫婦別姓でなければ結婚が難しいカップル以外別姓を選択しないだろうと考えると、根拠の怪しい「家族の絆が薄れる」が正しくてもメリットの方が大きいのではないかとさえ思えます。


 私個人としては、選択的夫婦別姓制度を導入した際の具体的なデメリットがまるで見当たりません。

 その一方で、姓を変えることで不便や不利益を被ったり、それが理由で結婚をためらったりする、別姓が認められれば解決する問題を抱えた人がいることは理解できます。

 法律や社会制度は、社会全体の利益を考えて作られるべきものです。メリットがあってデメリットが無ければ反対する理由はありません。だから私は賛成派になります。

 反対するならするで、もっと具体的かつ論理的にデメリットを説明して欲しいです。「そんなことを許したら日本が滅茶苦茶になる。」だけでは、そうは思っていない人を納得させることはできないし、納得できないから何度でも夫婦別姓を求める声が上がるでしょう。

 あるいは、夫婦別姓以外のもっと良い方法を提示するか。「選択的夫婦別姓制度」以上に即効で効果があり弊害が少ない案は難しいでしょうけれど。

 夫婦別姓を求める声は、一過性のブームやどこかの誰かの主義主張のごり押しではなく、社会の変化に伴うものだと思います。だから法案の成立が見送られても、問題が解決されない限り何度でも声が上がり続けます。

 女性の社会進出は止まらないでしょう。結婚しても働き続ける女性が当たり前になり、妻の収入が減ることで生活に支障が出て来る家庭も増えるでしょう。

 少子化に伴い、自分の結婚で姓を途絶えさせることを厭う女性も増えて来るでしょう。この手の問題は親や親戚が絡むので、本人の気持ちの問題だけで済ませられないことが多々あります。

 そろそろ本気で対応した方が良いと思います。

 政府にしても国会にしても感情論で法案を通さなかったわけではないでしょう。ですよね?

 しかし、どうして法案が通らないのかよく分かりません。ただ先送りしても良いことは何も無いでしょう。

 廃案にするならばするで、他のもっと面倒な対策を考えて行かなければならないはずです。

 すくなくとも、「嫌ならば結婚しなければいい」では済まされない程度には少子化問題は深刻だと思うのです。


 ・2021年6月25日追記

 ETV特集「夫婦別姓 "結婚"できないふたりの取材日記」の再放送を見ました。

 本放送を見逃しましたが、どうにか再放送を録画しました。やはり実際に困っている人の話を聞くのは参考になります。

 この番組に登場するカップルは、姓を変えたくなくて困っているわけではありません。ただ、女性の方に事情があって男性側の姓である「高橋」になりたくないというものでした。

 女性側の事情を聴いた男性は納得し、女性の姓で結婚することを決意します。

 これで終われば無事結婚してめでたしめでたしなのですが、ここで男性の両親が大反対します。「勝手に名字を変えたら孫が生まれても面倒を見ない!」とか「親子の縁を切る」とまで言われたとか。

 ここで、男性とその父親との会話の様子が映るのですが、第三者である私の見たところ、父親の反対する理由は「息子の姓が変わることが自分が嫌だから」以上のものはありません。

 自分の息子に対してだから強く言えるけれども、例えば同じように結婚して彼女の姓になるという友人に対して同じ話をしたら、「余計なお世話だ!」と一蹴されるでしょう。

 本人に自覚はないかもしれませんが、実はこの話、彼女の「嫌だ」と親の「嫌だ」の衝突なのです。

 女性の嫌がる気持ちに対して父親は、次のように言います。

 「世の中は嫌なことばっかりだよ。みんな乗り越えてるんだよ。」

 「そういうこと乗り越えるからだんだんだんだん人間は強くなれるんだよ。」

 なんだかすごく良い言葉にも聞こえますが、全く同じセリフでパワハラを正当化したりできるんです。

 特にこの場合、女性の嫌と父親の嫌のぶつかり合いだということに気が付けば、父親の発言は「自分の嫌を避けて、相手に嫌を押し付けている」ことが分かるでしょう。

 この父親、よく撮影や放送を許可したなぁと思います。冷静に客観的に考えれば、自分の言った説教めいた言葉が全て自分に跳ね返ってくるのです。

 それにかなり危険な発言でもあります。

 息子が親と仲良くやりたいと思っているからよかったものの、短気で意固地だったりすると「分かった、本当は嫌で嫌で仕方が無いのだけれど、親子の縁を切らせてもらう! 子供ができても絶対に連れてこないし、老後の面倒も一切見ない!」などと言い出すかもしれません。

