人魚の涙 〜bar Ryuguへようこそ〜
グスッ グスッ
「ああ! もう! いいかげん泣きやみなさいよ!」
「だってぇ」
娘の目から大粒の真珠がポロポロこぼれ落ちた。はじめは貴重な人魚の涙と喜んでいた乙姫だが、こう数百と流されたら、希少価値も何もあったもんじゃない。
「あんたは仮にも人魚の姫でしょう? しっかりしなさい!」
「で、でもわたし、末娘だしぃい……」
ここは海の中。
バーRyuguのママ乙姫と急な来客の人魚姫が、ガールズトーク|(?)のまっただ中だ。
「いい? 男なんてミジンコほどいるの。たった一人に振られたからって、びゃあびゃあ泣くんじゃないわよ」
グスッ グスッ
「あんたくらい可愛ければよりどりみどり、選びたい放題でしょう」
グスッ グスッ
「悪いことは言わない、次の恋をして忘れなさい」
「ゔっ〜〜〜…………。だっで、ブンベエの人だんだぼん」
「何が運命よ。再会しても気づかれなかったんでしょ? そもそも海で拾ったって、そこらに落っこってるガラス瓶とそいつ、何が違うのよ」
グスッ グズッ ズーーーッ
人魚姫が姫らしからぬ音を立てる。目元だって、腫れて真っ赤だ。
「人間だもん。王子様だもん」
……ダメだこの子。今日は営業をあきらめて、つきあうしかなさそうだ。乙姫は大きなため息をついた。
目の前の娘は若く、まだ乙姫の半分も生きていない。若い女は厄介だ。未熟で世間知らずで向こう見ずで単純、そしてとても傷つきやすい。
乙姫は店先に《臨時休業》の札をかけると、鯛とヒラメに暇を出した。ふたりとも、撤回されてなるものかというように、ぴゅーっと泳いでいってしまう。エネルギーの塊のような若者たちは、きっと以前の乙姫のように、朝まで遊び倒すのだろう……。
「昔、あたしも人間の男に惚れたことがあってね――」
店内に戻った乙姫は人魚姫に向き直ると、つらつらと自分語りをし始めた。
「浅黒細マッチョの、ちょっといい男だったのよ。手練手管尽くして海に誘って、たいそう丁寧にもてなしたの。でもそいつ、散々いい思いをしたあとで、故郷の母さんが心配だからって出てったからね。笑顔で送り出すフリして、まあしっかり仕返しはしたけど……あのマザコン野郎ッ!!」
「おとママ……論点ずれてるぅ」
「ずれてない! とにかく人間の男なんてロクなもんじゃないの! やめときなさい!」
人魚姫は慰めの甲斐なく、ずびずびと泣き続けた。乙姫の昔語り作戦、失敗だ。
一人の男に執着するより、複数の男から追われる女になる。それが乙姫の美学だった。そんな乙姫がいくら欲しくても取り戻せないもの――あふれる若さをこの娘は持っているというのに、本当にもったいない。
「いい人なら海にいくらでもいるわよ。あんたは半魚人なんて不細工だと思っているかもしれないけど、男は見た目じゃないからね? 心意気よ?」
「別に思ってないけど……」
“じゃあ半魚人でいいじゃない”という言葉を、乙姫は口の中で飲み込んだ。せっかく涙がおさまってきたのに、また「王子がいい」とぶえぶえ泣かれたらたまったものじゃない。まずは人魚姫の緊張をほぐして、話を聞くことだ。
——意外と面倒見いいんだよな――
そう言ってくれたのが何人目の彼だったか、乙姫はもう忘れてしまった。
「でも、なんで人魚って女と男、こうも見た目が違うのかしらね? 女のほうが美しくないといけないって決まりはないのに。あれ、上半身にまで鱗があるのが問題よね」
「けなさないで〜。お兄様が泣いちゃう」
「半魚人の涙なんて、何の価値もないわ」
「ひどぉい」
少しリラックスしたのか、人魚姫の頬に笑みが戻る。泣いてさえいなければ、本当にかわいい、愛らしいお姫様なのだ。
