第六話 水、それは万物の根源
「春一…おい春一!」
耳元でした祐樹の声で、春一はふと我に返った。全開に開かれた蛇口からはひっきりなしに水が流れでいる。
「おい、大丈夫かよ?熱中症っぽいなら保健室で…」
学校指定の体操着姿の祐樹が尋ねると、春一は首を横に振った。
「いや、大丈夫。少しぼぉーっとしてただけ」
今は現実の世界だ。春一と祐樹は体育の授業の最中で、休憩に校庭の水飲み場に来たところだった。
「ほんとに?最近、ぼーっとしてる事が多いぞ。春一」
「あんま寝れてなくてね。いつも、変な夢を見ているせいかも…」
「変な夢…?明晰夢か…!?」
「冗談。疲れてるだけだよ」
春一のDreedamでの記憶は、他の人と違って現実世界に引き継がれている。そのせいか、春一は近頃、現実で精神的疲労を感じることが多くなった。無理もない。こちらで十数時間を過ごした後、Dreedamで12時間を過ごす生活を毎日続けているのだから。唯一、この事を知っているのが祐樹だが、今目の前にいる彼には夢の記憶が引き継がれていない為、春一の衰弱の理由はわかっていない。一方、こちらでの記憶はDreedamに反映されるため、夢の中の祐樹はそろそろその理由に気付く頃だろう。
「気を付けろよー」
祐樹がぶっきらぼうに答えた。これでも一応、心配はしている。
「うん、ありがとう」
「じゃ、先に戻ってるからなぁ」
そう言って祐樹は、運動場の方へ掛けていった。
春一は一息着いてから、水道の蛇口を閉めようと視線を落とした。蛇口の水はジョボジョボと音をたてながら落ち、排水溝へ吸い込まれていく。
「あと…二日か」
今朝から、春一の頭はレイヴンから与えられた猶予の事でいっぱいだった。昨日の夢では、なんの進展も得られなかった。まだ時間があるとはいえ、見通しが立っていない以上、不安は拭い去れない。
だが、春一はふと、ある事に気づいた。レイヴンは夢の世界での三日という時間を設けたが、春一にとってはそうでない。記憶が引き継がれている以上、現実世界での時間も挑戦に当てる事も可能だ。イマジン自体の練習は出来なくても、イメージ力を補強することぐらいは出来るかもしれない。
春一はわずかに見えた希望で、少し晴れやかな気持ちになった。そして意を決したように力強く蛇口を閉めると、運動場に戻っっていった。
「今日はどこ寄り道していくー?」
「行きたいところがあるんだけどいい?」
放課後の帰り道、祐樹が尋ねると春一は即答した。春一が行きたい場所を提案する事は珍しい為、祐樹は少し驚いたような表情見せていた。
春一は祐樹を連れ、大通り沿いに面したネットカフェへ向かった。この場所は二人の帰り道に位置しており、前にも何度か足を運んでいる。
料金を払い、個室に入ると春一はさっそく、パソコンに向かう。
「何してんの?」
隣の個室に入った祐樹がパーテーションから頭を突出して春一に尋ねた。
「ちょっと、調べたい事があってね」
「調べるって何を?」
「……水」
「水?またなんで?」
「すぐにわかるよ」
春一はほくそ笑みながら答えた。
今日の夜、Dreedamに入れば祐樹も春一の行動の意味を理解する事になる。ここでの説明は不要だった。
祐樹はパーテーションのへりに顎を乗せ、目を細めた。
「うーん、よくわかんないけど飲み物はいる?とってくるぞ」
「あ、うん。ありがとう」
「何がいい?…それも水?」
「いや、そこはココアで」
答えを聞くと、祐樹は個室を飛び出して飲み物を取りに行った。
春一はさっそく検索を始める。
インターネットのアプリケーションを開くと、大手検索サイトのトップページが画面に映し出された。早速、キーワードを打ち込み検索をかける。
検索ワード『 水 』
結果:約 2,350,000,000 件 (0.22 秒)
春一はため息をついた。考えてみれば当たり前だ。自分で考えても相当な関連事項が出てくるというのだから、ネットの情報量はその何百倍、何千倍の量になるに決まっている。
とりあえずは一番上に表示されたウェブサイトにアクセスをしてみる。
百科事典タイプのウェブサイトには『水』についての解説が事細かに記載されていた。
―(みず)とは、
化学式 H2O で表される、水素と酸素の化合物である[1]。
湯と対比して用いられている語[1]。冷水。
液状のもの全般[1][注 1]。