 嫌なことに立ち向かって強くなるという意味では、親の意向に唯々諾々と従うことなく彼女の気持ちを尊重して、日本では少数派の女性の姓に合わせて結婚することの方がよほど効果があります。

 さて、頭の固い頑固親父を非難することは簡単ですが、問題はこの父親と同じように考える人が大勢いるであろうことです。

 何故そこまで息子の姓が変わることが嫌なのでしょう? そのヒントになる発言が以下のものでしょう。

 「向こうは三人いるんだろ? で、男の子だっているだろ。」

 「そしたら、向こうがこっちに来るということだってさ……。」

 これらの発言が意味するところは、息子が名字を変えると相手の家に息子を取られたように感じているということです。

 これはおかしな話です。上でも書いたように、嫁入り婿入りというものは婚姻相手の家業に参加することを意味し、ほとんどの人がサラリーマンと化した現在ではほとんどその実体がありません。

 嫁や婿が実質的に意味を持たず、子々孫々まで家名と共に受け継ぐべき稼業も持たないのに、何故名字を変えただけで相手の家に行ったと思ってしまうのか?

 むしろ、嫁や婿の実体が無くなっているために、名字だけがどちらの家に帰属するのかを示すものになってしまったのではないでしょうか。

 どちらの家でもなく独立した家庭を築く場合も多いと思うのですが、離れて暮らしていても自分の家の者という意識は思いのほか強かったようです。子離れできない親が多いのでしょうか?

 正直私はこの辺りの認識が甘かったようです。夫婦別姓に「○○家の嫁になったのだから云々」と言われないことを望む意見は、予想以上に深刻だったのかもしれません。

 番組では、父親の説得に失敗しています。根っこにあるのは感情なので、議論で論破しても意味が無いのでしょう。


 そして一年後、二人は事実婚を選択しました。

 ここから番組は、同じ姓を名乗らなければ夫婦と認められない現状に疑問を持ち、夫婦同姓の歴史とかを調べたりします。

 さすがに省力化のために夫婦同姓にしたなどという説は出てきませんでしたが。

 その後、事実婚を選択した人たちによる夫婦別姓を求める裁判や、事実婚に対する問題や将来の不安など、夫婦別姓に絡んだ話題が色々と出てきます。

 ところで、現在夫婦同姓でやっている国が確認できる範囲で日本以外存在しないというのは初めて知りました。

 それから、途中で男性と母親との対話が入ります。この人も、女性側の姓になって結婚することに対して「息子を失った気分になる」と言って猛反対したそうです。

 ふと気になったのですが、息子ではなくて娘だったら良いのでしょうか?

 皮肉でも嫌味でもなく、純粋な好奇心から知りたいです。

 息子でも娘でも同じ子供です。しかし、息子が結婚して姓を変えることに反対する親は多くても、娘が結婚して姓を変えることに反対する親はかなり少数派でしょう。

 娘だったら「失った気分」にならないのでしょうか?

 さすがに、娘だったら失っても構わない、などということはないでしょう。

 社会慣習的に娘とはそういうものと刷り込まれているから、悲しくても寂しくても文句を言わずに堪えているのでしょうか?

 それとも娘さんが結婚して幸せになることを優先しているのでしょうか?

 だったら、息子の幸せを第一に考えることはできないのでしょうか?

 番組冒頭で息子さんの年齢は四十歳と言っていました。晩婚化が進み、女性より男性の方が余裕があるとはいえ、この機を逃したら生涯独身の可能性も見え始める年齢です。結婚できても子供は諦めるという可能性も視野に入って来る年頃です。

 とりあえずこの母親の場合は、息子の幸せが一番と考えられるようになったのは時間が経ってからだそうです。

 親の立場になって見ないと分からないことかもしれませんが、私の場合その立場になっても理解できない予感があります。

 なお、高橋家には後は兄がいるだけで娘さんはいないようです。この母親に直接聞いたとしても答えは返ってこないかもしれません。やっぱり子離れできない母親だったのでしょうか?


