異世界に行くための
行くための準備が終わりませんでした。なぜ……
――おっさんと私の間にしばし沈黙が流れる。その沈黙を破るのは私だ。
「行くことは言ったけど、今は無理。準備の時間が……そうね、一週間ぐらいは欲しいところね」
異世界というわけの分からない場所に行くのだ、準備もそうだが気持ちを固める時間ぐらいは欲しい。
「それは無理だ。せいぜい一日が待てる限度だ」
「なんでよっ!」
「千歩が行くと言ったときに、いつでも行けるよう道を開けたからな。この道を開けておけるのが一日程度なんだ」
「また開ければ良いことなんじゃないの?」
「そうもいかんのだ。準備時間が必要というのは分かったが、明日のこの時間くらいには行ってもらいたい」
「…………」
なにそれ、意味分からん。一日で準備って、どうしよう。異世界に必要なものってなんだろ――。
「その異世界ってどんな世界なの? お酒がなくて、魔法があるとは聞いたけど、それ以外はこの地球みたいな感じなの?」
「主に人間が住んでいるというところは一緒かもな。ただ、魔物がいるし、種族もいろいろといるぞ」
「え、魔物ってなにそれ。聞いてないんだけど! 聞いてたらあんなに即答しなかったかもしれないのに……」
「なんだ? 飲みたくないのか、この〈幻の酒〉を!」
おっさんは〈幻の酒〉をぐいっと見せてきた。
「飲みたいから、行くって答えたんでしょ! 絶対に飲むわよ! そうね、魔物にも簡単に勝てるチート的な能力が欲しい!」
前に少し見たアニメだと主人公とかがそんなのもらってた気がする!
「……神様は魔法使いじゃないから」
「なにそれ! じゃあ、神様は何をしてくれるのよ!」
神様だって言うのに魔法ぐらい使えないでどうするのよ! てか、神様ってもっとこう色々としてくれるんじゃないの? 目が泳いでるし!
「異世界でも言葉が通じるように翻訳機能的なのはつけてやろう。あとは、準備が必要だっていうならその鞄を無限収納にしてやろうか?」
「魔法使えるんじゃん! 翻訳機能も無限収納も便利ね。無限収納は食べ物が腐らないように、時間が止まるやつが良い」
「魔法じゃない。まぁ、説明とか面倒だからはぶくが、千歩の能力を上げるようなことは出来ない。翻訳機能はないと不便だから、前に失敗した二人にもつけていたんだ。無限収納はそもそも時間経過のないものだ」
「ふーん。よく分かんないけど、他にはなにが出来るの?」
「あまり多くのことは出来ない、能力を上げる以外でなにか必要なことはあるのか?」
「そうねぇ、異世界には明日行くってことだから行くときまでにちょっと考えさせて。てか、もう一時過ぎてるし一度寝たいんだけど?」
「あぁ、すまんな。んじゃ、明日この時間にまた来るわ。その鞄も無限収納にしといたから。まぁ、準備頑張ってくれ」
そう言って、おっさんは目の前からすっといなくなった。こういうところが神様っぽい。
とりあえず、今日はもう寝よう。おっさんの話には色々と考えることもあるがだいぶ眠たい。
私は着ていた服を脱ぎ、下着姿のままメイクも落とさずベッドに横になって、あっという間に眠りについたのだった。
八時前に目が覚めた。いつもなら、休日は九時過ぎまでは寝ているはずなのに、少し早めに目が覚めたらしい。
…………変なおっさんの神様が来た夢を見たなぁ。はは、家に帰ったら神様とかどんな夢なんだ、そう思いつつシャワーを浴びる。熱めのシャワーで頭がスッキリしてきた。あれは夢だったのか? 夢のわりに記憶がしっかりとある。
朝ごはんは何にしようか……冷蔵庫はほぼ空っぽ、お酒とお茶ぐらいである。明日は祝日だし、今日は良い天気だ。欲しい本も出ている頃だし、散歩がてら本屋さんに行って、気になっていたカフェでブランチでも良いなぁ。帰ってきたら食材を買いに行こう、今日は卵とお肉が特売だったはず!
今日の予定を立てつつ、出かける準備を済ませば九時半を過ぎていた。よし、ぶらぶらと散歩しつつ行こうかなぁ。昨日も使ったバッグを手に取り出かけようとした――
「なんか、いつもより軽くない?」
バッグを見ると何も入っていない。……何で? 財布とか手帳は? と、手を入れると財布と手帳が手にあった。いや、だから何で? 財布も手帳も私のもので間違いない。疑問と同時に思い浮かぶ、昨日の夢……
「いやいや、まさか……そんなことあるかね」
物は試しと数冊の本やスマホを入れてみた。バッグに入れるとすっと消えた。……これは本当なのかな、ここまで夢っていう落ちかもしれない。頬を抓ってみる、痛みは感じる。シャワーも熱かったもんなぁ。じゃあ、昨日のおっさんは夢じゃなくて本物の神様なのかぁ――って、そんなバカな!
「事実は小説よりも奇なり……そういうことなの?」
どのぐらいバッグに入るのか試してみる。私の家にある、二千冊を超える本たちは全て入った。おぉ、これは部屋がかなり広くなる。
もういっそ、この本棚ごと入ってくれないかな、バッグを手にそう思うとすっと本棚が消えた……これはまさか! ベッド、ソファ、テレビ、テーブルと全部消えてしまった。おぉ! これはすごい! すごいけど、どうやって出すの? テーブル戻してと思いながらバッグに触れてみる。すっと出てきた。これは便利だ。でも、色々入れたら何入れてたか分からなくなるなぁ……どうしよう。
試しに、バッグに何入ってるか教えてと語りかけてみたが何にも反応はない。バッグに話しかける人とか、確実に変人認定をもらいそうである。便利だけど、扱い方がイマイチだ。昨日のことが夢じゃないならおっさんは今夜も来るのだ。その時ちょっと聞いてみよう。って、あれ?
