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第三話 お仕事と楽しみ

「あ~、暇だ~ね~」


 蟻専門のペットショップ、『ARINOSU』。

 そのレジからそんな、間延びした、間抜けな声が店内に響いた。

 レジの椅子に座っていた閃夜は、机にもたれかかりながら、ぐったりと力を抜いていた。

「店長、ぐうたらしないで下さい」

 スタッフルームから出てきた凪に一括されるも、閃夜は態度を改めることはせず、上半身をレジ上で転がし始めた。

「だって~、お客さん来ないんだも~ん」

 言いながら、手に持っていたドーナツを一口かじった。

「だも~ん、て」

 そんな閃夜の姿に、凪はただ呆れ果て、溜め息を吐く。

「まあいいじゃない。お客さんが来なかったら、私達もの~んびりできるわけだし。お互いの仕事も、終わっちゃえば後はすること無いしね~」

 並べられた蟻。その前の椅子に座っている咲も、ぺろぺろキャンデーを舐めながら、ぐうたらとしていた。呆れつつ、だが、その言葉を否定することはできない。

 まず凪の場合、会計処理をしなければならないのは週に一度。おまけに計算を始めれば、長くとも三十分たらずの作業である。終わってしまえば、電話も無く、客も来なければ、確かに座っているしかすることは無い。

 また咲も、掃除は主に床を掃くことと、水槽を磨くこと。床は狭いためにすぐ終わるものの、数の多い水槽磨きは始まれば時間は掛かる。だがこちらも、終わってしまえば客が来ない限り、することは何も無くなる。

 そして閃夜はというと、開店時間中、客の相手以外にすることといえば、店内の蟻の様子を見て周ること、それだけ。

 そもそも、この店は確かにそれなりの知名度を誇り、売上も高い。が、さすがに商品が蟻及び、その関連商品のみである関係上、客層には逃れられない偏りを生んでしまっている。それゆえに、客が来る時、来ない時の差は激しかった。


「と言うか、二人して開店中にお菓子を食べないで下さい」

 言いながら凪も、閃夜の隣のレジに座った。だが閃夜は、

「奥の冷蔵庫にたくさんあるから、凪ちゃんも好きなもの食べてね」

 口にくわえたドーナツをもごもごさせながらそう言うだけ。

「いりません。口に物をくわえたまましゃべらないで下さい」

 ぴしゃりと言われた閃夜はゆっくりと立ち上がり、ドーナツを手に取り、水槽の前を歩き始めた。

「そんなに真剣にならなくても、この子達みたいに必死に働く必要もないんだからさ。ね~」

 そう言いながら容器の蓋を開け、ドーナツをちぎって入れていく。その後も次々に隣の容器を開けては、ドーナツを入れていった。

「そんなことして、蟻が逃げても知りませんよ」

「だ~いじょ~ぶ。逃げな~いし~、逃がさな~いし~」

(何を根拠に……)

 閃夜や咲を見ながら、頭を抱えてしまった。

 そして閃夜は、ある程度ドーナツを入れていった後、水槽の蓋を閉め、自身がドーナツを口に入れた。

 ……その瞬間、


「お客が来る。二人ともレジに立って。咲ちゃん、キャンデーしまって」


 急にこちらを向き、放たれた言葉。凪は慌てて立ち上がり、咲に至っては椅子から転げ落ちてしまった。

「痛ったーい!」

 悲鳴を上げながらも慌てて立ち上がり、キャンデーをレジの奥に隠す。隠した時、ちょうど客が入ってきた。

「いらっしゃいませ。ARINOSUへようこそ」

 直前までの怠け顔はどこへやら、満面の笑みでの挨拶。客は若い男だったが、その閃夜の挨拶に気を良くしたらしく、笑顔を浮かべ、挨拶を返した。

「どうぞこちらへ」

 そして、店内の案内を始めた。

(……やっぱり店長って、謎だ)

 そう思いながらしばらくその様子を眺めていると、客の男が蟻の入った容器を持ち、レジまで歩いてきた。容器以外は何も無い、蟻のみを買いに来た客らしい。

「お願いします」

 客は咲の前に来て容器を渡した。咲は手慣れた様子で会計を済ませ、容器を渡す。

「ありがとうございました」

 蟻と、帰り際の閃夜の挨拶に、客は満足げな笑顔を浮かべて帰っていった。


「さ~て、じゃあまたの~んびりしよっか~」

 そしてまた、閃夜はスタッフルームに入っていった。

「本当に店長って、何なの……?」

「ま、いいんじゃないの。仕事はしなきゃいけない時にだけ一生懸命やればいいんだって」

(……仕事ってそういうものだっけ?)

