三 開門
「あと四分……三分、かな?」
巨大な木造校舎の前で、実嶋は腕時計と堀の水を交互に眺めている。
「校門、もうすぐ開くね」
「さすがに早すぎたか。ごめん、無駄に早起きさせて」
「いいのいいの」
なんで謝んのさぁ、と実嶋は笑うが、この時間に登校したいと言い出したのは晃一だ。実嶋の眠そうな顔が気の毒だ。
「今日はありがとう、ついてきてくれて。俺ひとりでも大丈夫なのに」
たぶん、と続けそうになるのを飲み込んだ。すると実嶋は早口に、
「いや阿久都のこと信用してないってわけじゃないよ? おれも大丈夫だとは思うよ? 阿久都、入りたての編入生ったってスジいいしさ、ほら、瓜篠だって大丈夫っていってたし」
――いってたか?
瓜篠、と聞いて、昨日のことを思い返す。
瓜篠さん――瓜篠朗は、三回生の総代議だ。晃一の毎日の登下校には、その瓜篠さんか、晃一のクラスの級代議の実嶋の、どちらかが付き添ってくれている。
昨晩、寮の廊下で実嶋と瓜篠さんをつかまえた。明朝は早めに出たいから付き添いは結構、ひとりで登校する、というと、
「なんで?」
とふたり同時にいった。タイミングと台詞は同じだが、反応の具合は随分違う。実嶋は大きな体でぴょんと跳び上がり、瓜篠さんは軽く首を傾げるだけ。
「明日、護符ジャーナルの発売日だから、取りに行こうと思って」
「取りに?」実嶋は不思議そうだ。「わざわざ行かなくても。放課後に届くよ、寮に」
護符ジャーナルは、養成校の生徒に配布される。発売日前日までに各校に送られ、当日の朝に開封されて、そこから寮送りになる。だから発売日の午後には全校生徒の手に渡る。
しかし。
「発売日に朝イチで事務室に行ったら先に渡してもらえるんだって。待ちきれなくてさ、いつ貰えるのか聞きに行ったら、事務員さんがそういってた……ん、ですよ」
前半は実嶋に、途中からは瓜篠さんの顔を見ていった。同学年なのに、瓜篠さんにはつい改まった口調になってしまう。
えーでもぉ、ひとりでってのは、と心配そうな実嶋をよそに、瓜篠さんは
「そうか、じゃあがんばって」
とだけ言い残すと、すたすたと行ってしまった。
――大丈夫、とはいってないよな?
晃一の無事を瓜篠さんが請け合っていたおぼえはない。
ともかくも、実嶋がいっしょに来てくれたのは心強い。「ひとりで」とはいったものの、実は不安だった。ここまではまだしも、通学水路の本番は、まだここからで――
「いやあ、慣れないこともしてみるもんだねぇ。いろんな発見があってさ」
実嶋の言葉に、晃一はほっとした。
「そういってもらえるとうれしいな。すげえ眠そうだからさ、悪いことしたなと思って」
「ぜんぜん悪くないってば。こう、知られざる自分の姿? 欠点っての? そういうのもわかるよね。やっぱり早いと勝手が違うからさあ、おれ、カバン持ってくんの忘れちゃった」
――え?
実嶋の姿をあらためて凝視する。学校指定のバックパックがあるはずの背中に、なにも背負っていない。
どうりで身軽く見えると思った。実嶋も、なーんか今日は足取り軽い気がしたんだよねぇ、と笑っている。
「いや笑ってる場合じゃなくて。早く取りに戻れよ」
「でもさ、ついとかないとさぁ……」
「さっき信用してるって言ってただろ。おれは大丈夫だから早く」
「えー……だけどさ」
「いいから取りに行けって!」
もじもじと足踏みしている実嶋の腕を取り、強引に、今来た水路を寮の方へと振り向かせる。そして背中を押すと、実嶋はやっと、えーじゃあ一旦帰んね、ごめんね、と後ずさりはじめた。
――ごめんじゃねえ、ごめんはこっちだよ付いてこさせて。
実嶋は手を振りながら行き、数歩の後に身を翻すと猛ダッシュで駆けだした。のんきな様子だが、内心では焦っていたはずだ。
実嶋の人の好さにはなごむ。
なごむが、しかし。
――しかし。
すこしの間、実嶋の背中を見送り、そして校舎へ向き直った。
足元の水が動くのを感じた。ねっとりとした感触が、ふっと軽くなり、流れが逆向きに変わる。水は堀の方へと流れ込み、ゼリー状に固まっていた堀の水が緩んでいく。水面がほどけて、ぐらっ、と大きく揺れた。
校舎からチャイムの音が流れた。見た目も成り立ちも特殊な学校だが、チャイムはありがちな、キーンコーンカーンコーン。水の向こうで校門が開いたのだ。
身構える。耳鳴りに似た響きが迫る。そして、
――いずこへ
頭の中で声が響いた。
「われらがおんふのまなびやへ」
我らが御符の学舎へ。
声に答え、襷に手をかざす。手のひらを胸に向けて左右にすばやく振ると、襷の内側から式紙が一枚、ひらりと飛び出し左手の上に立った。
手の上に立たせることは、もう難しくない。
式紙を浮かすことも、飛ばすことも、編入試験の日から不意にできるようになった。
式紙の表面には文字が光っている。
――みずみのまもり
復唱しながら、指で文字をなぞる。護りの式は寮を出るときに立てたから、ここで重ねてやり直す必要はない。だが、念には念だ。
式紙を襷に戻し、大きく深呼吸をして、ぽん、と地を蹴った。ばしゃん、と足から堀に飛び込んだ。