乙姫は人魚姫の体をまじまじと眺めた。つやのある髪。整った顔。形のいい胸。きゅっと締まったくびれ。そして細く伸びた、脚——……。
「それにしても、人魚は引き締まった尾びれが一番セクシーなのに、足なんかにしちゃったのね」
「いいの。これが王子の好みなんだから」
人魚姫がぱたぱたと不格好に足を動かすと、小さな渦が起こって床の砂が舞った。
「素の自分を受け入れてくれる相手じゃないと、のちのち苦労するわよ?」
「いいの! 王子のためなら苦労したいの!」
あらそうですかと呆れるように、乙姫は細くて白い脚から目をそらした。
今の乙姫には、人魚姫のまっすぐな思いがまぶしすぎる。この恋はまだ稚魚の、甘くて苦い初恋だ。乙姫にとってそれはもう遠い遠い過去の、思い出せない思い出だった。
脚、月、王子、海水と淡水の差、死、結婚、コルセット、キス、靴ずれ、銀の剣——。人魚姫は、ぽつり、ぽつりと事情を語り始めた。放っておくと話があちこちに飛ぶので、乙姫はツッコミと軌道修正に一苦労だ。
「文字通り、命がけの恋ってことね。それで、あんたはどうしたら助かるわけ?」
「王子様と……キスする」
「そんなの、奪えばいいじゃない」
「無理矢理じゃダメなんだよう! 思いが通じ合った、真実のキスじゃなきゃ」
「じゃあもし運命の相手じゃなかったら、キスしても死んじゃうわけ?」
「運命の人じゃなきゃ、キスできないよう」
「んなわけあるかい」
無情なツッコミに、人魚姫が膨れっ面を返した。まだ幼い、夢みる少女の顔だ。だからこそ海の魔女につけこまれたのだが。|(あの女の怪しげな商品は、今時タコも壺だって買わないのに)
「じゃああんたが生き延びるには、その王子と恋に落ちて、キスするしかないのね?」
「もうひとつあるけど……」
「何」
「それだと彼を殺さなきゃならないの」
「なんだ。そっちのほうが簡単じゃない」
「ママ!!!」
「あーうるさい! あたしは耳がいいんだからね。あんた、あんまり騒ぐと人魚肉として売るわよ。不老不死って聞くし、高値がつくわ」
ひっ、と息をのんで、人魚姫が押し黙る。
「冗談冗談。ユーモアの通じない子ね」
「……おとママが言うと本気にしか聞こえない」
人魚姫が小声でぼやいたが、乙姫は聞こえないフリをしてあげることにした。でもこれ以上失礼なことを言ったら、メニューに書き加えてやると心に誓う。
「そもそも、その“人間の王子様”とやらのどこがいいのよ」
「全部♡」
「あー、そういうウザいのいいから」
「初めて会ったとき、ビビビってきちゃったんだもん」
「古っ!」
「古いって何!? 王子様はかっこいいし〜、たくましいし〜」
「内面は?」
「いい人だと思う」
「思う?! あんた“思う”ごときに命かけてんの?!」
「普通に優しいよ?」
「そりゃ誰だって、利害がからまなきゃ優しいもんよ」
自分に余裕があるときは、誰だって人に親切にできる。
いざ窮地に立たされたときに、愛する人を守り抜けるか、他者のことを思いやれるか、それが男の価値を決めると、乙姫は思っていた。浦島はといえば……言うまでもないことだ。
「命の恩人のこともすっかり忘れてるような薄情者、いい父親にならないわよ」
吐き捨てるように乙姫が言うと、人魚姫は意外、という表情を見せた。
「おとママ、子どもとか考えるんだ」
「そりゃあ、あたしにも母性くらい……って、あたしのことはいいの!」
ここまで人魚姫のつたない説明をつなぎ合わせて、乙姫はなんとか状況を理解してきた。思った以上に深刻な、命に関わる案件だ。でもそんな緊急事態に、なんだって本人はこんなところにいるのだろう?
