第十二話 探し物
強風が吹いていた。
風のうるさい音が室内にいても響いてくる。強風に混じって、パラパラ、ガタガタといった、雨が地面や窓ガラスにぶつかる音を響かせ、今日という天気の激しさを物語っている。
そんな音の響く室内で、男は椅子に座りながら、右手に受話器、左手に一枚の写真を持っていた。
「それは本当か?」
男が出した、冷静な響きの中に、確かな憎悪を含めた声。その声に、受話器の向こう側の男はあからさまな脅えの声を返した。
『は、はい、裏は取れました……』
その返事を聞き、男は机の上に写真を放る。
写真に写っているのは、黒のスーツ、黒のワイシャツ。
後ろへ長く伸びた髪。前髪が二本に固まり、下へ伸びている特異な髪形。
そして、美しい女性的なその顔立ち。
……
…………
………………
閃夜は紙袋を片手に、病院の廊下を歩いていた。
車椅子を引く老人、松葉杖を突く子供、様々な患者が目の前を通り過ぎていく。それらを見る度、異常とは言え健康な自分の肉体をつくづくありがたいと感じる。
そんな縁起でも無い感傷を自分で否定している間に、目的の病室に辿り着いた。個室である。ノックをして、「どうぞ」という返事を聞き、ドアを開いた。
「あ、店長」
「どうもー」
片手を上げながら、かなり緩い挨拶をして中に入る。中にはベッドに座っている凪と、その前で、椅子に座っている咲がいた。
「どう、その後の容態は?」
「はい、経過は順調だそうです。店長には、何度お礼を言っても言い足りないくらいです」
「タハハハ。気にしないで、君と俺の仲じゃないの」
閃夜と凪がそこまで会話した後で、今度は咲が、畏敬を込めた声を掛けた。
「でも今考えると、本当にすごいですよね。医者の先生でも治せないって言ってた手術を、まさか店長が成功させちゃうなんて」
あの時は、気が動転していて気付かなかったが、閃夜が手術をしたという事実がかなり衝撃的であったことに、咲は後になって気付いた。
あの時閃夜は突然現れたかと思うと、自分達家族と話していた医師との間に割り込み、開口一番、
「俺に手術させろ」
そう言って、自分の持つ医師免許、医療免許の全てを足元にばら撒いた。
だが医師としては、いきなり現れた部外者に執刀などさせる訳にはいかない。そう言って閃夜をつまみ出そうとさえした。だが閃夜は、そんな医師の胸倉を掴み、
「諦めて、何もしないで、命が無くなるのを黙って見てるしかないくせに、諦めない奴の邪魔はできるのか? だったら今すぐ、医者なんか辞めちまえ!!」
そんな閃夜の迫力(脅迫?)に圧倒された医師は、どうにか院長の許可をもらい、手術させることを許可したのである。
咲は見ることができなかったが、その時の閃夜の手術は、まさに神業であったという。素早く、そして的確にメスを動かし、道具を操って銃弾を取り出し、傷痕を縫った。二時間後には全てを終わらせ、見事成功させた。
そうして凪は、無事回復したのである。
後にこの出来事が『店長の不思議』に加わったことは言うまでも無い。更に、「めでたく七つ揃った」ということで、『店長の不思議』は、『店長の七不思議』へと改名された。
店長の不思議
『その一、店の中にいるにも関わらず、お客が来る十秒前には来店を予知している』
『その二、膨大な蟻の知識と共に、蟻と心を通わせている?』
『その三、どれだけ食べても太らない ※最重要』
『その四、私たちよりはるかに勉強ができる』
『その五、十三ヶ国語が話せる』
『その六、実は熊を倒すだけの実力を持っている』
『その七、手術ができる。医療免許をいくつも持ち、他の医者曰く腕は天才的とのこと』
「そうだ。クッキー焼いてきたんだ」
閃夜は思い出したように、持参した紙袋の中身を取り出した。中には二つの白い包みが入っていて、口の部分をかわいらしいリボンで縛っている。
「このリボン、店長が結んだんですか?」
二人に一つずつ、クッキーの包みを配る閃夜を見ながら凪が尋ねた。閃夜が頷くと、双子は共に笑った。
トントン
その時、病室のドアをノックする音が聞こえた。凪の「どうぞ」という返事の後に入ってきたのは、白衣を着た医師の一人。医師は一度凪に会釈をした後で、閃夜へ近づいた。
「高遠さん、重態の救急患者が今運ばれてきまして、力を貸して頂けませんか?」
「えぇ……またぁ?」
「お願いします! もちろんお礼はします!」
「ああぁ……分かりましたぁ……」
閃夜は若干顔を引きつらせながらも、渋々そう返事をした。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
双子に笑顔でそう言い残し、医師と共に部屋を出ていってしまった。
「やっぱり店長って、すごいんだね」
閃夜を見ながら、言ったのは凪だった。咲もそれに深く頷いた。
「うん、まあ……それはそれとしてさ、また彼の話し聞かせてよ!」
咲は身を乗り出し、凪はその姿に苦笑させられた。
「もう、何度も話して聞かせたじゃない……」
「いいじゃない。彼のことなら何度だって聞きたいの」
凪は回復した後、咲にだけは何があったのかを話していた。
目が覚めた時には、目の前に『クイーン・アントネスト』がいたこと、その直後に彼をかばい、銃弾を喰らったこと、そして恐らく、彼が救急車を呼んでくれたこと。
たったそれだけのことなのだが、咲は話しを聞く度に興奮を露わにしていた。
「やっぱり格好いい。『慌てるな。何も取って食おうって気は無い』……きゃー!! 私も言われたい! ていうかむしろ、彼にならぜひ取って食われちゃいたい……」
そんな咲の赤面している様子に、凪はまた苦笑した。
だが、撃たれた直後に見た夢のことは話していなかった。
あの時、自分は既に命を諦めていた。だからなのか、無意識に何度も閃夜の名を呼んだ。閃夜はそれに答えてくれて、伸ばした手を掴んでくれた。これが最後かもしれないからと、今まで伝えることのできなかった気持ちを伝えた。
そして、それに答えてくれた。
―「俺はいつも真面目で、一生懸命仕事をしてる凪ちゃんが好きなんだよ」
その言葉が特別なものだとは思わない。そもそも、現実でないことも分かっている。
それでも、その言葉のお陰で生きようと思えた。一度は諦めた命を、もう一度繋ぎとめようと思うことができた。そして今この瞬間、自分はこうして生きている。
あの夢だけは、自分の中だけの宝物にしよう決めた。そしていつか夢ではなく、本当に店長に告白しよう。それが凪の、今を生きる人生の目標となっていた。
