猫の夢
こんな夢を見た。
俺は四畳半の部屋に居た。方形の座卓の前に潰れて硬くなった煎餅座布団を敷き、その上に腰を下ろしていた。
その部屋には壁と屋根がなかった。台所はあった。便所もあった。テレビや方形の座卓、パソコン、扇風機、箪笥、書架といった家具もあった。押入れまでもあった。それでいながら、壁と屋根がなかったのだ。本来それらがあるべき場所には何もなく、その向こう側には広大無辺の虚無が洞々と広がっていた。
そこが漠々とした虚空のどの座標に位置するのかはわからなかった。なぜそのような場所が存在するのかなどは考えたこと自体がなかった。そのようなことは考えても仕方がないことだったし、そもそも考えて答えが出てくるようなことではなかった。
俺がいつからそこにいるのかはわからなかった。気づけばここに居た。いつまでそこに居るのかもわからなかった。それは俺に決められることではなかった。なぜそのような場所に居るのかなどは考えたこと自体がなかった。そのようなことは考えても仕方がないことだったし、そもそも考えて答えが出てくるようなことではなかった。
俺がその部屋について知っていたのは、そこだけが世界に唯一存在しておりその四畳半以外の全てが無であるということ、それでありながらもその四畳半の中に生活に必要不可欠な全てのものが揃っているということ、この二つだけだった。
座卓を挟んだ向かい側には猫が居た。柔らかそうな上等の座布団を七枚重ねて敷き、優雅に香箱座りをしていた。
雄の鯖猫だった。名前は知らなかった。俺の猫だが、そもそも名前など付けていなかったような気もする。年齢も知らなかった。老猫のようにも若猫のようにも見えた。いつからそこに居るのかはわからなかった。気づけばそこに居た。いつまでそこに居るつもりでいるのかも知らなかった。それは俺が決めることではなかった。何のためにそこに居るのかもわからなかった。
だが別に構わなかった。その猫は無為から生じる退屈を紛らわせてくれていた。俺にはそれで充分だった。猫がなぜそこに居るのか。猫が何を目論んでいるのか。そのようなことはどうでもよかった。
座卓の上にはチェス盤が置いてあった。形勢の方はと言えば、駒の配置でも残りの兵力でも、白い軍勢が圧倒的に優勢だった。黒い女王と黒い僧正は既に故人となって久しかった。黒い王は白い騎士と白い城塞とに睨まれて動けずにいた。盤の中央は白い歩兵が形成するファランクスによって掌握されていた。中央部を制圧して敵軍の連絡を遮断するのはチェスの定石の一つだ。この定石のとおりに戦局が動いている今、黒い軍勢は、赤軍によって中央軍集団を包囲殲滅された東部作戦軍の如き絶望的状況下に在ると言えた。
猫が静かに呟いた。
「騎士をe5からc4へ」
俺は白い騎士を猫の望むとおりの位置に動かした。猫は物を掴めないから、俺が代わりに動かしてやらなければいけなかった。
猫が事務的に呟いた。
「チェック」
俺は白の歩兵部隊を圧迫するために中央付近に配置しておいた騎士を動かすことを余儀なくされた。猫が物憂げに眺める中、そっと駒を動かし、白い騎士を盤上から排除した。
「女王の歩兵をd4からd5へ」
猫は動じる様子もなく、解放された歩兵部隊を前進させ始めた。
俺はじりじりと追い詰められていき、しばしの攻防を経て、ついに自軍の王の逃げ場を失ってしまった。猫がチェックメイトと呟くのを受け、俺は素直に降伏した。何度目の敗戦かは最早わからなかった。
俺は特に悔しがることもなく淡々とチェス盤を片付け、猫は特に勝ち誇ることもなく淡々と俺に視線を注いでいた。いつものことだった。
チェス盤を片づけた後、俺はカードを取り出してよく切り、裏返しにして卓上に並べた。一勝負終えたら間を置かず次の勝負を始める。いつものとおりだった。
それまで香箱座りをしていた猫が動きを見せた。機敏かつ優雅な動作で軽やかに卓上に降り立ち、無造作に二枚のカードに前肢を乗せた。視線で促されて裏返してみたところ、ハートの四とクラブの三だった。
それを元通りに裏返し、今度は俺がめくった。猫が選んだのとは全く別のカードを選んだ。序盤はとにかくカードを多くめくって情報を集める。中盤以降は相手がめくったのと同じカードをめくって相手に情報を与えないように努める。いずれも神経衰弱の定石だ。
卓上のカードは順調に消えていったが、戦況の方はお世辞にも優勢とは言いがたかった。俺が一組を取る間に、猫はなぜだか二組も三組も取ってしまうのだった。
結果はまたも俺の敗北だった。もう何度目になるのかわからないが、また負けたのだ。
俺は特に悔しがることもなく淡々とカードを片付け始め、座布団に戻った猫は例の如く香箱座りをし、特に勝ち誇ることもなく淡々と俺に視線を注いでいた。いつものことだった。
カードを片づけた後、俺は将棋盤を取り出して卓上に置き、駒を並べ始めた。一勝負終えたら間を置かず次の勝負を始める。いつものとおりだった。