八 ーーケーー
そこにあるのは、長机とベンチだ。いや、椅子か? よく見えない。
いや、見えているのに、判断ができない。
人がいる。三人。もしかすると四人。たぶん知っている人だ。たぶん? 知っている人に決まってる。そのひとりは甲成先生のはずだ。そして瓜篠さんもいるだろう。
人の姿は見えている。なのに、それが誰だか見極められない。
校舎を外から見た時と同じだ。理解や判断の前に、意識にストップがかかる。会議の席の全体に、式紙の結界が張られている。
もわんとした気配の前で、実嶋が立ち止まった。
右手を掲げ、
「失礼します」
といいながら、軽い会釈と同時に手刀で宙を切る。
次の瞬間、実嶋が見えなくなった。あの曖昧な空間の中に入ったというか、取り込まれたというか、実嶋の体はもう結界の向こうだ。見えるようで見えない、三人だか四人だかの中に混ざってしまった。
え、おれは、どうすれば。
一瞬だけ戸惑うが、すぐに晃一も右手を挙げた。とにかくやるしかない。さっき見たとおりに、倣ってやってみるしかない。
「失礼します」
といって、会釈と同時に空間を切る。人の間に割って入る時と同じ動作と言葉だ。
手の側面が、ぼんやりとした空間を割った。途端に。
体がぐにゃりと歪んだ。見えない空間に入り込んだ手から順に、じわっとむず痒いような感覚が走る。なにかが体に染み込んでいく。力が抜けて、体が傾ぐような気がして、力が入らない。全身がねじれて絞られて、ばらばらになる。
ぐっと堪えて、体を立て直した。両足を踏ん張ると、
「うおあああ……」
声が絞り出される。だめだ、潰れる。潰れて浚われる。流される。
と、
「阿久都」
声が聞こえた。
「学校にはもう慣れたか?」
涼やかで聞き易い、落ち着いた声。はっと顔を上げた。
目の前に壁があった。もうちょっとでぶつかるところだ。体をすこし反らして、それが実嶋の背中だと気づいた。
慌てて一歩、横に避けた。足に力が戻っている。
ふたりの前には長卓があった。その向こうに人がいる。三人。真ん前に掛けた人が、晃一をじっと見つめている。
「あ……瓜篠さん」
そうだ、さっきの声は瓜篠朗のものだ。
そしていつもの質問だ。瓜篠さんは、会うたびに「もう慣れたか」と訊く。
「はい。えー、まあまあです」
晃一の答えも毎回同じだ。はい、といってから、やっぱりそうでもない気がして、「まあまあです」と言い添える。
瓜篠さんは晃一を見据えたままで、
「同い年だ、タメ語でいいよ」
といった。これも毎度のことだ。それに、はい、とこたえる。結局タメ語にできていない。やっぱり、これも毎回。
「やあー、なえたもんらよー」
さらに声が飛んだ。推測するに、言いたいことは「いや、慣れたもんだよ」。
「きれいに結界の封切れたもんね」
発音通りに記せば、「きえーいけっかいおふーきえあおんえ」だ。
いつものふにゃけた喋りをしながら、甲成先生がにこにこと笑っている。セルフレームの眼鏡の向こうの目はうれしげに細められ、自分の言葉に頷きながら、長卓の向こうの辺に沿って落ち着きなく歩いている。
白いカッターシャツにネクタイを締め、下はなぜかジャージのズボン。はじめて会った日は始業式の前日だったので、雑用なんかがあって特別に変則的な服装なのかと思えば、それからも毎日その格好のままだ。
さらにその隣から、
「まあ座れ」
低い声がいった。
四角い顔に、四角い体つき。かなりな年輩のはずだが、髪も眉も黒々としている。学年主任の五十野先生だ。
合点がいった。さっきの弁当の受領印は、五十野先生が捺したんだろう。力強くて角張った印は、いかにも五十野先生な印象だ。
長卓には弁当と、ご丁寧に白湯の入った湯飲みも据えられている。勧められたとおりに椅子につく。
いままでの放課後の報告会に、五十野先生が参加したことはない。となるとこれは、気楽な「男子会」なんかじゃないこと確定だ。
「さて」
と、五十野先生がいう。
「本日は、まあ、阿久都が編入してきて二週も経ったということで、この、なんてんですかな、学校にも十二分に慣れた頃合いだろうってんで」
いや、まあまあです。晃一はつぶやく。
「知っといてもらわんといかんこともあるんでね、そのへんをちょいと、説明しとこうと思ったわけで」
ここで五十野先生は言葉を切って、白湯の湯飲みに口をつける。ごくっと喉を鳴らしてから、ふー、と息をつく。
そして、
――そして?
長卓に置いた湯飲みの中の水面に視線を落とす。それで?
「……はい」
沈黙にいたたまれず、晃一はいった。これっておれ、なんか発言しなくちゃいけないの? なんか質問されたっけ?