……
…………
………………
「じゃあ、俺はこれで帰るからね」
凪に一言挨拶をした後で、病室を出る。
凪が入院して一週間。困難な手術を成功させたことをきっかけに、閃夜は一気に病院から注目される存在となってしまっていた。おまけに嫌と言えない性格が災いし、『ARINOSU』を経営する傍ら、この一週間で四件の手術の依頼があり、それら全てを受け入れ成功させていた。その腕が買われて正式に病院で働かないかという話しもあったのだが、当然断っていた。
そして今日、あの後にも二件の手術を依頼され、たった今、朝に病院を訪れ、夕方になってようやく開放されたのである。咲もとうに帰っていた。
(本業の方も忙しいんだよぉ……)
今日は店が休みだから良いような物の、慣れない手術でくたくたになり、重い足取りを引きずりながら、鈍く明るい空間を作り出す曇り空の下を歩いていった。
……
…………
………………
『ARINOSU』での仕事を終わらせた頃には、夜になっていた。
自宅に帰った後、バイクを走らせ『Latent』に向かった。疲れた日は特別に甘いものが恋しくなる。そんな欲求を抑えながら店に入ると、いつものように門口はカウンターに立っていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
挨拶をしながら座った直後、いつもと同じように、いつものチョコレートサンデーが振る舞われた。
早速右手におかれたスプーンを手に取る。
「……」
「どうした?」
閃夜はスプーンを片手に取ったまま、サンデーをじっと見つめ、動かなくなった。
「……どうしました?」
しばらく見つめた後で、逆に閃夜が門口に尋ねた。
「ん?」
「……」
「毒、ですよね……」
少しの沈黙の後、門口が口を開いた。
「……よく分かったな」
「薬品自体は無味無臭みたいだけど、いつも食べてるから分かります。何より、毒は扱い慣れてるので」
「そんなもんなのか」
「そんなもんです。どの道、毒じゃ死にませんよ俺。子供達が全部綺麗にして終わりです」
「そうだったな」
「それで、何かのテストですか?」
「……」
門口は諦めたように微笑みながら、椅子に座り、閃夜と向かい合った。
「この前、お前の店の従業員が撃たれた時、お前、撃った女を殺しただろう」
「はい。久しぶりに本気で怒っちゃって」
門口の問い掛けに、相変わらずの陽気な笑顔で返事を返した。
「その女、『津野田 令』な、うちの組織の殺し屋の一人だったんだ」
「え? 本当に?」
拳銃を持っていたし、普通でないことは分かっていたものの、同じ組織、という事実はさすがに予想外だった。
「まあ、そいつのやってた誘拐は、組織の命令とかじゃなくて完全に個人の小遣い稼ぎだったらしいし、殺し屋同士、出会えば殺し合いになることも仕方がねえ。普通なら何のお咎めも無えんだがな、その相手が悪かった」
そこまで聞けば、閃夜でも門口の言いたいことは分かった。
「その女、うちのボスの愛人だったんだ」
「あらぁ……それでボスが怒ってるってわけですか?」
「そういうこった。普段は温厚のクールで通ってるらしいが、それがかなりの剣幕だったらしい。組織の人間全部に召集を掛けて、お前を殺すことを呼び掛けたそうだ。仲介役でしかねえ俺にまでな」
「うわぁ、相当彼女に惚れてたんですね。まあ良い女だったのは事実ですけど……」
「あん? 津野田令のこと知ってんのか?」
「ええまあ、高校時代の同級生で、元カノでしたし」
「そうだったのか……」
「……」
「……」
二人でしばらく無言で見つめ合った後、また閃夜が尋ねた。
「でも俺を殺すのは良いですけど、俺がどんな人間か組織のメンバーは知ってるんですか?」
閃夜の何気ない質問に、門口もまた、何気なく答えを返す。
「そうだな。基本的にうちのメンバーは、俺みてえな仲介役も、お互いのことはほとんど知らされねえようになってるからな。中でも特に優秀なのは、俺とお前みてえに、ほとんど専属に近い形の仲介屋が付くことになってる。だからはっきり言って、俺以外でお前のこと知ってる奴は、まあ、メンバー全員把握してるボスくらいか」
そんな返事を聞いて、閃夜は深刻な顔を浮かばせる。
「じゃあ、これから俺のこと殺しに来る連中って、俺のこと何も知らずに殺りに来るわけですか?」
「そういうことだ。お前が、殺せねえわけじゃねえが普通の人間と同じようには死なねえこととか、殺し方とか何も情報を知らずに殺りにくることになる」
「……」
どうしたものか。
思わずそう考えてしまった。
だが、考えたところで、答えなど二通りにしか別れないことは明らかなこと。
組織から、そしてこの街から、見つからないよう遠くまで逃げ続けるか。
そして……
「……え? お、おい……」
沈黙の後、閃夜はスプーンを取り、毒入りサンデーを口の中に掻き込んだ。
「……」
平らげた後、少しだけ不快そうに顔を歪めたものの、ほんの数秒のうちに平然としてしまった。
「ねえ門口さん」
「ん?」
「仮に仲介屋ができなくなったとして、このお店だけで食べていけます?」
「……」
一瞬、門口の表情が疑問に染まった。だが、すぐにその言葉の真意を理解したらしく、表情を緩めた。
「この仕事も長いからな。お前以外にも何人かは常連客もいるし、どうせ独り者だ。普通に生活していくには十分な収益上げてるぜ」
「俺もです。商品の仕入れは無料だし、うちにも顧客は大勢います。家を買ったのはこの仕事で稼いだ金だけど、住宅ローンも払い終えてるし、保険料とか国民年金とか払っていくくらいの収益は上げてますし」
そしてまた、二人で笑い合う。
「どの道、お前に一番近い俺は、失敗した以上粛清は免れねえ。俺が生き残るとすれば、お前が全部片付けてくれることに賭けるしかねえ」
「任せて下さい」
「だがな、組織の殺し屋の人数は俺でも把握してねえ。それに、ボスはかなり保守的な人間で、部下には一切自分の正体を明かさねえって話だ。探すのは簡単じゃねえぞ」
「でしょうね。だから、取り敢えず店の周りに集まってる人達に、手当り次第に聞いてみますよ」
「周りに?」
「はい。上手いこと変装して隠れてはいるけど、ナイフとかスタンガンとか、凶器の匂いがプンプンするのが、十人くらいいるかな?」
「……まあ、連中にとって、お前の手掛かりはこの店だけだからな。だがよ……」
門口は、急に声を落とし、尋ねる。
「今日の天気予報は、見たのか?」
「……夜中に降り出すそうですね。空は曇ってたし」