元素としての水…
流し読みをしていくとあるところで目が止まった。
― 水は人類にとって最もありふれた液体であり、基本的な物質である。また、人が生命を維持するには必要不可欠であり、さまざまな産業活動にも不可欠の物質である。
古代ギリシャではタレスが「万物のアルケーは水」とし、エンペドクレスは四大元素のひとつで基本的な元素として水を挙げた。
「万物のアルケー……アルケー?……根源…… アルケマスター 」
春一は顎に手を当て、ぶつぶつと呟いた。ちょうどその時、祐樹が両手いっぱいに紙コップを抱えて個室の中に入ってきた。
「ほーれ、大漁大漁!」
春一の机の前に、数々な種類の飲み物が入った紙コップが並べられていく。
「祐樹。…俺はココアだけあればでいいって」
「え?そう?じゃあ、全部俺が飲んじゃうぞ。てか、本当に水について調べてんだな。何のため?」
「うーん。…簡単に言えば『水についてのイメージを深める為』…かな?」
「イメージを深める…?あぁ、わかった…!絵描いたりすんのか!」
「…まぁ、そんなとこ」
「だったら、文字の説明見るより画像とか動画見た方がいいんじゃん?そっちの方がイメージはわくでしょ?」
確かに…と、春一は感心した。夢の世界の祐樹には良い助言をもらう事が度々あるが、まさか現実世界そうなるとは思ってもみなかった。
「そうしてみるよ」
「んじゃ、頑張れよ!にしても春一が芸術に目覚めたとはなぁ」
祐樹は何やら嬉しそうにうん、うんと頷くと、大量の紙コップを抱え直し、個室を出て行った。
それから、春一はネットに転がっているありとあらゆる『水』についての画像や動画を漁っていった。うねるような水しぶき、コップに注がれる水、流れ落ちる滝の水、湖畔に浮かぶ波紋、水の結晶まで…とにかく、イメージの強化に効果の有りそうなものから、一見無さそうなものまで手当たり次第に眺めていった。小一時間ほどして、隣の個室から祐樹の大きないびきが聞こえてきても、春一の集中は切れる事がなかった。結局、ネットカフェを出るその時まで春一は食い入るように『水』を見続けていた。
帰り道、まだ寝起きでぼんやりとした眼差しの祐樹に対し、春一の頭は冴えわたっていた。目を閉じれば、先ほど見ていた画像や映像が走馬灯のように浮かんでくる。これなら行ける…!春一は早くこの効果を夢の中で試したいと、息巻いた。
夕焼け空にカラスが鳴く中、祐樹と別れた春一は興奮を胸にしまったまま帰宅した。それから就寝まで時間を潰す。食事の時も、入浴の時も、テレビにあの神条あかりが移っていも、春一は眠りにつくのが待ちきれない様子だった。そして就寝の時間になり、ベッドに飛び込むと、望みがかなったようにすぐに深い眠りに落ちていった。
春一は、本部エントランスの噴水を覗き込んだ状態で目を覚ました。吐き出した水は直接噴水に混じり馴染んでいく。
「考えたもんだな」
すぐ横で声がする。顔を上げると、そこにはホバーボードを抱えた結城が座っていた。
「結城…なんでここに?」
「俺はおまえより目覚めるのが少し早いからな。起きたと同時に吹っ飛んで来たんだ。にしても、現時世界でイメージを強くするとは考えたな!記憶が引き継がれてる春一にしか出来ない芸等だぜ」
結城はすこぶる感動したようで大きな声を出した。
「しっ!誰かに聞かれたらどうするんだよ」
春一は人差し指を唇に当てそう言うと、辺りを見回した。幸いな事に周囲には2人以外まだ誰もいなかった。
「大丈夫だって。まだ誰も来てないみたいだし。そんな事よりほら、試してみろよ。リアルでの成果をさ」
「う、うん」
春一は噴水に右手を向けた。緊張が走る。これで何の進展もなければ、 完全に特訓は行き詰ってしまう。
瞳を閉じ、流れる水を想像する。昨日、見た数多くの画像、映像が春一の頭の中を駆け巡った。
- シュゥゥゥゥウウ ウウウウウウウウウ
今までとは全く違った音に、春一と結城の頬は上がった。
春一の手のひらからは、ホースの水を絞った時に出るような勢いのある水が噴射されていた。それは、あかりと対峙した際に見せたあの放水に比べれば些細なものだが、昨日のチョロチョロと流れ落ちる状態から比べれば大きな進歩があった。
「やったな!春一!この調子なら行けるぞ」
「うん!やっぱり、効果あったんだ!」
春一は笑顔で答えると、意気揚々とその日の特訓に取り掛かった。