「阿久都、学校には慣れたか?」
戸惑っていると質問がきた。助け船なのか? 瓜篠さんだ。いつものやつだ。
「え、まあまあです」
答える。瓜篠さんは頷く。
そして話はまた止まってしまう。
彼らがなにかを言いたいのだということはわかる。どうやら言いだしあぐねているというのもわかった。なんだろう。でも晃一にはどうすることもできない。
五十野先生は湯飲みに視線を注いだまま、甲成先生は長卓に沿ってうろうろと歩いて、瓜篠さんは晃一をじっと見ている。と、
「食べていいですか?」
沈黙を破ったのは実嶋だった。
「おう、そうだな。まずは昼飯だ。食べよう」
助かった、とばかりに五十野先生がいう。
うわあ、いただきます、と実嶋がうれしそうにいった。気まずい空気をどうにかしようとしたわけじゃなく、ただ本当に食べたかっただけらしい。実嶋はいそいそと弁当箱の蓋を開ける。
他の四人も倣った。いただきます、と口々に言うが、五十野先生の声はあきらかにほっとしている。よっぽど言いにくいことがあるのか。
会食は和やかだった。
話題は主に弁当の内容についてと、そこから各自のおかずの好みなど。今日はおひたしが入っててうれしいとか、肉より魚の日のほうが全体的においしいとか、俺はシャケは甘塩よりも塩のきいてるほうが好きなんだとか、らったあみそうけもあうのあーとか。
編入生に関わる特別な話はなにもなかった。ここでの会話でわかったことといえば、五十野先生はおひたしは断然インゲン派で、甲成先生は魚は種類に依らず味噌漬けが好き、実嶋は魚の骨を崩さずに身をほぐすのが得意、寮の献立ではクリームシチューが一番人気で、瓜篠家のシチューにはなぜか輪切りのとうもろこしが入る、などだけだ。
会話を繋げながら、晃一は考えていた。
いったい何の話があるんだろう。しかも、言い出しづらいこと……この二週間の自分の成長ぶりを計られて、なにかがあったということか。
もしかして、自分はこの学校にふさわしくないとか? 授業についていけるだけの実力はないと判断されたとか?
入学資格、取り消しとか……。
全員が食べ終わり、空の弁当箱を脇にやる。おかず談義も一段落した。ふう、と誰かがため息をついた。
五十野先生と甲成先生のそれぞれの席には、白紙の式紙が重ねて置いてある。実嶋と瓜篠さんがそれを見て、襷から式紙を出した。晃一も倣って、式紙を前に置く。
どうやら、話のはじめ時だ。晃一は身を固くした。
「さて」
と、五十野先生がいう。昼食前と同じ流れだ。
「この、阿久都が編入してきて二週間ってことなんでね」
これもまた同じ流れだ。だめだ、また堂々巡りになりかねない。
「先生」
思い切って割り込んだ。
「はっきり言ってください。気遣いは結構です。なにを言われても大丈夫です。平気ですから」
平気、といってはいるが、心臓は思い切り跳ねている。震えを感じて、手をぎゅっと握りしめた。
覚悟しろ。おれは御符学に足る人間じゃなかったとしても、それはそれで満足だ。
並大抵でなれるもんじゃないってことだ。それでこそ、式紙使いってやつだ。
諦めだって肝心だ。もともと趣味で嗜んでただけなんだから、その場所に戻るだけ。分不相応なことを望んだって、苦労するだけだろう?
「……平気ですから」
もう一度、自分に言い聞かせるつもりでいった。
五十野先生は腕を組み、うーん、と唸る。
「いやあ、平気ったってなあ。なんて説明すりゃいいんだからわからんのよ。みんななんとなくでわかってたことだからなあ。なあ、瓜篠くんよ」
と、瓜篠さんに視線をやると、
「そうですね。習った覚えはありません」
「おしえたこともないしね」
甲成先生が続ける。
「どうだっけ? 自分のときは……昔のことで思いだせないなあ。五十野先生はどうでした?」
「甲成くんが昔っつったら、俺ん時なんて大昔だわ。太古の昔だわ。わからんよ。しかもトシでメモリもちょこちょこいかれてきとるし」
「え、なんのこと?」
実嶋がたずねる。きょとんとした顔で見回し、
「あ、ケのことか」
ケ?
「そうだった。言わなきゃなーって話してたよね」
瓜篠さんと顔を見合わせ、うんうんと頷く。実嶋は話が見えたらしい。だが。
ケ?
晃一はまだ取り残されている。
「なんですか?」
晃一がきくと、五十野先生は頭に手をやり、首をひねる。
「それをな、説明せにゃならんのだよ。いままでの生徒さんたちは、なんとなくわかっちまいましたって奴らばっかりだったからな、昔々の俺も含めて」
そうだろ、と、また瓜篠さんにたずねる。
「予備科の頃には気づいてましたね」
瓜篠さんは実嶋を見る。実嶋が繋げた。
「おれも、予備科の時には知ってたかなあ。なんかある、ってのはわかってた。なんでわかったのかはわかんないけど。その時にはもちろんケって呼ぶってのはまだ知らないけど」
晃一に向かっていう。いやそんな、そんなぼんやりしたことを言われても。だから。
だから、ケ、って?
「……ケ」
晃一はつぶやいた。
ケって、毛?
頭を捻る。
悩んでいることが知れたらしく、甲成先生が右手を動かした。指先の動きに沿って、晃一の式紙に文字が灯る。
――怪
「カイ」
音読みで読んだ。
「ケ、だってば」
実嶋が笑っていった。