「分かってやってるのか。なら、これ以上は言うだけ野暮か」
「じゃ、そういうことなんで……」
閃夜はいつもと同じように、傍らに置いてあったカバンを取り、立ち上がる。
そして、いつもの笑顔を浮かばせながら、陽気な声を発した。
「部屋借りまーす」
……
…………
………………
◆
「何なんだよ、一体……」
ほんの二、三分前まで、自分を含め、十人はいようかという殺し屋のメンバーで店を取り囲んでいた。そして、店の裏口からターゲットが出てきたという知らせを受け、そこに集合し、ターゲットである『クイーン・アントネスト』を一斉に狙った。
一斉に狙って、そして、二十秒もせず生存者は自分一人になってしまった。
「大丈夫?」
目の前で、クイーン・アントネストが美しい笑顔を浮かべながら尋ねてきた。
「なに……したんだ……」
たった今目の前で起きたことをそのまま言葉にすれば、自分も含む十人で、一斉に襲い掛かった。もちろん場所も方向も、タイミングさえも全てはバラバラだった。なのに、そんな自分達の前で何やら腕を振ったかと思うと、自分以外の全員がその場に倒れ、しばらくのた打った後で、動かなくなった。
「本当は色々聞いてみてから殺すつもりだったけど、どいつもこいつもバカそうな顔した青二才ばかりで、正直聞く気にもなれなかった。君は比較的頭良さそうだから生かしておいたけれど」
「何を……聞くって……?」
恐怖に体を震わせる自分の顔に、クイーン・アントネストは顔をズイッと近づけてきた。
「ボスがどこにいるか、知らない?」
「!!」
そんな質問をされても、返せる言葉など一つしか無い。
「知らない! 知るわけない!!」
本当に知らないことだし、仮に知っていたとしても言えるわけがない。そんなことを話せばこちらの命が危ないのだから。
「だろうね。俺だって、君みたいな若者が知ってるなんて思ってないよ」
「……」
少なくとも、若いという言葉はこの男にだけは言われたくないが……
「質問を変えるよ。ボスがどこか知ってそうな人は知らないかな?」
「知らない!!」
「あっそ……」
失望した。そんな声での言葉を吐きつつ、背筋を伸ばしている。
自分はここまでか。
そう思い、覚悟に目を閉じる。
が、閉じたその目を無理やり開かれた。
「じゃあ、君におつかいを頼もう」
「おつ、かい……?」
「うん。これから言うことをさ、組織の人間に、誰でもいいから漏らしてあげて欲しい」
「何を……」
「クイーン・アントネストは、ここにいるよ、ていう情報を」
「え……」
そして、クイーン・アントネストは、場所の情報を適当に言った後、背中を向けて去っていった。
「……」
そんな、楽しそうな背中に向けて、ナイフを構える。
構えて、すぐに下ろした。あの男にはナイフどころか、拳銃を持っても勝てる気がしない。だから今できるのは、あの男の言うことを、大人しく聞くことだけだった。
◇
……
…………
………………
取り壊すことすら忘れ去られた、三階建ての何らかの施設。
街からは離れた山の上にそびえ、人が寄りつくことは滅多になく、仮にここで騒いだ所で誰にも気に留められることは無い。むしろ、こんな夜にこれだけ光の少ない場所で、見るからに不気味にたたずむ廃墟を前に、人の声を聞いたとすれば、おそらくほとんどの人間は不気味に思い、逃げていくだろう。
そんな、殺人を犯すには絶好の環境。そんな施設の、手摺りも無い屋上の縁に腰掛けながら、閃夜は待っていた。
「これだけお膳立てしてあげたんだし、全員が来てくれるといいけれど」
そう呟きつつ、目を閉じ、耳を澄ましてみる。
(……バイク……車……軽トラ……人数は……三十、三人か。武器は……ナイフ……スタンガン……おっと、日本なのに拳銃まで……ん? 何だろこれ……)
まだだいぶ離れてはいるが、音と匂いで大まかな情報は手に入った。後は、ここまで辿り着く人間が、果たして何人いるか、というところだろう。
◆
「ここの屋上にいる。そう言ったのか?」
「え、ええ、まあ……」
「あの野郎、どんだけの実力か知らねえが、俺達をこんなところにおびき寄せて、文字通り高みの見物ってわけか」
廃ビルの前に集まった三十人ほどの男達。それが、各々の言葉を毒づいていた。
ここに集まった者のほとんどは、今日初めて顔を合わせるような連中ばかり。
殺人という仕事の特色上、ほとんどは単独での仕事が多い。人数を割くにしても、せいぜい二人から三人がいいところだろう。
もちろんその方法はいくつもある。単純にナイフ等の刃物を使う場合もあれば、毒殺や事故に見せかける場合。銃火器を使う場合もあるにはあるが、ここが日本という国である以上、それはよほど困難な相手を、よほど人に見られる心配が無く、よほど遠くに人がいても銃声の届かない場所、といった条件下でしか行われることはない。何より、組織で銃を扱える人間も、それこそ実力がトップクラスの数人しかいない。
だが今回は、そのトップクラスの数人が勢揃いし、銃を使う条件の全ても揃っている。
それだけ、クイーンと呼ばれる相手は強敵で、且つ狂ったような人物だということなのだろう。
「よし。まずは……おい」
三十代の渋面の男が、正面に並んで立っている、比較的若い数人の男に声を掛けた。
「お前達、まずはお前達が行け」
「お、俺達が!?」
一人が声を上げ、同時に全員が顔をしかめた。
当然の反応だろう。殺し合いの場において、最前線こそが最危険区域であるということは、経験の浅い彼らでも分かる。
そして、それを彼ら以上に分かっている男としても、芳しくない反応を見せる者達へ次に掛けるべき言葉も分かっている。
「そうだ。相手が相手だからな、かなり危険なのは見て分かるだろう。だからこそお前達に頼みたい」
「だからこそ?」
「そうだ。考えてみろ。お前達も、今後この稼業で食っていく気だろう」
「そりゃ、まあ……」
「相手は、組織に属する殺し屋全員を差し向けるほどの強敵だ。そして、お前らは幸か不幸か、そんな、俺達ジジイ共でも滅多に遭遇できねえような場にいる。こんな経験、おそらくこれからは一生できないだろうぜ」
「はあ……」
「だから、だ。ここでそんな経験をして、クイーンて野郎を殺すことができれば、お前達はこの先、間違いなく俺達以上の殺し屋になれる。俺達のような、場数と修羅場の数だけが一丁前なジジイ以上の腕にな」
「……」
「もちろん、危険なことだから無理強いはしねえよ。臆病者にはできねえことだ。手前のの命を守る自信が無いって言うなら、俺達ジジイが先に行ってやる」
