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駄文庫  作者: 水無月 黒


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科学は悪か?

・2021年3月10日追記

・2022年3月4日追記

 世の中には科学者や科学そのものを悪として描く物語があります。

 フィクションだけでなくドキュメンタリーでもそのような視点で描かれるものがあります。

 科学者や科学が悪者として登場する背景には、科学万能主義に対する反動があるのだと思います。

 しかし、反動というものは、往々にして行き過ぎるものです。

 必要以上に科学を悪者にしていないでしょうか?


 科学万能主義が登場した背景には、ニュートン力学の大成功と、産業革命があると思います。

 まず、ニュートン力学は物理学に大きなインパクトを与えました。ニュートンというと万有引力の法則が有名ですが、ニュートン力学の方が影響範囲は大きいです。

 ニュートン力学は、たった三つの法則、簡単な数式だけで天体の運行から実験室内での物体の動きまで、あらゆる運動を説明できるのです。それも、計算して正確に予測もできるというのはかなり画期的なことでした。

 簡単な数式であらゆる現象を説明するという物理学の流れはここから始まったとみてよいでしょう。あまりにあらゆることをうまく説明できるので、19世紀ごろには、もうじき物理学で研究することは無くなる、とまで言われていたそうです。

 次に、産業革命は科学技術の恩恵を広く多くの人々にもたらし、その生活を一変させました。

 その後も次々と様々な分野で新しい科学的発見が続き、それらを応用して便利な新製品ができたり新しい技術で今まで不可能だったことが可能になる。

 そんなことが繰り返されれば、「科学に不可能はない」とか「科学技術が進歩すれば人類皆幸せになれる」のような考える人が現れても不思議ではないでしょう。

 まあ、その後科学技術の負の側面というか色々やって来たことの問題点が噴出し、科学を悪とみなす考え方が出てくるわけですが。

 科学万能な考えは、今でも結構根強いです。

 例えば、「科学的根拠に基づいて――」とか、「最新科学によれば――」のような言い回しは、科学=正しいという前提を無意識に使用しています。科学万能主義でなくて何でしょう。

 正確に言えば、「科学的根拠」ではなく「合理的根拠」と言うべきでしょう。

 また、科学というのは本当にそれが正しいかを多くの人が疑い検証していくものです。ニュートンの万有引力の法則だって、アインシュタインの相対性理論だって、常に本当に正しいか、特定の条件では成り立たないのではないか等と今でも検証を続けています。

 「最新の科学」というのは、実はいつひっくり返るか分からない怪しいものなのです。


 さて、科学の功罪を論ずる前に、皆さん、科学と技術の違いは判りますか?

 科学というのは純粋に知識です。人類が経験し考察してきた様々な知識を体系化したものです。

 技術というのは、人の役に立つ手段や手法のことを指します。

 例えば、運動方程式を解いて、放り投げたボールがどのような軌道を描いてどこに落ちるかを予測するのは科学です。

 そうした計算結果を利用して、狙ったところに砲弾を落とすことのできる大砲を作ることは技術です。

 ニュートン力学は科学であり、産業革命は技術です。

 科学と技術は全く別物です。そして、「科学の力」とか「科学の罪」とかいう場合、実は「科学」ではなく「技術」の方を指していることが多いのです。

 また、「科学技術」という言葉は、「科学」の知識を応用した「技術」であり、その本質は「技術」の側です。

 この科学と技術を混同している人は多いと思います。

 先日TVを見ていたら、科学者のイメージを聞かれて「何か色々と発明する人」などという発言がありました。発明は技術の領分で、科学知識がなくても新規性のある便利なものを思いつけば発明することは可能です。一方で、発明とはまるで縁のない基礎科学の分野の科学者も多いです。

 一般的な科学者のイメージに、マッドサイエンティストのイメージが入っているのではないかと思います。物語のマッドサイエンティストは脈絡なく、あるいは都合よく変な発明品を持ち出すのが役割だったりしますから。

 それから、この手の話題になるといつも気になるのですが、人文科学とか社会科学の存在が忘れ去られていないでしょうか?


 人々の生活に密接にかかわるのは、科学よりも技術の方です。人の役に立つものを技術と呼ぶのです。科学の方は、本来役に立とうが立つまいが関係なく、好奇心を満たすだけの知識です。

 科学知識は技術を発展させるのに大いに役立ちましたが、技術において科学が必須ということはないのです。

 例えば、「科学vsファンタジー」をやって見せる小説はよくありますが、この時に科学側の武器としてよく使用されるのが銃器です。

 しかし、日本に銃が入ってきたのは16世紀ごろ、戦国時代の真っただ中です。その後、鉄の扱いに長けていた刀鍛冶が頑張って鉄砲を作りました。

 刀鍛冶は科学者だと思いますか?

