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第二話 夜のお仕事

「よー兄ちゃん」


 突然閃夜の耳に、そんな卑しい声が響く。

 そちらを見ると、いかにもな服装と外見で、いかにもな歩き方でこちらに歩いてくる、いかにもガラの悪い男の四人組。もっとも、わざわざこんな『いかにもな』場所の道を選んで通る辺り、それだけで彼らの本質がうかがえるというもの。


 そんな四人のうちの一人が閃夜に近づく。その男は、二本に固めた前髪の一本を乱暴に引っ掴んだんだ。

「何だよこれ、へんてこな頭だなー。おまけにその服装、今から葬式にでも行くのか?」

 引きちぎらんばかりに乱暴に引きながら、今度は別の男が声を掛ける。

「葬式に行くなら香典持ってるよね? 悪いけど財布と一緒にここに置いてってくんない? ああ、その高そうなスーツも譲ってほしいなぁ……」

 彼が言い切る直前だった。

 前髪を掴む男の手首、閃夜は静かに左手を添え、それを、静かに握り、力を籠める。


「……っ!! ぐあぁあああっ!!」


 男は途端に悶絶し、その場に崩れ落ちた。

「て、てめえ!」

後ろで見ていた、三人のうちの一人が怒りに、だが同時に動揺を含ませながら叫んだ。閃夜は今なお手を握り締めながら、それに笑みを浮かべて見せる。


「ちょうどいい。最近ずっと退屈だったんだ。ちょっと少し遊んでくれる?」


 その言葉に、三人は怯んだものの、一斉に襲い掛かってきた。一人が殴りかかる。閃夜はずっと握っていた男の手から左手を離し、その拳を避けつつ、男の顔を掴み、そのまま残った二人の内の、一人の顔面めがけ、顔面同士を衝突させた。ぶつけられた方も、それを受けた方も共に倒れた。

 残った一人も襲ってきたが、何かをする前に蹴りが顎へと飛んできた。男はそのまま背中から大の字に倒れてしまった。


「……てめえっ!」


 最初に閃夜に腕を握り締められ、崩れ落ちていた男。彼は叫びながら、懐からナイフを取り出した。

「ぶっ殺してやる!!」

 叫んだ瞬間、

 スッ……

「……へ?」

 男の手から、ナイフが消える。その一瞬の出来事に、彼は右手と、地面を何度も確かめるように確認したが、ナイフは右手にも、地面に落ちたわけでもない。

 そうやっていつまでもナイフを探す男の目の前に、閃夜は奪ったナイフをかざした。


「こんな物使って、もし本当に俺を殺しちゃったら、とか考えてた?」


 微笑みながら、そう問いかけられた男の表情には驚愕しかうかがえない。

 すると閃夜は、右手に持つナイフの腹に親指を据えた。そのまま、ゆっくりと力を加える。すると、ナイフはぎしぎし音を立て始めた。それを男が理解した瞬間、バキッ、と、そのまま刃が折れてしまった。


 四人全員が呆然とその光景を眺めていた。そんな四人組に向かって、閃夜は折れたナイフの刃を拾い、笑い掛ける。

「どうせ、人一人殺したことも無いだろう。何なら教えてあげようか? 人を殺すことがどんなに楽しいか……お母さんが」

 まるで悪魔のように、狂気じみた笑顔を見せながらの一言。四人組は体の震えが止まらなくなった。そして、悲鳴を上げながら、その場から逃げ出した。

(雑魚……)

 ナイフを道に放り、空を見上げる。

 姿から始まり、表情、性格、精神、全てが『ARINOSU』の店長であった閃夜とは全く違う人物がそこにいた。



 歓楽街とは打って変わり、一気に人気(ひとけ)と光の無くなったビル街。

 閃夜はそんな場所の、目的の場所に立っていた。周りのビルもそれなりの大きさだが、目の前に建つそれは中でも群を抜いている。人工的な光の少ない、自然の闇夜を照らす自然の光、満月の光が、そんなビルの様子を一層際立てていた。

「やりがいがあるな」

 呟き、懐から封筒を取り出し、中身の紙を広げる。このビル全体の地図と、各セキュリティ、そしてターゲットの居場所、仕事、そして今日の予定が、事細かに記されている。

「へえ。社長ってただ座ってるだけな人だと思ってたけど、その割には部下とか会社(じぶんち)のことをよく分かってるんだ……ま、どんなセキュリティも関係ないんだが……」