「おくびょ……」
思った通り、その言葉に反応した。そして、次の反応も、予想の通り。
「……良いでしょう。俺達が先に行きましょう。ただの臆病者が、こんな稼業で生きていけるわけがないんですから。なあお前ら!!」
「あ、ああそうだ」
「やってやろうぜ」
「俺達で、俺達を舐めきったあの野郎をぶち殺すぞ!」
『おおおおおお!!』
「……」
殺し屋たるもの、利用できるものは全て利用するものだ。武器も、場所も、環境も、時間も、そして人さえも。
だから、自分が確実にクイーンの元に辿り着くため、死のうといくらでも代わりの効く若造達を焚き付けるのもまた、殺しの手段の一つ。どの道こんな単純な連中が、この先まともな仕事などできるわけがない。いやむしろ、これだけ単純だから、人殺しになるしかなかったのだろうか。
どちらにせよ、これで自分は若造達の後ろに隠れつつ、比較的安全に屋上まで進める。
臆病なことは恥ではない。むしろ、その臆病さこそが生きるには必須なものだ。
そのことを知っているのは、どうやら自分を含め、三分の一以下といったところか。それが分からない時点で、残りの三分の二には、そもそもの素質が無いということだ。
話しは進み、若造達がまずビルに入ることになった。入口は、目の前に開けた場所と、裏口が一つ、そして、窓がいくつか。
おそらく何かしらの罠が張ってあるだろう。とは言え、若造の一人に伝言を頼んでから、全員がここへ集まるまでは、長く見積もっても一時間にも満たない。それだけの時間でこのビル全体に罠を仕掛けることは難しいはず。だから出入口も、せいぜい二、三ヵ所がいい所か。
(なーんて考えてるだろうけど、気を付けて通らないと危ないよぉ。二つか三つ、なんてケチ臭いこと言わないで、出入口ぜーんぶ……)
若造の一人が、早速目の前の入口に、ゆっくりと入っていく。
ポタポタ……
中は昨晩の雨のせいか湿気が強く、暗くてほぼ視界の効かない中、水滴が地面に落ちる音だけが不気味に響いている。
そして、中に入った瞬間、その水滴によってできていた水溜まりが、バシャリ、という音を響かせると同時に、天井からの水滴が、耳やら首やらを濡らしていく。
「……!!」
濡らした瞬間、濡れた個所から痛みが走った。
そして、やがてその痛みは全身に広がっていく。同時に息が苦しくなり、目の前がうつろになっていく。四肢が上手く動かなくなり、立っていられなくなっていく。
「ど……ど……」
言い切る前に、床に倒れ、目を見開いたまま動かなくなった。
「毒だ!!」
誰かが叫び、全員が一斉にハンカチや手近な布、或いは仰々しいガスマスクを取り出し顔に着ける。そして、その状態でまた何人かが一斉に入っていくが、
「ぐお!!」
「がは!!」
入っていった人間は、必ず床に倒れ伏してしまった。
(ちょっとちょっと~、一度に八人も脱落? ボスの居場所聞かなきゃいけないんだから、ちゃんとここまで来てよね)
「ガスじゃない……」
比較的歳を取った男が呟く。
室内の毒と言えば、大抵は毒ガスを思い浮かべる。ハンカチや布を使えば、完全とは言えないまでもある程度は吸い込まずにはいられる。ましてガスマスクを着けていれば、完全に外気を遮断することができる。
なのに死亡したということは、ガスではなく、別の何かだということ。
「……そうか」
別の男が、気づいたように声を出した。
「お前ら、上着を上に羽織れ。毒はガスじゃなく、天井から滴ってる水だ。床にも窓にも、壁も肌に触れるな」
(せーかーい。全部の出入口の、床から天井から窓から、全部俺の中の蟻毒で濡らしておきましたー。これだけ大量の毒を分泌するのも初めての経験かもー……)
男に言われた通り、上着を頭の上に羽織り、床を濡らす水にも触れないよう注意を払いながら中を進んでいく。すると、先に死んだ八人のように、誰かがのたうつことなく、その八人以外が上の階へ上がることができた。
(まあ、このくらいは突破してもらわないとね。じゃあ次は、と……)
クイーン・アントネスト。
組織の中でも若い殺し屋だと聞かされていた。それでもわざわざ対策まで聞かされる辺り、強敵であることは分かっていた。それでも、どこか舐めている部分があったのは否定できない。役立たずの若造を差し向けてからこの短時間で、よくあれだけ大掛かりな仕掛けを施すことができたものだ。
(おそらく、屋上までのそれぞれ階に、何かしらの罠が仕掛けられてるはずだ。あの野郎、本当にゲーム感覚で楽しんでやがるのか……)
「いたぞ!!」
誰かが叫び、全員がそちらを向く。そしてそこには、一瞬だが確かに影が動くのが見えた。
「屋上にいるって言っておきながら、下まで降りてきやがったな! 間抜け野郎!!」
そんな下卑たセリフを吐くと同時に、ほとんどがそちらへ走っていく。自分もそれに続いた。
辿り着いたのは、何かの会議室のような部屋。広さは二十畳といったところか。あまり広い部屋ではないが、隅に積まれた荷物に、天井裏への梯子も見えて、少なくとも隠れる場所には恵まれている。
「どこに隠れてやがるか知らねえが、こっちはこれだけ数がいるんだよ」
そしてまた、十人程の男が部屋に入り、隠れそうな場所を全て見据える。
(ごめんね~。そこを探しても俺は見つかんないよ~)
ス……
ヒュッ
そんな風切り音が聞こえた、直後のことだった。
ドサドサドサ……
「なっ!!」
部屋に立っていた者達全員の足元に、何かが落ちる。代わりに、立っていた者達全員の、首から上が無くなっていた。
「ピアノ線か……」
(そゆこと~。そこにあった道具を人の形の影ができるよう組み立てて、屋上からピアノ線でそれを動かしつつその部屋におびき寄せて、もう一本の張っておいたピアノ線を引っ張って、首から上を切り落としちゃいました~。問題なのは、引っ張んなきゃいけないからこの手が使えるのは一回きりってことかなぁ)
「くそっ、こんなチャチな罠に引っかかるなんてな!!」
廊下で見た影を作り出した道具を踏みつけ、粉々に壊す。
「もういい!! このまま屋上まで突っ切るぞ!!」
そんな姿と怒声に、若造達は縮み上がりながら部屋を出ていき、階段まで逆走した。
言われた通り、残った全員でまっすぐ目指し、走っていく。
「相手は俺達が罠にハマるのを楽しんでやがる。必ず屋上にいる。わざわざあいつの罠に引っかかってやる必要は無え! このまま突っ切るぞ!!」
(ご明察。その口ぶりだと、最後の罠が何かも分かってる、かな?)