「異世界に行くってのもマジか。〈幻の酒〉欲しさに行くとか言っちゃったんだった……」
どうしよう、異世界とか行ったことない。行ったことある人なんて聞いたこともないけど。詳しい人なんて……いないよね?
もんもんと考えていたら、お腹がぐーっと鳴った。よし、まずは腹ごしらえだ! ご飯食べに行こう。何も入ってないような軽いバッグを手に、すっかり広くなった部屋を後にする。
散歩がてらと思っていたけど、お腹が空いてしまったので足早に近所の喫茶店に来てしまった。
たまに来るのだが、サイフォンで入れる珈琲は濃厚で美味しく、昔ながらのナポリタンや日替わり定食なんかもあって、良い喫茶店だと思う。
ちょっと強面の、グラサンが似合いそうな店長に挨拶しつつ、カウンター席に座る。今日の日替わり定食は、ホットサンドらしい。具はなんだろなと思いつつ、それを珈琲とセットで頼む。
異世界とかよく分かんないけど、何か情報はないかなーっとスマホで検索してみる。ネット小説ばかりがヒットする。今から読む時間はないなぁ。
……あ、なにこれマニュアル本とか出てる。本屋さんにあるかなぁ? 小説によく出る現代知識のまとめとかもあった。あ、私が行く異世界ってどういう世界なのかよく分かんないじゃん。えー、生活レベルとかどんなんなんだろ? もう少し異世界について聞いておけばよかった。
「ほい、ホットサンド。珈琲は食後でええか?」
「うん、ホットでね」
「なんや、調べもんか? 今日は勉強はせんでええんか?」
「いやーちょっとねぇ。 今度の試験はまだ先だから、勉強はこれからだねー」
「じゃあ今夜あたり一杯行くか? 天六に気になる店ができよってな」
「ごめん。今日は予定があるんだよ、また今度誘って!」
「そうなんか、ほなまた今度やな」
そう言いながら店長は珈琲の準備を始めた。店長は飲み仲間の一人である。喫茶店とは言え、飲食店の店長が気になるお店だ。気になるなぁ……と思いつつ、ホットサンドを食べてみると。
「んー! 美味しいね、チーズってチェダーだよね? トマトソースの酸味と鶏肉も合うね! てか、オリーブが入ってる。イタリアンちっく!」
「たまにはシャレオツな料理もええやろ。若い女性客も欲しいんや」
「店長……味はそもそも良いんだよ。でも、店長の見た目がねぇ」
「そりゃ、俺の顔は強面やけど! ここの客層、ほとんど近所のおっさんとおばさんばっかなんやって!」
「まぁまぁ、味は美味しいんだし、いつか若い女の子達も来る日もあるかもしれないよ」
「それ。あるんかないんか、微妙やんか」
店長は肩を下げながら珈琲を作り始める。サイフォンは見てて面白い。ホットサンドを食べてしまう頃に、ちょうど珈琲も出来上がった。
この店オリジナルブレンドの珈琲を飲みつつ、スマホを眺める。異世界に行った人の話なんてのもあったけど、あまり参考にはならなそうだった。
「店長さ、異世界に行くってなったらどうする?」
「はぁ? 異世界ってなんだよ。俺は大阪が好きやから外国どころか他県にも行くつもりはねーな。まぁ、京都や兵庫なんかに遊びには行くか」
「いや、異世界だよ、異世界。こことは違う魔法の世界的な」
「よう分からん世界やな。魔法ちゅうのはあれか? 杖振ったり、ほうきで飛ぶんか? 俺やったらお断りやな!」
「そうだよねー、普通はそうだよ。うーん……じゃあ、無人島に行くってなったら? 何欲しい?」
「今日は変なことばっか聞いてくるな。短い間やったら、食料とかライターとか、水とかいるんちゃう?」
「すっごい長い間だったらどうする?」
「……種とかか? 食料は大事やろ。ま、農業なんてしたことないから本とかも必要やけどな。」
「確かに、食料は大事。美味しいもの食べないと元気でないし。お酒飲まないと死んじゃうよねぇ」
「いや、酒は飲まんでも死なんやろ! ま、食料だけ合っても、調味料とか道具とかもいるから、無人島に遭難とかしたないなぁ……」
「そうかー、無人島で生きるのってほぼ無理だよねぇ」
はぁ、とため息が漏れる。無人島ですら生きられる気がしないのに、魔物のいる世界ってどうなんだろ。でも、人はいるんだから食料とか水の心配はないのかなぁ。
「何に悩んでんのか知らんけど、これサービスしたるわ」
と、店長がバニラアイスをくれた。
「ありがとう! 店長、若い女の子に来てほしいなら、これにエスプレッソかけたアフォガードとかやれば良いじゃん。女の子はスイーツが好きでしょ!」
「エスプレッソかぁ、俺サイフォンが一番好きなんやけど。考えてみるわー」
アイスを食べ終え、お腹も満たされたので本屋さんに行くことにする。行けば何かしらヒントがあるかもしれない。会計を済ませて、外に出る。
神様が来るまで、およそ十四時間。準備間に合うかなー。
天六:大阪北区にある天神橋六丁目の略称
関西育ちではないので、関西弁に違和感があるかもしれません。
そっとご指摘下さい。