十五 特訓
昨日の朝も早かったが、今朝は、それにも増して早い。寮内はまだ静まりかえっている。
この時間に寮を出れば、学校に着いた時、校門はまだ閉まっている。昨日の登校時間でも開いていなかったんだから。
だが、晃一はあえて、開門前の登校をめざした。堀に入る前に、しっかりと心の準備をしておきたい。
セルフサービスの食堂での朝食は当然一番乗りだったし、朝食を終えて食堂を出ても、廊下に生徒の姿はまだ見えない。自室を出る時には忍び足だった。同室の七松は目覚めてさえいない。
「おはよう。早くからごくろうさん。がんばってるねえ」
事務室から手を振るおじいさんに見守られながら、式を立てる。寮の玄関の水は、校内までひとつづきだ。護りの水には、ここからお世話になる。
目を閉じて、深い呼吸を何度か繰り返す。こうして心を落ち着かせる。そして胸の前で右手を掲げ、下に向けてすべらせた。襷の内側から、符札が一枚飛び出してくる。作法通りに受けた左手の上で、符札に右手の指を立てる。
――みずみの
「阿久都ぅ!」
玄関ホールに大声が響きわたった。
「いっしょに行くっていったじゃん!」
玄関の水辺の向こう岸に、実嶋がいた。ちゃんと制服に着替えている。背中には――今日はちゃんと、バックパックがあった。
「待って、待って、そっち行くから」
右手に持ったものをぱたぱたと振り、言い終えるとそれを口にくわえた。食パンだ。食堂から掴んで持ってきたようだ。
玄関をコの字型に囲む廊下を、食堂前からこっちまでわざわざ廻ってくる。もぐもぐと口を動かしながら、
「もお、なんで待ってくんないんだよ」
「実嶋くん、邪魔しちゃいかんよ」
晃一に駆け寄る実嶋に、おじいさんが言う。
「式紙を呼んだところだよ。話しかけるのは、式が立つまで待っておあげなさい」
「あ、ごめんね。じゃあおれも」
と、実嶋も符札を呼んだ。ごくん、と口の中のトーストを飲み込んで、すぐに立式に入る。森の青い匂いが漂い、きびきびとした動きで式紙がひらめく。ちょっと荒っぽいが勢いがあって、実嶋の式は見ていて清々しい。
実嶋はさっくりと式を立て終え、すぐさま水に入っていく。晃一はあわてて式を続けた。
――みずみのまもり
実嶋のようにすらすらとはいかない。念を入れて、ひとつひとつの画を確認しながら綴っていく。最後の画をしっかりと払い、式紙を襷に仕舞った。
「うん、がんばっとるね」
目尻を下げるおじいさんに、いってきます、といってから、晃一も水に入る。先に来たはずの晃一のほうが、実嶋を追いかける羽目になった。
寮を出て、森に入る。川の上空の空はまだ暗い。
「ひとりで大丈夫だってば」
晃一がいうと、実嶋はめずらしく厳しい面持ちで、
「いや、これはおれ自身の課題だから」
「課題?」
「課題ていうか、なんだろ? 宿題? 復習? ま、そんなとこ。昨日のやりなおし」
「別に昨日だって、失敗ってわけじゃ」
「失敗したよう。ついてくっつって、できなかったんだもん。間違い及び失敗は、可及的即時にやりなおしがモットーなの」
「モットーって、誰の? 実嶋の? 学校の?」
「……誰のだろ。誰? わかんない。おれのでいいや」
「つまり、今思いついたんだな」
「そういうこと」
真面目な顔を崩して、へへっと笑う。
「でも、これって大事なことだと思うんだあ」
たしかに昨日の轍は踏んでいないようだ。昨日と違って、実嶋はまったく眠そうじゃない。昨夜、また早朝に登校するといったから、「やりなおし」のモットーを重んじて早めに就寝したんだろう。そのかわり、
「ふあ」
晃一があくびをした。
「どおしたの、ねむそおじゃん」
実嶋もつられてあくびをしながら、
「昨日、遅かったんだ?」
「ちょっとね」
「眠れなかった? ほら、昨日、会議とかあっていつもと調子が違ったし」
「うん。その会議のことで、特訓してた」
「とっ、くん。」
実嶋はその言葉を噛みしめる風にいった。「特訓」や「訓練」は、実嶋の大好物だ。
「特訓かあ。なんの?」
「ほら、怪のさ。あの、ほら――ヒオキ、さん? 彼女のやってたやつ」
森に向かってなにげなく式紙を放って、なにげなく怪を払ったヒオキの技。あれが気になってたまらなかった。
そこでーー
昨晩、消灯前の自由時間に、自室で七松に怪にたずねてみた。
「怪を払うって、みんな普通にできるのか?」
七松は、うーんと唸って腕を組む。どう話していいものかを悩んでいる。
「なんか、それを目指してるとか」
「目指すっつか……先生が言ってたのか?」
「いや先生じゃないけど、会議で。代議の人が」
「代議? 瓜篠さんか?」
「じゃなくて、女子の」
「ヒオキかよ」