 もちろん今使用されている銃には科学技術がふんだんに使われているでしょうし、昔の職人技の工芸品にも現代の科学技術と同等の合理性を持ったものもあるでしょう。

 しかし、高度だったり有用だったりする技術の中にも科学とは関係ないものもあるのです。

 科学で発見された法則を基に計算した設計も、長年の経験と勘で作り出す職人芸も、どちらも等しく技術なのです。

 何が科学であるか、という点についても色々と議論の余地はありますが、ここでは割愛させていただきます。


 NHKの番組に、「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」というものがあります。

 科学や科学者の負の側面を暴き出す的なコンセプトの番組だと思うのですが、この番組で扱う「闇」の範囲は広いです。凶悪な兵器を生み出したとかならばまだ分かり易いのですが、戦争や政争あるいは人間関係の問題で悲惨な末路をたどった科学者みたいな話までありました。

 科学者や科学史の知られざる一面が語られる番組なので興味深いのですが、見ていて違和感を覚えることも多々ありました。

 例えば、「放射能 マリーが愛した光線」のキュリー夫人の回では、自分達が発見した放射能が人類の幸せに繋がると信じて疑わない、まさに科学万能主義な人物として描かれています。私はそれ自体は特に問題ないと思っています。

 しかし、ラジウム・ガールズの責任をキュリー夫人に負わせようとするかのような番組の作りに対しては疑問を感じるのです。

 ラジウム・ガールズというのは、ラジウム入りの夜光塗料を塗る仕事をしていて、致死量のラジウムを体内に摂取してしまった女性の工場作業者のことです。

 確かに発端は、マリ・キュリーがラジウムを発見したことに遡れるかもしれません。しかし、キュリー夫人がラジウム入りの夜光塗料やそれを利用した製品を開発したり販売したわけではありません。

 塗装作業を行った女性工員に対して筆先を舐めて尖らせるように指導したわけでも、ラジウム入りの塗料が人体に無害だと主張したわけでもありません。そのようなことをしたのは、製品を作っていた企業です。

 そもそも、ポーランド出身で夫のピエール・キュリーと共にフランスで活動していたキュリー夫人とアメリカの工場で発生したラジウム・ガールズを関係付けるのは無理があります。

 知らないうちに内部被爆するのは恐ろしいことですが、それがキュリー夫人の罪であるかのように見える番組の構成には疑問を感じます。責められるべきは従業員の健康を蔑ろにした企業の方でしょう。

 自分の発見がまるで関係のないところで他人を不幸にしてしまうというのは恐ろしいことです。しかし、その発見の影響を全て予測することなど不可能です。

 ラジウムを発見した時点でラジウム・ガールズの発生を予測できたとしたら、それは神か未来人です。それに、発見を公表しなかった場合の影響だって予測できるものではありません。

 また、科学技術によって生まれた兵器は、科学の負の側面として説得力があります。原爆、毒ガス、ナパーム弾、これらの非人道的な大量殺戮兵器は使用されるべきではないでしょう。

 番組のテーマからして、科学者の罪や科学の負の遺産的な扱いになるのは仕方のないことです。

 ただ、科学者だけに罪を押し付けるようになっては問題だと思うのです。

 例えば、原子爆弾の場合、マンハッタン計画では数多くの科学者が参加しています。原子の構造を調べるような基礎物理の研究でも、大量破壊兵器に繋がる場合があるということは、全ての科学者が肝に銘じるべき事柄でしょう。