…しかし、現実はそう甘くなかった。幾らイメージを繰り返しても、手から放射される水の威力が増すことは無かった。毎回安定して同じ量、同じ勢いになってしまう。それでも春一はめげる事なく練習を続けたが、何時間経とうとも状況が進展する様子はなかった。
そして、次第に焦りと諦めの気持ちが芽生え始めた。途中、エントランスを通り過ぎるエリザやアシムが励ましの言葉をかけ、結城に至っては一時間に一回ほど様子を見に来たが、春一の気持ちはどんどんと落ち込んでいった。
結局、その日春一は1日中噴水の前にいたが、朝一番からの成長は見られなかった。さらにそれは、次の日に数時間が経過した後でも同じだった。根気強い春一も、流石にこれはこたえた。夢の中の日をまたぐ間、現実世界でもう一度『水』についてのイメージを深めたというのに、それも全く効果を示さなかったからだ。
- 挑戦開始から2日と数時間が経過。
未来都市メトロポリスの上空は、鬼灯のような鮮やかな朱色につつまれ、ほんのり赤く染められたイワシ雲がが悠然と流れていた。東の空はすでに日が沈んでおり、夜が迫ってくるように深い紫色が近づいて来ている。高画質の液晶パネルに投影された空は、本物に引けを取らないほど美しい。だが、その美しい夕焼け空が、春一をさらに感傷に浸らせた。
「やっぱり…無理だったんだ」
春一は噴水のヘリに腰をかけ、ぼんやりと空を眺めながら弱音を吐いた。 かれこれこの場所には20時間以上居続けている。
それから、噴水の中に手を向けると駄目元でもう一番イメージを試みた。
シュゥゥ
「…いてっ!」
春一は手のひらに痛みを覚えた。放水を止めて確認する。
幾度に水を放ち続けてきた手のひらは円形にふやけ、ひどくただれてしまっていた。今までは集中していた為に気にはならなかったが、改めて実感するとなかなかの痛みだ。
「うっ……手も限界かぁ」
春一は怪我の程度を確かめるように手を開いたり閉じたりした。
ふいに、小さな手が横から出て来て春一の手首を掴む。
「うわっ!………マリー?」
手首を掴んだのは、いつの間にかそばまで来ていたマリーだった。自分の元に春一の手を引き寄せようとする。
「ど、どうしたんだよマリー!引っ張んないでって…う」
マリーは黙れといわんばかりに春一の口を小さな手で遮った。そして、もう方の手のひらを春一の怪我をした手のひらに重ねる。
マリーは目を見開いた。ブルーのぱっちりとした瞳がより一層大きくなる。 すると、二人の重ねた手のひらの間から緑色の光が漏れ出した。現実世界では見たこともない強く鮮やかな光は、春一とマリーの手の間で激しく揺らめき、二人の顔を緑色に照らし染めた。その時、春一は患部に暖かさを感じた。
光が数秒で消え、マリーは手をどけた。そると、春一の右手のひらの傷はあと方もなく綺麗になくなっていた。
春一は驚嘆の声を上げる。
「…うわぁ、凄い!治った!…ありがとう!マリー」
マリーは気にもしない様子で春一の隣にぴょんと腰掛けた。
「……私のイマジンは」
か細い声で話始める。
慌てて春一は止めにかかった。
「あ、だめだめ!アドバイスはしちゃいけないって決まりなんだ。嬉しいけど、マリーがレイヴンに怒られちゃうよ?」
春一がそう言うと、マリーは一度話すのを止めたが、すぐにまた口を開いた。
「………傷を治すのと………自分の事話すのはいいって………レイヴンが」
「…レイヴンが?」
マリーはコクリと頷く。栗色のツインテールが大きく揺れた。
これは春一にとって意外だった。挑戦を始めてから、レイヴンとは一度も会っていない。春一はてっきり自分に興味がないものだと思っていた。それなのに、自分が行き詰まっている事どころか、手の怪我まで把握して、マリーを差し向けるとは…。春一は、オブリビオンのメンバー誰もがレイヴンを尊敬する理由が少しわかったような気がした。
マリーは春一の方には向かず正面のビル群をじっと見つめながら話を始めた。
「………私のイマジンは。治癒の能力…………私のお父さんとお母さんは立派な………お医者さんだったの……」
たどたどしく、単語を連ねていく。マリーはしゃいな為か、あまり話をするのが得意ではなかった。
「うん」
春一は優しく相槌を打った。
「………お父さんとお母さんは…………私にもお医者さんになって欲しかった………でも」
マリーの言葉が途切れた。