 閃夜と、ぐうたら座る咲の姿に、凪は何度目になるか分からない、溜め息を漏らした。



「それじゃあ今日は帰っていいよ~」

 閉店時間になり、レジに座る双子に向かって閃夜が言う。

「はい、お給料」

 と、給料の入った封筒を手放した、その直後、

「あのぉ、また宿題教えて欲しいんですけど」

「ああ、いいよ」

 そんな咲の申し出に、閃夜は笑顔で快諾した。

「じゃあ凪は先に帰ってて」

 しかし、それを聞いた凪は、

「え、あ、私も教えて欲しい所があるんですけど……」

 どこか焦っているような口調で、思い付いたように咲と同じ言葉を言った。

「いいよ~、何でも聞いて~」

 閃夜はそう答えつつ、店の明かりを落とし、二人をスタッフルームに入れた。

「ちょっとすることあるから、二人はここで待ってて」

 双子にそう言いながら、スタッフルームを出た。


 店頭に出ると、店の一番奥にあるドアまで歩き、鍵を開けて中に入った。部屋に入るとまた鍵を閉め、明かりを点ける。そこには、段ボール箱や袋に詰められた様々な土、容器等、蟻を除いた売り物がまとめて置いてある。

 その中で、段ボール箱の中から容器を一つ取り出し、そこに土、砂を配合しながら入れていく。それが終わると、今度はその中に自分の右手を入れ、土の上に五本の指を着けた。


「引越しだ」


 その言葉の直後、右手首から先の、爪先、指、手の甲、手の平、あらゆる部分が黒い点となり、その点全てから、大量の蟻が湧いて出てきた。


 もはや説明は不要かもしれない。これが、この店の秘密。ARINOSUの、普通なら手に入らないような蟻さえも取り寄せる入手ルート。

 それは、他ならぬ閃夜自身。

 自身の体の中で無限に生まれてくる蟻達を、閃夜は売り物としていた。彼の体の中では世界中の蟻が生まれてくる。ゆえに、普通では手に入らないような蟻を、簡単に、無料で仕入れることができる。

 そのため、閃夜が商売のために仕入れる品々は、土、籠、餌、容器、実質それらだけだった。

 容器に十分蟻が入ったところで、蓋を閉めた。蟻達は始め、あの夜と同じく、透き通るような美しい漆黒だったのが、次第に普通の、その種の本来の体色へと変わっていった。



 スタッフルームの中で、双子は勉強道具をテーブルに広げ、後は閃夜を待つだけの状態。そんな状態の凪に対し、咲はいつもの調子で、囁くように話し掛ける。

「さっき私が店長と二人きりになると思って焦ってたでしょ」

 その言葉と同時に、凪の顔に一気に赤みが差す。

「いや、私はただ、本当に分からない所があっただけで、そんな……」

 声こそ落ち着いている。だがそれだけのこと。赤く染まる顔は、それだけが真実でないことを物語っている。

「あんたねぇ、ちょっと分かり易く反応しすぎでしょ」

「……」

 姉の言葉に何も言い返すことができず、赤い顔のまま、うつむくことしかできない。

「まあいいけど。一応言っとくけど、私は別に店長に対してそういう気持ちは無いから安心して」

 凪はハッとしながら、咲の顔を見た。

「本当?」

「本当って、まさかと思ってたけど、心配してたの?」

「う……」

 再び言葉に詰まってしまう。

 咲と閃夜は、性格の面で共通する部分が多い。互いに明るく、緩く、よく笑い、そしてみんなから好かれるタイプ。だからもし、閃夜がこの二人のどちらかと恋をするなら、それは咲だろうと、前々から感じるようになっていた。

 だからこそ、逆もまた然り。咲が閃夜に対してそんな感情を抱いているのではないか、いつしかそう考えるようになっていた。

「……まあいいけど。確かに店長は綺麗だし優しいし面白いし頭も良いけど、私はそういう風には見られないかなー」

「そうなんだ……(よかった……)」

 心配事が、一つ消えた……

「まあ、店長の方から来たら、ちょっと考えちゃうけど」

(あぐ……)

 代わりに、懸念が新しく一つ増えた、ちょうどその時、


「お待たせ~」


 ドアが開き、閃夜が声を掛けながら入ってきた。

「それじゃ、何が知りたいの?」

「はーい、私からお願いしまーす」

 先に手を上げたのは、咲である。

「どこが分かんないの?」

 閃夜は咲の隣に立ち、開かれた教科書の問題とノートを眺めた。咲はどこが分からないのかを説明し、それに対して閃夜は丁寧に教えていく。すると簡単に問題が解けたらしく、咲は満面の笑みを見せた。

