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式紙使い候補生、挑む。  作者: 久々椚
プロローグ
2/26

零  夕暮れ

 

  ビルの谷間の路地に入り、ひとつめの角を曲がる。鼻歌を歌いながら、軽い足取りで裏道に入りかけて、その途端。

  友紀の足が止まった。

 

  暗い。

 

  路地裏は、思いのほか暗かった。表通りが明るかったのは、時間が浅いせいじゃない。煌々と灯る街の明かりがそう見せていただけだった。もう充分に暮れている。

 

  一瞬、怯んだが、わざわざ引き返すのもおかしな気がする。

  友紀は足を早め、そのまま進んだ。なんてことない、家はすぐそこ。すぐに着くんだから。そう自分に言い聞かせながら。


  そうして奥へと進むほどに、路地裏はどんどん暗くなる。


  ふと、背筋に寒気が走った。今日はあったかいのに、あったかかったのに。なんだか寒い。きっとさっきのアイスのせいだ。冷えるって、やだなババアかよ。

  朋佳との会話を思い出して、無理矢理に笑ってみる。なのに。

  早足なせいか、誰かに追われているような気がしてしまう。

  無意識に、耳をすました。

 

 かすかに、足音が聞こえた。


 急いた足取り。走ってるみたいな――まさか、ほんとに誰かつけてきてる? でも自分の足音が響いているだけかも。そう思いたい。思おうとした。


 ――失踪だか誘拐だかがあったらしいじゃん。


 朋佳との会話が頭を過ぎった。そして、ニュースキャスターの言葉が断片的に脳裏に浮かぶ。F市内で、行方不明者。人が忽然と消える。手がかりもなにもなく。事件発生時は雨降り直前の曇天で、そう、ちょうど今みたいな――。


 足音はたしかに聞こえる。自分の足取りとはすこし違って、もっと早い。

 そして、たしかに迫ってきている。


 手に提げていたダッフルバッグを肩に掛けなおした。走り出す。次の角を左へ。そこはさらに路地の奥だ。非常灯の灯りがぽつぽつと点る中、友紀は駆けた。そして次の角を右へ。

 勢いをつけて曲がった時、制服のスカートが急に重くなった。大きく振った手の先がスカートをかすめる。背筋が震えた。


 ――冷たい。


 その感触に驚いて、つい足が止まる。

 おそるおそる、たしかめるようにスカートを掴んだ。冷たい――だけじゃない。

 ぐっしょりと濡れている。


「なんで?」


 スカートの布地は、ずっしりと水を含んでいた。次の瞬間、ばたばたばたっ、と足元が鳴った。アスファルトを打つ水の音。下を見た。

 スカートの裾から水が滴り落ちている。プリーツの端から大粒の水滴が次々に落ちて、地面を黒く染めていく。


「なんで? なんでなんでなん……」


 まだ雨は降っていない。頭にも、上半身にも水のかかる感触はない。なのに水はどんどん溢れてくる。タイツを履いた脚に濡れた感触が広がっていく。足元に水が溜まりだす。スカートの円形を中心に、みるみる広く、深く。もう踝まで浸かった。


「あ、あ、あ……」


 叫びがうまく声にならない。止まっていた足を必死で動かす。ばしゃん、と水を撥ねさせた。膝が震えて走れなかった。ゆっくりと、一歩、二歩、三歩――三歩目が。

  地につかない。

 

  水の下に、地面がなかった。

 

 前にのめりかけて気づき、踏み出した足を慌てて戻す。体重を後ろにかけて後退り、一歩。二歩目はなかった。

 後ろに踏み込んだ足がそのまま沈む。さっきあったはずの地面は水に変わっている。ざぶん、とはまった。深い。沈んでいく。

 底無し沼。

 そんな言葉が浮かんだ。あっという間に頭まで浸かった。

 一瞬、目を閉じ、そして開いた。


 暗闇の中にいた。


 さっきまでいた世界は頭上に。夕暮れの路地裏は暗いと感じていたのに、光はそこから差し込んでくる。

 目を上げて、ほのかな地上の光を眺めた。

 足はつかない。底はない。体はさらに、もっと深い闇の中へとゆっくりと落ちていく。

 心は、不思議と静かになっていく。全身が水に包まれてしまうと、なぜか気持ちが落ち着いた。路地裏を駆けた時の不安も、水溜まりから逃げようとした時の焦りも消えていた。

 ゆらゆらと揺れる髪の合間に、地上へ続く隙間がある。天窓のように開いたその先に、鈍い色の空が見えた。隙間はゆっくりと閉じていく。差し込む光は細くなっていく。

 そこへ。


 白いなにかが割り込んだ。


 それは周囲を泡立たせながら水を切り、まっすぐ友紀の元へと飛んでくる。友紀の目の前で止まり、すいっと立った。


 白く、ちいさく細長く、薄い。


 ――紙?


