気考
「気」とはいったい何か。
前世紀末に何度かあったオカルトブームに巻き込まれて、「気」というものは怪しげな印象が付きまとうようになったと思います。
そのためか、漫画などの創作物の中では、生身の人間が空を飛び、ビームをぶっぱなし、その他様々な超常現象を引き起こす異能バトルを「気」や気と似たようなもので説明するものをよく見かけます。
昔、気功などを扱っていた雑誌に漫画「ドラゴンボール」の一コマを掲載し、「気もこんなに一般的に知られるようになりました」みたいな話を載せていたのを見たことがあります。
でもちょっと待ってください。元々「気」の概念は古代中国にまで遡る古くから存在するものあり、日本でも日常的に使われてきた言葉です。
今でも、「気を付けて」とか「それは気のせいだ」等と普通に使う言葉です。
その「気」は違う、と思った方いますか? 何がどう違うか説明できるでしょうか?
超常現象としての「気」よりもよほど古くから使われている言葉です。一般的になりすぎて本来の意味からずれている可能性もありますが、「これは違うもの」と無条件で排除してよいものでしょうか?
オカルトなど、怪しげなものを議論しようとすると、結局は「信じる」「信じない」だけの全くかみ合わない論争になることが良くあります。
こういう場合、ちゃんとした定義や共通認識が無いままに、ただ自分の思い描くものを主張するだけなことが往々にしてあります。これでは議論がかみ合うはずがありません。
そこで、真面目に「気」に付いて考えるならば、まずは「気」とは何かをはっきりさせなければならないと思うのです。
完全無欠な定義とはいかなくても、最低限どういった概念のものなのかを説明できなければ議論にもなりません。
そこで、まずは「気」の概念、どういったものを「気」と呼ぶのかといったことを明確にしたいと思います。
まず、「気」というとどのようなものを想像するでしょうか?
何か神秘的な、未知のエネルギーをイメージする人も多いのではないかと思います。
しかしそれは、超常現象としての「気」か漫画等によって広まった比較的新しい「気」のイメージだと思います。
古くは「気」はもっと物質的なイメージだったという話を聞いたことがあります。
「気」を古い字体で「氣」と書く場合があります。この「氣」という文字は、気構え(气)の中に「米」という字が入っています。「米」つまり食べ物と共に摂取する物質的なイメージだというのです。
また、神秘的なイメージもオカルトブームの影響だと思われます。
日本でも、近代化するまでは多くの所で「気」が使用されていました。
近代医学が入って来るまでの医術は、鍼灸や漢方薬です。特に鍼灸などは人体の気の流れで説明するような理論体系を持っています。
西洋式の体育教育が始まる前は、体を動かす技術に「気」を用いて説明することは多かったはずです。なんでも気合で解決する根性論ではなく、身体を動かす際の内面的な動きを説明するために「気」というものが使われていました。
日常的に使われていたものが失われたことで、神秘的に見えるようになったのではないかと思います。
さて、言葉遊びをもう少し続けます。
古くからある「気」の付く言葉を並べてみてください。そこに共通点を見出せれば、それがきっと「気」の概念です。
私が見つけた共通項は、まず「見えないものである」ことです。
例えば、「空気」は空っぽの空間を満たす見えない何か。
「湿気」はものを湿らせる見えない何か。
といった具合です。
それから、もう一つの共通点は、「気」が別のはっきりとした現象に結びついているということです。
「空気」ならば扇げば風になるし、袋に詰めれば膨らませることができる。「湿気」ならばものを湿らせることができる。
このように、目に見えない「気」は「気」だけで完結しているのではなく、何らかの目に見える現象を引き起こします。
「気」の特徴として、「目に見えない」「目に見える現象を引き起こす」の二点を挙げましたが、このうち「目に見えない」は少し意味が広いものです。
「目に見えない」ことは、「良く分からない」ということに繋がります。無色透明で目に見えないことだけでなく、何処に如何いう形で在るのか良く分からないものも「気」の特徴に含まれます。
というより、「実体が良く分からない」ことの方が「気」の特徴を現していると思います。
例えば、「元気」とは体を動かす大元となる何かを示すものです。見える見えない以前に、どこにどんな形で在るのか見当も付きません。
この「気」の正体不明という特徴を積極的に利用した言葉に、「火気厳禁」の「火気」という言葉があります。
