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解剖を終えて外に出ると、廊下で近藤刑事が死体を受け取りに来ていた。
「どうでしたか?」 近藤が尋ねる。
「詳しい分析はこれからですが、死因は青酸カリによる中毒死で間違いないようです」 康浩が答えた。
「そうでしたか」
「死体の指先に、人の皮膚と思われる組織がついていました」 康浩の後ろから、スヨンが口をはさんだ。
「人の皮膚?」 康浩と近藤が、彼女を見た。
「はい。死ぬ前に苦しんだ大島氏が、犯人を引っかいたのだと思います」 スヨンは答えた。
「は、犯人?」
「はい。大島氏自身の死体には、引っかき傷がありませんでした。つまり爪の中にあった皮膚組織は他人のものです」
「ああ」 解剖が終わった後、じっと死体を見ていたスヨンは、そんなものを見つけていたんだと康浩は気がついた。彼女は死体が物語るラスト・メッセージに、ひたすら耳を傾けていたんだ。
「彼は死ぬ直前に、憎い犯人につかみかかったのでしょう」 そうスヨンが近藤に話していると、西原妙子がストレッチャーを押して解剖室から出てきた。その西原を、スヨンが呼び止めた。
西原は、スヨンと康浩のもとに駆け寄ってきた。
「西原さん。この皮膚の断片をDNA鑑定してください」 スヨンが、手術衣の上に羽織った白衣のポケットから、組織の入った蓋付きスピッツを手渡した。
「はい」 西原が、緊張した面持ちでそれを受け取った。
「そしてそれを、佐山恵子氏のDNAと照合してください」
「さ、佐山恵子?」 西原は、ぽかんとした表情で訊き返した。康浩も近藤もスヨンを見つめなおした。
「はい。亡くなった佐山健一氏の奥さんで、大島氏の妹です」 スヨンが答えた。
「どういうことだ?」
「佐山健一氏を殺害した実に複雑な方法を考えられる人物は、多くはいません」 スヨンが答えた。
「それは、そうだ」
「健一氏が飲んだ二つの薬物の血中ピーク時間はすべて六時間。死亡した二十三時の六時間前の十七時に、彼は自宅にいました」
それを聞いて近藤は、ポケットから手帳を取り出すとページをめくって「そうだが」と、うなった。
「薬学者である佐山恵子氏なら、複雑な方程式を作り出して、そのうえで自宅で佐山氏に薬を飲ませることは簡単だったはずです」 スヨンは近藤を見て言った。
「あ……」 近藤は息をのんだ。
「それに恵子氏は、夫がアルコールを飲みに出かけて行くことも知っていたんだと思います」 スヨンが続けた。
「そうかもしれないが……、じゃあ、最終的に薬物作用を決定的に強めたグレープフルーツも計画的だと言いたいの?」 康浩が訊いた。
「おそらく恵子氏が、バーで待ち合わせようと電話したのだと思います」 スヨンが康浩に目をやった。
康浩は「あっ」と言ったまま、凍りついたように動けなかった。身の毛がよだった。
「ああ、そう言えば、佐山は誰かを待っていたようだと、バーテンダーが証言していたっけ」 近藤刑事が手帖を見たまま、額に手をやった。
「それに佐山健一がバーにいるとき、彼の携帯に奥さんから電話がありましたね。着信履歴に記録が残っていた記憶があります」 西原が思い出したように補足した。
「ああ、確かにそうだった」 近藤は手帳を見たまま、うなった。
「あのバーはグレープフルーツが名物です。佐山健一氏がグレープフルーツを好きなことを、恵子氏は知っていました。そしてそれが、彼の死を決定的にしました」 スヨンの言葉に、皆が黙った。
「そして今日です。大島一郎氏は、鍵のかかった自室で死んでいました」 スヨンが続けた。誰もが固唾を飲んで、彼女の言葉を待っていた。
「密室での自殺に見せかけてありましたが、大島一郎氏と非常に近い関係にある人物なら可能なんです」
「……と、言うと?」
「一人暮らしの大島一郎氏。彼の妹である恵子氏が、マンションの合鍵を持っていても不思議はありません」
「うん」 近藤が、同意するようにうなずいた。
「それに薬学者である恵子氏なら、薬物の複雑な方程式を考えられますし、二つの事件で使われた薬物を簡単に手に入れることもできます。彼女なら、すべての条件を満たすことができるんです」
「……」皆は再び口を閉ざした。閉ざすしかなかった。
「さっき大島一郎氏の指先から取った皮膚組織が、恵子氏のDNAと一致すれば立派な証拠になります」 スヨンが確信に満ちた声で言った。
「わ、わかった。おい、西原君、頼む」 近藤は、西原に言った。
「は、はい」 西原は背筋をぴんと伸ばすと、元気よく答えた。
「では、さっそく裏づけ捜査に着手します」 近藤が礼をした。西原が、駆けてきた若い警官と一緒に死体を載せたストレッチャーを押して外に出て行った。
大島一郎の死体を乗せた警察車両が去ると、スヨンがぽつんと言った。
「世界は意外に単純にできている」
「どういう意味?」と康浩が尋ねると、「アメリカで似たような事件があったんです。それに幸運が加わりました」と彼女は答えた。
「幸運?」
「はい。大島氏所有のペアカップです。同じものを、ソウルに住む私の祖母が持っていたんです」
「そうだったんだ」
「祖母のおかげで答えを見つけることができました」と答えてから、スヨンは僅かに頬を緩ませた。