 紙片だ。さっき朋佳に貰ったものにそっくりな。表面になにか光っている。


 文字だと気づくと同時に、無意識にそれを読んでいた。


 ――みずみのまもり。


 水、身の護り。

 心の中で唱えると、意味が同時に胸の内で立ち上がる。

 その瞬間、まわりの水が撥ねた。

 体が上昇し、触れていた水がすべて引き離されていく。地上へと開いた隙間がぐいぐいと広がり、ふっと意識が遠のいた。





 気づくと、路地裏に座り込んでいた。

 ぼんやりとしたまま、手のひらであたりをさぐる。さらさらと乾いた感触が指に当たる。スカートの布地だ。濡れていない。地面も普段通りの灰色で、水溜まりがあったようには見えない。

 水の中にいたはずなのに。水があふれていたはずなのに。

 と、


「ありがとう。助かったよ」


 声がした。見上げた。

 目の前に、男が立っていた。


「読んでくれたでしょ、式紙」


 ぼんやりした頭の中で、じわじわと焦点が絞られる。たった今、水の中で見た――


「みずみの……」

「そう、それ」


 シキカミ――式紙。


「目を閉じてなくてよかったよ」

  戸惑う友紀に、男がいう。

「読んでくれたおかげで、引き上げる手間が省けた」


 そして男はもう一度、ありがと、と頭を下げる。

 やっと、助けられたんだと気づいた。助けてくれたんだ、その――式紙と、この人が。

 なのに礼を言われているのがおかしい。ありがとう、も、助かった、も、こっちの台詞なのに。


 お礼をいわなくちゃ。


「えと、あの」


 でも、さっきの出来事はいったいなんなのか。あの水は。それに式紙も。そしていったい、あなたは何者なのか。

 混乱してちゃんと言葉が出てこない。男は友紀の目の前にしゃがみこんだ。スパイスのような、素朴で暖かい香りがふわりと漂う。胸が、どきん、と弾んだ。顔が近い。だがどんな顔なのかわからない。空はすっかり暗くなっているし、路地裏の非常灯はちょうど男の背後になっている。


「あの、ありが」

「もしかして、持ってる?」


 礼を言おうとする友紀を遮り、男がきく。


「え、なに」

「あるよね」


  察した。さっきの、朋佳の。

  友紀はダッフルバッグから、お守りの符札を取り出した。

「今日、友達に貰ったんです」

「なるほど、それで。ほんと手間が省けたよ、ありがたい」

「そんな、ありがたいのは」

「で、今からちょっと」

  また遮られた。

「払うね」

「え?」


 男がさっと手を動かす。その懐で白いものがひらめいて、すいっとすべるように飛び出した。

 例の紙だ。

 式紙だ。


 男が左手の手のひらを上に向けると、紙は支えもなくそこに立った。そのまま右手を上げて、紙の表面に指をすべらせる。指先がぼうっと光り、動きを止めると同時に紙が宙に浮かぶ。

 とん、と指先が式紙を突く。式紙は友紀の胸元に飛び込んできた。

 友紀は驚き、体がびくっと跳ねる。


「水はもう払ったけど、念のためにもう一回」


 いいながら、男は右手をひらひらと動かしている。友紀の全身の倦怠感が、すこしずつ抜けていく。


「それから、このことは忘れてもらって」

「わすれる?」

「そう。さっきあったこととか、おれに会ったことも」

「え、なんで」

 友紀はいった。いやだ。どうして忘れなきゃいけないの?

 その気持ちを察して、男は

「そりゃ困る」

 笑っていう。顔は見えないが、声が笑っている。とてもあたたかい声。ずっと聞いていたくなるような。それを忘れてしまうなんて。


 いやだ。


 急に悲しくなった。同時に、強いなにかに包まれるような気がした。

 胸元の式紙を避けるように身をよじり、



「いやだ」



 口調は強くて、自分でも驚くほどに、まるで自分の声じゃないみたいに――。


「あ」と、男が声をもらした。同時に友紀の胸元の式紙が弾け飛び、体がぐい、と後ろに傾ぐ。

 脛の下の地面がぐにゃりと緩んで、体が沈んだ。

 跳ねた式紙は男の元に飛び戻る。それを男は指で受け、「止め!」と短く叫んで押し返す。式紙はひらりと旋回し、友紀へと飛んだ。

 再度あらわれた水の中へ、友紀はもがきながら落ちていく。沈む速度はさっきよりもずっと速い。目の前にいたはずの男はもう、頭上のちいさな天窓の向こうだ。

 男の式紙はその隙間に入りかけ、だが閉まってしまうのはそれよりも早かった。締め切られる瞬間、式紙は閉じた隙間に挟まれて、細かい泡をたてて溶けるように水に消えた。


 天窓は閉じてしまった。地上からの仄かな明かりも途絶えた。あたりは闇。なにも見えない一面の闇。


 目を開いているのか、閉じているのかもわからない。心が静まり、なにも考えなくなり、そのうちに意識も途絶えた。


 


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