 番組では最後に、選択的夫婦別姓制度に反対した亀井静香元衆議院議員にインタビューしています。

 夫婦別姓に関して色々と検索していた時に、この番組のインタビューに答える亀井氏に対して、「思想の押し付けだ」等と非難するものが引っかかりました。

 そして、実際に番組のインタビュー見たのですが、夫婦別姓制度の具体的な問題点を挙げてくれませんでした。この点個人的にはかなり期待外れでした。

 インタビューの中では、元議員ということで現職ではないせいか、色々と危ない発言をポンポンとしてくれました。

 夫婦別姓が実現しない理由が「国家の都合」で、「少数派のわがままには付き合っていられない」からだそうです。

 この発言、かなりヤバいです。表面的に見ても、多様な生き方とか、個性の尊重とか言った時代に逆行する意見ですが、じっくり考えるとさらにヤバいのです。

 この発言は、夫婦別姓制度を否定すらしていません。議論以前の段階で門前払いなのです。その理由が「少数派」だからと言うものです。

 民主主義と言うのは、国民一人一人が等しく主権を持つという考え方です。結果として少数派の意見が通らないことはあるにしても、最初から議論の対象外で聞く耳持たないというのは主権の侵害に当たるでしょう。

 自由民主党の衆議院議員やってた人が民主主義を否定しちゃっているのです。少なくともそういう解釈ができる不用意な発言です。

 現役議員だったり要職に就いていた時にこの発言をしていたら、責任取って辞任させられる展開もあったんじゃないでしょうか。

 経歴を見ると途中で自民党から離れて最後は無所属になってから引退しているみたいですが、民主主義そのものに反対しているわけではないですよね?

 他にもいろいろ危ない発言をしているのですが、「亀井静香」で検索したらWikipediaにこの番組での発言に対して「セクハラ、女性差別発言」としてまとまっていました。


 私はこのインタビューの場面を見て、亀井氏の発言に非常にむかむかしたものを感じていたのですが、後で考えて一つ思い当たることがありました。

 この少数派の意見を単なるわがままだと言って切り捨てる論法は、前世紀の喫煙天国だった頃の喫煙者の態度に似ているのです。

 「嫌煙運動に付いて」でも触れましたが、昭和の一時期、喫煙者は絶対的多数でした。だからタバコが苦手な少数派の人が職場環境を改善したいと思っても「一部の人のわがまま」扱いで門前払いだったのです。

 タバコによる苦痛を理解してもらえず、「タバコの煙くらい我慢できなければ、社会に出てやっていけないぞ」とか、「そんなに嫌なら仕事を辞めればいい」とか言われてきたのです。

 亀井氏の、結婚できなくて悩み苦しむ二人に歩み寄るどころか理解しようとする素振りすら見せない態度は、タバコで迷惑を被っている人の存在を認識すらしていなかった当時の喫煙者と重なるものがあります。

 このような単なる無理解によって議論や対策が止まっているとしたら、心配なことがあります。

 将来、夫婦別姓が解禁になった時に、これまでの反動で行き過ぎた制度や社会になってしまわないかというものです。

 喫煙の問題でも、一度嫌煙が優勢に傾くとあれよあれよという間に禁煙場所が増えて行きました。まあ個人的には喫煙者の怠慢が原因と思っていますが、喫煙による健康被害の側面ばかり目立つことが気がりです。

 夫婦別姓問題にしても、亀井氏のような少数派意見に耳を貸さない人が議論を止めているのなら、夫婦別姓を求める人が多数派になった時点で一気に話が進むことになります。

 夫婦同姓制度は日本の女性差別の代名詞になっている面があります。裁判で「男女どちらの姓を名乗っても良いのだから女性差別に当たらない」という判決が出ても、実質的にほとんどの場合で男性側の姓を名乗らなければならないのが現状です。

 この番組の例でも、男性本人が納得しても親から「勝手に姓を変えたら親子の縁を切る」と言われてしまっているのです。これで男女平等だとは言えないでしょう。

 海外からの評価も、男女平等に関しては日本は底辺を漂っています。ジェンダーギャップ指数なるものがあるそうですが、2021年日本は156か国中120番目の低順位だそうです。

 国内外の圧力が高まれば、夫婦別姓を導入して男女平等を! みたいな流れができても不思議ではありません。

 現在夫婦別姓を求めている人の活動は穏健なものです。姓の問題で結婚できないカップルに選択肢を増やせればよいので、既に同姓で結婚している人や夫婦同姓を希望する人に何かをするつもりはありません。それが「選択的夫婦別姓制度」です。

 しかし男女平等を前面に押し出して、夫婦別姓でなくても特に困っていない人まで大々的に参加した熱狂的な活動になってしまうと何が起こるか分かりません。

 極端なことを言えば、夫婦が同姓だというだけで女性蔑視だと言う風潮ができてしまうかもしれません。

 あるいは、ただ互いに姓を変えられない事情のあるカップルが結婚したいだけなのに、男女平等や女性の地位向上を目指すフェミニストとして扱われたり、本人の意図していない別の男女平等関連の活動に強引に誘われたりと、色々と奇妙なことが起こるかもしれません。