「なるほどー」

「それじゃ、次は一人でやってみよっか」

 言われた通り、咲はノリノリでノートに手を伸ばし、一人で問題に取り掛かった。

 それを見届けた後で、今度は凪の隣に立つ。

「どこが分かんないの?」

「……」

 すぐ隣に閃夜が立っている。それだけで、凪の胸は高鳴りに震えた。このまま横を向けば、すぐ目の前に閃夜がいる。共に仕事している時には感じない気持ち。

「えっと、ここです……」

 その声は、普段よりも震えていた。

「どうかした? 体調でも悪いの?」

 閃夜はその変化に気付き、尋ねたが、

「いえ、何でも……」

 曖昧に返されたことで、これ以上は追及しないと決めたらしく、教科書に目を戻す。

 教えられながら、凪はどうにか冷静になろうと努めたが、問題を見て、それについて閃夜が説明をする度、

(顔が……近いよ……)

 そんなことばかりを意識し、内容がほとんど頭に入らない。


 結局閃夜の説明が終わった後で、二人の頭に残った宿題の内容は、咲が全体の半分近くだが、凪はそれ以下でしかなかった。

「ありがとうございます」

「ありがとうございました」

 それでも、どうにか最低限の解き方だけは理解することができたようで、二人とも礼を言った。

「じゃあ改めて、これで帰ります」

 咲が言いながら立ち上がり、続いて凪も立ち上がった。

「また教えて欲しい所があったらいつでも言ってね」

「はーい。お疲れ様でしたー」

「お疲れ様でした」

「外は暗いから、気を付けて帰ってね」


 挨拶を済ませて店を出た後、二人がその帰路で話していたのは、閃夜のこと。

「にしても未だに信じられないよね。あの人どうしてあそこまで頭良いのかな?」

「……さぁ」

 この双子の姉妹、実は街でも指折りの進学校に通っている。そのため、出される宿題は難問が多く、長期休みならなお、大量の宿題を出題される。

 大抵は難しい問題も凪が中心となり、二人で協力し合って解いていたのだが、二人とも、全く解き方の分からない問題が出ることも度々ある。


 そんな、ある日のことだった。


 夏休みの開始と同時にARINOSUでのバイトを始めた二人は、バイト数日目のある日、正にそんな宿題に取り掛かっていた。

 閃夜や咲がいつでもお菓子を食べていたことからも分かるように、閃夜一人で経営しているこの店では、営業時間中でもある程度の自由が許されている。それを二人はあらかじめ知らされていたため、客がいない間、家でも解けない手強い宿題と格闘していた。

 だが、場所が変わったからと急に解けるようになるはずもなく、四苦八苦していた、そんな時、たまたま閃夜が現れ、その宿題を眺めた。

「へぇ、懐かしい。俺も昔やらされてたなぁ」

 そんなことを言う閃夜に、双子は冗談のつもりで、共通のことを思い付く。

「あのぉ、店長……」

 声を掛けたのは咲。

「もし良かったら、この問題、解き方教えてくれないかな~なんて……」

 この時も、当然閃夜の性格は今と全く同じもの。そのため、こんな質問をしてもせいぜい苦笑するだけ。二人ともそう思い、そんな閃夜の顔を見たいと思った。

「あぁ……」

 だが、閃夜の返事と反応は、二人の予想を大きく覆した。

「まあこのくらいなら……」

 そう言うと、閃夜は双子の間に立ち、その解き方を教えていった。

 二人揃って誓って言えることだが、この問題は大人だから解ける、それほど生易しい問題ではない。ある程度の勉強ができなければ、読んだだけでも分からないような問題。

 それを閃夜は、解くために必要な作業をすらすらと終わらせていき、それを双子に分かり易く、丁寧に教えていく。結果、二人が一日掛けても解けなかった問題を、精々三分で終わらせてしまった。宿題であるため今すぐ正解か確かめることはできないが、間違いなく正解であると、凪も、咲さえ確信させるほどの説得力を感じさせた。

 たまたま得意科目だったのかもしれない。そんな可能性を見出しつつ、それからもいくつかの科目の宿題を質問した。だが結局それら全てを、まるで呼吸するかのように解いていってしまった。