 しかし、科学者だけが勝手に集まって原爆を作り、日本に投下したわけではありません。

 イギリス、アメリカ、カナダの三ヵ国が協力して行われた大規模プロジェクトです。

 強い兵器を求める軍部の支持があり、大統領が承認して予算が下り、そして開発製造には多くの技術者やそれ以外の人手の協力もあって完成までこぎつけているのです。

 出来上がった原子爆弾は船や飛行機で輸送され、最終的に爆撃機に搭載され、広島と長崎に投下されたのです。

 原子爆弾の開発・運用の主体はあくまで軍であり、それを承認し政治的にも利用したのがアメリカの大統領です。

 その事実を持って科学者の罪が許されることはないと言うのならば、同時に科学者以外の関係者の罪もまた問われなければなりません。

 アメリカが民主主義の国である以上、国策として行われた行為の責任は、全国民が負うことになります。

 そのことを十分に理解した上で、科学者にも自分の仕事の影響を認識するように促すのならばそれでよいと思います。

 しかし、ただ悪いことを開発にかかわった科学者だけに押し付けるようになってはいけないと思うのです。

 個人的に気になったのは、「地獄の炎 ナパーム弾」回で紹介されたエピソードです。

 泥沼化したベトナム戦争で厭戦気分が蔓延したところで、ナパーム弾の開発者であるルイス・フィーザーを非難する声が上がったという話がありました。

 アメリカは第二次世界大戦で日本に焼夷弾をばらまきました。今でも原爆投下は正しいと信じる人もいます。強力な兵器をガンガン使って戦争に勝ってきた国なのです。

 それがベトナムで思ったように勝てず、アメリカ兵にまで犠牲者が出るようになって、怒りの矛先を兵器の開発者に向けたのです。

 ルイス・ティーザーは軍の要請を受けてナパーム弾を開発したのであって、凄い兵器を開発したからと自分で売り込んだわけではありません。

 そもそもベトナム戦争以前からナパーム弾は使用されていて、アメリカという国は、アメリカ国民は既にその恩恵を受けてしまっているのです。

 開発者を非難する時期は既に過ぎていて、兵器を使用した軍や政府に対して方針の転換を求めるべきなのです。

 実際、ベトナム戦争以後、非人道的兵器だということでナパーム弾の廃止に動いています。

 ただ、ここでナパーム弾の開発者を槍玉に挙げることは、受けた恩恵はそのままに、都合の悪いことだけをなかったことにしようとしているように見えるのです。

 これは何もアメリカに限った話ではありません。

 私達も気を付けないと、科学技術の恩恵にどっぷりと浸かっていながら、都合の悪い部分だけ取り上げて科学者を糾弾するような真似をしでかさないとは限りません。それに、科学技術以外でも同じようなことが起こり得ます。

 「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」は別に科学者や科学者を志す者のみに向けた番組ではありません。

 科学者が、研究成果の社会に与える影響を考えるきっかけになるならば良いことだと思います。しかし、科学技術にまつわる問題を科学者だけに押し付けるような風潮が出てきたら問題だと思うのです。

 今の世の中、地球温暖化とか、環境破壊とか、科学技術に関連する問題が幾つもあります。しかし、問題があることが分かったら、その技術を使わなければよいだけのはずです。

 問題のあると判明した科学技術の使用を止められないのは、その技術の恩恵を受けている人が大勢いるからです。

 受ける恩恵をそのままに、問題だけを科学者に丸投げしても簡単に問題が解決するはずがありません。

 科学者個人の「心の闇」で済ませるのではなく、なぜそのような問題が発生したのか、どうすれば問題を防ぐことができたか。新しく生まれてくる科学技術とどう向き合っていけばよいのか、自分事として考えなければならないと思うのです。


 最後にもう一点だけ。

 確かに、科学技術が絡んだ問題というものが世の中にはあります。

 しかし、問題が大きく、深刻になる背景には、科学よりも経済の影響が大きいのではないでしょうか。

 例えば、交通事故で毎年多くの人が怪我をしたり亡くなったりしています。これは、自動車を生み出した科学技術の負の側面と言えるでしょう。

 しかし、科学者や技術者が研究用に一台や二台の車を作ったくらいでは、そこまでの事故死者は出ません。設計の問題や操作ミスがあって、関係者数名が死傷したら大事故でしょう。毎年死者を出すようでは研究そのものが中止に追い込まれるでしょう。

 現在、毎年のように交通事故で死者が出るのは、数多くの自動車が作られ、多くの人の手でそこいらじゅうを走り回っているからです。

 これほど数多くの自動車が走り回っているのは、全て経済活動のため、経済活動の結果です。

 公害の問題も似たようなものです。

 科学者個人が研究するレベルでは、よほど強力な毒物を垂れ流すようなバカな真似をしない限りは、周囲の人の健康に影響が出ることはありません。バカな真似をして影響が出ても範囲は限定的でしょう。

 公害として深刻な影響が出るのは、大規模な工場から排出される有害物質をちゃんと処理せずに大気中や河川に放出するからです。

 少量ならば自然に分解したり拡散して無害になるものでも、大量に毎日継続して放出されれば被害が出て問題になります。

 公害が発生するほど大量に生産し、また問題が発生してもすぐに対処したり操業を停止したりできないのは、利益を追求しなければならない経済的な理由があるからです。

 石油や石炭を掘り尽くす勢いで掘り出し、二酸化炭素を放出して地球温暖化を引き起こしたことも、プラスチックごみを大量に作り出し、マイクロプラスチックで海洋汚染を引き起こしたことも、科学的探究心からではなく利益を求める経済活動から起こったことです。

