スター・インベイド
彼女は月の裏側に憧れる少女であった。・・月の裏側に憧れる火星人の少女であった。しかしこれは、彼女を擁する一大種族の存在が火星に確認された世界線の物語というわけでもなく、彼女の父親も母親も、標準的モンゴロイドの、・・つまり地球で種を繋いできた一族の遺伝子を有していた。・・はずだ。直接確認はしていないが、一般的にその例を外れる人間などいない。
彼女がなぜ月の裏側にこだわるのか。そしてそれは、なぜ最も合理的な順序ではないのかはよくわからない。彼女が自ら言う通りに火星の出身だとするならば、そもそもの始めから地球を介せず自身を直接に月面へと送り込むコースを計算すればよかったのだ。その方がずっと話が早い。けれども とにかく彼女は地球へやってきて、その表面から月の裏側に到達することを考えていた。彼女が酒を飲んで夜の空を眺める横顔は、そんな消失大陸的ロマンチシズムを含んだままの微笑みで、街灯や星空からの渾然となった淡い光に照らされていた。僕はその時、彼女がそのような妄想的野望(あるいは野望的妄想)を宿しているとは知らなかった。公団施設の屋上を開放した、ちょっと時期の早い特設ビアガーデン会場で、月に一番近い柵にもたれながら彼女が不思議な微笑みを浮かべているのを偶然に覗き込んでしまっただけだ。余計なものへ首を突っ込むには、その初めの瞬間がある。今回のケースでいうと、それは僕が彼女の横顔の美しさを発見してしまった、実にこの瞬間なのだということになるだろう。
「非・非所属」
僕と彼女は大学の同じサークルに所属していた。そのサークルの名前を「非・非所属」という。この不思議な名前のサークルが設立された背景には、10年ほど前に起きた部活・サークル間の過激な派閥闘争がある。ある年度、生徒会の決定によって、部・サークルの予算配分の変動幅が構成人員の数に大幅に依存する算定方法が取られた。その変更は一見公平に見えたが、後にそれは新入生勧誘を激化させ、そのエネルギーの一部は非所属を希望する新入生を激しく非難するという歪んだ暴力性を生んだ。その時とある新入生が、「他の学内集団への非所属の維持を活動内容とするサークル」の新設を申請したのである。このような屁理屈然とした団体の設立が許可された理由は実に単純で、件の創設者が美しい女性であり、その美貌で生徒会長以下幹部数名の男性陣にガッチリと取り入ったためだ。猛反発した3年女子の「会計」は任期中に生徒会を追放された初めての役員として名を残すことになった。まだ辞書には載らない日本語だが、こういうものを「エグい」という。
斯くして五月中旬に設立された新しいサークルは、上級生のしつこい勧誘と非難に嫌気がさしていた一年生を大きく取り込み、活動内容なしの一大勢力となった。不気味だ。しかし経過からすれば理屈は通っている。人間の集団は、なまじ他の生物よりも明確で虚構入り乱れる意思表示の応酬が起きるために数奇な変革結果を生むことがある。これは歴史上、国家規模でも度々証明されてきた事柄だ。他の部・サークルに所属する上級生が「非・非所属」の存在を非難すればするほど、後にもその人数は着実に増加していった。サークル代表の名義はすぐに変わり、件の美人新入生は学業に注力して生徒会とは二度と関わりを持つことがなかった。組織は利用されたのである。一度人数を集めたサークルは、それ自体強力な生物個体のような防衛性、自己保存性を持ち、生徒会が設立許可を取り下げることも叶わなかった。
年月が経って僕らの代になると、「非・非所属」のそのようなメッセージ性や確執の跡は薄れ、せいぜいが「学内随一の非方向性サークル」という平和な集団に落ち着いていた。僕と彼女はそのような集団に共通して属し、しかし具体的な活動などめったにないために、今まで接点を持たずにいたのだ。件のビアガーデンも、予算消化のために間に合わせで開かれたイベントだった。参加人数はサークル員全体の2割。これは奇跡的大数であった。