 紙を適当に眺めながら、閃夜はポケットから一枚のクッキーを取り出し、一口かじる。紙を懐にしまい、残ったクッキーを握りつぶす。そして、手を開く。だが、手の平で粉々に砕けたはずのクッキーは、手の平から跡形も無く消え失せていた。

「仕事だ。今日も頼むぜお前ら」



 その夜もいつものように、警備員は出入口前の椅子に座っていた。出入り口を僅かに照らす明かりと、非常口の緑色の光りだけが目にチラつく、そんな空間。

 今夜も、この何も面白いことは起こらないであろう空間で、寝ずの番を過ごすことになる。昼も夜も、ただこんな空間に座らされ、同じ場所をただ眺めさせられる。出入り口の外の景色と、出入りする社員の顔を眺め、後はトイレとこの椅子の上を往復し、時々場所を交代して見周りをするか、休憩室で仮眠を取るか。

 ただそれだけの仕事。ただ、服装だけを真面目な警備員として演出し、大人しく座ってさえいれば、何もせずとも勝手に仕事をしたこととなり、家に帰ることを許される。

 (はた)から見れば、これほど楽な仕事は無いだろうと言いたくなるかもしれないが、毎日同じことを、何の変化も無しに、ただ繰り返すだけの毎日。やりがいも楽しみも全く無い。


 そんな毎日に対して、つい考えてしまうこと。

 何か、トラブルが起きてくれればこんな退屈も無くなるのでは無かろうか。

 武装集団とまでは言わないが、泥棒や、強盗と言った、人より少しだけ体力に自信があるだけの自分にも解決できる、そんなトラブル。それを対処することもまた、警備員の仕事。実際に捕まえることは警察の仕事ではあるが、警察が来るまでの対処は警備員が行わなければならないのだから。

 もっとも、これだけ大きなビルなのだから、それだけ警備システムもしっかりしている。そんなことは素人の自分でも分かることなのだから、大抵の泥棒はそれだけでビビってしまうだろう。そのために自分達警備員も、こうして平和な退屈時間を過ごせているのだから。


 何度も感じたそんな感慨にふけりながら、また出入り口に目を向けるのである。


「……?」

 突然、首の辺りに違和感を覚えた。針に刺されたような、それにしては弱いと言うか、儚いほどに微妙な感覚。しかし、それによって引き起こされたのは、それによって残った僅かな痒みだけ。適当に首を掻き、気にせずまた出入り口を見る。

 だが、なぜか直前まで感じなかった眠気に襲われた。

 警備員として、居眠りをすることは許されない行為だ。今までの仕事でもそう自分に言い聞かせてきて、眠気に襲われないようとかく我慢をし、何より仕事をしていくうちに、きちんと仮眠を取っていることからも、仕事中は自然と眠気は感じなくなっていった。

 だと言うのに、なぜかとてつもなく眠くなった。ここには監視カメラもある。ある程度の自由な行動は許されてはいるが、それと居眠りは別の問題となる。眠るということは、イコール仕事の放棄となってしまうのだから。なのに、眠気を抑えることができない。

 だが、突然目の前が真っ暗になった。誓ってもいいが、まだ(まぶた)は閉じていない。なのに、目の前は真っ暗になった。そして、遂に瞼の重さに耐えられなくなった。



   ◆



 ほぼ最上階に位置する一部屋。そこに、『輪月(わづき) 玄一(げんいち)』はいた。髪型は七三分け、灰色のスーツを着た中肉中背で中年の男。突然の停電に多少の動揺はあったものの、月明かりによって何とか視界が把握できるくらいには部屋の中は照らされている。

「まったく、ついていない」

 ガラス張りの壁面から外の景色を眺めながら、浮かない顔で呟き、溜め息を吐く。

 このビルには非常電源などといったシステムは設置されていない。だから、停電でパソコンが使えなくなれば、自然と仕事も中断することになる。社長から突然要請された、つまらない上に時間だけが掛かる仕事をもう少しで切り上げ、家に帰れるという時に起きた停電だった。


 だが、ずっと浮かない顔を浮かばせていたその顔に、徐々に不適な笑みが加わっていった。


「まあいいさ。俺が社長にさえなれば、こんなつまらん仕事ともおさらばだ」


 そう。全てはもうすぐなのだ。もうすぐで自分は社長になれる。

 上に立ちたいと言う野心こそあるものの、そのための場所、すなわち会社を作ろうという気位は持てない。過去の自分はそういう男だった。

 まだ今ほどこの会社が大きくなかった時代からこの会社で勤め、努力を重ねて社長の信頼を得て、多くの成果を上げてきた。そんな努力と苦労の積み重ねが、今の専務、会社のナンバー2という立場だった。だが、持って生まれてしまった底知れぬ野心は、そこまででの満足を決して許しはしなかった。