 まあ、大量殺戮兵器については経済というより戦争目的ですが。しかし、戦争も結構経済的な理由で起こっていたりします。

 大量殺戮兵器については、敵が強力な武器を持っている以上、自国も同等以上の兵力を持たなければ安心できないし、外交上も立場が弱くなります。核軍縮はなかなか進みません。

 経済活動についても、商売敵に勝つためには使える技術(もの)は何でも使わなければなりません。より利益の上がる手法を頑なに使用しないでいると、淘汰されて消えて行きます。

 企業は利益の出ない活動を行うことができないので、地球温暖化対策とか自然保護などの活動を行うためには、その方が儲かる仕組みを構築する必要があります。逆に、儲かる仕組みが作れなければ、どれほど深刻な問題であっても企業は手が出せません。

 科学の進歩さえなければこんなことにはならなかったと言う人もいるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。

 科学技術でなくても、例えば魔法や呪術的なものであっても、謎の超古代文明やら異星人やらの原理不明の便利道具であっても、科学で解明できない神秘的な現象であっても。

 それが何であれ他国に優位に立てる兵器になるなら軍事利用するでしょうし、利益をもたらすならば経済活動に組み込まれるでしょう。

 今この世界では、それが科学技術であったというだけです。

 たとえ使い続けることで致命的な問題があるとしても、使うことを止められない。それが全ての元凶です。

 特に、膨れ上がった経済活動は、国レベルでも御しきれるものではありません。

 科学を悪とみなし、科学者に責任を求めたところで、問題は解決しないのです。


 ――

 2021年3月10日追記

 「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」で常温核融合の話題が取り上げられました。2月25日放送の「夢のエネルギー “常温核融合”事件」です。

 この事件、1989年にイギリスのフライシュマン教授とアメリカのポンズ教授がマスコミに発表したことから始まります。

 高温高圧下でなければ起こらないと考えられていた核融合が、常温常圧下で重水を電気分解するという簡単な装置でできたという非常に画期的なものでした。

 当時の騒動をリアルタイムで見ていた人や、追試に参加した人もいるでしょう。それが事実ならばエネルギー革命がおこるだけに、世界中が熱狂しました。

 結局、核融合反応が発生していた事実は認められず、夢のエネルギーは夢の間まで終わりましたが。

 ところで、この事件の何が問題なのでしょうか?

 科学者の発表した新発見や新理論が間違っていたというのは、ある意味よくあることです。

 どれほど優秀な科学者であっても間違えることもあれば考えが足りないこともあります。だから他の多くの科学者が検証し、追試を行って確認するのです。

 裏方で行われていた駆け引きだの騙し合いだのは置いておくとして、まず問題になるのがポンズ教授らの論文が、捏造とまで言われるほどに杜撰だったことでしょう。

 間違いや失敗は誰にでもあることだし、そのような事例の蓄積も科学の一部です。けれども捏造だけは駄目なのです。それは科学の進展を阻害するだけの、やってはいけないことです。

 当人たちとしては、特に捏造したという意識もなく、ただ急いで発表するために手抜きをしただけだったのかもしれません。

 本来、実験データを捏造しても、追試で再現できないのですぐにばれます。どれだけ偉い人の主張でも、間違いは間違いと指摘するのが科学者の務めです。

 しかし、この常温核融合に関しては追試に成功したという報告が相次いだのです。これがこの事件最大の問題点でしょう。

 科学者一個人、または一チームだけならば間違いや捏造ということになるでしょう。しかし、間違った実験結果にたいして、関係ない複数の研究者が追試に成功してしまうというのはどういうことなのでしょう?

