Ⅲ
◆◇◆◇◆◇◆◇
川の中は、ものすごく激しい音がした。
苦しい、苦しい、誰か、助けて…。
まだ、死にたくない…。
恐怖が僕を埋め尽くす。
辺りに暗闇が広がり、次第に音が遠のいてゆく…。
◆◇◆◇◆◇◆◇
最近の初音の食事は、コンビニにお世話になっている。
夜遅くまで開いているし、デザートだって色々ある。
しかも、学校からの帰り道は二軒もあるのだ。
新商品のチェックは欠かさない。
最初は自炊もしていたが、一人分だけ作るのは、不経済だとわかった。
野菜が半分しか使ってないのにダメになってしまう。
多い時で家族六人分の食事を作るのを手伝っていたで、分量の違いに戸惑ってしまった。
一人の量のなんと少ないことか。
こんなところでもホームシックを感じていたら妹からメールがあった。
お婆ちゃんが倒れた。
しばらく入院することになったので都合のいい時にお見舞いに来て欲しいとの事。
幸い、命に別状は無いようだ。
お婆ちゃんには来ることを知らせず、驚かせて元気になってもらいたいとある。
妹もなかなか気が利くではないか。
父方の祖父母は、とっくに亡くなっていたので、このお婆ちゃんは母方の「愛のあいさつ」で口説かれたあのお人だ。
幼い頃、その話を聞いてピアノが習いたくなった。
だけど母は渋った。
「うちにピアノは無いから練習できないでしょ。ピアノを買うにも高いからダメ。」
その母を説得して習うことの承諾をつけてくれたのも、少ない年金をこつこつ貯めて、ピアノを買ってくれたのもこのお婆ちゃんだった。
今の私があるのもお婆ちゃんのお陰であると言っていい。
そのお婆ちゃんが入院したと聞いて心配だった。
今度の休みに帰ってみよう。
元気をだしてもらう為に励ましてこよう。
タマキに相談すると、モデルはいつでも出来るから行ってあげてと心配してくれた。
当日は駅まで見送りに来てくれた。
「こっちに帰って来る時は連絡ちょうだい。迎えに行くから。」
「夜行で帰ってくるかもしれないですよ。明け方になるかも。」
「それでもいいから、ね。」
タマキは改札で荷物を初音に手渡しながら、じゃ、気をつけてと手を振った。
「行ってきます。」
初音も笑って手を振った。
久しぶりに帰った実家は、懐かしい思い出と相変わらずな両親と少し成長した妹が待っていた。
私の担当だった洗濯物を畳むのも、お風呂の掃除もしてるのだとか。
残念なのは、私との共同の部屋は完全に妹の部屋に様変わりしていた事だ。
ちゃんと、服とベットは残してあるじゃないのと、言われたけど。
ベットはもともと二段だし、洋服ダンスも無くなってたら、この家に私の居場所が無いよ。
妹のタンスを開けてみると最近、服の好みが変わってきている。
しゃれっ気でも出てきたようだ。
女の子らしい服も何着か入っていた。
以前は服なんて構わなかったのに。
「あんた、彼氏でも出来たの?」
「姉ちゃん、私もそれ聞こうと思ってた。誰かいい人できたの?」
妹と顔を見合いながら、お互い噴出した。
いい人か…。うん、最近は楽しい事が多い。
その夜は妹と二人、夜遅くまで色んな事を語り合った。
翌日、一日だけ病院から帰宅を許されたお婆ちゃんが家に戻ってくる事になった。
家族の計らいで、孫が帰ってきているのを内緒にして、驚かせる計画だ。
当初は病院にお見舞いに行くつもりだったが、お婆ちゃんの経過もいいので事前に変更した。
お父さんの運転する車で家まで着いたお婆ちゃんは、やっぱり我が家はいいねぇと目を細めている。
ゆっくりゆっくり玄関まで入った。
「おかえり。」
母と妹が笑顔で迎えてくれた。
「ただいま。」
お婆ちゃんも笑顔だ。
その時、奥の部屋からピアノの音が流れてきた。
「愛のあいさつ」だ。
お婆ちゃんは、おや?、という顔になる。
母と妹は笑っている。
驚きと嬉しさで一杯になり、お婆ちゃんは奥の部屋まで急いで行った。
ピアノを弾く孫娘とダブらせて見える景色がある。
その人は優しく微笑んでいる。
あの時のあの人の…。
孫娘はこちらを見て笑った。
「まぁまぁ、初音、帰ってきてたの!」
「お婆ちゃんが、入院したって聞いたから心配でね。でも、元気そうでよかった。」
お婆ちゃんは少し涙ぐんでいた。
「あなたも、元気でいた?ちゃんと食事はとってるの?でも、まぁ、よく帰ってきてくれたわ。」
「お婆ちゃん、私の心配してくれるの?」
初音は可笑しくて笑った。
「もう一度、あの曲を聞かせてちょうだい。」
大好きなお婆ちゃんのリクエストだ。
お応え致しましょう。
初音は鍵盤に手を置いた。
その夜、初音は幼い頃のように、お婆ちゃんに“あの”お話をねだった。
お婆ちゃんはニコニコしながら、少し遠い目をして語り始めた。
ほんのちょっと昔のことよ。
私はその頃高校を出て、職の無い田舎から都会に働きに来てたの。
お給料なんて少なかったから、家賃とか払ってたらあんまり残らなかったわ。
だから生活は貧乏だったわね。
でも、貧乏なんて苦にならなかった。
近くに図書館があってね。
月曜日がお休みだったんだけど、休日は開いてたからよく通ったわ。
本はいいわよ。
色んな、見たことも無い世界へ私を連れて行ってくれるもの。
恋愛も、詩も、探偵ごっこもみんな図書館で覚えたわ。
お陰で本は買わずに済んだから、助かったしね。
暇も潰せたし。
何より、日曜日はあの人が来るの。
その頃流行りだしたトレンチコートなんか着ちゃって。
何でも、詩を書いてるんだとか。
憧れは宮沢賢治らしいわ。
あんな、ステキな詩を彼も書くのかしら。
あ、あの人がこちらを見た。
急いで顔を逸らしたけど、大丈夫だったかしら?
