零 夕暮れ
ビルの谷間の路地に入り、ひとつめの角を曲がる。鼻歌を歌いながら、軽い足取りで裏道に入りかけて、その途端。
友紀の足が止まった。
暗い。
路地裏は、思いのほか暗かった。表通りが明るかったのは、時間が浅いせいじゃない。煌々と灯る街の明かりがそう見せていただけだった。もう充分に暮れている。
一瞬、怯んだが、わざわざ引き返すのもおかしな気がする。
友紀は足を早め、そのまま進んだ。なんてことない、家はすぐそこ。すぐに着くんだから。そう自分に言い聞かせながら。
そうして奥へと進むほどに、路地裏はどんどん暗くなる。
ふと、背筋に寒気が走った。今日はあったかいのに、あったかかったのに。なんだか寒い。きっとさっきのアイスのせいだ。冷えるって、やだなババアかよ。
朋佳との会話を思い出して、無理矢理に笑ってみる。なのに。
早足なせいか、誰かに追われているような気がしてしまう。
無意識に、耳をすました。
かすかに、足音が聞こえた。
急いた足取り。走ってるみたいな――まさか、ほんとに誰かつけてきてる? でも自分の足音が響いているだけかも。そう思いたい。思おうとした。
――失踪だか誘拐だかがあったらしいじゃん。
朋佳との会話が頭を過ぎった。そして、ニュースキャスターの言葉が断片的に脳裏に浮かぶ。F市内で、行方不明者。人が忽然と消える。手がかりもなにもなく。事件発生時は雨降り直前の曇天で、そう、ちょうど今みたいな――。
足音はたしかに聞こえる。自分の足取りとはすこし違って、もっと早い。
そして、たしかに迫ってきている。
手に提げていたダッフルバッグを肩に掛けなおした。走り出す。次の角を左へ。そこはさらに路地の奥だ。非常灯の灯りがぽつぽつと点る中、友紀は駆けた。そして次の角を右へ。
勢いをつけて曲がった時、制服のスカートが急に重くなった。大きく振った手の先がスカートをかすめる。背筋が震えた。
――冷たい。
その感触に驚いて、つい足が止まる。
おそるおそる、たしかめるようにスカートを掴んだ。冷たい――だけじゃない。
ぐっしょりと濡れている。
「なんで?」
スカートの布地は、ずっしりと水を含んでいた。次の瞬間、ばたばたばたっ、と足元が鳴った。アスファルトを打つ水の音。下を見た。
スカートの裾から水が滴り落ちている。プリーツの端から大粒の水滴が次々に落ちて、地面を黒く染めていく。
「なんで? なんでなんでなん……」
まだ雨は降っていない。頭にも、上半身にも水のかかる感触はない。なのに水はどんどん溢れてくる。タイツを履いた脚に濡れた感触が広がっていく。足元に水が溜まりだす。スカートの円形を中心に、みるみる広く、深く。もう踝まで浸かった。
「あ、あ、あ……」
叫びがうまく声にならない。止まっていた足を必死で動かす。ばしゃん、と水を撥ねさせた。膝が震えて走れなかった。ゆっくりと、一歩、二歩、三歩――三歩目が。
地につかない。
水の下に、地面がなかった。
前にのめりかけて気づき、踏み出した足を慌てて戻す。体重を後ろにかけて後退り、一歩。二歩目はなかった。
後ろに踏み込んだ足がそのまま沈む。さっきあったはずの地面は水に変わっている。ざぶん、とはまった。深い。沈んでいく。
底無し沼。
そんな言葉が浮かんだ。あっという間に頭まで浸かった。
一瞬、目を閉じ、そして開いた。
暗闇の中にいた。
さっきまでいた世界は頭上に。夕暮れの路地裏は暗いと感じていたのに、光はそこから差し込んでくる。
目を上げて、ほのかな地上の光を眺めた。
足はつかない。底はない。体はさらに、もっと深い闇の中へとゆっくりと落ちていく。
心は、不思議と静かになっていく。全身が水に包まれてしまうと、なぜか気持ちが落ち着いた。路地裏を駆けた時の不安も、水溜まりから逃げようとした時の焦りも消えていた。
ゆらゆらと揺れる髪の合間に、地上へ続く隙間がある。天窓のように開いたその先に、鈍い色の空が見えた。隙間はゆっくりと閉じていく。差し込む光は細くなっていく。
そこへ。
白いなにかが割り込んだ。
それは周囲を泡立たせながら水を切り、まっすぐ友紀の元へと飛んでくる。友紀の目の前で止まり、すいっと立った。
白く、ちいさく細長く、薄い。
――紙?