 普通ならば複数の人が追試に成功したのならば、少なくとも何らかの現象が発生していると考えるべきでしょう。しかし、その追試の成功もほとんど後で間違いだったと撤回されているのです。

 この常温核融合の事件は、病的科学と呼ばれるものに分類されるそうです。

 多くの研究者が追試に成功してしまった理由としては、一つは事実であって欲しいという思いが強かったのだと思います。常温核融合が事実で、しかも試験管レベルで目に見えて大量の熱が発生するようならば、人類のエネルギー問題は解決したも同然です。

 そしてもう一つは、成果を出すことを急いだためだと思います。番組内でも指摘されていましたが、ポンズ教授の論文は穴だらけで二番手でも十分に価値があると思えたわけです。

 最初に発見した者や、初期に大きな成果を出した者には栄誉が与えられます。

 そして、科学者としての栄誉だけではありません。常温核融合はお金になります。

 実用化されれば世界中で使われて、莫大な特許料が入ってきます。基本特許はポンズ教授の属するユタ大学が押さえているとしても、効率や安全性を改善するような周辺特許でも多額の利益が得られるでしょう。

 さらに研究が有望と見れば、官民問わず研究費の提供や共同研究の申し出があります。

 こういった資金や利益を獲得するために、大急ぎで追試を成功させる必要があったわけです。ポンズ教授の発表から数ヶ月で百件を超える追試成功の報告が上がったというのも、それだけみんな急いだからでしょう。

 だからポンズ教授らと同様に、杜撰で成功することを前提にした追試になってしまったのだと思います。

 現代の科学者・研究者は職業としてやっています。金持ちの道楽でやっているわけではないので、何らかの形で利益が出ることを期待されています。

 利益につながりやすい応用分野だけでなく、基礎研究の分野でも将来的には技術レベルを押し上げて有益に利用されることが期待されています。

 少なくとも、何らかの成果を出さなければ研究費が出ず、有意義な研究が続けられません。下手をすれば研究者としての仕事も続けられません。

 だからこそ、大きな利益が出そうな、世間の注目を浴びるような研究に多くの者が飛びついたのでしょう。

 結局のところ、科学的な正しさよりも、経済の理論が優先された結果がこの事件の本質だったのではないかと思うのです。

 この番組の決め台詞は「科学は誘惑する」ですが、実際に科学を歪めて科学者を誘惑しているのはお金、経済システムの方だと思うのです。


 ――

 2022年3月4日追記

 「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」を見ていて気になった点をいくつか記載します。

 この番組は好きでよく見ているのですが、科学や科学者の悪い面を強調するあまり偏った見方になっている部分も多いと感じます。


・「ドクター・デス 安楽死を処方する医師」

 この番組は科学者を極悪人扱いするために強引で一方的な決めつけをしているように感じることがあります。

 この回は特に特にそうで、「ドクター・デス」ことジャック・ケヴォーキアンを悪人に仕立て上げるために、偏見に満ちた作りになっているように思えます。

 例えば、番組では「死に憑りつかれた男」と評して、まるで自分の趣味嗜好を満たすために人の死に逝く様を観察していたかのような印象を与えています。

 しかし医療技術の進歩により、生と死の境界が曖昧になっています。

 かつては呼吸や心臓が停止するともう手の施しようがなかったため、それが人の死を意味していました。しかし心停止からでも蘇生する場合があると知れば、心臓が止まったくらいで治療を止めることはできません。

 人の死に立ち会うことの多い医師にとっては人の死を判定する基準は重要なものです。

 人の死を冒涜する変態趣味の結果たまたま科学の進歩に貢献したのではなく、彼でなくてもいずれは誰かがやらなければならなかったことなのです。たとえ「死に憑りつかれた」と言われてでもです。

 他人からは証明しようのない本人の気持ちを番組の主旨に合わせて捏造していないでしょうか?

 また「殺人医師」とか「死の医師」などと呼ばれ多くの人の死に関与したことは事実ですが、行ったことは自殺幇助です。

 最後に自力で自殺装置のスイッチを押せない患者に代わってケヴォーキアン氏が装置を動かしたことで有罪になりましたが、それ以外は法的には罪に問われませんでした。

 法的には問題なくても、倫理的には大問題では? と、思うかもしれません。

 しかし、医者としての倫理を問題にするならば、その大前提として安楽死の是非を議論しなければなりません。

 安楽死の問題に関しては未だに完全決着とは言えないでしょう。いったん合意が取れたとしても、何度でも異論の出る難しい問題です。

 そういった難しい問題を無視して、ただ人を殺したから悪と言う扱いは軽率だと思うのです。

 特に自ら死を望むほどに苦しんでいる人に関する見解や考察が無いことは番組の作りとして問題だと思います。

 ケヴォーキアン氏の行為は快楽殺人ではなく、患者の苦痛を取り除くための医療行為としての安楽死です。

 それが必ずしも正しいことだとは私自身思っていませんが、単なる悪行だと決めつけて終わらせて良いものだとも思いません。

 この問題は、ケヴォーキアン氏個人の犯罪や科学の闇として終わらせるのではなく、人類全体の課題として議論し続ける必要があるのではないでしょうか。


・「大英博物館 世界最大の“泥棒”コレクション」

 自然科学だけではなく、考古学や博物学と言ったものも科学に含めている点が個人的にはちょっぴり嬉しかったです。

 でもこれって、科学の闇と言うよりも考古学者ウォーリス・バッジ氏個人のコレクターとしての凶行ですよね?