「お陰で、凪でさえ夏休みの半分使わなきゃ終わらないって言ってた宿題も、七月中には九割が終わっちゃって、あとちょっとしか残ってないもんね」

「ただまあ、あの後、さすがに仕事中に宿題はやめてくれって注意されちゃったけど」

「けどまあ、こうして仕事が終わったら教えてくれるし、そこはありがたいけどね」

「まあね」

 二人とも、そんな花が咲いた話題に笑顔を浮かべながら、自宅に辿り着いた。



「さてと、仕事仕事」

 双子が出て行くのを見届けた後で、閃夜は店頭に出た。そして、先程新たに並べた蟻も含む、容器の蓋を開け、その中に餌の虫などをいくつか入れていった。

 客のいつ来るか分からない昼間では、適当な容器にたまたま持っていたお菓子を入れてやることはできても、全ての水槽に決まった餌を入れていくのは難しい。しかも、一つの水槽にはそれなりの数がいるため、全ての蟻が満足するだけの餌を入れてやらなければならない。

 そもそも、蟻の飼育と一口に言えば簡単に聞こえるかもしれないが、単に餌をやるだけ、という単純な作業ではない。売り物にするならなおのこと。

 蟻は乾燥が極端に苦手な生物のため、餌をやりながら、土の状態を一つ一つチェックしていき、乾燥しているようなら、濡れたスポンジ等を入れる。また、餌の食べ残しなどで土が汚れていれば、そこからカビなどが生えないよう掃除もする。

 その土には温度計が刺してあり、常に土の温度も確認している。基本的に土中で暮らす蟻にとって、高温な環境は命取りになるためである。

 それらと同時に、蟻の顔色を一匹ずつ見ていき、様子がおかしくはないかも見ていく。様子がおかしいようなら餌を変えたりもする。

 それらの作業を、店内全ての蟻に対して行う。

 この店で取り扱っている蟻は、世界に数万種存在すると言われる世界中の蟻から、素人の人間にも売れると判断し、選別した、およそ百種類。そのため、種類ごとに分け、積み重ねる形で置いてある容器の数が、一種類が五個ずつと考えれば、容器の合計は五百以上にもなる。その五百以上全てに、全ての作業を、一人で、毎晩行う。

 そしてそれだけでは終わらず、スタッフルームに入ると、注文のリストを確認する。そして、その蟻を翌朝には郵送できるよう荷造りを済ませておく。危険な蟻を扱うことの方が多い作業であるため、昼間に双子に頼むわけにもいかず、この作業もまた毎晩一人で行っていた。

 いつもならこれで終わりだが、今夜は更にもう一つ。もう一度パソコンに座り、常に容器の前に置いてある、蟻に関する事柄を書いたカードを印刷し始めた。基本的にこのパソコンは、通信販売を除けばこの作業意外には使用することは無い。それ以外の目的では、閃夜も双子もほとんど使うことは無かった。

 この店に並んでいる百種類全ての蟻に関するデータを、閃夜は一つ一つ、過去に手作りしていた。その作業にもかなりの時間を要しており、今のように、「カードが少なくなれば印刷する」というだけの状態になるまで、開店前の、実に半年以上の時間を費やしていた。


 全ての作業を終わらせ、店を出る。大抵は二時間もあれば終わる作業だが、蟻の状態が悪い時などは、店を出れば、深夜を遥かに過ぎている、という場合も常々あった。

 全ては店を構える店主として当然の責任。だが、閃夜にとってはそれ以上に、蟻達に対して果たさなければならない責任であった。



 夜を盛大に照らす歓楽街。そこのほぼ中心に立地するバー、『Latent(レイテント)』。

 開店時間は夜の七時から翌朝八時まで。仕事の帰りに一杯やりたい人間、仕事前に一服したい人間にとってはありがたい時間。それなりに美味い酒とつまみ、美味いコーヒーと簡単な料理を出してくれる、そこそこ評判も良いバー。

 しかし、周りに似たような店はいくらでもある上、歓楽街のほぼ中心という、仕事をする人間、遊びに来た人間のどちらにとっても中途半端な場所に位置するため、毎晩来る程の常連と言えば、酒を飲まない、子供のような男が一人いるだけ。

 門口はそんなのバーのカウンターに腰掛け、のんびりとしていた。店を開いてもう十年以上になるが、赤字を経験したことは無い。普通に考えれば不自然極まりないが、普通とは資金源が違う。そう考えれば、おのずと納得できる事実でもある。