 まず、仮に今の社長がいなくなったとして、その後を継ぐことになるのは必然的にその息子となる。だから息子を殺した。この会社で優秀な社員として活躍していたが、他にも優秀な人材はいくらでもいるのだから問題は無い。ただ目障りなだけだった。

 次に、社長の妻を殺した。事故に見せかけた息子の死に疑問を持ち、独自に調査を開始しようとしていた。なので、余計なことを知られる前に殺すことにした。

 他にも、自分以外に社長たりえる人間は全て消していった。自分と同じ社長候補なのだから、どの人間も消すには会社にとっては惜しい人材だったが、邪魔になるのだから仕方が無い。自分がいるし、自分が社長になった後でまたそんな人材を育てれば解決するのだから。


「さて、あとは社長だ……」

 現社長さえ消えれば、自然な流れで自分が社長になるだろう。

 既にそのための完璧な計画も出来上がっている。その邪魔をする人間もいない。いたところでまた消せばいい。その考えが、輪月の心に余裕を与え、表情には笑みを加えていた。


「ん?」

 突然、目の前が直前に比べて暗くなるのを感じた。

 不審に思い、上を見上げてみると、ガラスのちょうど、月を映し出す部分に、月を隠す形で、何やら黒いものが付着している。

「何だ?」

 疑問に感じ、その部分に触れた、その瞬間だった。


「なっ……!」

 輪月が触れた瞬間、それ(・・)は突然動き始めた。丸い塊の状態のまま、上下左右に、縦横無尽に動いている。指に触れたガラスの感触からして、おそらく外側のガラスで起きている光景のようだが、だとしても、その動きは不気味さと共に、生理的に受け付けない嫌悪感、同時に恐怖を抱かせる。

「一体……」

 恐怖と疑問に声を上げた瞬間、また形が変わった。

 小さな円状の塊であったそれが、徐々に、巨大な円へと広がっていく。

「何だ……一体何なんだ……」

 その光景は、以前テレビで見たことがあった。台の上の砂を、手で動かして形を変える、『砂絵』の動きに似ている。だが、ここは台の上ではなく、会社。それも高層ビルの、最上階に近い部屋の、ガラスの壁面。そんな場所で、書き手もおらず、一人でにその黒い砂が形を変え、動いている。それは、人が作る砂絵しか知らない人間にとっては恐怖でしかない。

 そして黒い砂は、蠢きながら、またその形を変えた。

 それは、巨大な顔だった。それも、かなり不気味で、気持ちが悪い、化け物の顔。

 そんな化け物が、こちらに目を向け、そして、笑う。

「あ……あぁ……」

 恐怖と驚愕から動けなかった輪月が、慌てて踵を返して部屋の出入り口に向かった。ドアを勢いよく開き、ビルの出口に向かって走ろうとした、が、

「なっ!!」

 一階へ降りるための階段がある場所。そこへ向かって伸びる廊下に張り巡らされた、窓、窓、窓。

 そこには、今部屋で見たものと同じ、黒い砂がびっちりと張り付いている。壁面に比べれば、窓ガラスという小さな空間に、小さな塊が一つずつ。そして、その塊が全て、先程の巨大な顔と同じ形となり、こちらを見て、ニヤリと笑って見せた時。


「あぁぁああああああああああ!!」


 悲鳴を上げながら、また踵を返して走った。

 とにかく、この不気味な存在のいない場所へ。その一心で、一階とは真逆。黒い砂の見えない方向へ、とにかく走った。廊下を走り、階段を駆け上がり、そして、ドアを開く。


 屋上に出ると、先程窓から見た時と同じように、月は輝きを放っている。その輝きが、そこにはあり得ないはずの光景を際立たせていた。

「誰だ?」

 もうこの会社には、スーツを着るような人間は自分一人しかいない。それを知っているからこその質問。


「仕事さ」


 そんな返事を返した男は、真っ黒なスーツに身を包み、手摺りを超えるほどの長髪をなびかせ、頭にはおかしな触覚を生やしていた。月明かりの下、屋上の手摺りの上に子供のような体勢で腰掛け、すました顔を向けている。