 番組を見ていて考古学者の犯罪と言うよりも、遺跡とか古い出土品専門に収集する怪盗の犯行と言った方がしっくりすると思ったのは私だけでしょうか?

 本人が考古学者という肩書を持っていて、対象が考古学的に価値あるもので、考古学的な大義名分で言い訳しているけれど、結局はバッジ氏本人が欲しいものを買いあさったり盗みまくったりしただけですよね。

 そのバッジ氏を送り込み資金を提供した大英博物館はイギリス国営の博物館であり、世界各国から収集した品は国威発揚の目的があったのだと思います。昔の博物館や動物園にはそういう目的で作られることも多かったようです。

 特にバッジ氏の集めた品を英国に持出す際に軍が協力したというあたり、バッジ氏が現地で目立って動いていただけで、英国そのものの意向が働いていたのではないかと思います。

 一介の考古学者が考古学上の大義名分を振りかざしたところで、軍が動くとは思えません。それもやっていることは盗品の密輸ですよ。

 これもやっぱり科学の闇ではなく英国の闇ではないでしょうか。


・「ナチス 人間焼却炉」

 この回で槍玉に挙げられているクルト・プリューファーはエンジニアです。技術者であって科学者ではありません。自ら売り込みを行っているから、セールスエンジニアと言うべきかもしれません。

 法に則した火葬を行うための火葬炉を開発したり、大量虐殺した死体を効率よく焼却処分するための焼却炉を開発したりしていますが、科学的な研究を行っている人ではありません。

 科学技術の中でもかなり技術よりです。

 新しい科学的知見を応用した最新技術ではなく、既存の品を目的に合わせて最適化、効率化しただけに見えます。

 これを科学史に入れてよいものでしょうか? 技術史ならば確実に入れてよいと思うのですが。

 そして、プリューファー氏の行動は科学者ではなくセールスエンジニアそのものです。

 需要のある顧客を見極めて売り込みをかけ、顧客の要望を満たす製品をしっかりと納入する。

 顧客の言うことを聞くだけではなく、顧客の困りごとを調べてこちらから提案を行う。

 セールスマンとしてもエンジニアとしてもかなり優秀です。

 倫理的、人道的な問題がありますが、その問題を起こしているのは顧客側です。

 その顧客の行為も絶対的な権力を握っている独裁政権が国策として行っていることです。

 違法行為として摘発される危険性は皆無で、つまりコンプライアンス的にも問題ないのです。

 火葬炉ではなく焼却炉と言う扱いにして法を逃れたのもプリューファー氏個人の考えではなく、顧客側の意向のはずです。実際に大量殺戮を行い「死の工場」を必要としたのはナチスなのですから。

 この話は色々な意味で科学の闇と言うには無理があると思うのです。

 それにプリューファー氏個人が悪いで済ませてよい話でもないと思います。

 言ってみれば、プリューファー氏は自分の仕事を頑張っていただけです。

 大量虐殺に加担したのだから悪人に決まっている! と言えるのは、ナチスの行為が悪だという認識が浸透した今だからです。当時の一般人に、圧倒的支持を得ている現政権が国民のために行っている事業を悪だと言い切ることができるでしょうか?

 当時のドイツの多くの人は、ユダヤ人を追い出せば幸せになれると信じていたのです。一般人が暴徒と化してユダヤ人の商店を襲う事件なども起こっている時代です。

 プリューファー氏に限らず、当時のドイツの一般人に政府の方針に反対できる人は少なかったと思います。

 もちろん現在では大量虐殺に加担するような真似は批判されると分かり切っているし、合法扱いされることも稀でしょう。一部の国で合法になっても世界中から非難を浴びます。

 しかし、大量虐殺ほどではなくても、現在は合法であっても将来的には非難の対象になる事柄はいくらでもあると思うのです。

 例えば、男女平等に関しては日本は世界的に低評価です。職場で男女の扱いを変えようとする顧客の要望に応えたことで女性差別を推し進めたと非難されるかもしれません。

 死刑制度が廃止された後の世の中では、現在の死刑関係の設備や装置に関わった人は悪人扱いされるかもしれません。

 二酸化炭素の排出量を20%削減できる石炭火力発電を開発したら、石炭火力発電所が二倍に増えて、地球温暖化を決定的に進めた犯人と呼ばれるようになるかもしれません。

 しかし、将来問題になるかもしれないからと言って、現在違法ではなく、金払いも良い顧客を拒否できるでしょうか?