 そして、入り口のドアが開いた。

「よーう、お疲れ」

「ど~も~」

 笑顔で陽気な挨拶をしながら、閃夜はカウンター席の真ん中に座った。誰が決めたわけでもないが、そこがいつからか、閃夜の指定席となっていた。

「今日は遅かったな。蟻の顔色でも悪かったか?」

「いつもの閉店後の仕事に加えて、今回は二人のアルバイトの勉強も見てあげてたんですよ」

 変わらぬ笑顔で語る閃夜の顔を見ながら、門口の表情にも笑みが浮かぶ。

「おーおー、相変わらず両手に花で(うらや)ましいじゃねーか」

「よして下さい。お互いそんな気全く無いんですから」

「いや、お前が気付かないだけで、意外とどちらかがお前に惚れてるかもしれねーぞ。お前も顔は中々良いからな」

「あり得ないでしょ、俺に限って」

 そうして互いに笑い合いつつ、門口が手に持ったのは、あの夜と同じ、山盛りのチョコレートサンデー。

「うひょー!!」

 テーブルに置かれる前から、既に興奮し身を乗り出している。それでもキチンと置かれた後でスプーンに手を伸ばす辺り、食事に対する礼儀はわきまえているらしい。もっとも、勢いよくむしゃぶりつくその様は、とても礼儀がなっているとは言い難い光景ではあるが。

「相変わらず、好きだよなぁ」

「はい! ここのサンデーは人殺しの次に大好きです」

「ああ、そうかいそうかい……」

 それは、サンデーを食べる客と、サンデーを食べる客を眺めている店主という、ごくありふれた平和な光景にしか見えない。もちろん、二人が行っている会話の内容に目を閉じさえすれば、の話しではあるが。

「まあいい。それより今日も仕事だぞ」

 ちょうどサンデーを平らげたタイミングでそう呼び掛けた時、閃夜の目に、サンデーを見た時以上の輝きが灯った。

「あー、名前は『佐久間(さくま) 秀明(ひであき)』。今まで五人の女を殺してる。動機は殺した女全員に、会った直後ですぐ交際を持ち掛けて、それを断られた腹いせらしい。精神的にも完全にイっちまってる変態野郎だな。そのくせ自衛手段には優れてるようで、過去に一度逮捕されて裁判に掛けられても、徹底したアリバイ工作と証拠隠滅で無罪になってる。もっとも、無罪になったってだけで、こいつと関わった人間全員が、こいつを一目見て犯人だって確信してるんだがな。それで被害者の家族が金を出し合って、こうして以来してるわけだ」

 説明を行う門口の顔には、そんな話しで本来感じられるもの、明らかな嫌悪が浮かんでいる。そして、それを無言で聞く閃夜の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

「最高ですねそれ! そいつ、自分が殺されるって状態になったらどんな顔しますかね」

「……さあな。まあ大概こういう奴は自分が殺されるなんて思ってもねーだろうし、お前の期待する通りの顔になるんじゃねえのか?」

 身を乗り出して、顔同士がくっつくほど近づいてきた閃夜に、苦笑しつつ答えてやると、また席に座り直し、カバンに手を伸ばした。

「じゃあ、早速部屋借りますね~」

 陽気な態度を崩さないまま、まるで遊びに行く子供のように、期待に、夢に輝く、そんな表情で、閃夜はカウンターを通り、ドアを開いた。


(やれやれ。今まで個性的な殺し屋は何人も見てきたが、その中でも特に変わってるぜあいつ)

 そう呟いた直後、店の奥からドアが開き、また閉まる音が聞こえた。


 殺し屋を生業とする人間のそのほとんどは、そうなった理由としては、「生きるため」、「他に稼ぐ手段が無い」、「殺したい人間がいた」、そんな理由が主。当然閃夜のように、「ただ殺すことが好き」だという人間も大勢いる。

 だがそういった人間の場合、血を見ることで興奮し、殺すことで感情が沸き立ち、快楽を得る。そういった、己の快楽のために殺すことが目的。

 閃夜もそれは同じだが、それは同じ快楽でも全く種類が違った。

 乱暴に例えるなら、前者のそれが、異性の全裸姿に興奮する快楽。そして閃夜の場合が、待ちかねていた漫画の続きを読んで得られる快楽。そんな、根本的に種類の違う快楽。

 閃夜にとって殺しとは、快楽であり、娯楽であり、楽しみであり、そして生き甲斐でもある。それも、ただ「殺す」ことではなく、「悪人を殺す」ことが。


(生まれつきの性分か、あいつの持つ力の影響なのか、それは分からねーが……)

(何にせよ言えるのは、銃とかナイフとか、武器らしい武器を持たねえ殺し屋ってのは大勢いるが、その中じゃ、間違いなくあいつは最強だろうな)