「あんた、あたしのところに来たってことは、何か頼みがあるんでしょ」
「そう! おとママのモテ・テクニックを伝授し——」
「却下」
頼む前から食い気味に断られて、人魚姫はこれ以上ないほどがっくりと肩を落とした。
乙姫がちらりと目をやると、人魚姫の左腰では、姉たちから受けとったらしい短剣が冷たい光を放っていた。やわらかそうな肌にまったく似合っていないその剣が、妙に生々しく色めいて見える。人魚姫の家族は王子の死を望んでおり、彼の結婚式は近づいている。彼女にとってはこのバーが唯一の頼みの綱なのだ。
“真実の愛をつかまなければ、自分か相手のどちらかが死ぬ”――。何がこの子をそんな悲しい境遇に追いやったのか、乙姫にはわからない。
でも、これだけは確か。若い娘が、恋愛なんかで身を滅ぼすことはない。女の子は笑って、食べて、おしゃれしていてくれなくちゃ。乙姫は、恋の波に溺れてしまった不器用な人魚が不憫だった。
「つまり、婚約者のいる王子の気持ちを、あんたへ向かせればいいのよね?」
「出来るの?!」
「報酬に、この涙全部もらうわよ」
「どうぞどうぞ! いくらでも!!」
「言っとくけど、あんたがウザいから協力するだけよ。人間なんて別にいいもんじゃない。成分は、ワカメや昆布とそう変わらないんだからね」
人魚姫は大きく頷きながら、ぼろぼろと真珠をふりまいて喜んだ。
あれから六ヵ月。今日は人魚姫が海へ里帰りする日だ。久しく会えなくなったけれど、こちらに来る時はいつも真っ先に立ち寄ってくれることが、乙姫は嬉しかった。
「その節はお世話になりました〜〜♡」
人魚姫は来るたびたくさんの土産を持ってきたが、どんなに高価な財宝も、あの真珠の美しさにはかなわなかった。こっくりとまるい、白い石。まるで、希望の光を中に閉じ込めたような――。現在Ryuguは、あの日もらった真珠の輝きにあふれていた。
「でも、あのときおとママ何をしたんですか? わたしはいつも通りにしてただけなんですけど……」
「王子なんかじゃ物足りないって、女の方から婚約解消させたのよ。人間の男の魅力が、あたしにかなうわけないじゃない」
「え、じゃあ――」
「ン十年ぶりに男の格好なんかしちゃったわよ」
乙姫のウインクを真正面から受けて、人魚姫は赤面した。本気モードの乙姫の口説きにクラクラしない女性はいない。からかっちゃいけないわね、と乙姫は視線を荷物へ移す。
「その泡何? それもお土産?」
「ちっ、違います!! 赤ちゃんです!」
「…あか…ちゃん……?」
「海でも息できるように、気泡で包んできたんですけど……。エヘヘッ、超早産ってみんなにビックリされちゃいましたあ」
ビックリですんだならいいけれど……。人間界の事情を知る乙姫としては、複雑な気分だ。きっと地上では出産前、いや〜な空気が流れたに違いない。でも素直な人魚姫のこと、イヤミに気づかず天然パワーではねのけてしまったのだろう。
それでいい、と乙姫は思う。しぶとく、図太く、少女は女になるべきだ。王子の子だということは、誰より人魚姫が知っている。
「男の子なんですぅ♡ 彼もわたしもメロメロで」
「おめでとう。幸せそうで何より」
そう言って、乙姫は眠っている赤ん坊をのぞき込んだ。
「王子はこの子のこと……?」
「もう妬けちゃうくらい溺愛して、毎日チューの嵐ですっ♡」
「そう……」
乙姫の口元に微笑みが浮かぶ。
「もしかすると人間も、そう悪くないのかもしれないわね」
「え?」
「ううん。かわいい子ね」
「ありがとうございます! よかったら抱いてみてくださぁい」
人魚姫から手渡された生き物はくにゃんとやわらかで、乙姫はなんだか泣きたくなった。小さくて頼りなくて、確かに大切だと思える存在。そんなものがこの世にあることを、長い間忘れていたようだ。
乙姫は赤ん坊を抱きしめると、あぶくまみれの額にやさしくキスをした。
胸に抱かれ、くすぐったそうに笑うその子の顔には、びっしりと瑠璃色の鱗が生えていた。