七松は苦笑いをした。ヒオキは有名らしい。どうやら、ちょっと困った風に。
七松は立ち上がり、ふたつ並んだデスクの間の、両開きの窓を開けた。夜の冷たい空気が室内に流れ込む。晃一も七松の隣に立ち、外を見た。
窓の外には夜の森がある。真っ暗闇を見つめるうち、目が慣れて森の輪郭が見えてきた。夜風にそよぐ葉、それが擦れる音。
なにか、すこし違った音が聞こえた。さわさわと揺れる葉音の合間に、軽く鐘を打つような。その時、
視界を白い影が横切った。鼻をかすめる沈丁花の匂い。鐘じみた音がいっそう高く響き、森できらりと光が弾ける。
振り向くと、七松が指を下ろすところだ。怪が出た。そして、それが払われた。
「怪って――」
こともなげに怪を払ってのけて、七松はいう。
「まあそこらでしょちゅう出てんだよ。別に悪い影響もないんだから、普段は気にするこっちゃないんだけど」
「すごい」
晃一は思わず呟いた。いや、すごかねえし、と七松。
「誰でもできんだよ。俺もいつの間にかできてたし」
「どうやんの? っていう前に、怪ってどう見分けんの?」
「わかんねえよ。教えられてねえから」
まただ。「なんとなくできてた派」の人々だ。
「まあそのうち、できるようになんじゃね? ……っておい」
晃一は窓から身を乗り出し、森を凝視する。
そのうち、じゃ困る。そんなんじゃだめだ。おれはここのみんなとは違う。いままで自分で決めて、自分で会得してきた。ぼんやりしていてできたことなんて、いままでにひとつもなかった。
――クズだな。
あの言葉が頭をよぎった。そうだ。「なんとなく」や「いつの間にか」でできる人たちとは違うんだ。クズならクズなりに、こっちのやりかたでいくしかない。
枝がざわめく。大きく傾いだ。
「……あれは」
「や、違うな」
晃一につきあって外を見ていた七松が、首を振る。晃一はさらに木々を見つめる。耳を凝らす。
しばらく、森は動かなかった。静かな風に葉がそよぐだけだ。だが。
なにかを感じた。枝のひとつがちらりと動く。きゅっ、と、かすかに聞こえた。
「あれ」
七松が頷く。胸の前に、そっと符札が差し出された。
その符札に指を立てかけて、
「なんて」
「いい」ひそかな声が、「書かなくていい」
書かなくて? でも。
「払うだけだ」
わからない。
「大丈夫、今だ」
どうやって?
「払え」
わからない。だが。
わからないままに指を動かした。護身札の最後の画を思い出しながら、符札の上で指を払う。
払った指を外へと向ける。記憶に残るヒオキのしぐさをなぞって、式紙を飛ばした。
白い影が枝へと向かう。枝にぶつかる。式紙が散るのが仄かに見える。
光もなにもなく、式紙はそのまま闇に溶けた。
「……逃がしたな」
ふう。ふたり揃って、詰めていた息を吐く。
「ほら、できんだろ? 難しいこっちゃないんだよ」
いや難しいんだけど。失敗したし。
だが、手応えは充分にあった。怪を見分けられたらしいし、払いの式紙もちゃんと使えた……逃しはしたが。
――よし。
晃一はつぶやき、また窓の外に目を向ける。
「まだまだいくらでも出るぞ」
七松は笑った。
「こういう湿気の多い日には特に多いんだよ。好きなだけ練習しとけ」
まだ続けるつもりの晃一を察して、
「符札、足りなかったら俺のも使っていいから」
ふたつのデスクには、それぞれ真新しい符札が積み上げられている。七松は自分のデスクの符札を指した。さすがに自分のだけでも使いきれないだろうが、
「ありがとう」
気遣いがうれしかった。と、
「じゃあごゆっくり。そろそろ消灯時間だし、お先」
七松はベッドに入る。ほぼ同時に消灯十分前のチャイムが鳴った。そして十分後、灯りが消える。
そして。
そのまま、気の済むまで怪を追った。暗い森を見ているんだから、灯りは無くても問題はない。最後には朦朧として、時計も見ずにベッドに倒れ込んだので、いったい何時まで練習していたのかわからない。だが、かなり遅かったはずでーー
「だから睡眠時間はいつもより短いんだよ、相当。で眠くてさ」
「ほおお!」
昨日の出来事を聞いている実嶋の目は、爛々と輝いている。特訓好きの火が点いたか。
「昨日の夜、森がえらくきゃんきゃん鳴くなって思ってたんだよね。あれ、阿久都が払ってたんだ」
「そこまできゃんきゃんはいわせてないけど」
でも、なんとかわかりかけてはきている。はじめは全くダメだったが、終わり頃には何度か、暗い森で水の散る手応えがあった。
と、川の傍らの木が、なんとなく気になる。目をやると、ざわっと揺れた。
「そう、あれ」
実嶋がいう。
「あれも怪だね。昨日今日はなんか多いな」
さらに向こうの枝も、軽くしなってきゅっ、と鳴る。あれも?