「…でも?」
「でも、私は……いっぱい、勉強したのに………お父さんやお母さんのように………上手く出来なかった。………だから、いっぱい叱られた。…………いっぱいたたかれた。いっぱい病院の中を見せられた………手術を見せられた………いっぱい、いっぱい……」
マリーの声は最後の方にかけて一段と小さくなっていった。
春一は、急に飛び込んできたつらい話に、胸が締め付けらるような思いになった。
だが、マリー再び元の声量を取り戻し、春一に告げる。
「………トラウマ。私のイマジンの根元。……怪我をしている人を見ると…嫌な思い出が蘇ってくるの………だから治す事を強くイメージ出来る……」
マリーの言葉からは彼女のつらい思いがひしひしと伝わってくる。なんて言葉をかけてやればいいかわからなかった春一は唇を噛み締め、マリーの頭をそっと撫でてやろうとした。だが、手のひらが髪に触れる前に、マリーは春一の方に顔を向け、その手を優しく握った。
「でもね、…もう大丈夫なの……だから…力を使いこなせるの」
撫でるのを制止されてしまった春一は気まずくなり、慌ててその手を背中に隠した。
「そ、そうなんだ。でも、なんでそんな大事な話を俺にしてくれるの?レイヴンがしろって言ったの?」
マリーは素早く首を振った。それから急に頬を赤らめ、下をむいてしまった。
「………から」
「ん?」
「……………ハルは、最初に会った時、褒めてくれたから………お父さんとお母さんは一度も褒めてくれなかったのに」
「…そ、そっか」
幼いとはいえ、叔母意外の異性にハルと呼ばれた事に春一は恥かしくなり、頭をかいた。そして、以前初めてマリーに会った際に彼女が医療担当だと聞いて「凄い」と言った事を思い出した。春一にとっては何気なく感想を口にしただけだったが、マリーの心には響いていたらしい。
「………ハルは……何を思い出したの?」
「え?」
「水を出した時…何か思い出さなかった?…………『偶発的に発動するイマジンは、トラウマを根元としているものが多い』……ってエリザが言ってた」
「う~ん。トラウマって言われても、俺にはすぐに思い浮かぶものがないしなぁ。それにあの時、神条あかりに詰め寄られた時も何か思い出したわけじゃないし……ただ、『死ぬかも?』とは思ったけど…」
春一は自分で話していて何かが気にかかった。
「そういえば…結城が言ってた……二人で池に落ちた時も俺のイマジンが発動したんじゃないかって……確か、あの時も『死ぬ!』って思ったんだった!」
「……死ぬって……思うと………出る…?」
マリーがわからないと言った様子で呟いた。
「でも、そうだとしたらコントロールは相当難しいよ。普通の状態で『死ぬ』なんて思いになるのは難しいし、あかりの時の事を思い出しても水は出なかったんだよ?大体、死の感覚なんて味わった事……」
また、春一の中で何かが引っかかる。
…いや、ある!いつも見ている水の中に落ちる夢だ。あの感覚は死の間際、そのもののはずだ………水!?
化学反応が起きたように、春一の頭は活性化する。それ同時にあの感覚が蘇ってきた。凍てつく水が体を包む感触、痛み。そして、光の消えていく視界。意識を埋め尽くさんばかりに水のイメージが湧き出して来る。
…ル!……ハル!」
初めて聞くマリーの慌てた声で、春一は我に返った。右手がのた打ち回っている。前回よりも暴れ方は遥かに激しく、すでに手のひらから少量の水しぶきがあふれ出していた。
「…来る!!!」
春一は、左手で暴れる右腕を抑えると、なんとか噴水の池に向けた。せき止められていた水が一気に放出される。流水はいっきに春一の腕三本分ほどの太さまで達した。噴水に貯められていた水ははじき飛ばされ、底の大理石が露わになる。下から跳ね返った水は放射上に拡散し、エントランス中に降り注いだ。
「と、止まらない…!?」
春一は吹き飛んでしまいそうな腕を必死に抑え込んだ。始まって数秒が立つというのに右腕は今だ勢いよく水を生み続け、収まる気配がない。コントロールをしようとしても、頭の片隅から水のイメージが離れる事はなく、止める事が出来ない。
マリーは慌てふためき、水しぶきが降り注ぐ中をあっちこっちに走り回ったが、途中で何か思いついたように足を止めた。
限界を感じた春一がマリーに向かって声を上げる。
「マリー!逃げて!もう抑え…」
― ゴン!
