蛇ノ目傘
低く、ごうろごろごろと空が鳴った。
朝、家を出た時には青々とした晴れ空だったのに。訝しんで見上げると、坂の上には真白い入道雲が底辺りに黒い翳を一杯に広げて、胡坐をかいていた。
これは一雨来るなと思い、鞄から折り畳みの傘を取り、手に提げておく。
生まれが北陸の、雨の多い地方であったため、出かけるときには傘を手放さない。
子供の時分には、家を出た時には晴れていたのに、帰る頃になると空が真っ黒な雲に覆われて、冷たい霰混じりの雨に追われ、泣く泣く帰った思い出がある。
酷く、惨めな気分だった。
うんざりとした思いで坂を登っていると、やはりぼつぼつと空が泣き始めた。やがて陽は墨を溶いたような雲に覆われて、駆け足のような雨になった。息の詰まるような轟轟という響きを上げて、止め処もなく大粒の雫が降ってくる。
それ来たかと傘を広げたものの、風もないのにズボンからシャツから、吹き上がった飛沫でじとじとに濡れそぼっていく。こうなると、もう傘はあっても、さしたる意味はない。
ああ、厭だ厭だと坂を登り続けていると、向こうの方から人がやって来る。人のことを云えたものではないが、その人も周到なことに傘を差していた。それも、私のような折り畳み傘ではない。今時珍しい、黄金色した和傘であった。
空は真っ暗で、しかも簾を差したような雨に遮られて顔貌は分からない。男か女かも曖昧で、雨の帳に滲み染まっている。傘の黄玉のような色合いばかりが、灰色に沈んだ視野の中に冴え冴えと揺れていた。
こんな日に傘を持って出歩いているのは同郷者であろうと勝手な見当をつけ、私はその人とすれ違う瞬間、軽く会釈をした。異郷で行き逢う同郷の者というのは、旧い知己のような親しみを惹起させる。もしかすると、私と同じく、雨に泣いた思い出があるのかもしれない。手前勝手な見当ではあったが、私は、ごく自然に頭を下げていた。
傘の人は、私の会釈に気付かぬ態で、するすると滑るように坂を下っていった。
すれ違ったとき、濃い土の臭いが鼻をついた。
振り向くと、やはり何もかもが灰色に滲んだ世界で、黄色い傘だけが厭に鮮やかに浮かんでいた。傘は、軸の周りに白い帯が円を描いた――蛇ノ目であった。
私は再び坂を登った。長い坂だった。登れど登れど、登っているように感じない。
一歩、一歩、また一歩と、歩くたびに飛沫が撥ねる。ズボンはしとどに濡れる。歩みがまた、重くなる。
だのに、まったく前に進んでいる気がしない。
かと云って、後ろに引き戻されているわけでもない。
振り返れば、まださっきの蛇ノ目が、五間ばかり後ろで揺れている。
随分と進んだはずなのに。
私は足早に進んだ。
靴の中まで水が染み込み、歩くたび、ごぼりごぼりと音をたてる。
濡れたズボンの裾が足に纏わり付く。雨水が、私を引き止めようと縋りついてくるようだった。
汗水なのか雨水なのか、頭から体からが土臭い水でずぶぬれになってしまっている。
また振り返ってみると、やはり黄色い蛇ノ目は同じ所で揺れている。
さすがに私は薄気味の悪さを感じ、振り返ることなく坂道を駆け上った。
ばっしゃばっしゃと撥ねて上がった飛沫がズボンにしがみつくが、もう知ったことではない。
私は蜘蛛の糸に縋る犍陀多のように、傘の柄を握り締めた。
延々と続く坂道を、随分と駆けた。
膝ががくがくと嗤い、喉がひゅうひゅうと泣き出して、ようやく私は足を止めた。
坂道は尚も終らない。灰色の帳に覆われて、彩りの無い石の坂は、だらりだらりと雨水を下手へ向けて垂れ流している。
私は、怖かった。
私は、何を怖れているのか。雨に震えているのか、雨音に怯えているのか、あの行き逢い人に臆したのか、それとも、黄色い蛇ノ目に呑まれたのか。それが判然、理解できないことが、怖ろしかった。
しかし私は、その怖れの源泉を覗いてみたいという衝動に抗い切れず、来た道を怖々、振り返った。
黄色い蛇ノ目は、変わらぬ場所でふらふらと揺れている。
その傘の中心から黒い円が滲み出し、傘そのものが大きな蛇の目玉になったかと思うと、傘は、にたりと笑みを浮かべて、歪んだ。
わあッ、と私は傘も鞄も擲って駆け出した。
脇目も振らず、息も継がず。濁流を泳いで抜けるかのように、足元だけを見つめて、遮二無二坂を駆け上がる。とうとう苦しくなって、ようやく息を吐き出すと、不意にぱあっと周りが明るくなった。
驚いて立ち止まり、辺りを見渡すと、私はずぶ濡れで坂の上に立っていた。
空は青々と広がり、目の痛むような陽の光が、雨に濡れた通りに注している。
上から見下ろすと。あんなに必死に登り続けたはずの坂道は、拍子抜けするばかりに短いものだった。もはや、揺れる蛇ノ目も、滝のような驟雨もない坂の下に、私の擲った傘と鞄とが転がっている。
胡坐をかいた入道雲が見下ろす坂道を、私は酷く惨めな気分で引き返した。
(了)