十六 こま しい
「こまさま?」
聞き慣れない言葉。晃一が聞き返す。
「そう。こまさま」
十路さんは微笑み、宙で指を動かした。晃一の胸元に温もりが走る。式紙を取り出すと、そこに
――狛さま
やわらかな筆致で記されていた。
「狛……」
始業前の事務室。昨日と同じように、座敷の上がり口から戸口を見上げる。鴨居の上の、ふたつの像。神社の鳥居の前にある、たしか右側が――
「ご名答。狛犬さまね。学校を護ってくださってるの」
「いるってことは聞いてたけど、ほんとにいたんだあ」
実嶋が言うと、
「一応は、なるべく人前に姿は現さないってことになってるんだけど……こまさま、人懐こいから構ってほしいのよ、ほんとは」
なにしろ、犬だもの。と言って、十路さんは板間の隅のコンロにヤカンを置いた。お茶、飲んでいってね、とふたりの生徒に微笑みかける。
「あの、こまさまってのは、水中に」
住んでるんですか? と訊きかけて、寸前に言い換えた。
「お住まいなんでしょうか」
なにしろ学校の守り神さまらしい。不敬があっては大変だ。
「そうよ。式神の施設の入り口は、守護神さまにお護りいただいてるから。神さまがたがいらっしゃらないと、水中の門は開きも閉じもしません」
「他の学校にもいるんですよね? 京都の女子校とか、瀬戸内海の島んとことかも」
実嶋が訊ねる。
「もちろん。あと、総務省下の護符舎とか、候天堂の社屋にもね。そちらの護りはどちらの神さまがなさってるかは存じ上げないけれど、うちは――」
十路さんは対になった像を見上げる。目に浮かぶ表情は誇らしげ……というよりは、愛しげだ。
「人と遊ぶのが好きなのに、普段は姿を見せないんですか?」
「そうそう。いるってことは知ってるのに、実際見た人ってほとんどいなかったもん。なんかそれっぽいのチラ見したって話があったくらいで、ちゃんと会ったのって阿久都がはじめて。って、阿久都すごい! すごいよ。なんで会っちゃったの?」
「実嶋だって会っただろ」
「そう、おれもすごい! うわ、ほんとに見ちゃった。さわっちゃったし!」
畳に転がってバタバタと足を動かしている。
「いやすごくないだろ。守り神さまが出てきたってことは、おれ、不審者だと思われたんじゃないか?」
「そういうことよね」
十路さんは困ったように笑う。
「式紙使いらしくない、なんだか不慣れな人物の気配があったから、警戒したんじゃないかしら。でも会ってみたら生徒で、そうなると人懐こさが抑えられなくなって……」
「遠慮せずに遊べばいいのに。おれ、いつでも相手するよ」
足をバタつかせながら実嶋が言う。十路さんは肩をすくめて、
「だって神さまだもの。威厳というものがね。こまさまは遊びたいみたいだけど、禁止されてるみたい」
「え、誰に、ってか、どなたに?」
慌てて言い直した。神さま物件だ、言葉に気をつかう。
「しいさまが」
「しいさま?」
また初耳だ。十路さんがひらりと手を動かす。手の中の式神に、新しい字が浮かぶ。
――獅子さま
「あ、狛犬の対の」
白銀の狛犬に対する、黄金の獅子。
「おふたかたはふたりでひとつ。でも性格は正反対で」
十路さんはいれたばかりのお茶を盆に載せて、
「しいさまは、私にもなかなかお顔を見せてくださらないの」
どうぞ、と座敷の上がり口に盆を置いた。
「こまさまってば、昨日あなたと追いかけっこしたの?」
「え? いや、あれは」
追われて逃げたのは確かだが。
「追いかけっこってんですかね」
「それがよっぽど楽しくて、我慢できなかったのね。開門前に引きずり込むなんて。きっと今頃しいさまに叱られてるわ」
「えー? 人に会うのは禁止だけど、十路さんとは会うんだ?」
お茶の香りに飛び起きた実嶋が、納得いかない風に言う。
「だって退屈よ、ずうっと水の底でふたりっきり。こまさまは甘えん坊でいらっしゃるから、せめて私くらいはね。たまに朝早めに水隧にうかがって、すこし遊ばせていただいてるの。今朝もお目にかかりに来てみたら、驚いたわ」
「いいなあー」
実嶋はため息をついた。
「おれもいっしょに遊びたい。だってすっごいかわいいんだもん」
「かわいいって、ちょっとそりゃ――」
失礼じゃないか? 神さまだぞ? でも――
「――かわいい、よな」
頷いてしまった。ふさふさの毛並みに丸い瞳、人懐っこく甘える仕草。
「かわいいでしょう」
十路さんはふふっと笑う。
「ずるいけど、これは事務員職の余禄ということで」