「一体……誰だ……?」

 もう一度尋ねると、男は手摺りから降り立ち、正面から向かい合った。


「あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたのことは大体聞いて知ってる。『輪月 玄一』。社長になりたいんだって? そのためにヤクザと手を組んで、邪魔な人間を大勢殺したそうじゃない」


「っ!!」

 自分しか知らないはずの秘密を、目の前の知らない男の口から突然語られる。

 そんな現象を前に、驚愕、愕然、同時に焦りが、輪月の体を捕らえ、縛り上げる。

「なぜ、そのことを知ってるんだ……」

 言った直後、しまったと思い口に手を当てる。

 男はなお、こちらに笑顔を向けながら、徐々に近づいてくる。


「どうしてかな。ただ、これからあんたにも、その人達と同じ目に遭ってもらおうと思ってるけどね」


「なっ!!」

 その言葉で、輪月は全てを悟った。自分が今、この日の、この時間の、この会社の、この場所、屋上にいる理由を。

「そんな、まさか……じゃあ、この停電もお前が……」


「これは俺じゃない。仲間だ」


 変わらぬ笑顔を崩さず、語る。

「仲間? お前以外にも、殺し屋が来てるというのか?」


「おかしなこと聞くね。ずっとお前の周りにいるじゃない」


 ゾッとし、辺りを見回した。だが、自分とこの男以外に、人の姿は見当たらない。


「下、下。よく見てみ? このベランダ、こんなに黒かったっけ?」


 反射的に下を見た。確かに、暗くなっているとはいえ、月明かりに照らされたコンクリートの地面は、夜であることを差し引いても異様に黒くなっている。おかしい。そう感じながら、よく見てみると……


 カサカサカサカサカサ……


「な、何だこりゃぁああああああああああああああ!」


 よく見た瞬間、それらは先程の窓で見た砂と同じ動きを見せた。

 そして、分かった。それは砂ではなく、無数の、屋上を覆い尽くすほどの、大量の……

「あ、あ、蟻……こ、これだけの、あ、蟻、一体どこから……!?」

 それは地面だけでなく、手摺りや貯水塔など、男と、自分が立つ場所以外の全てを黒く染めている。


「知りたい?」


 また、男の声が聞こえた。


「教えてあげる」


 その顔を見ると、男はゆっくりと右手を上げ、こちらに手の平を見せた。すると、白く光る手の平に、無数の黒い点が現れる。それをまたよく見ると、そこからどんどん蟻が沸いて出てきて、屋上にぼとぼとと落ちていく。

「ひ!!」


「もっと増やせる」


 今度は腰を曲げ、顔を前に突き出し、口を開いた。すると、口の中から、鼻の穴から、目の隙間から、顔を隠す触覚の下から、また、穴の見当たらない頬や額、顎などの部分、それらがどんどん黒い点となり、そこから蟻が湧いて出てくる。


「これが俺の仲間……いや、『子供』だ」


 蟻まみれになりながら話すその異様な顔を前に、ただ、震えることしかできない。


「言っとくけど、蟻は基本が肉食だ。獲物が生きていても全員で死ぬまで襲ってしとめる。あんたも一度は見たことがあるだろ?」


 その話しに、硬直する体に寒気が加わった。

「ま、まさか、俺をこいつらに……?」

 だが、男はそれを聞いた途端、男は腹を抱えて笑った。


「あっはははは! あり得ないだろう、お前みたいな不味そうなやつ。それでこいつらが腹でも壊したらどうするんだよ、ふふふふふふ……」


 大声で笑った後で、こちらへ向き直る。


「たっぷり怖がらせたし、そろそろいいかな」


 男は、こちらに向かって歩き始めた。

 男が一歩歩く度、足元の蟻達は周囲に広がり、その足を置くためのスペースを作っている。

 すぐに逃げようと思い、足を動かそうとした。だが、その足がなぜか、全く動かすことができない。どれだけ力を込めても、地面から持ち上げることも、動かすことすらできない。なぜか。

「嘘だろう……」

 見ると、その足は、黒く染まっていた。そこには無数の蟻が足を覆い、固定させ、逃げるという選択肢を奪っていた。

「な、何で……何で、こんなことができるんだ……」

 震える声でつい漏れた疑問。

「答えは簡単」

 と、いつの間にか、男は目の前に立っていた。

「こいつらが俺の『子供』だから。そして、俺がこいつらの『家』であり、こいつらの、『母親』だからだ」

 そうして、動けずにいる間に目の前まで歩いてきた男は、胸倉を掴み、そのまま片手で真上に持ち上げた。その状態で今度は、直前までとは逆方向へ歩く。それを見て、男のしようとすることが分かった。