 夫婦別姓を求める人の望みはただ普通に結婚することです。本当に困っている人のことを置き去りにして、変な方向に進まなければよいと思うのです。


・2021年12月24日蛇足

 ETV特集「夫婦別姓 "結婚"できないふたりの取材日記」の亀井静香氏のインタビューを改めて考えてみました。

 冷静になってよく考えてみると、亀井氏の発言の問題は、「何も言っていない」ことではないかと思います。

 直接夫婦別姓に関して言っている言葉というと、こんな感じです。

 「愛し合ってるならね姓が一緒でないと、困るんじゃないの」

 押しつけがましい口調ではありますが、疑問形です。しかも、社会的な問題ではなく個人としての問題として扱っています。同姓にしないと本人が困るだけなら夫婦同姓を強制する必要はないはずなのです。

 ここから選択的夫婦別姓制度に反対するには、「どうせ困って同姓にするのだから最初から同姓で結婚すべき」くらい言う必要があるのですが、亀井氏はそこまで言及しません。

 夫婦別姓に反対する理由として「少数派のわがままには付き合っていられない」からだと言っているようにも見えますが、少数派云々を言い出した時点で亀井氏の頭の中から夫婦別姓問題は消えているように見えるのです。そうでなければ、夫婦の姓の問題で結婚できずに困っている二人が目の前にいるのに、「一人のわがまま……」という言葉が出て来るのは変です。

 そもそも選択的夫婦別姓法案は少数意見として門前払いをする段階を過ぎています。国会でも審議されて、亀井氏自身もその場にいて法案の成立に反対した当事者です。

 インタビューの主旨から言えば、亀井氏が何故法案に反対したのか、その理由を言ってくれればそれだけでよかったのです。

 しかし、亀井氏はこの点について何も語りません。そんなに答えたくない理由なのでしょうか?

 そう思って見直すと、亀井氏の発言は質問にまともに答えようとしないものばかりです。

 かといって、何かこうあるべきだという主張があるようにも見えません。色々と言っているように見えますが、具体性のないものばかりです。

 初めの「姓が一緒でないと、困るんじゃないの」発言も疑問形で、後から問題になっても、「ただ質問しただけで押し付けるものではない」と言い逃れできるようになっています。

 少数派云々の発言も、「国家が困る」「みんなが困る」と具体性が無く、後で具体例を挙げて発言の問題点を指摘しても「そんなことは言っていない」とごまかすでしょう。

 強気に見える態度とは裏腹に、発言内容は逃げの一手です。

 特に顕著なのが、「みんな天皇の子」発言です。ここだけ見ると右翼系の思想にも見えますが、この発言が実に唐突に出て来るのです。

 「個人個人の思いを尊重できる日本になれるのか、一つの家族の形しか認めない社会になるのか。どちらが理想だと思いますか」

 この質問に対する回答が、「みんな天皇の子だから一緒なんだよ」で締めくくっているのです。何度見ても何が言いたいのかよく分かりません。

 確かなことは、質問に対してまともに回答していないということです。天皇を引き合いに出して答えをはぐらかしただけです。

 私は最初に亀井氏の発言を、「現職ではないせいか、色々と危ない発言をポンポンとしてくれました」と評しました。しかしちょっと違ったようです。

 詭弁のテクニックの一つに、あえて突っ込まれるような発言をして議論を明後日の方向に誘導するというものがあります。

 よくあるのが、おかしな例え話をして、突っ込まれると例え話の内容の議論が始まって本論が進まないというものです。

 亀井氏の突っ込みどころの多い発言も同様に、下手に突っ込むとどんどん話がずれて行くのです。実際、ネット上での突込みも夫婦別姓問題からずれたものも多いですし、私の突っ込みも民主主義の話になりました。

 結局亀井氏は夫婦別姓に関して具体的なことは何も語っていません。質問に対してもはぐらかしたり、変に一般化抽象化をして論点をぼかし、ずらす発言が多いです。

 具体性が無く、押し付け決め付けが多く、まともな根拠も示さずあたりまえのこととして押し通そうとする。これは議論や対話を拒否する姿勢です。

 議論も対話も拒否して、少なくともインタビュアー二人の意見や質問を真面目に取り合う様子を見せず、代わりに何か主張したいことがあるのかと言えば、一貫して主張している内容も見当たりません。その場その場で話を逸らしたりごまかしたりしているだけに見えます。

 この人はいったい何のためにインタビューを受けたのでしょうか?


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