ビアガーデンの翌週、僕は講義間の空いているコマを学校のそばの喫茶店で過ごしていた。学内のそういった施設は往々にして騒がしい。だから僕は入学早々に、学校の外にこのような場所を確保した。大通りから古い家屋ばかりの狭い路地へ入ったところにある、四つ眼の・・分割レンズのキツい老眼鏡を掛けた(正面から見ると目玉が四つあるように見える)マスターが一人で切り盛りする(挽き注ぎする?)昔ながらの喫茶店だ。氏が特別に暇な時は、少しばかり言葉を交わすこともあった。
「昔はこっちの方までやってくる学生さんもたくさんいたんだけどね、今は中の方がオシャレで用も足りちゃうでしょ。こういうのを、なんだったろう、人間や施設のソ、ソフトステーキじゃなくて・・」
「ソフィスティケート?」
「ああ、それだね」
「・・柔らかいステーキを出す店を一つ知ってるといいかもしれませんね。女の子が喜ぶかもしれない」
そのようなとりとめのない話だ。
急ぎのレポートや資料整理もなく、僕はコーヒーを飲みながら本を読んでいた。救世主を引退した男が古い飛行機に乗って放浪する話だ。野原の真ん中で何度か料理をする細かい描写が良い。古くなったソーセージをスープで煮詰めて腹を壊すとか、自慢の即席手作りパンは絶世のマズさだとか、そういったもの。
本を読んでる間に何人か客の入れ替わりがあった。といっても、2-1、・・+1 といった程だの緩慢な算数である。僕が顔をあげたとき、近くの席に女性が一人座っていた。それは先日のビアガーデンで僕が見つけた美しい横顔の持ち主であった。
「あ」
僕は思わず声に出してしまった。精神の弛緩だ。講義中に気を抜いて涎を垂らすのに似ている。彼女は僕に振り向いた。四つ目の老人はカウンターの奥でコーヒーを淹れている。垂らした涎は戻すわけにはいかない。
「ねえ、あなたは『非・非所属』のメンバーじゃなかった?」
僕は体裁を取り繕うためにそこまで言い切った。
「そうです。どこかで会いましたっけ?」
彼女はとてもハキハキと喋った。それが僕と彼女の初めて交わした言葉だった。彼女は活動的でサッパリとした格好をしていた。他に客がいなかったので、僕と彼女は少し離れた距離のまま話を続けた。
「先週のビアガーデン」
「ああ、あの」
この言葉こそ短いものの、彼女の方からは決して邪険にするような感じはなかった。前はもう少し大人びて見えたような気がしたけれど、それは昼夜の光の違いから自然に生じる誤差の範囲なのかもしれない。彼女はテーブルの上に大きな本を広げていた。写真付きの図鑑本に見える。
「あー・・、調べ物の途中で悪かったね」
「いいえ、気になったものはすぐに確かめるのはよい心掛けだと思います」
彼女はまたハキハキと言ってから、視線を図鑑の中に戻した。砂漠か何か、赤い地表の背景写真のようなものが、そのページには見えたような気がした。僕はすぐに本の続きに戻ろうとしたが、なんだか上手くいかなかった。講義の始まりには少しばかり早かったが、僕は席を立った。店の客は、まだ僕と彼女だけだった。僕は去り際彼女に言った。
「じゃあ」
「ええ、また会いましょう」
彼女は短く顔を上げて言った。なんだか不思議な感じがした。何かを許されたようでもあれば、ある種の緊張を契約的に強いられたようでもあった。
その日から、僕らは学内で顔を合わせれば軽く手を振ったりした。僕らの共通点は「非・非所属」などという団体に進んで入ろうとすることだ。廊下で、食堂で、図書館で行きあう時に、どちらかが友人と連れ立っていたりすることは一度もなかった。
ある日 午後イチの講義の時間にあたる空きコマに僕が食堂で定食をつつきながら本を読んでいると(行儀が悪くて失礼)、彼女が斜向かいにやってきて聞いた。
「ここ、いいですか?」
「うん。いいよ」
読書半分だったため、僕は相手が誰かよく確認もしなかった。見やると非・非所属の彼女が椅子を引くところだった。彼女はボタンの列の両脇に飾りが付いた滑らかな生地のブラウスを着ていた。襟に少し重なるようにしてブローチをつけている。その柄は、南国の青空の中に雲が巻くような、見てるとそこから風が吹いてくるような美しいものだった。