   ◆



「はあ、はあ……ちくしょう!」

 息を切らしながら、時々後ろを振り返りながら、『佐久間 秀明』は走っていた。

「何で、何で僕がこんな目に……この僕が!! 何で!!」



「あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたのことは大体聞いて知ってる。佐久間秀明」


 突然、その男は目の前に現れた。その男が着ていた服、スーツにワイシャツ、革靴と、上から下までまっ黒な男。そんな、どこかこだわりを感じさせる服装と、わざわざ形を変えて作ったのであろう触覚の髪型。

 初めて見た時は、そのユニークな姿に、美しい顔も相まって、面白い男だと好感を持てた。だがその好感も、次の瞬間には消え失せることとなる。

「今まで女を五人も殺してきたんだよな」

「っ!!」

「楽しかったか? 自分の思い通りにならない女を、自分の手で殺すこと、楽しかった?」

「な、なに言ってるんだ……?」

「けどそれだけじゃ勿体ないだろう。せっかくだ。自分も殺されてみたら、お前が好きになった女達のこと、もっと分かるんじゃね?」

 徐々に、佐久間の顔から血の気が引いていく。そして全てを悟った。この男は、自分を殺しにきた。

「ば、バカ言うな!! 僕は裁判で無罪になってるんだぞ!! 僕が殺される理由なんて……」

「そんな世間一般の常識が、殺し屋に関係あると思うか?」

「殺し屋!? う、嘘言うな、そんなのがここにいるわけ……」

 否定しようと、言葉を掛け、その顔を見た瞬間、

「……」

「……!」

 その男は自分に確信させた。言葉の全てが、ハッタリでも、嘘偽りでもない。この男は、ただの私怨や復讐のためにやってきた男じゃない。それだけなら反撃もできたかもしれない。だが、殺しのプロが本気で掛かってくれば、敵うはずがない。

「だが普通に殺すのもつまらないか」

 だが、男は急に、道の隅にもたれ掛かり、空を仰いだ。

「三十分やるよ。その間にどこへ逃げても良いし、反撃したきゃその準備をしても良い。今からきっちり三十分後、俺もお前を探して殺す」

「な……に……?」

「はい、よーい……」

「ちょっと、待って……」

「スタート。一、二……」


「ひっ、あ、あぁああああ!!」



 そして、三十分間走り続け、立ち入り禁止の廃ビルの中へ。隠れる場所も、武器になりそうな物も多い場所で、自分の生を繋ぐことに望みを懸けていた。

「何が、何が殺し屋だ。そんなやつ、僕ならやっつけられる。そうさ、僕なら、僕なら……」


(悪いのは、あの女達だ。この僕が好きになったって言うだけで、十分に幸せなことだっていうのに、なのに、僕のことを無視しやがって、おまけに変態扱いしやがって……)

(この僕がだぞ! 僕が好きになったんだぞ!! それがどれだけ幸せなことか知らないで、どいつもこいつも僕をバカにしやがって!!)


 どうして分からないのだろう。

 誰かに愛される。それがどれだけ幸せなことなのか、彼女達にも家族や、大切な人がいるのなら分かっているはずだろう。誰かを愛したことがあるのなら、誰かに愛されることもまた幸せだということを、よく分かっているはずだろう。

 そして、その愛する人間が、自分という、世の誰よりも清く、美しい人間。あらゆる世界の女性を何人も愛し、愛でてきた自分。そんな自分に愛されるということが、どれだけ貴重で、そして幸福なことか、それが分からない女達が間違っているのだ。

 そう。正しいのはいつだって、清く美しい、自分なのだ。


(許さないぞ……あいつは絶対殺してやる……僕に時間を与えたことを後悔させてやるぞ。そして、僕が殺した女達の家族、全員ぶち殺してやる! 殺してやる!! 殺してやる!!)

 両手に強く握り締める鉄パイプ。それを掲げながら、決意を声に出す。

「殺してやる!!」


「誰を?」


「っ!!」

 その、低いが狭い空間ではよく響き、通る声。それは佐久間にとって、紛れもない、悪魔の声。

「ど、どうして……」

 振り返るとそこには、四十分以上前に別れたはずの男。

「体臭きつ過ぎ。足音とか呼吸音とか立て過ぎ。存在感あり過ぎ。はっきり言って、地球の裏側にいても見つけられるぞ」

「はぁ!?」



(前に聞いたが、あいつは嗅覚と聴覚、視覚とか視力とかが遥かに常人離れしてやがる。普段は抑えてるらしいが、本気を出せば、音と匂いだけで、少なくともこの街全部、まるで上から眺めてるみてーに、見た目以外の人やビルの正確な形まで把握しちまうらしい。それでターゲットが街のどこに逃げようが、それを元にすぐに見つけて、実際に目で見て確信する。どこに逃げようがどこに隠れてようが、全部見えちまってるってのは、ターゲットからしたら恐怖だろうな)