「あれもだよ」
首を傾げる晃一に、実嶋が頷く。
――わかる。
わかるようになっている。怪だ。ここには――世界には、怪が充満している。
と、突然に視界が開けた。昨日と同じく、前方に校舎があらわれる。
「さて、どうしよう」
堀の前で立ち止まると、固まった水を眺めて実嶋がいった。
「まだ校門が開くまで間があるけど、ここでなにかすんの?」
「いや――」
単なる心の準備だ。昨日のアレとの、水の中の光る怪物との対決に向けての。
だが、これをどういうか。
ほんとうならひとりで対決したかった。アレの正体はなんなのか、まったくわかっていない。もしかしたら他の生徒たちにとってはよくあることで、あんなに慌てふためくのは自分くらいかもしれない。だから、昨日の自分が不甲斐なくて、もう一度ちゃんと対峙して、対応したかった。
とはいえ、今日も早くに来たからといって、会えるという保証もないんだが。
「できればひとりでやってみたかったんだけど――」
しかたがない。事情を話すことにした。
「昨日さ、なんか変なの見たんだ。校舎の下の水隧んとこで」
「変なの? どういうの?」
「白くてさ、丸くて、跳ねて」
「あ! そうなんだあ早くいってよ」
「え、やっぱりよくあることなんだ」
「白いの? ボール? ごめんうちの同好会のヤツが置きっぱにしたんだよ。危ないから落としたらちゃんと拾おうっていってんのに」
「いやそういうんじゃなくて、もっとでかくて」
「バレーボール? でもバレー部活動休止中だしなあ。部員いなくなっちゃって。ハンド部に吸収されて……あ、ハンドボールか!」
「違う。ボールじゃなくて」
どうやらアレはお馴染みの物件ではないらしい。ということは、
「水隧に怪って、出るの? 実体で」
「じったい?」
実嶋は目を丸くした。
「実体って、こう、はっきり見えてるってこと?」
「うん。動物みたいな。動き回って、なんてか怪物みたいな」
実嶋は口を動かしかけて、そのまま固まる。見開いた目がゆっくりと狭められ、視線が下に落ちる。なにかを考えている。
「もしかして、それって――」
「え、なに」
と、訊きかけた瞬間。
やにわに足下が動いた。踝あたりにまとわりついていた水が、ぐいっと動く。
「うわ!」
足を浚われ、ふたり同時に叫んだ。
水は固さを保ったままで、堀のほうへと流れ込む。水に足首を捕まれ引きずり込まれる。堀の奥へとそのまま連れ去られた。
まだ校門は開いていないはず。なのに、気づけばもう校舎の下の水隧の中にいた。
青白い光の傍らに、ふたりで倒れ込んでいた。
がぼっ、と息を吐き、
「なんだ、なんだなんだ一体?」
いうと、
「あ、ちゃんと喋ってる」
隣の実嶋が笑う。
「瓜篠に聞いたよ。水中で喋れないって相談したんだって?」
「いやそんな、呑気なこどいっでうばあいやだく」
途中からまた喋れなくなった。意識をするとダメになるのか、ってそんな話じゃなくて。
「なん、だお、これ」
「なんだろうね。こんなことはじめてだ」
実嶋の口調はあくまで呑気で、立ち上がると悠々とズボンの裾を直している。目を細めて奥を見て、
「まだ水庭側は閉まってる。校門が開いたってわけじゃないみたいだね」
指さす方を見ると、水庭に通じる入り口が、青い光を反射している。水が氷のように固まっている。
「で、なんだっけ、さっきの話」
実嶋は晃一に向かう。どうしてこう落ち着いているのか。
「……しろい、まるい」
「あ、そうそう。そうだ。あのさ、もしかしたらそれって――」
と、いいかけたまま、実嶋は言葉を止めた。言葉だけでなく、表情までが凍ったように止まっている。じっと晃一を見つめて――いや、晃一じゃない。その背後を見ている。
「――それか」
ぽつりといった。晃一は振り返った。
白くて丸い、光る物体が、わさわさと体を揺らしている。表面にびっしりと生えた繊毛から、細かい泡がわき上がり続けている。
晃一はじりじりと後ずさる。後頭部が実嶋の胸にぶつかった。
「――」
そう、あれだ、といったつもりが、声にならずに、ただうなずいた。
なんなんだ? もしかして、それ、って、なんなんだ?
