十三 親展印
御符学書院の学生寮は、やはり水に囲まれている。寮の手前あたりで水路がしだいに深くなり、玄関のアーチの下では膝まで浸かる。そこから左右に分かれる階段を上がり、水を払うと寮内だ。
木組みのアーチを潜ったところで、晃一の胸に報せが入った。式紙を出して見る。寮事務からの呼び出しだ。
「それじゃ、また明日」
「あ、瓜篠さん、明日は」
右側の階段へと進む背中に、声をかけた。
「明日は、ってか明日も、ひとりで行きますから」
瓜篠さんは振り返り、すこし首をかしげたが、
「そうか、じゃあがんばって」
なんで? とは、今日は訊かない。そのまま水を払い、寮内へと入っていった。後には瓜篠さんの式紙の名残りの、野の花の清かな香りが残る。
晃一は左側へ進む。階段を上がりきると、すぐ正面に寮事務室。式紙を呼び出して水を払い、護符を水に帰す。
晃一の式紙からはなんの匂いもしない。これは扱う者が未熟なせいなんだろうか。そんなことを考えていると、
「編入生くん、阿久都くん」
寮事務室の小窓から、おじいさんが手招きをする。痩せて総白髪なおじいさんの、名前は知らない。名前を聞いても、「おじいさんとでも呼んでおくれ」としかいってくれない。
「手紙が来ているよ」
おじいさんは、おじいさん然としたやさしい笑顔を浮かべ、いかにもおじいさんな声で呼びかける。
小窓から差し出された封筒を受け取り、指で受領印を捺す。と、
「おやおや、印、ずいぶん上手くなったねえ」
受領書を掲げて、おじいさんはいった。
「すばらしい上達ぶりだ。うん、がんばっとるね」
上達ぶりって、前にここで印を捺して見せたのはつい二日ほど前だし、そんな短期間で目に見えるほど上手くなるはずが……だが、誉められるとやっぱりうれしい。なんだか頬が熱くなる。ありがとうございます、と頭を下げると、おじいさんはおじいさんらしく目を細めて、「がんばれ、がんばれ」といった。
事務室の脇には待合風の古びたベンチがあり、その先には長い廊下が続く。そこを進みながら、封筒の差出人名を見た。
萩原 みどり
式紙部のメンバーだ。小学校からの同級生。まだここに来て二週間だというのに、早速手紙を出してくれた。ちゃんと親展の印も捺して、封印してある。浮かれた気分で廊下の途中の螺旋階段を二階へと上がりかけた、その時。
なにか、異様な空気を感じた。空気というか、これは。
――視線だ。
感じた方向へ目を向けた。上だ。
螺旋階段のすぐ上の、二階の吹き抜け側を囲う手すりに手をかけて、こっちを見下ろしている人がいる。
あの人だ。昼休みに校庭にいた、あの「こわい」人だ。名前はたしか。
「遠野さん」
口の中で、なにげなく呟いた。ごくひそかな声で、聞こえるはずがない。だがその人は、その通りだというかのように、晃一に向かってうなずいた。
晃一は会釈をした。胸がどきどきしはじめた。遠野さんはたしかにこっちを見ている。どういうつもりなのかわからない。なにか用事でもあるんだろうか? いまのところ縁もないはずの、高等部の先輩が?
階段を上がると、遠野さんはまだそこに立っていた。晃一を待っていた様子だ。その両側に、やっぱりもうふたりいる。昼と同じメンバーか、それとも違うメンツなのか、よく思い出せない。遠野さん以外のまわりの風景がぼやけたように見えてしまう。
軽く頭を下げて、その脇を通りすぎた。と、
「編入生」
背中に声がかかった。
やっぱり、俺に用か。
ますます心臓の鼓動が速くなる。
だいたい、よく知りもしない上級生から声をかけられるのは、因縁をつけられる時だと相場が決まっている。いったい、なにをふっかけられるのか。
「……はい」
観念して、振り返った。
「阿久都、晃一……っていったっけ?」
予想に反して、ほがらかな声だ。思い切って顔を上げ、先輩の顔を見た。そして、
「はい」
返事をしながら、拍子抜けしていた。遠野さんの表情は、声の印象通りにほがらかだ。にっこりと微笑み、大きな目をきらきらと輝かせている。
「普通校から編入してきたんだよな」
「はい」
「そうか、予備科から普通の中学に進学したのか?」
「いえ」
「え、式紙は独学で?」
「はい」
「自己流でやって、編入試験に挑んだわけか」
「はい」
バカみたいに、ひとことの「はい、いいえ」でしか答えられない。だがどうしてこんな、尋問のようなことをするんだろう。
遠野さんはにこやかで、質問の間ずっと口元の笑みを崩さない。ひとこと言葉を発するたびに、大きな目の中の黒い部分がきらきらと光る。その光は、とても強い。異様に光って強すぎる。
だが、ほがらかな調子は変わらない。すこし不安を感じながらも、晃一はほっとしていた。
「ずっと自己流、予備科経験なし、ここまで専門の学習経験なし、か」
「はい」
「それじゃあ」
遠野さんはいっそうにっこりと笑い、
「クズだな」
「え?」
一瞬、なにを言われたのか理解ができなかった。
聞き間違いか? 聞こえた言葉と、表情とが噛み合わない。
「それ、手紙?」
遠野さんは晃一の手の中の封筒を指し示す。そして手のひらを上に向けた。晃一はその手に封筒を渡した。
遠野さんが封筒を取り上げた時、やっと、しまった! と思った。
どうして渡してしまったんだ。無意識だった。信じられない。術にかかったかのように、手が勝手に動いてしまった。
「へえ、ちゃんと親展印が捺してある。これ、局のじゃなくて自作だな」
封筒を目の上に掲げ、封の上の印を眺める。
「素人にしちゃうまくできてる。なかなかやるな、君の知り合いは……でもな、式紙使いにとっては、こんなのは」
と、遠野さんの右手が軽く印をかすめて、
「素人の遊びだ」
印がはじけた。
そして、封がゆっくりと開く。
親展印だ。宛名の相手以外には開けないはずだ。
いままで、式紙部のみんなで何度も試した。ほんとうに開かない、式紙の術はほんとうだって――。
「……クズだな」
さっきにいった言葉を、遠野さんはもう一度繰り返した。今度こそ、意味をちゃんと理解した。
そして、七松がいったことを思い出した。なんか、こわいんだもん、あの人。
「それ、親展印、は」
晃一は必死で言葉を絞り出す。奥歯が鳴っているのを止められない。震えている。畏れか、怒りのせいか。
「……本人以外は、開けては」
「ああ、その通り。君は被害者だな。親告罪だから」
遠野さんはやっぱり笑顔のままだ。とてもにこやかに、親しげな笑みを浮かべて、
「訴えればいいよ」
晃一の耳に囁いた。
「そんな……」
なにかをいいたい。だがなにがいいたいのか、自分自身でもわからない。言葉に詰まって、奥歯をぎりっと噛む。
封の開いた封筒を晃一の手に押しつけ、遠野さんはそのまま晃一の横をすり抜けた。ふたりの生徒を引き連れ、螺旋階段を上がっていく。
力を振り絞り、その後ろ姿を見上げた。睨みつけたが、遠野さんは振り返りもしない。