マリーの振り下ろした分厚い本の背表紙が、春一の頭頂部を捉えた。首がめり込んでしまいそうになるほどの衝撃に、春一そのまま噴水の中に落ちていった。もちろん、右手の放水は止まった。
「…ハ、ハル…!」
力を入れすぎてしまったと、マリーが慌てて噴水を除くと、春一は仰向けになって自分の手のひらを眺めていた。
「…やった…!……出来たよ!」
痛みの事も忘れ、春一は笑っていた。
マリーは笑いまでしなかったが、口元をわずかに緩めた。
― 夢の中の翌日。
「約束の時間だ…それでは、見せてもらおうか」
エリザ、アシム、裕樹、マリーの四人が緊張した面持ちで春一を見守る中、レイヴンは表情一つ崩さずに言った。皆、任務が忙しいながらも春一の事を気にかけていた為、肩に力が入ってしまっている。
「わかった」
春一は小さく答えた。その真剣な表情からは、果たしてコントロールが上手くいくようになったのか否か読み取れない。
春一は、噴水には手を向けなかった。変わりに奥の大きな扉の前まで歩いて行き、分厚い鉄板にめがけて腕をかざす。左手はしっかりと添えられていた。
「春一…?」
祐樹が不思議そうに尋ねると、春一は振り返った。
「噴水だと壊しちゃうかもしれないから…」
そう言って、前に向き直った直後、春一は右手から凄まじい勢いの流水を放った。鉄の壁に叩き付けられた水が轟音を辺りに響き渡らせる。その水は、初めにあかりの前で放った時よりも、その後にマリーの前で放った時よりも威力を増していた。レイヴンを除き、そこにいた誰もがその光景に息をのんだ。
春一は歯を食いしばった。右腕を支える左手に力が入る。
もう十分にアピールは出来た。だが、春一の腕から放たれ続ける水の勢いが衰えることはなかった。もちろん故意に出し続けているわけではない。やはり止められないのだ。
春一の右腕がガタガタと揺れ始め、照準がぶれ出す。
様子を察したエリザとアシムがいぶかしげに顔を見合わせた。
水はさらに勢いを増す。春一が踏ん張れなくなり、後ろにジリジリと押され出すした。
「……春一!」
祐樹が叫んだ直後、腕から一際量の多い水が飛び出し、春一は後ろに吹き飛ばされた。床に叩き付けられた衝撃でようやく手のひらからの放水が終わる。
「いてて…っ」
春一はすぐに立ち上がった。幸いなことに怪我はなかった。
― 放水。結局、三日という時間で春一が修得できたのはそれだけだった。その後の水の止め方も、威力の調整もまだ満足には行えない。
エントランスには緊迫した雰囲気が流れた。これは成功なのか?それとも失敗なのか?微妙な線だったからだ。レイヴンが、果たしてどのような判断を下すのかを全員がそわそわとした心持で待っている。
春一は、奥で腕組みする大男に視線を送った。
レイヴンはしばらく沈黙を続けたが、意を決したように目を閉じると、背を向けてその場を去ろうとした。
やはり、駄目だったか…。春一は唇をかみしめた。
だが、レイブンは途中で立ち止った。そして背中越しに尋ねた。
「呼び方は… 春一 でいいのか?」
「え?……うん」
「では改めて……春一、……オブリビオンへようこそ」
レイヴンはそう告げると、再び歩き出した。
強張っていた春一の表情が、ゆっくりと緩んでいく。エリザとアシムが微笑み、祐樹が喜びに満ちた顔で駆け寄っていった。
「やったな!春一!これでおまえもオブリビオンの一員だ!!」
「うん!」
歓喜の声を上げる二人の傍らで、マリーは大きな本で顔を隠し、にっこりと笑った。