(俺は蟻には詳しくないが、実際の蟻も、もしかしたら世の中がそんな風に見えてるのかも知れねえな。まあ、とは言え地球の裏側とかまでは覗けねえだろうが)



「ふざけるなよ!! どうせ三十分逃げろって言って、本当はずっとつけてたんだろう!! この卑怯者!!」


 ヒュッ


 卑怯な手段を用いた相手に言葉を浴びせながら、鉄パイプを振り下ろす。だが、男はそれをひらりとかわした。


「卑怯者ね。人のこと言えるのか?」


 男を倒す。そう思いながら何度も、何度も鉄パイプを振り回しているというのに、それを男は、両手をポケットにしまいながら、全て交わした。


 ヒュッ


 おまけに交わしながら、声まで掛けてくる。


「初対面でいきなり告白。女からしたら困るに決まってるだろう。断られるのは当然だ」


 ヒュッ


「なのにお前はそんな相手の気持ちも考えず、一方的に相手のせいにして、自分の思い通りにならないから殺して償わせる」


 ヒュッ


「いや、償わせるって言葉も女達にとって失礼か。つまり、お前はただ、自分の思い通りにならない女が気に入らないだけだろう。良い歳こいて、結局はタダのガキってわけだ」


「黙れ!!」


 ガッキィィィィィィィン


 コンクリートの地面への一撃。それによって生まれた金属音が、静かにビル内に響き渡る。

 そんな音の中で、もう一度男に視線を送り、その間違いだらけの言葉に言い返した。

「何で分からないんだ!! 僕が好きだって言ったんだぞ!! この僕がだぞ!! 僕は今まで、たくさんの女性を愛してきたんだ!! 世界の色んな女性を!! 色んな世界の女性をだ!! そんな、誰よりも女性を愛することができる僕が好きだって言ってるんだぞ!! それがどれだけ幸せなことが、分かってないのはあの女達だ!!」

「そうさ、誰よりも清く美しい僕に愛されることは、世界一幸せなことなんだ。それが分からない上に、拒否りやがった、女達が全部悪いんじゃないかぁああああああああ!!」

 そうだ。自分のやることは全て正しい。自分を否定する人間が間違っているのだから。

 そんな正しい自分になら、この男も、この手で必ず殺せる。それがこの世の掟。

 それを確信しながら、男にとどめを、鉄パイプを、振り下ろす。


 ガッ


「っ!!」

 だが、男はその鉄パイプを避けると、それを足で押さえつけ、動けなくしてしまった。

「は、離せ!!」

「大勢の女性を愛した、ねえ……」

 そんな言葉が聞こえたかと思ったら、急に足を離され、引こうとした力のせいで尻餅をついてしまった。

「あの部屋の女達のことか?」

「……へ?」

「お前の部屋に散らかってた、アニメとか漫画とかゲームとか、アイドルのポスターやら女優の写真やら、ゴミ屋敷みたいに散らかってた女達のこと言ってるのか?」

「なっ!!」

 座った状態で聞いていると、男はとんでもない言葉を投げかけてきた。

「お前、何で俺の家のこと……」

「ここに来る前にチラッと」

 何と言うことだ。この男は、自分を追いかけながら、人様の家まで覗いたのか。

「この……この変態野郎!!」

 絶対に許さない。この男は、ここでころ……


 ドッッッ


 胸からそんな音が聞こえたかと思ったら、同時に胸に激痛が、そして、体が後ろへと引っ張られる……


「その言葉だけは、本気でお前にだけは言われたくねえよ」


 地面に引きずられてどうにか止まったが、それでもかなり飛ばされてしまった。

「ま、マグレだ、この僕が、こんなこと……」


 ドッ


 今度は顎。地面に座り込んでいた体が、顎への蹴り一回、それだけで、上へと押し上げられる。



(格闘センスというか、素手での実力もかなりのもんなんだよな。もっとも、それも蟻の力か、それとも実力なのかは本人も分かってないようだが。「自分達より遥かにでかい獲物を、時には一匹だけで巣までノンストップで運ぶ、そんな蟻の体力と力は素晴らしい。だから、もしかしたら俺もそうなのかもしれない」だそうだし)