さっきの続きを促したい。だがこれも声にならない。
それに、いまさら答えを聞いたところで。
球体から、一気に泡が吹き出した。前がひしゃげて後ろが上がる、例の臨戦態勢になる。飛びかかる準備だ。
実嶋が一歩、前に出た。なにかをつぶやいた。
――こま、さま?
そう聞こえた。
実嶋はそのまま歩いていく。まるで魅入られたかのように、球体に向かってふらふらと進む。球体が大きく震える。ひしゃげた形がもう一段沈み、
「実嶋、避けろ!」
晃一は叫び、跳んだ。実嶋に体当たりをして、前に出る。
球体は大きく跳ねた。こっちに向かってくる。
胸の襷に指を立て、新しい符札を呼び出す。飛び出た一札に払いをかけて、球体に向かって飛ばした、が。
球体は速い。晃一の式紙は空を切った。すでにそこに球体はいない。球体は晃一の胸に飛び込んできた。
まともにぶつかり、晃一は衝撃ではね飛ばされる。球体を抱き込んだまま地面に転がった。
「ぐぅ」
と、おかしな音をたてて息がもれた。胸に攻撃がまともに入った。寝転んだ晃一の胸の上に重みがある。球体はそこにいる。
ハア、ハア、と、獣じみた呼吸音が間近に聞こえる。首筋に細かい泡があたる。晃一の様子を覗き込んでいるらしい。
――食われる、のか?
その予感に目を閉じ、歯を食いしばった時、
「うわあ、こまさまだぁ、本物はじめて見たぁ」
「あら、今日もお早いのね」
ふたつの声が同時に聞こえた。
おそるおそる目を開く。
目の前に、くりくりとした光る瞳があった。
胸の上にいたのは、たしかに獣だ。ふわふわの白銀の毛に覆われた、まるくて大きな動物。瞳も鼻先も丸くて、小首を傾げた愛らしい様子で晃一を覗き込んでいる。
「え?」
晃一が声を出すと、勢いよく首筋に鼻を擦りつけてきた。身を震わせるたびに、ふさふさの毛並みの間から泡がぶわっと噴き出す。
「もう、こまさまったら落ち着いて。阿久都くん驚いてるじゃない」
駆け寄ってきたのは十路さんだ。
「……こまさま?」
「そう。学校の守り神。噂では聞いてたけど、ほんとにいるんだねえ」
実嶋も駆け寄ってくる。白銀の獣に手を伸ばし、触れてもかまわないとみるや、わしゃわしゃと毛をかき回した。こまさまとやらは嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。
「ぐ、うぐ」
胸に蹴りが何度も入った。こまさまは今度は実嶋に飛びついた。実嶋はバックパックを放り投げると、
「ようし、来い!」
こまさまを抱きしめてごろごろと転がる。よっぽどはしゃいでいるのか、実嶋たちのまわりは気泡だらけでふたりの姿が見えないくらいだ。
「構ってもらえて大喜びね。普段退屈してるから」
「あ、あの……なんか、ぜんぜん」
「そうだ阿久都くん、編入してきたばかりで……ご存知ない?」
十路さんがたずねる。晃一は首を縦にぶんぶんと振った。
「じゃあ、お話させてもらうわね。おふたりとも事務室へどうぞ」
その時、開門を知らせるチャイムが鳴った。