あら、やだ、胸がドキドキしてる。
あん、もう帰っちゃった。残念ね。
また来週かしら。つまんないなぁ、なんて思ってたら、なんと、その人、私が帰る頃に図書館の外にいたのよ。
私ったら、すごく緊張しちゃって、その人の前でど派手に転んでしまったの。
泣きたかったわ。
痛かったからっていうのもあるんだけど、何より恥ずかしいじゃない。
その人、大丈夫ですかって、気遣ってくれてね、
それが縁よ。
災い転じて福となすとは、このことね。
私達、それから何度かお付き合いするようになったの。
楽しかったわ。いろんな所に連れて行ってくれた。
映画も何本も見たわ。
一番の思い出は、生演奏のお洒落なジャズ喫茶黒猫軒に連れて行ってくれたことかしら。
それまでジャズなんて聞いた事なかったから、感激したのを覚えてるわ。
彼はピアノ演奏者に頼んで、私の為にもう一曲弾いてもらったの。
ステキな曲だった。
でもね、ジャズじゃなかったみたい。
もう一度聞きたいと思ってたけどその時は曲名は解らなかった。
後で聞いたら、サティって人の“Je Te Veux”ですって。
訳すと「あなたが欲しい」らしいわ。
曲もステキだけど、タイトルもステキね。
そんな楽しい生活も一年ぐらいで終わってしまうの。
なんでも、彼の伯父様に不幸があって…。
伯父様はご自身で事業をなさってたらしいのだけど、伯父様には跡継ぎがいなかったから、彼が事業を相続するとか、しないとかで揉めたらしいわ。
急遽、実家に帰らなければいけない事になったらしいの。
暫くこっちに戻れないって聞いた時はショックだった。
彼のいない生活なんて、考えられなかったもの。
でも、ここでメソメソして困らせてはいけないわ。
だから、せめて最後は、と笑顔で見送った。
あの人ったら、後の手紙で、あの泣き顔が忘れられませんって、書いてあったけど、あれは、あの時、私の精一杯の笑顔なのよ。
でも、心には敵わないって事なのかしら。
それから、一年の月日が流れたの。
もう、さすがにそこまでくると、あの人は帰ってこないのかも知れないと思ったわ。
だって、3ヶ月も前から手紙の返事も来なくなったのよ。
寂しくて涙で枕を濡らした夜も数え切れないくらいよ。
会いに行きたかったけど、お金がなかったから叶わなかった。
だから、また図書館に通って本で気を紛らわす事にしたの、手当たり次第読んだわ。
ある日、本を返却しに行くと司書の方が預かったと言って封筒をくれたの。
中には見慣れた字で、こう書いてあった。
「黒猫軒という喫茶店で、7日、夕方5時にお会いしましょう。」
その日は7日。
私は急いでお店に行ったわ。
だって書かれていた時間は、とうに過ぎていたから。
お店に着いた時、時計は6時を回っていたの。
だから、いなくてもしょうがないって思った。
その店は9時までだったので取り敢えず中に入ってみたわ。
フロアを見渡すと一番奥にあの人がいたの。
にっこり笑ってた。
それから、ピアノの前に座って、弾いてくれたのよ。
あの、「愛のあいさつ」を。
私は、その時、曲名も知らなかったんだけど、メロディが心に染み込んで、気持ちが大きく膨らんで、今までの不安や、寂しさや、そして愛しさが溢れ出てしまったのね。
泣き出しちゃった。
あの人はそっとハンカチを差出して、こう言ったの。
「僕と、結婚してくれませんか。」
遠い昔を思い出しながらお婆ちゃんは、二人の孫娘の顔を見た。
どちらも、いい顔をしている。
こうして、家族みんなで食事が出来る喜びは何よりも勝る。
生きててよかった。
こっちは楽しいから、当分お爺ちゃんの所へは行かないつもりよ。
明日から病院へ戻らないといけないのが残念だけど、病気だから仕方が無いわね。
がんばって治してもらう事にするわ。
気になっていた孫娘の顔も見れた。
元気ももらった。
今晩はゆっくり休もう、いい夢が見れそうだわ。
ねぇ、あなた、あの時のように夢の中で一緒に踊ってくれますか?
初音は、明日お婆ちゃんが帰ったら自分も帰ろうと思った。
明後日には、学校にも行かなければならない。
モデルも長く空けて、タマキの課題作成に支障が出てはいけないし。
両親に帰る話をすると、二人は寂しそうにしたが、そうだねと言った。
翌朝、病院から迎えが着た。
お婆ちゃんを車に乗せた。
初音は、じゃあねと笑顔で見送った。
お婆ちゃんは、またも涙ぐんでいた。
「元気でやるのよ。」
車の窓から声を掛けられた。
それは、こっちのセリフだって。
はやく元気になって、帰ってきてね。
昼間のうちに、お爺ちゃんの墓参りに行き、色んな報告をした。
きっと、あの世でうんうんと聞いてくれてるのだろう。
お爺ちゃんのあの優しい笑顔が思い出された。