階段に戻り、残りの階段を駆け上がっていく。三階に寄り道をする理由は無い。そして運の良いことに、屋上へ続く階段は塞がれてはいない。このまま駆け上がれば屋上へ辿り着く。
バシャッ
そう。駆け上がることができたなら……
ガララ……
「うわあああああ!!」
「わあああああああ!!」
思った通りの光景。
屋上への階段へ踏み出す直前、足を止めた。足を止めなかった十人以上の若造達は、綺麗な円形に崩れた階段から、真っ逆さまに落ちていった。
真下は二階から三階へ続く階段になっているため、普通は軽いケガで済む。だが、
「ぎゃあああああああああ!!」
「ぐぁ、あああああああああ!!」
やはり、先程の水を踏み出した音は聞き違いではなかった。階段全てに、一階の出入口全てを濡らしていた毒で湿っている。
(さてと、これでだいぶ、強いやつは絞り込めたみたいだな。残ったのは……五人、か)
◇
屋上の端に座りながら、正面から出入口をまっすぐ見据える。五人のマネキン達は、既に出入口の外にいる。そのうちの一人がドアノブに手を掛け、ゆっくりと開き、そして、
ガアァン!
ドアが強く開け放たれた。
「コングラッチュレーショ~ン」
屋上へ広がるように入ってきた五人の男。中年の男が三人、若いが腕利きと分かる雰囲気に包まれた男が一人、そして、伝言役に一人生かしておいた青二才までいる。
青二才はともかく、ここまで辿り着いたことから、そして、目の前にして感じる殺気、たたずまいなどから、彼らが組織のトップクラスであることはよく分かった。
「ゴールおめでとー。もっとも賞金も商品もあげないけどね~。聞きたいことがあるのはこっちだし~」
そんなふうに話しかけると、一人が前に出てきた。
「お前が、クイーン・アントネスト」
「いかにもー」
そう返事を返すと、五人の顔が一層、険しくなった。
だが閃夜にとっては、表情の変化如きが恐怖になるはずもない。陽気さを崩すことなく再び声を掛ける。
「俺が君達をここに呼んだ理由は、分かってるよね?」
『……』
「ボスの居場所が知りたい、だったな」
数秒の沈黙の後、また別の男が声を上げる。
「そ。このまま逃げちゃうのは簡単なんだけどさぁ、今いる街にも色々と思い入れがあるしさぁ、面倒臭いからボス殺して組織も無くしちゃおうってことにした」
「……その組織の殺し屋を大勢殺しておいて、よくもまあ抜け抜けと……」
五人とも、怒りやら様々な感情で表情が歪んだ。
「まあ、そんなことはもうどうでもいいや。それで、君達の中で、ボスのこと知ってる人はいる?」
「……ここまでのことをしておいて、ボスはどこですかと聞かれて、はいそうですかと答える殺し屋がいると思うか?」
「思うよ。だって……」
閃夜は改めて、五人の顔を見やり、そして、嘲笑うように口元を釣り上げた。
「君達、俺より弱いもん」
『……!!』
その閃夜の言葉で、五人の抑制が外れたらしい。
「てめぇ!!」
五人の内、中年の一人が突撃した。手にナイフを握り、閃夜に向かって走る。
「……ここで怒るってことは、多分君は外れだね」
ピトッ
いつもそうするように、左手を前に払い、爪の先から液体を飛ばす。毒は、男の口に入り、男は走りながら倒れた。そして、それきり動かなくなった。
「まだやるの?」
『……』
表情にこそ表さないよう努めている。だが、四人の間には明らかに動揺が広がった。
「まだやる?」
『……』
「それとも、答える気になった?」
『……』
「……ボスが誰かなど知らん。分かってるのは、ボスは常に、組織一の殺し屋を従えているらしい、という話しだけだ」
しばらく黙した後で、別の中年の男がそういった。
「……それだけ?」
「それだけ」
「あ、そう……」
閃夜ががっかりしたように、表情を曇らせた、その時だった。
フッ
空気の切れる音が、彼らの真上に飛ぶ何かの存在を告げる。そしてそれは、閃夜が先程の状態で、正体の分からなかった物の形をしていた。
ドォオオオオオオオオオオオオオオオオオ
カァアアアアアアアアアアアアアアアアア
「うおっ!!」
「何だ!!」
「……!!」
爆音と共に、空中で白く巨大な光が生まれる。男達は一斉に顔を背けながら地面に伏せ、閃夜は、その光をまともに凝視してしまった。
(目が……耳まで……)
強烈な光は目に残像を残し、強烈な爆音は耳鳴りを起こす。それによって一時的に視力や聴力を奪われることになる。増して、それらが蟻並みに優れた閃夜の場合は、一時的どころか、残像も耳鳴りも、長時間焼きつけられる。
(……)
すぐさま視覚、聴覚を放棄し、嗅覚認識に切り替え、目の前に不完全なガラスの水槽を生み出す。だがそうして見えたのは、先程上に向かって『閃光弾』を放り投げた男が、何やら別の物を取り出す様。
(瓶……?)
だがそれが何なのかまでは、匂いだけでは判別できない。
考えているうち、男はその瓶を振りかぶり、こちらへ放り投げてきた。
パリン
後ろに下がって避けることで、瓶は足元に落ち、音を立てて割れる。
(……っ!!)
問題は、その直後だった。
(アンモニア臭……!!)