火を発するものというのは色々とあります。マッチ、ライター、火のついたタバコ、火花を散らす電動工具や、静電気を目いっぱい帯電した物体等々、挙げて行けば限がありません。
ところが、「火気」と一言いえば、「何だか分からないけど火を出すもの全部」を表すことができます。個別に指定して禁止しなくても、それどころかまだ誰も見たこともない未知の発火物も纏めて禁止することができます。
逆に、正体が判明したり、分かり易いものになると「気」ではなくなります。
例えば、「空気」はただそこにあるだけならば「気」ですが、大きく動くと「風」になります。「風」は目には見えませんが、砂埃など風に飛ばされたものがあれば視認できるし、分かり易い現象です。なので「風」は「気」ではありません。
「空気」を窒素七割、酸素三割などと分析すると、それぞれの成分は「気」とは呼ばれなくなります。
「湿気」の場合も同様で、目に見えないうちは湿気と呼ばれますが、霧や靄として目に見える形になるともう「湿気」とは言いません。霧や靄でもものを湿らせることはできますが、はっきりと見える形になったので「気」とは呼ばれないのです。
このようなことをつらつらと考えているうちに、一つ閃きました。
「気」の本質は、この正体が分からないことにあるのではないだろうか。
元々は、「気」の正体を探る議論可能にするためにその概念を明確にしようとしていたのですが、むしろ概念だけの存在で正体不明のものが「気」であるという考えになってしまいました。
しかし、このように考えると色々と辻褄が合うのです。なにしろ、正体不明な時は「気」で、正体をはっきりさせると「気」ではなくなるのです。
世の中には、正体不明のまま、あるいはあえて正体を無視して考えた方が便利なことがあります。先ほど例に挙げた「火気厳禁」の「火気」などもそうです。
例えば「電流」も正体を問わない概念です。電流の正体は幾つかあります。金属の中では自由電子が移動して電流となります。電解質の中では正負のイオンが、半導体の中では結合からあぶれた電子や、ホールと呼ばれる電子の抜けた穴が移動して電流となる場合があります。さらに、粒子ではなく電場の変異が電流となる場合もあります。
そういった諸々の正体を無視して、「正極から負極へ流れる電流が存在する」と仮定することで様々な電磁気現象を簡単に説明することができるのです。
「気」というものも、見えないまま、正体不明のままで様々な現象を説明する便利な概念であるのだと思います。
一例をあげると、中国武術の中に「六合」という概念があるのだそうです。
「六合」は「内三合」と「外三合」に分かれます。
このうち、「外三合」は「手」と「足」、「肘」と「膝」、「肩」と「腰」の三箇所動作を一致させることだそうです。要は、上半身と下半身を一緒に動かせ、ということです。
一方、「内三合」の方は体の内側の話で、「心」と「意」、「意」と「気」、「気」と「力」を一致させろという話です。
ここからはかなり我流の解釈になります。
まず「心」とはここではどういう結果を望むのかという全体方針のことです。とにかく攻めて相手を倒すのか、防御を固めて守り抜くのか、どうにかして逃げ出すのか。そういったこれからの方向性を決めることを指します。
次に「意」というのは、具体的な行動手順です。どのように手足を動かして攻撃したり防御したりするかという、具体的な手順になります。
この「心」と「意」がバラバラだと行動がちぐはぐになります。攻撃して相手を倒そうと思っているのに、防御方法ばかり考えていたら何時まで経っても攻められません。逃げ出すつもりなのに攻撃方法ばかり考えていたら逃げる機を逃します。
さて、「心」と「意」が定まれば、あとは身体を動かすために「力」を出せばよいはずです。この「力」は筋肉の出す物理的な力と考えて良いです。
ところが、六合の考え方では「意」と「力」の間に「気」が挟まっています。
この「気」が重要なポイントです。
人の身体は意外と「意」のままには動きません。スポーツ等をやっていれば経験があるのではないでしょうか。バットを振ってもボールに当たらないとか、ボールを蹴っても思ったところに飛ばないとか、習った通りに動いているのに技がなかなか決まらないとか。
「意」のまま動かない原因は色々とあるでしょう。単純に筋力が足りなくて届かないとか、疲労がたまって動きが鈍っているとか、相手が予想外の動きをしたとか、寒くて体が縮こまっていたとか、風でバランスを崩したとか。
そういった様々な要因を一つ一つ考えていたら限がありません。そこで「気」で一纏めにします。
