一 朝の水路
深い森を突っ切る川の真ん中を、ふたつの人影が行く。
共に、学校の制服のブレザーを着て、片方は中肉中背、もう片方は大柄だ。ゆるい流れに逆らうふたりの足元は、浅い川に足首まで浸かっている。一歩ごとに水が撥ね、足先が水滴を散らす。
なのに、靴も靴下もズボンの裾も、水気をまったく吸っていない。
――護符の力だ。
ふたりのうちの中肉中背のほう、阿久都晃一は、胸元の襷にそっとさわった。手のひらにじんわり伝わる温かさは、気のせいじゃない。襷の内側のポケットには、寮の出がけに式を立てたばかりの符札がしまってある。
――式紙、すげえ。
口の中でつぶやいて、感動を噛みしめた。おれは今、符札を、式紙を、使っている。しかも、どうやら使いこなせている。そもそも、この通学水路を歩いていること自体が驚きだ。そしてこの感動は毎朝のことで、いまのところ慣れる気がまったくしない。
ふと、川辺の木の枝がざわっと揺れた。そこへ目をやりかけた時、
「おれ、もしかして」
反対側から寝ぼけた声がいった。
「こんな早くに登校すんの、はじめてかも」
声の主は大柄なほう、実嶋莞治。晃一のクラスの代議員。晃一は実嶋へと振り返り、きれいに丸めた坊主頭を見上げて、
「朝練ないのか?」
きいた。髪型だけじゃない。襷の中等部章とクラス章の下には、ボールとバットの図案のワッペン。これ、どう見ても。
「……野球部だよな?」
「ないよ。この時間、グラウンドはまだ水だしね。それにさ」
実嶋は、へへ、っと笑って、
「ほんというとおれらのアレ、部じゃないんだな」
「じゃあなに」
「実は同好会でした」
太い指でワッペンを指していう。これ、同好会のみんなで作ったんだあ。
かわいらしい口調なのに声は野太くて、長身でがっしりした体格の上に載っかっているのは人懐っこそうな童顔だ。実嶋の坊主頭は、その両極端な印象のどっち側にも絶妙に似合っている。間近で話すと純朴そうな中学生、遠目に見るとまるでヤクザの鉄砲玉。
しかし。
「なんで野球部じゃないのに坊主なんだよ。規則とか部則とか、同好会だったらそういうの無いんだろ?」
「なんでって、だってこの髪型だと」
実嶋は軽く腰を曲げ、頭頂部を晃一へと傾けて、
「野球上手そうに見えるでしょ」
「ただの趣味か」
「シュミっていうか、ファッション? こだわりのスタイルとテイストってやつ?」
いいながら笑い、実嶋は足元の水を蹴り上げた。朝の光に水滴がきらきらと散る。余裕だ。ふざけたしぐさが、晃一にはやけに勇ましく見えた。
式紙は、水から身を護ってくれる。その力があっても、川の流れに逆らって歩くことは、晃一にはまだ難しい。水の抵抗に、すこしずつ体力が削られる気がする。
実嶋は眠たそうなのに、なんてことなく軽々と歩いて、その上にふざける余裕まである。ここで暮らして三年目の実嶋と、つい二週間前に編入してきたばかりの晃一とは、やっぱり違う。ぜんぜん違う。実力というか、腕前というか。
はやく慣れなきゃな、と晃一は思った。
慣れなきゃ。慣れたい。
式紙使い候補生として、堂々と悠々と、この通学水路を歩きたい。
「そろそろぉ……」
実嶋がいった。同時に、ふたりの足の動きが鈍った。
水がもったりと粘りはじめて、次の一歩で足先が突っかえた。
目を上げる。
すぐ先に川から続く堀がある。その奥の空間が一瞬ちらつき、そして――
巨大な木組みの塊が現れた。
晃一の背筋に、じんわりと震えが走る。
目を向けている方向は、川の流れの行き着くところ。視界を遮る木々はない。なのに、ここにたどり着くまで、この巨大な木塊はまったく見えていなかった。
そして、今もはっきりとは見えない。すさまじい大きさと木の質感がぼんやり掴めるだけで、”見る”というより”感じる”だけだ。
いや、見てはいるのだろう。視界には入っているのだ。だがそれを理解する前に、意識が小刻みに遮断される。見えては、盲点に紛れてしまう。そしてまた見えかけては目眩ましされる。
護符の力。懐の、襷の中にあるものと同じで、だが圧倒的に強い力。
「校門、まだ開いてないねえ」
実嶋がいう。「さすがに早すぎたかも」
のんきな声だ。ああ、とこたえる晃一の声は、かすれてしまった。いつかはこの光景にも慣れる日は来るんだろうか。
晃一は身震いしながら胸を弾ませ、目の前にある――あるはず――の、式紙使い養成校、「御符学書院中高等学校」の校舎を見上げた。