説明するまでもない、強烈な刺激臭を放つ物質。仮に液状化したそんなものを顔に被ったとしたら、肌は湿疹を起こし、目に入ろうものなら失明の恐れさえある。
そして避けたとしても、沸点が-33度と気化し易いため、すぐに空気中に発散され強烈な匂いを発する。
元々液状だったのか最初から気化していたのかは定かではないが、普通の人間なら鼻を摘まんでいれば我慢できる程度の匂いだろう。だが今の閃夜のように、不完全ながらガラスの水槽を作り出すほどに嗅覚を研ぎ澄ませていれば、その刺激臭だけで気絶するほどの刺激を受け、更に嗅覚はすぐさま効かなくなる。
「……」
一瞬にして、目、耳、鼻、『見る』ための全ての感覚を奪われ、閃夜に訪れたもの。それは、長く経験していなかった、完全な暗闇だった。
(……逃げなきゃ)
そう直感し、翅を広げようとした、その瞬間、
ポタ
「……!」
『見る』ことができなくても、『触れる』ことはできる。その感覚が教えてくれたのは、天気予報の通りの、雨。
大方の雨がそうであるように、始めこそ少なかったその雨は、すぐにその量を増やし、豪雨となった。
(これじゃあ、翅は広げられない)
全てが見えなくなり、移動手段、時には非常手段である翅まで封じられた。
そんな、殺し屋として、そして、人としての全てを奪われた閃夜に待っているのは……
ドカッ
「ぐぅ……」
激痛は、まず腹部からだった。誰かが殴ったか、または蹴ったのか。
だがそんなことを考えているうちに、顔に、そしてすぐに体中から激痛が生まれる。本来ならすぐに殺すべきところを、どうやら嬲り殺すことにしたらしい。顔、背中、足、腕、最初はそんなふうにどこを攻撃されているのかの自覚もできた。だが、次第に激痛の数の増大によって、それも考えることができなくなっていく。
雨に濡れ、水の溜まったベランダに手とひざを着いた時、
ブシュゥ
「……え?」
その痛みは、殴る蹴るの痛み以上だったため、何をされたかすぐに分かった。
「けい……どう……みゃく……」
手の甲の上には、生暖かい液体が滴っているのが分かる。だがそれはすぐ、冷たい感触へと変わっていった。
(まずい……この雨の中じゃ……)
そう考えた直後、額に雨よりも冷たい物が触れた。
ガシッ
その手を掴み、指先に意識を集中させる。だが、
バッ
バシャ
すぐに振り払われ、ベランダの上に横になった。
(やっぱり、この雨じゃ毒も使えない……)
触れただけで殺せるほどの毒とは言え、効果が及ぶ前に雨に流れてしまえば何の意味も成さない。
まさに、万策尽きた状態。直後、口の中に冷たい感触と、金属の味が広がった。
(ここまでか……)
(ごめん……)
(母さん……ここまでみたい……)
そこで、思考が、意識が途切れた。
◆
「目、耳、鼻の順に使えなくし、後は雨さえ降れば何もできなくなる。ボスから聞いてはいたが、まさかここまで簡単に殺せるとは。さっきまでの狡猾さが嘘のようだ」
閃光弾、アンモニア入りの瓶を投げた若い男が、両手と両ひざを着いたクイーンを見やりながら言った。
「やれやれ。そういうことならもっと早く言ってくれても良かったんじゃないのか?」
「何でも相当の地獄耳で、鼻も利くって話だったからな。迂闊に話すことはできなかったんだよ」
男の説明に、中年の男は肩をすくめる。
「まあいい。それで、頸動脈を切って、このまま放置していれば確かにいずれは失血死するだろうが、それだけでいいのか?」
「ああ。ボスが言うには、そもそもこいつを確実に殺す手段は失血死以外に無いらしい。仮にそれが本当なら、不死身ではないぶんまだ可愛げはあるが、十分に化け物だな」
「まあ、別に良いじゃないですか!」
四人の中で、特に嬉々としてクイーンを殴っていた、伝言役の男が口を挟んだ。
「こいつはもうこれ以上、何もできないようですし、とどめを刺しちまいましょうよ!!」
『……』
先程まで弱腰になっていたくせに、敵が少し不利になるとこうなる。典型的な弱者はこれだからいけない。こんな男がよく殺し屋になることができたうえ、クイーンという狡猾な男から見逃されたものだ。
「……まあいい。ならお前がとどめを刺せ」
そう言いつつ、中年の男は伝言役に、自分の銃を差し出した。
「使い方は分かるな?」
伝言役はそれを、嬉々とした顔のまま受け取る。普通なら初めて扱う銃など恐れて然りだが、どうやらこの伝言役のそれは、クイーンを殺せることの喜びに勝ることは無かったらしい。
カチャリ
初めて触るであろうそれを、満面の笑みでクイーンの額に突き付けた。
ガシッ
「なっ!」
その瞬間、クイーンがその手首を掴み、力を籠める。今にも手首が砕けそうなほどの強烈な握力。
(やはりな。あれほどの男が、このくらいで諦めなしないだろう)
だが、
「往生際が、悪いんだよ!!」
バッ
バシャ
伝言役が振り払うと、簡単にベランダに倒れ伏した。
「いい加減諦めて、大人しく死にやがれ!!」
先程以上に嬉々として、クイーンの上に馬乗りになり、
カチャリ
銃口をクイーンの口に突っ込む。
「じゃあな」
タァンッ
銃声が響き、だがすぐに豪雨の音に掻き消される。
終わった。後ろの四人ともがそう思った。
「ぁぁあああああああああああああああああああああ!!」
その、クイーンの声とは別の声による悲鳴を聞くまでは。
見ると、伝言役はクイーンの上から降り立ち、右手を押さえ、ベランダを転げ回っていた。よく見ると、右手の手首から先が無くなっている。
「な、に……? ……!」
咄嗟に、伝言役の落とした拳銃に目を向けてみる。その銃は、地面に粉々に分解され、転がっていた。
「馬鹿な、……!!」
だがまたすぐ伝言役に目線が戻った。
いつの間にか、伝言役の男の体が真っ黒に、いや、真っ黒な何かで覆い尽くされていた。黒はやがて、伝言役の体全てを包んでいき、仕舞いには巨大な黒い塊と化していく。そして、
ドバァ
そんな擬音が聞こえるほどの光景を作りながら、鮮血が散った。そして、その黒い塊は、徐々に小さくなり、後には、溜まった雨の上に揺れる血液だけが残った。
「な……な……」
動揺している間に、その黒いナニかはこちらへ向かってきた。
◇
――やめろ!!
――僕らのお家になにするんだ!!
――お母さんを虐めるな!!
――守るんだ!! 僕らのお家と、僕らのお母さんを!!
(子供たち……? どうしたの……? 何をそんなに、騒いでるの……?)
