とある満月の夜に出会った天使さま
つまらぬ人生を送っていた。
誰からも必要とされず、誰も必要ないと思いながら、鬱屈とした日々を送っていた。
工場労働者だった父しか家族はいなかった。
高校を卒業した後、すぐに都内の会社に就職した。
後ろ盾も心許なく、学力をしっかり伸ばせるだけの家庭環境にいなかった私は、下っ端として会社に使い潰されるだけ使い潰された。
私に対して高圧的に命令する上司は、裕福な家庭でぬくぬくと育った大卒どもばかりだった。私でも入れたような会社なので、決して超難関大学などではないが、世間は、大卒を尊敬し、高卒を馬鹿にする。両者の区別をする際に、どのような質と内容の高等教育を受けたかを世間は気にしない。気にする頭もない。
同僚も、群れて私を排除してきた。そもそも群れて安心感を得るしか能のないような人間たちと関わるつもりなんてなかったので、私が群れの中にいないことは、さして問題にならない。けれども、その集団が私を一斉に攻撃してくると、対抗する手段がない。上司と同僚含め、会社にも私の味方はいなかった。
ぼろぼろの屋根を布団から見上げながら、毎夜、涙を流した。
どうして、私は、独りなのだろう。
私は、誰かを傷つけたいなんて思わない。ただ、優しく生きたいだけなのに。
どうして、周りはみんな私を攻撃するの?どうして、私を苦しめるの?
苦しいよ。……っ、苦しいよッ……!!
こんな世界から、抜け出したい。
どこか、ただ、平和に暮らせて優しくあり続けられる世界で暮らしたい。
……そうか、死ねばいいのか。
どうして、こんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
死んだらどうなるかなんて、誰も知らない。完全に消滅してしまうのかもしれない。もしかしたら、本当に天国なんてものがあるのかもしれない。
死んでも良いや。もしも私という存在が完全に永久に消滅してしまったとしても、誰にも傷つけられないし誰も傷つけることのない永遠の平穏が訪れるだけだ。
そうだ、死のう。
そう思って、玄関の扉を開けて、ボロいアパートの廊下部分へと出た。手すり部分から身を乗り出す。
夜空が頭上に広がっていた。
光り輝く砂状の星々なんてなかった。
ただ、丸々とした月が雲の間から顔を見せて、爛々と光を放っているだけだった。
どうやってこの生を終えようか。
ここから飛び降りるか。
それしか思いつかない。
そうだ、そうすれば良いのだ。
早くやってしまおう。
この人生を、速やかに幕引きまで持っていかないといけない。
手すりから更に身を乗り出し、目下に走る道路を眺めた。
あそこへ身体を落とせば、終わる。
はやく、はやくはやく。
そう思うほどに、身体は固まっていった。
……出来ないよ。
出来るはずがないよ。
怖い。
死にたくないよ。
涙が溢れてきた。
死にたくない。でも、生きていたくもない。
どうすれば良いの?
情けない……ッ!
その場でへたり込んで泣いてしまった。
この世に、もう私の逃げ道はないの?
涙で視界が歪む。良い年齢をしていても、溢れる涙を止められない。
「Oh, lovely Pussy, oh Pussy my love. What a beautiful Pussy you are, you are, you are! What a beautiful Pussy you are.」
どこかから、そんな声が聞こえてきた。
低く、心地の良い響きを持った声だった。
聞く者誰もをうっとりとさせるような声だった。
「You elegant fowl. How charmingly sweet you sing. Let us be married, so long we have tarried. But what shall we do for a ring?」
知らず知らずの内に、私の口から漏れ出ていた。
謎の声に魅了されるように、無意識の内に私の中から外へと私の口を通して引き出された声だった。
「Let's sail away together for a year and a day to the land where the Bong Tree grows, purchase our ring of our marriage from a piggy wig for one shilling, and get married by a turkey.」
再び聞こえてきた声がした方を見上げると、背の高い青年が目の前に立っていた。
涙でまだまだ視界が霞んではっきりとは見えないが、スタイルの良い青年だと分かった。
「And let us live happily together everafter.」
彼をもっとよく見るために目を擦って涙を拭おうとした瞬間、ふわりと身体が持ち上がる感覚があった。
「ひゃっ!」
少し後に、彼に抱き上げられたのだと気付いた。お姫様抱っこである。
すぐ近くに彼の顔が迫った。綺麗な顔をしている。どこかヨーロッパの国から来た貴公子のように麗しい顔をしていた。ふわふわの金髪に、澄んだ青い瞳。軽く結ばれた上品な口元。この世のものとは思えない美しさだった。
そうか、私は死んでしまったのか。飛び降りを躊躇った記憶は実際は嘘の代物で、本当はとっくのとうに、気付かぬ内に落っこちて、死んでしまっていたのかもしれない。
だとしたら、私はこれから、この天使に連れられて、天国へ行くのだろうな。
最後の最後に、こんな美麗な天使に抱きかかえられるなら、なかなか悪くない。
そう思って、私は心と身体をこの天使に委ねた。
「一緒に行くかい?返事を聞かせておくれ」
心を落ち着かせるような静かな声で彼が訊ねてきた。
「あなたに全てを委ねます。どこまででも、お供いたします。だから、私をあなたの望むところへ連れて行って下さい」
目を瞑って答えを呟いた。
彼になら、もう、地獄へだろうと連れて行かれても良いような気分になっていた。これが本当の夢見心地という状態なのだろう。
「分かった。じゃあ、行くよ」
その言葉が耳に入ってきた直後、ものすごい勢いで風が吹いてきた。
目を開けると、景色がどんどん後ろへと遠ざかっていっていた。
私の天使が、私を抱きかかえながら、猛ダッシュをしていた。
ちょ、速い速い速い怖い怖い怖い!
助けて、誰か!
とっくのとうに、ぼろアパートを離れ、繁華街の辺りまで来ていた。
「さあ、車に乗り込むよ!」
そんな掛け声が聞こえたかどうかも分からない内に、天使と私は黒塗りのリムジンの中に乗り込んでいた。
「港まで。急ぎでね」
私の天使は運転手に息も切らさずそう頼んだ。あれだけの速さで走ったのに息切れを全く起こしていない私の天使は、とんでもない運動能力をしているようだ。
リムジンは走り、あっという間に、巨大な豪華客船が停まる港まで辿り着いてしまった。
運転手がドアを開け、車外に出た天使が私を抱きかかえて車から出してくれた。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
丁寧にお辞儀をした運転手に見送られながら、私をお姫様抱っこした天使は、豪華客船の方へ向かって歩みを進めて行った。
「僕の可愛いネコちゃん」
心にずしりと響いてくるほどに蠱惑的な声で、彼が微笑みながら私の顔を見つめて宣言した。
「これから、海に出よう。一年と一日、僕と海の上で暮らす生活さ。その後、辿り着いた場所で、指輪を買い、僕らは結婚する」
あまりに現実離れした展開と、めまぐるしく変わる状況に、情報処理が追い付かない頭で、私は答えた。
「はい、お願いします」