 会社を解雇される覚悟で、顧客や自社を非難することができるでしょうか?

 私たちは誰でもクルト・プリューファーになる可能性があるのです。


・「汚れた金メダル 国家ドーピング計画」

 番組の主旨から、ドーピングを行った科学者に焦点が当たっていますが、主犯はオリンピックを国威発揚の場にしようとした旧東ドイツの国そのものです。

 科学者は実行犯の一人に過ぎません。国丸ごと関わった不正だからこそ大規模で発覚し難かったのです。

 そしてこの話、科学の闇と言うよりもスポーツ界の闇です。

 科学の闇に光を当てる番組だったから選手は何も知らないただの被害者と言う扱いでしたが、スポーツ界の闇を暴く主旨の番組ならば不正と知りつつも自ら志願してドーピングを行った選手も見つけたのではないかと思います。

 スポーツと言うとさわやかで健全、正々堂々というイメージがあるかもしれませんが、そこは人のやることです、ばれなければ反則や不正を行ってでも勝ちたいと思う輩は必ずいるものです。

 当時の東ドイツは国策として金メダリストの量産を行っていたのです。活躍が期待できない選手の待遇は推して知るべし、でしょう。どんな手を使ってでも勝たなければならない人も多かったはず。

 選手だけでなく、周囲の人間にも問題がある場合があります。

 国家ドーピングを行った旧東ドイツのように、勝たせるために選手に無茶ぶりをする場合があります。自身が選手でない分、勝利以外に意味がないのです。

 旧東ドイツだけが特別なわけではありません。

 例えば、甲子園で優勝すると有名になって入学希望者が増えるので、私立高校などではスポーツ系の部活動に力を入れるところも多いです。

 さすがに不正を行うようなことは滅多にないでしょうが、スポーツ特待生など優遇して優秀な選手を集め、優秀なコーチを雇い、設備を充実させます。

 学園物の物語などで、「次の試合で勝てなければ廃部決定!」という展開がよくありますが、それが現実にありそうと感じるほどに勝利に価値を認めているのです。

 全ては選手を勝たせるためにお金や労力を注ぎ込みます。その目的と努力の方向性は旧東ドイツと大差ありません。

 旧東ドイツとの差は、科学技術の有無ではなく、不正を行うか否か、その一線を越えるかどうかの一点だけです。

 スポーツ界の闇は、選手や直接利害のある人に留まりません。ただ観戦しているだけの人も無関係ではないのです。

 例えば、オリンピックで銀メダルを取った選手に対して、「負けた負けた」と騒ぐ人はいませんか?

 メダルに手が届かなかった選手に、「こいつは駄目だ」とか駄目出しする人はいませんか?

 勝てなくなった選手に対して、「さっさと引退しろ!」などと陰口をたたく人はいませんか?

 「参加することに意義がある」と言いつつも、勝たなければ意味がないという風潮を多くの人が作ってしまっているのです。

 ところで、ドーピングはなぜいけないか、考えたことはありますか? これ、意外と奥の深いテーマです。

 単純に禁止されているからダメだというのなら、ドーピングを全面解禁すればドーピング不正の問題は無くなります。

 ドーピングの薬品が手に入る人と入らない人で不公平だと言うのならば、完全にフェアにすること自体が困難です。最新素材を使った高価なスポーツ用品などは各国の技術力や資金力の差がもろに出ます。

 投薬による健康への影響を問題とするならば、過度のスポーツは健康に悪いものです。

 スポーツと言うと健康に良さそうなイメージがありますし、実際運動不足の人が適度にスポーツを行うことは健康に良い行為です。

 しかし、人体の限界に挑むような練習はどこかに無理を生じます。

 プロのスポーツ選手はどこかしら故障を抱えていると思いませんか?