耳ではなく、脳に直接響く声に疑問を感じた時、目の前が、暗いが、今まで以上に明るくなった。
ザアアアアアアアアアアァァァァァ……
雨の音も、徐々にまともに聞こえてくる。だがこの雨の中では、雨の音がうるさすぎてガラスの水槽は作り出せない。
(クン……クン……)
鼻から息を吸ってみると、雨の香りがする。ようやくアンモニアの匂いが取れたらしい。嗅覚が元に戻るか、心配していたがどうやら問題は無い。雨による大量の水の匂いに交じって、セメントの匂いと、山の木々の匂い、すぐそばで人の血の匂いも感じられる。そして、子供達の匂いも。
(子供達……!!)
すぐに目を見開き、起き上がる。その時、気付いた。切り付けられた首が治っている。
(どうして? この雨の中で、どうやって……)
だがすぐに、子供達の匂いの方向へ視線を送った。
「え……」
視線を送り、声を失った。
そこには、量からして自分以外の五人の血が浮いていた。
だがそれ以上に、閃夜の目を引いたのは、そんな血の赤ではなく、大量の、黒だった。
「何で……」
大量の血を流し、ふらつきながら、黒へ近づく。足を踏み出せば、足元の水は波紋を生み、それが血を、そして黒、子供達の死骸を揺らす。
揺らしながら、閃夜は近づいた。守ると誓った、大切な子供達、その、死骸の元へ。
「なんで……」
水の上をたゆたう、大勢の子供達を、両手ですくい上げる。声を聞こうと感覚を研ぎ澄ました。だがいくら目を見張り、耳を澄ませ、鼻を利かせても、声は聞こえてこない。
そもそも、閃夜は知っている。彼らが声を出すことは、二度とないことを。蟻だけでなく、大勢の人間の命を奪ってきた自分には、その状態が死であることを、否定することはできなかった。
大方想像がつくだろうが、蟻の最も苦手とする物の一つが、大量の水、雨である。
大抵の蟻は泳ぐことができない。だからもし今歩いている場所が雨によって水溜りになったり、歩いていて水溜りにはまれば、ほとんどの場合はそのまま溺れ死ぬこととなる。だから蟻は、雨の降る日を事前に予知し、雨が降れば巣からは出ない。下手をすれば巣にも浸水し、巣ごと全滅する可能性もあるためである。
閃夜の場合、水に溺れて死ぬのは当たり前だが、泳ぎはむしろ得意な方で、水に浸かったくらいでは体に水が浸水することも無い。
だが閃夜の中の蟻に限って言えば、プールや海は勿論、そして、こんな大雨の中で放とうものなら全滅は免れない。
だからこそ、三十三人の殺し屋を迎え撃つ際、罠を仕掛けるための細工を施した後で蟻を放つことは無かった。
だというのに……
「なんで……」
また、疑問を繰り返した時、
「……!」
先程、夢うつつの中で聞こえた声を思い出した。
「守って、くれたの? 母さんを……俺のことを、守ってくれたの……?」
答えてはくれないと分かっていても、声に出して、尋ねてしまった。
「どうして……母さんより先に死んじゃいけないって、いつも、言ってるじゃないか……」
しばらく流さなくなり、忘れていた、熱い液体が、目の淵から雨と共に流れた落ちた時、ちょうど、雨も上がった。
……
…………
………………
カウンターの席に座りながら、門口は待っていた。
ガララ……
待っていると、ドアが開き、閃夜が中に入った。
「おお、生きてたか!」
満面の笑みで、かなり喜んだ声を出してくれている。
「ええまあ、偉い目に逢いましたけどね……」
なるべく陽気な声を出しながら、いつもの調子で声を出す。違うのは、いつもの普段着でなく、『クイーン・アントネスト』の姿でこの席に座ったことくらいか。
「……何かあったのか?」
「……」
だが、門口にはお見通しのようだ。これ以上ごまかすのは無意味だろう。
「……ええ、まあ。目も耳も鼻も封じられて、雨まで降られて毒も子供達も出すことができず、おまけに頸動脈まで切られてしまいまして」
「マジか。かなり対策されてるじゃねえか。それでよく生き残れたな」
「ええ、まあ……」
「……それが問題だったみたいだな」
「はい……」
言葉にするだけでも辛い。だが、それでも誰かに話して、楽になりたい気持ちもあった。
「……子供達が……蟻達が、出るなって言ってあったの無視して、助けてくれて……」
「蟻がって……蟻が、お前の命令も無しに出てきたってのか?」
「はい……五人に囲まれて、もうダメだって思った時、声が聞こえたんです」
「どんな声だったんだ」
「……やめろ……僕らのお家になにするんだ……お母さんを虐めるな……僕らのお家と、僕らのお母さんを守るんだ……って……」
「……」
門口も、その閃夜の悲しみの理由がよく分かったらしい。
「良かったな。お前は良い親だったってことだ」
「こんな形で証明されたって、嬉しくないです……」
肯定の言葉を掛けてやっても、閃夜はただ悲しむだけ。それもまた、門口は分かってはいた。
話題を変えることにした。
「そういや、頸動脈切られたって言ってたよな」
「ええ……」
今でこそ蟻達が綺麗に治し、傷痕も残ってはいないが。
「お前確か、ケガなら蟻に治してもらえるが、流れた血液までは作れねえって話しじゃなかったか?」
「……」
どうやら傷を突いてしまったらしい。
「聞いちゃまずかったか?」
「……」
閃夜は顔を歪ませ、うつむいてしまう。
「……子供達を……」
「え?」
「……」
まだ話すことを迷っているらしいが、遂に顔を上げる。
「子供達の死骸を……食べて……血液を……」
「子供達……蟻の死骸食ったのか!?」
思わず絶叫すると、閃夜はなお暗い表情になる。
「蟻って、鉄分が豊富なのか?」
「……鉄の他にも、タンパク質やビタミンにミネラルとか、たくさんの栄養素がバランスよく含まれてます。だから、意外と蟻の食用の文化は古いんです。日本でも昔は普通に食われてたし……」
「なるほどなぁ。まあ、それですぐに回復するんはお前くらいだろうけどな」
頷きながら、ここで門口は、最も気になったことを尋ねることにした。
「それで、ボスは見つかったのか?」
「……」
「ん?」
「……」
閃夜は無言のまま、ジッと門口を見て、そして、頷いた。
「……そうか。で、誰だ?」
「……」
「……そうか」
◆
「……」
「……だが、よく気付いたな」
「……俺を殺しにきた奴らは、誰もボスの正体は知らないみたいでした。分かったのは、ボスはいつでも、組織で一番強い奴と一緒にいるってことだけ」
「それだけか?」