(それに加えて、蟻まで使う)



「ちくしょう……ちくしょう……」

 激痛に、涙が出る。口や顎からは血が滴り、頭がふらふらする。だが、

「こんな所で、死んでたまるか。僕は……」

 もう一度立ち上がり、男に襲いかかろうとした。

 だが、

「……え?」

 なぜか、両手と両足が動かせない。

「何だ? ……」

「!! な、何だ!!」

 この目で見るまで気付かなかった。立ち上がろうと、地面に着けた両手と両足。そんな、四つん這いの自分を抑えつけているのは、両手と両足に、隙間なく群がる、まっ黒な輝きを放つ、蟻。

「あ、蟻、蟻、蟻が……」

 暗くて分かり辛い。だがそれは、見た目と言い、子供の頃に何度か経験した感触と言い、紛れもない、蟻の大群。それが、四つん這いの状態である自分を縛り付け、動きを封じてしまっている。



(あいつの中で生まれた蟻は、普通の蟻よりかなり強い力を持ってるからな。移動はゴキブリ並かそれ以上だし、人に噛みつけば、気絶させたり殺せたりもできる。まあそこは気絶で済むよう、閃夜が仕込んであるらしいが。大群になったら人一人押さえつけることまでできちまう。そんな状態じゃ、逃げられやしねえ)



「お似合いだな」

 顔を上げると、男は既に、目の前までやってきていた。

「正に犬っころだな。いや、犬は勿体ないか? ……うん、決めた。お前は豚だ」

「何なんだよ……何なんだよ!! お前!!」

「俺か? 俺は、そいつらの家、そして、そいつらの母親。名前は……」


「クイーン・アントネスト」


 ゴッ


「ぐふっ!!」

 また顔を蹴り飛ばされ、激痛が襲う。

「今日は久しぶりに、撲殺にするか。お前がこんな所に逃げてくれたお陰で、人が来る心配も少ないし、なっ」


 ゴッ

 ゴッ

 ゴッ

 ゴッ

 ゴッ

 ゴッ


 音が響き渡ると同時に、いくつもの痛みが顔を襲う。顎、額、鼻、頬、耳、目。顔の部位という部位の全てを、蹴りが襲う。

 暗く、痛みと衝撃に霞む視界でも、顔の真下の部分が、赤く染まっていくことが分かる。

 あまりの痛みに、その場に倒れたい衝動に駆られるも、ひざやひじの上まで覆い尽くした蟻の大群が、四つん這いという体勢の変化さえ許してはくれない。


「苦しいか? 苦しいよな?」

 また男の声。だが、今度は随分と遠くから聞こえる気がする。

「けど、お前が殺した女達の苦しみはこんなもんじゃ無かったろうな。お前なんかより、よっぽど明るい未来や、生きる価値があったと思うぞ。それを、お前は殺したんだもんな」


 ふざけるな……

 悪いのは僕じゃない……


 その思考が、最後だった。


 ゴッ



   ◇



 目を開くと、瞳孔が開き、脈を取ると、止まっている。何より、心臓も脳波も完全に停止していることが耳で分かり、僅かだが、死臭が漂い始めていた。

(しかし……)

 四つん這いという、かなり間抜けな状態の佐久間の、ぐちゃぐちゃの血まみれになった顔を眺めながら、閃夜はしみじみ感じた。

(顔はニキビまみれ、無精ひげ生やして、鼻毛は伸びまくりで、髪はフケだらけで、目は落ちくぼんで隈まで浮かべて、腹が出てて、そのくせ腕や胸はガリガリで、服装は明らかに適当で激汚、風呂にも入ってないな、臭すぎる……)

「同じ男として、あまり顔のことは言いたくないが、こんな、女の嫌がるバーゲンセールみたいな外見しといて、自分が好きになった女が幸せ、ね……自分の外見をどんな風に思ってたのか知らないが、最悪の不幸の間違いだろう」

 そんなことを話しているうちに、蟻達は閃夜の体の中へと戻っていった。

 その直後、懐から携帯電話を取り出す。



(化け物並の感覚でターゲットを見つけ出して、体中に飼ってる蟻で逃げなくさせて、持ち前の腕力で殺しを楽しむ。手順が完璧な上に、本人はそれを、殺しの手段と言うより、楽しむための道具って感覚でやってやがるからな。殺し屋には色々なタイプがいるが、もしかしたら、あいつ以上に怖い殺し屋も、世の中いないのかもしれねえな……)


 直後、門口の懐から、携帯電話の着信音が鳴り響いた。





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