 世界トップレベルのスポーツ選手となると、寿命を削っている人が多いと思います。

 以前報道番組でちらりと見たのですが、学校の運動部の活動で、女子は生理不順が起こるまで激しいトレーニングを行うことが当たり前だったという話が取り上げられていました。その無理の影響は大人になっても続いているそうです。

 ドーピングなど行わなくても、科学技術に頼らない根性論であっても、後々迄後遺症の残るような健康に悪いスポーツ活動というものも存在するのです。


・「DDT 奇跡の薬か? 死の薬か?」

 この話、科学技術の中でもかなり技術よりです。

 例えば、原子爆弾は核分裂によりエネルギーを発生する物理現象が発見され、核分裂を連鎖的に引き起こせば絶大な威力の爆弾が作れるだろうという予測から始まっています。

 開発に参加した科学者の中には、本当に理論通りの現象が起こるのか? という科学的好奇心を持つ者が少なからずいたでしょう。

 しかし、DDTの開発は最初から効果的な殺虫剤を開発する目的で行われたものです。

 除虫菊の成分を研究して同じものを合成したとか、虫の研究をしていて有効な殺虫成分を思いついたとか、たまたま合成した化学物質に強い殺虫効果があったとか言うことではありません。

 理論から導き出して作った物質ではなく、条件に合った殺虫剤を作るために様々な化学物質を試しまくっただけです。

 化学者が化学の知識を活用して行う研究には違いありませんが、例えば染物屋の職人が新しい色を求めて様々な染料を試したり、陶芸家が理想の焼き物を作るために様々な土を試すといったことと全く同じ手法なのです。

 科学だから、あるいは化学だから何か特別なことを行っているわけではありません。

 正直この番組全体を通して何を問題にしたいのか分からなくなることがあります。

 たぶん、「科学はかくあるべき」とか「科学のここが悪い」と言った見解があるわけではなく、世間一般に「科学技術」「科学の力」と思われている事柄の中のイメージの悪い部分を見つけ出して提示しているだけではないかと思います。

 さて、DDTが大量に使われるようになった背景には戦争があります。下手をすると戦死者よりも多くの病死者を出しかねなかった第二次世界大戦では病気を媒介する虫の駆除は非常に重要でした。

 そして戦後、DDTが民間に開放されると、病気の予防や農業の害虫駆除に大量に使われるようになりました。

 「DDTは動物実験も長期使用による生態学実験も行われずに民間に開放されました。」

 これは科学や科学者の都合ではありません。戦時中に使用して得られた効果だけを見て判断した軍や政府の決定です。

 「奇跡の薬」と呼んだのはDDTに殺虫効果を発見したパウル・ヘルマン・ミュラーではありません。実際に多くの人を救った実績に対する多くの一般人の評価です。

 「奇跡の薬か? 死の薬か?」この問いに意味はありません。

 どれ程優れた薬でも、乱用すれば害になります。むしろ、よく効く優れた薬ほど扱いを間違えれば毒になります。

 生物濃縮の問題が無かったとしても、あらゆる虫を無差別かつ大量に殺して行けば、いずれ生態系が崩れて問題になったはずです。

 毒にならない薬はないのです。「薬を倍飲めば効果も倍になるはず!」的な素人判断は危険なのです。用法容量はきっちりと守りましょう。

 勝手に「奇跡の薬」と祭り上げて、勝手に乱用して、それで問題が出たら「死の薬」と言って非難する。ずいぶんと乱暴な話だと思いませんか?

 また、DDTに対して鳥や魚への影響を調べ、警鐘を鳴らしたのは科学者です。

 その科学者の報告を元にDDTの乱用を止めるように主張したのが作家のレイチェル・カーソン女史で、彼女を黙らせようとしたのは、政策としてDDTの使用を推し進めていた政府とDDTを製造販売していた企業です。

 その後自然保護活動が活発になると、DDTの適正な使用方法をすっ飛ばして全面禁止に走ったのは政治家の票稼ぎのためです。

 科学者の研究成果を自らの都合で捻じ曲げ、世の中に混乱をもたらしているのは政治や経済の側なのです。

 科学や特定の化学物質が問題なのではありません。

 本当の闇は、都合よく科学的事実を捻じ曲げ、あるいは不都合なことを主張する人を個人攻撃してでも黙らせようとする、政治や経済、そして深く考えずにそれに乗っかる一般大衆の側にあるのです。

 ところで、DDTの危険性に対する反論として「農薬は酒 睡眠薬 アスピリンと同じだ 死亡した人はいない」という発言が番組で紹介されていました。

 昔は睡眠薬で自殺する人はいなかったのかもしれませんし、アスピリンは副作用も特に知られていなくて気楽に服用されていたのかもしれません。

 しかし、酒の飲みすぎ死ぬ奴は昔からいそうな気がするのですがどうなのでしょう?


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