「ま、待て!」

 手摺りの外側に突き出され、遠い地面を見下ろしながらも、必死に声を掛けた。

「いくらで雇われたんだ!? その倍、いや三倍の金を出すから!! 助けてくれ!! 殺さないでくれ!!」

 こんな所で死にたくない。

 社長の椅子ももういらない。

 罪を償えと言うのなら何でもする。

 だから、助けて欲しい。

 だから、必死で懇願した。


「そう。それだよ」


 その声は、妙に興奮しているように感じられた。見ると、その顔は、直前以上に狂喜に満ちた、そして満ち足りた、恍惚の表情。


「人を殺したくせに、それを悪かったなんて全く考えないで、しかも自分は絶対にそんなことにならない、その罰を受けることも無いって本気で思い込んでる。そういう人間は、いざ自分が殺される時、決まってそんな顔になる。それを見るのが楽しいから、この仕事はやめられないんだよなぁ……」


 その狂気の言葉に、輪月は、理解した。

 この男の目的は、金ではない。ただ、殺すこと。それも、ただ人を殺すだけではない。自分のような、そう、今この男が話した通りの人間。殺人を犯しておきながら、それを罪とは思わず、そして、罰など起こり得ないと思い込んでいる、そんな人間。

 それを殺すことこそがこの、無数の蟻を従える、正に蟻の姿をした男にとっての、最高の愉悦。

「何なんだ、お前は……」


「俺か?」


 笑顔を崩さず、男は、答える。


「さっきも言っただろう。俺は、こいつらの『家』、そして、こいつらの、『母親』」

「名前は……」


 その時、胸倉への力が無くなるのを感じた。


「『クイーン・アントネスト』」


 その一言が、最後だった。浮いていた体が一気に下へと引っ張られる。と同時に、男の姿が一気に小さくなり、いくつもの窓が上へ目まぐるしく移動していく。そして体が徐々に上を向き、

 ガッ

 やがて、背中に何かがぶつかった……



   ◇



「任務完了。帰るぞ」

 閃夜がそう声を掛けた瞬間、屋上を埋め尽くした蟻達は、一斉に閃夜に向かって歩き始めた。

 蟻としてはあり得ない速度で、閃夜の足下まで歩き、靴の上をよじ登り、ズボンの下へ消えていく。

 蟻達は様々な姿、形、大きさをしていた。ただ、夜の暗さで分かり辛いが、本来種が違えば同じく違うはずの体色が、深く、透き通るほど美しい漆黒色。全てが共通して、そんな漆黒を月光の下で輝かせていた。


 そんな中で閃夜は、携帯電話を取り出した。

「今終わりました。戻ります」

『さすがに早かったな。クライアントには俺から連絡しとく。いつも通り報酬はもらったら連絡するから、その時取りに来てくれ』

「分かりました」


 携帯を切ると同時に、消えていたビルの灯りが一斉に点灯した。

 そして、警備員に噛みつき気絶させた蟻、ブレーカーを落として停電を起こし、再びブレーカーを上げた蟻達、全てが一匹残らず戻ったことを感じ取る。


「今日もありがとう。俺の大切な、可愛い子供達……」


 直後、閃夜の背中から、昆虫の(はね)が生えた。

 それは、女王蟻となりうるメス蟻と、そのパートナーとして選ばれたオス蟻だけが持つことの許される翅。一度使うと失われるはずのその翅を、何度も使い、出し入れする(すべ)を知り、今着ているスーツには、翅を広げるための細工が施されている。

 閃夜は地面を蹴り、月夜の空へと羽ばたいた。


 その強靭な肉体と、堂々とした風格は、家族に安らぎを与え、護る存在である、『(ネスト)』と呼ぶにふさわしく、その美しい姿と、我が子達を愛し、愛される心は、子供達を束ね、守る存在、『母親(クイーン)』と呼ぶにふさわしい。


 高遠閃夜。

 クイーン・アントネスト。

 彼は満月の夜の中へ、透き通るように消えていった。




 後日、輪月玄一の死は、不審な点も多数あった物の、状況的にも、遺体の様子からも、それ以外の可能性を連想させる証拠が見つかっていないことからも、その死の真実は、「自殺である」、そう結論付けられた。

 この事件はその後、新聞の片隅に小さく載り、それ以降、誰かの口から語られることは無くなった。





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