人の身体は「意」のままには動かない。身体は「気」によって動く。
と考えます。つまり、「意」で「力」を直接操作することはできないから、「力」を操る「気」の方を「意」でコントロールすると考えます。
この場合の「気」は「意」のままにならない要因全てを含んだ、身体を動かしている正体不明の何かです。
おそらくは、神経や筋肉、骨格と言った体の仕組みに加えて、内的要因、外的要因、物理的な要因、心理的な要因などを全て加味したものでしょう。
そもそも正体不明の「気」を操るなんて難しそうですが、実際にやっていることは意図した動作との誤差を検出して修正することではないかと思うのです。
単に目で見てずれているから直そうなどとするのではなく、体の内部的な感覚も使用して状態を精緻に把握し、現状だけでなく先まで予測してずれを修正する。
ついでに言えば、人間の筋肉は自分で把握している以上に数があります。また、腕を振るだけの動作でも足腰から頭の先まで微妙な影響はあります。ずれの修正にしても全身の細かな筋肉を総動員している可能性があります。
言葉で書くと無茶苦茶複雑ですが、人間以外と複雑怪奇な動作を感覚的にやっていたりします。いちいち理屈で考えていては複雑すぎてやっていられないような精緻な動作を感覚的につかむための概念として「気」と言っているのではないでしょうか。
さて、詳細な正体は不問のままで良いことにすると、「気」の応用範囲は非常に広いものとなります。
「気を付けて」という言葉は、「火気厳禁」と同様に、特にこれだと対象を限定せずにあるゆる危機に対して注意を促す言葉です。
「気のせい」というのは、正体不明の何かを感知したということです。正体不明の中には錯覚とか幻覚とかもあれば、普通ならば誤差として無視するようなシグナルの場合もあるかもしれません。
手品もまた「気」で説明して問題ありません。トリックがあろうと魔法や超能力であろうと、正体不明の間は「気」で問題ありません。手品師本人にとっては「気」ではありませんが。
手を触れずに相手を投げ飛ばす「遠当て」も「気」です。間合いの妙技であっても、大声でびくつかせる技でも、謎のエネルギーをぶち当てているのでも、こっそり飛道具で攻撃しているのでも、分からないうちは「気」です。
指を向けると風もないのに蝋燭の灯が揺れるというのも「気」で構いません。
気功師が「気」を送ると患者の容体が改善したというのも「気」のせいで間違いありません。
ある意味、オカルトとか超常現象とかと「気」は相性が良いのです。謎の現象のあれもこれも、みんな「気」で説明して間違いないのですから。
ただ、注意しなければいけないのは、「気」の正体が何でもいいということは、まるで関係ないものが同じ「気」というくくりに入って来るということです。
「気を注入します」などと言って見事な手品を披露する手品師が、武術の達人の真似ができるはずがないということは想像がつくでしょう。
武術の修行をして「気」を扱えるようになったからと言って、「火気」を操って火を出したり、「湿気」を操作してものを湿らせたりできるわけではありません。
武術としての「気」と医術や健康法としての「気」も重なる部分はあるにしても別物だと思います。
超常現象を「気」で説明できるからと言って、気功師が超常現象を引き起こせるというわけではないのです。
超常現象ブームに「気」が巻き込まれたのはある意味必然であり、不幸なことだったと思います。
特に目立って不思議な現象が「気」として紹介され、そういう特殊なもののみが「気」だと思われ、そして全ての「気」が否定されたり信じられないと言われたりしたわけです。
まあ、創作物の中に魔法、超能力に次ぐ新たな異能が追加されたという点は立派な成果だったかもしれませんが。
余談ですが、超常現象ブームに巻き来れた結果か、日本では「気功」という言葉も誤ったイメージが広がっているそうです。
日本では「気功」というと、気功師が発した気を患者に当てる「外気功」のイメージがあるらしいですが、それは「気功」の中では補助的なものだそうです。
本来の「気功」は自身の内なる「気」をコントロールする「内気功」がメインとなります。
中国武術で「○○功」という言葉は、鍛錬の方法またはその鍛錬を行って得た力を指します。
「功夫」(クンフー、香港辺りではカンフーと読む)という言葉は、中国武術を指すことも多いですが、武術に関係なく何らかの修行や訓練を行って得た力全般を指すのだそうです。
「気功」というものも、「気」に関する鍛錬を行った結果得るものであって、他人に与えられるものではないのでしょう。