「ボスに関しては、それだけです。けどそれ以上に気になったのは、俺を殺しにきた奴が、俺の殺し方を理解しすぎてる、てこと、ですかね……」
「……」
「目と耳、鼻、雨が降るタイミングも、多分見極めてたみたいだし、その後で俺を動けなくしたところで、頸動脈を切って失血死を促す……まるで、俺のことよく知ってる奴から聞いたみたいに、見事な手順でした」
「うん」
「俺がこのことを話して知ってるのは、一人だけです。その人はプロの仲介屋で、たとえ相手がボスだろうと、客や殺し屋の大きな情報は流さない。いつもそう豪語してます」
「うん」
「それだけの情報が集まれば、組織の人間は門口さんしか知らない俺でも、誰がボスかは分かります」
「まあ……そうか」
閃夜なら、すぐにここに辿り着く。そんなことは分かっていた。殺し屋としての素質を見出し、ここまで育ててきたのは他でもない、俺なのだから。
「……どうして?」
閃夜は、呟くようにそう尋ねてきた。
「最初に説明しただろう。お前の殺した殺し屋の女に、ボスは心底惚れてた。女の方もそうだったのかは分からねえ。だが、それでも許せなかった。たとえそれが、組織で一番可愛がってる奴だとしても、な」
「……」
閃夜はまた沈黙した。表情は、今にも泣きだしそうに歪み、こちらを無言で見つめることしかできない、そんな様子を見せている。
「……こんなこと聞きたくないけど、復讐が目的なら、俺を殺す以外にも方法があったんじゃないですか? 店を潰すなり、他にも色々。門口さんだって、俺を殺せないのは知ってるでしょう?」
確かにそれも一理ある。だが、
「それじゃ意味がねえ。お前は惚れた女を殺した。だからお前にも、死んで償わせる。そうしなきゃ、あいつも浮かばれねえ。そう思ったからな」
「……」
「まあ、それでもお前は大量に子供を死なせ、おまけにそれを食わなきゃならねえ状況だった」
「……子供達を食べないと、俺の中や、店にいる、もっと大勢の子供まで死なせることになるから……」
「辛かったろうな」
「……」
「ああ。殺す以外にも方法はある。今回の場合はそれだ。それが成功しただけで良しとするさ」
ギッ
その言葉で、閃夜はこちらに、強烈な視線を向けてきた。今まで、自分には一度も向けたことのない、殺気。
「俺が憎いか?」
「……」
「俺もだ。お前のことが、まだ憎い」
「……」
「どの道、組織のお前以外の殺し屋は、全員お前が殺した。仲介屋も何人もいるって話したが、あれは嘘だ。実際には、お前以外は全員、俺が電話で指示を出して、資料は郵送してやらせてた。つまり、もう組織には、俺一人しか残ってねえ。だから、俺を殺せばそれでお前が狙われることは無くなる」
「……」
「どうするかはお前の自由だ。この店に武器が無いのは、匂いで分かってるだろう。そもそも、仮に蟻や毒が無いとしても、俺はお前に勝てねえよ」
「……」
「つまりお前は、俺の命を好きにできる立場にある。殺すことも、生かすこともな」
「……」
「俺は命乞いはしねえ。最初に教えたろう。人殺しになるからには、人に殺される覚悟を持て。俺も、当然持ってる」
「……」
「要するにこれは、自分を殺される覚悟はあるのに、自分以外を殺される覚悟が無かった男の末路ってわけだ」
「……」
「話は終わりだ。さあ、決めるのはお前だ。好きにしな」
「……」
◇
ガタッ
閃夜は立ち上がり、門口を見据える。
「……もの」
「ん?」
その、呟きに近い声を、門口は聞き取ることができず、聞き返した。
「いつもの……下さい……」
それだけ言って、座った。
「……」
門口はその言葉に従い、閃夜に背中を向け、作業を始めた。
いつもの器に、いつもする盛り付けを行い、いつもそうするように閃夜に差し出す。今度は、毒は入れていない。
「……」
閃夜はそれを、黙って咀嚼した。
やがて中身が器にこびりついたクリームだけになると、そこに手の平を被せ、器の中を蟻で満たす。
「……俺も、同じでした」
ようやく、閃夜は声を出した。
「俺も、自分が死ぬ覚悟は、いつだってできてた。まして、子供達のためなら、命なんて惜しくなかった。けど、子供達の命も、大事な人の命も、無くしたくないんです」
それを言い終えると同時に、器は綺麗に空になり、手の平を下ろす。
「目の前で、たくさん子供達が死ぬのを見て、俺も、後を追いたくなりました。けど……殺し屋は、最後の最後まで生きるのを諦めちゃいけないって、教わったから」
「……」
閃夜は立ち上がると、カウンターを通り、裏口へと入っていった。
しばらくすると、元の格好に着替えてまた門口の前に現れた。そして、出口の前に立った。
「……」
「……」
沈黙が続いた後で、門口を見やり、そして、言う。
「……また、食べにきます」
その笑顔には、憎しみは残っていなかった。
『Latent』を出ると、東の空には白い朝日が輝いていた。
門口も、カウンターの窓からその朝日を眺めていた。
自宅で目を覚ました咲も、病院の個室で目を覚ました凪も、窓から同じ朝日を眺めていた。
その朝日に照らされた空間を歩きながら、閃夜は呟く。
「いつもと同じ毎日が、今日も始まる」
……
…………
………………
~二週間後 『ARINOSU』~
閃夜はスタッフルームで、いびきを掻いて眠っていた。咲はレジの椅子に座ってぐったりとし、凪はスタッフルームで会計処理を終わらせた直後だった。
凪は、閃夜と咲を見た。いつもそこにいる、姉と閃夜が好きだった。
咲はドアの開いたスタッフルームの中を見た。いつでも近くにいる、妹と閃夜が好きだった。
「お客さん」
いつものように突然目を覚ましながら、閃夜が言う。それに咲は立ち上がり、凪は閃夜と共にスタッフルームから出て、レジに立ち、閃夜は入り口に立った。
ドアが開く。だが、いつものように挨拶をすることは無かった。
「よ」
そう声を掛けてきた客は、これが初の来店となる、門口。門口が、閃夜に向かって微笑む。そして、店と双子を見ながら、初めて閃夜の、人殺し以外の生き甲斐を見た。
こんな存在達や、生き甲斐に囲まれる。そんな閃夜の純粋さが好きだった。
そんな門口と、咲と凪の二人、そしてたくさんの子供達。そんな、多くの大切に囲まれた毎日が好きだった。そんな大切を思い、そんな毎日に生きながら、毎日そうするように、毎日する笑顔で、毎日口にする言葉を口にする。
「いらっしゃいませ。ARINOSUへようこそ」