「綺麗なブローチだね」
すると彼女は寂しそうに笑った。
「・・ありがとう」
彼女の指が、その南国の空のブローチを撫でた。ブローチに光の射す角度が変わると、空は微妙に翳ったり照ったりした。ヤシの葉の影が目元を撫でているみたいに。僕は彼女に聞いてみた。
「何か悲しい思い出の品なの?」
「違うちがう。そうじゃないんです」
彼女はカラリとした顔で、僕の説を伏した。
「今夜ちょっと楽しみにしてた予定があったのだけど、それがパァになっちゃっただけです。そのための、まあ これはオシャレだったのです」
彼女は食堂のサンドイッチを食べながら、僕は本を閉じて定食を食べながら続きの話をした。本を読みながらだったので、白米が少なく、おかずの煮魚がまだたっぷりと残っていた。塩辛くなりながら、僕はそれを食べた。彼女は言った。
「今日は一人でプラネタリウムを見にいく予定だったんです。ところがサイトに、機械の故障による臨時休業の知らせが出ていて。夕方からの予定が狂っちゃったわ」
僕はプラネタリウムのドレスコードを知らない。あるいは、その規模によってふさわしい格好が変化するのかもしれない。
「大きなプラネタリウムなの?」
「千万クラス」
センマン・・。僕にはそれが何を表す数字なのか解らなかった。彼女はそれを見て取り、説明を続けた。
「映し出せる星の数。その大小が、大体の目安になります。千万は中の上くらいです」
「へえ、プラネタリウムかぁ・・」
僕は自分がプラネタリウムに行ったことがあるか思い出そうとしたけれど、それはうまくいかなかった。公民館の小さなホールで見た短編映画のことを思い出したが、それは今関係ない記憶の引き出しである。
「最近は内容も凝っていて、なかなか面白いですよ」
「好きなんだね、プラネタリウム。今日は、残念だったね」
彼女は一つめのサンドイッチを食べ終え、食事に使ってない方の手で髪の先をいじった。僕は定食を食べ終えてそのトレイを5センチほど奥に押した。
「じゃ、オレと出かけようか。ヒトから教えてもらった店で、ステーキ食べようと思ってたんだ」
そう。喫茶店のマスターは街に住む年季が違うので、柔らかいステーキを出す店の、実際の場所もちゃんと知っていたのである。僕はそれを教わっていて、そのうち試そうと思っていたのだ。彼女は頭の中で何かと何かの長さを測り、それを組み合わせると別の何かに届くかどうかを計算しているような顔になった。僕は言った。
「大丈夫。紙エプロンくらいきっと貰えるさ」
彼女は自分のブラウスに視線を下げ、そして笑った。
「あなたは優しい人みたい」
「はっは。分からないから用心しな」
僕と彼女は学校からバスに乗って、そのステーキ屋に行った。店は頗る具合が良かった。少しばかり値は張るが、それは正しいことだった。僕たちは市場原理をある程度理解し、それを守るべきだ。
そうそう、紙エプロンではなく、ちゃんと布のナプキンが付いた。彼女はそれを、映画の中で金持ちの白人がそうするように襟から胸へ掛けた。僕はそのナプキンの使い方を初めて実際目の当たりにしたわけだけれども、あんなにエレガントな雰囲気が出るものだとは思わなかった。感心して肉を食べた。僕が全部の勘定をしようとすると、彼女は強固にそれを辞そうとした。
「いけません。わたし達は対等な関係なのです」
「じゃ『持ちつ持たれつ』といこう。次の店は払ってよ」
結局はその論で僕が会計をし、それが済むと彼女と二人で店を出た。まだ時間は早かった。
「ご馳走になりました。これからお茶に付き合ってください。ビールも飲める店を知っています」
「お、きみは江戸っ子か」
宵越しの云々・・。
「いいえ、わたしの出身は火星です」
冗談だと思った。
彼女が行きつけだという薄暗いカフェへ行ってからも、その出自に関する不思議な話は続いた。