紙片だ。さっき朋佳に貰ったものにそっくりな。表面になにか光っている。
文字だと気づくと同時に、無意識にそれを読んでいた。
――みずみのまもり。
水、身の護り。
心の中で唱えると、意味が同時に胸の内で立ち上がる。
その瞬間、まわりの水が撥ねた。
体が上昇し、触れていた水がすべて引き離されていく。地上へと開いた隙間がぐいぐいと広がり、ふっと意識が遠のいた。
気づくと、路地裏に座り込んでいた。
ぼんやりとしたまま、手のひらであたりをさぐる。さらさらと乾いた感触が指に当たる。スカートの布地だ。濡れていない。地面も普段通りの灰色で、水溜まりがあったようには見えない。
水の中にいたはずなのに。水があふれていたはずなのに。
と、
「ありがとう。助かったよ」
声がした。見上げた。
目の前に、男が立っていた。
「読んでくれたでしょ、式紙」
ぼんやりした頭の中で、じわじわと焦点が絞られる。たった今、水の中で見た――
「みずみの……」
「そう、それ」
シキカミ――式紙。
「目を閉じてなくてよかったよ」
戸惑う友紀に、男がいう。
「読んでくれたおかげで、引き上げる手間が省けた」
そして男はもう一度、ありがと、と頭を下げる。
やっと、助けられたんだと気づいた。助けてくれたんだ、その――式紙と、この人が。
なのに礼を言われているのがおかしい。ありがとう、も、助かった、も、こっちの台詞なのに。
お礼をいわなくちゃ。
「えと、あの」
でも、さっきの出来事はいったいなんなのか。あの水は。それに式紙も。そしていったい、あなたは何者なのか。
混乱してちゃんと言葉が出てこない。男は友紀の目の前にしゃがみこんだ。スパイスのような、素朴で暖かい香りがふわりと漂う。胸が、どきん、と弾んだ。顔が近い。だがどんな顔なのかわからない。空はすっかり暗くなっているし、路地裏の非常灯はちょうど男の背後になっている。
「あの、ありが」
「もしかして、持ってる?」
礼を言おうとする友紀を遮り、男がきく。
「え、なに」
「あるよね」
察した。さっきの、朋佳の。
友紀はダッフルバッグから、お守りの符札を取り出した。
「今日、友達に貰ったんです」
「なるほど、それで。ほんと手間が省けたよ、ありがたい」
「そんな、ありがたいのは」
「で、今からちょっと」
また遮られた。
「払うね」
「え?」
男がさっと手を動かす。その懐で白いものがひらめいて、すいっとすべるように飛び出した。
例の紙だ。
式紙だ。
男が左手の手のひらを上に向けると、紙は支えもなくそこに立った。そのまま右手を上げて、紙の表面に指をすべらせる。指先がぼうっと光り、動きを止めると同時に紙が宙に浮かぶ。
とん、と指先が式紙を突く。式紙は友紀の胸元に飛び込んできた。
友紀は驚き、体がびくっと跳ねる。
「水はもう払ったけど、念のためにもう一回」
いいながら、男は右手をひらひらと動かしている。友紀の全身の倦怠感が、すこしずつ抜けていく。
「それから、このことは忘れてもらって」
「わすれる?」
「そう。さっきあったこととか、おれに会ったことも」
「え、なんで」
友紀はいった。いやだ。どうして忘れなきゃいけないの?
その気持ちを察して、男は
「そりゃ困る」
笑っていう。顔は見えないが、声が笑っている。とてもあたたかい声。ずっと聞いていたくなるような。それを忘れてしまうなんて。
いやだ。
急に悲しくなった。同時に、強いなにかに包まれるような気がした。
胸元の式紙を避けるように身をよじり、
「いやだ」
口調は強くて、自分でも驚くほどに、まるで自分の声じゃないみたいに――。
「あ」と、男が声をもらした。同時に友紀の胸元の式紙が弾け飛び、体がぐい、と後ろに傾ぐ。
脛の下の地面がぐにゃりと緩んで、体が沈んだ。
跳ねた式紙は男の元に飛び戻る。それを男は指で受け、「止め!」と短く叫んで押し返す。式紙はひらりと旋回し、友紀へと飛んだ。
再度あらわれた水の中へ、友紀はもがきながら落ちていく。沈む速度はさっきよりもずっと速い。目の前にいたはずの男はもう、頭上のちいさな天窓の向こうだ。
男の式紙はその隙間に入りかけ、だが閉まってしまうのはそれよりも早かった。締め切られる瞬間、式紙は閉じた隙間に挟まれて、細かい泡をたてて溶けるように水に消えた。
天窓は閉じてしまった。地上からの仄かな明かりも途絶えた。あたりは闇。なにも見えない一面の闇。
目を開いているのか、閉じているのかもわからない。心が静まり、なにも考えなくなり、そのうちに意識も途絶えた。