「わたしに自我が芽生えたのは、火星に掘られた水路の底でのことでした。もちろん底は乾いています。それからわたしは地球に移り、そして今は月の裏側に行きたいと思っているのです」
僕はビールを飲みながら話を聞いていた。彼女の話はそこで途切れ、僕に何か言うのを求めているようだった。けれどまだ、話が僕の知識・経験の海の中で相対的にどのあたりにあるのかがうまく掴めなかった。
「土星生まれと金星生まれの人と話したことがある作家を知ってるよ」
「あの話はフィクションの要素が強いです」
博識だ。彼女の頭の中は、その作家の話も込みでずいぶんスッキリと整理されているようだった。
「要素が、強い? まったくのフィクションではないということ?」
「描かれた時点で実在の物語です。そしてそれは、絶対に何かしら現実的な素材を伴っているはずなのです。実在するものは共有でき、実在しないものは共有できません」
彼女の言うことは、一つの確立したテーゼとして僕に理解できた。オムライスは一般的にトマト料理には扱われないが、トマト料理としての要素は実際に含んでいると言うことだ。
「火星からやってきて、月への経由として地球に存在しているわたしは、わたしの意識の中に実在するのです」
今僕らがしているのは物語の共有なのかもしれない。ガラスのトランプタワーのように脆い物語だ。僕は言い方を選んだ。
「面白い話だ。ネルソン・マンデラの生涯記みたいに」
実在感がポイントなのだ。自分で言葉を作ってカルア、僕にはそれが理解できた。彼女はそれに満足したようだった。話を続けた。
「月の真裏には、ダイダロスと名付けられたクレーターがあります。そこが、私の夢見る月の裏の世界なのです」
僕はその話の真意を、手触りを注意深く確認しながらビールを飲み続けた。三次元生物は四次元的世界の概観を捉えられな胃が、しかし不確かななりにも方向性を見極めようとするのは無駄ではない。それはまるで、精度の悪い原始的な魔法で未来を覗き込むような感じだ。最初の望遠鏡も、おそらくはそんな感じのするものだったのだろう。僕は彼女の話を聞きながら、海がもっと広かった時代、空がもっと遠かった時代、まだどこかに未発見の大陸があった時代の人々の心に少しずつ同化していくような感覚を得た。これは音楽みたいだな。その夜、不思議な音楽は遅くまで続いた。
彼女の不思議な話を聞いてから、僕は月や星を前より低いところで光っているように感じた。それは僕が、月の裏のダイダロスを意識するようになったからに他ならない。言うなれば、あちらではなく僕の意識の方が月や星に歩み寄っているのだ。彼女の月軌道遷移ほどではないにしろ、僕も意識の位置がほんの少し地表を離脱しつつある。
このような仮想実験がある。密閉した箱に鳥を入れ、それを計りの上に乗せて重さを常に表示させる。鳥が羽ばたいて宙に浮くと、計りの表示は鳥の重さ分軽くなるか、というものだ。現実的には、この実験は様々なノイズを受けて持続的な数値を見ることができない。しかし、思考実験的にもし鳥が綺麗なホバリングを続けたとすると、計りの表示は鳥と箱の重さの和を示し続けるらしい。鳥の周囲の空気が、その羽ばたきの強さの分だけ下向きの力を発生するためだ。その力は箱の壁等に分散するが、それで結果的には計りを押し付けることになる。
僕が影響を受けているのはきっとそのような力だと思う。彼女に接したことで、月軌道を目指す彼女の精神エネルギーが、それに触れた僕を地表から持ち上げようとしているのだ。だからその分だけ、星が近くなった。
僕らの仲は、結局それ以上進展することがなかった。互いに非所属で、互いに非接触であり続ける力も、また同時に働いているのだ。僕らは「非・非所属」だから。けれども僕に分け与えられた反重力指向はその後も働き続けている。月の裏の呼び声が、まだずっと聞こえているのだ。
「◯◯さん、体重は何キロですか? ・・え、意外に軽いんですね」
「月の裏が僕の体を引っ張ってるんだよ。今もずっと ね」