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第一話 ARINOSUへようこそ

 暦は、八月初め。

 真夏の太陽が気温を上げようと、容赦の無い紫外線をじんじんと地上に叩きつける。。

 時間は真っ昼間という、その日最も気温の高くなる時間帯。

 少し遠くへ視線を送れば陽炎が揺れ、人々の体から水分を汗として奪い、代わりに喉をカラカラに干上がらせる

 そんな、大都会の街を歩いている人間のほとんどは、半袖等の涼を求めた薄着姿。その中には、まだまだ只中である夏休みを満喫しようという、子供達の笑顔もうかがえる。


 そんな、街の一角。そこに、その店はあった。

 大きさは、よく見かけるコンビニが二つ並んだほどの、一階建ての建物。外装の色は普通な白色だが、その白を基本としながら様々な色やイラスト等が散りばめられ、離れて眺めれば仄かな雰囲気だが、近くで見ると中々に華やかに見える。

 正面の上部を見ると、リアルに描かれた、(あり)と、二本足で直立する可愛らしいイラストで描かれた、蟻。そんな二匹の蟻が左右に描かれた白い看板に、黒く刻まれた文字。


 ARINOSU。


 そんな店に、小学校低学年ほどの幼い女の子と、その母親の二人が入っていった。


「いらっしゃいませ。ARINOSUへようこそ」


 明るい声で親子を迎えたのは、青色のエプロンを着た、若い男。

(まあ! イケメン!)

 店員の姿に、親子が同時に思った。

 白の半袖の涼しげな服装の上に被せた、青色のエプロン。

 そんな服装を着こなす、一八十センチを超す長身が映える、すらりとした体型。さらりと艶のある髪を後ろへ、ひざ下まで伸ばし、それを一本に縛っている。左右に分けて耳に掛けた前髪も長く、腰より下までの長さがある。

 そんな前髪に挟まれた中心から、大きく丸い目、白く光る小さな鼻、艶やかな唇、輝く白い肌を備えた、大人の女性の色香を漂わせつつ、且つどこか少女のような幼さの混ざった、そんな美しい顔がこちらを見つめていた。

 そんな、女性的な美しい顔を見せながら、二人が男性だと確信した理由は、体格や服装、立ち居振る舞い、そして何よりも、低いが、少年のように透き通った、その声を聞いたから。

 おそらく制服代わりであろう、エプロンに着けられた名札には、『高遠(たかとお) 閃夜(せんや)』、と、読めた。

 その美しい顔に、親子共に、女性として一瞬にして虜となっていた。


「それでは店内をご案内します」


 二人とも、その言葉で揃って我に返った。

 店内には数多く並べられた黒い棚の上に、細かな穴の開いた蓋で密閉された、小さ目な虫籠用の容器が、場所ごとに、二つずつ縦に積み重ねる形で並べられ、その全てに土が入っている。近寄ってよく見てみると、中には土だけでなく、『蟻』が入っていて、容器の中で巣を作り、土の上やガラスの側面を歩いている。

 また、一つ一つの容器の前には、その蟻の拡大写真と説明書き、そして、大学ノートほどの大きさのカードが束で箱に入れて置いてある。

 そんな店内を案内されながら、蟻を飼育したいという娘のため、母親は、店員からの説明を聞いていた。


「初めての方でも最も飼い易いと言われる種類の一つが、この『クロオオアリ』です。日本で最もよく見かける種類の一つでもあるので、値段もお手頃です。多分公園なんかで見かけることもできますよ。名前の通り大きな体が特徴で、ちゃんとした容器に入れてやれば逃げ出す心配も少ないですし、仮に逃げ出しても対処がし易いですから。容器には清潔な土や砂を入れて、餌は砂糖水なんかをあげれば簡単に育ってくれます。餌はあまり選ばないのでその点も楽な部分です。飼育のし易さと手に入り易さから、蟻の中でも人気がありますね」


「こっちは『ムネアカオオアリ』です。こっちも名前の通り、赤い胸と大きい体が特徴で、女王になるとクロオオアリよりもでかくなります。飼育の方法は今説明しましたクロオオアリと同じような方法で問題ありませんが、クロオオアリに比べると、液体系の餌を好んで食べて、多湿な環境を好む傾向があります。こいつも蟻の中では人気がある種類ですが、クロアリと違って、公園などよりも山の中で見かける蟻です」


 蟻の特徴、飼育法、ちょっとした知識等を、フランクな口調ながら、丁寧に、事細かに、飼い易い種類から順に説明していく。商売人としては当然のことかもしれないが、その真摯な態度と丁寧な口調、何よりその美しさから、また親子共に魅入られていった。


「じゃあ……この蟻にします」

 一連の説明を聞き、母も娘も満足した様子で、一種の蟻を選んだ。

「ありがとうございます。それでは……」

 そう言うと、店員はその蟻の前に置いてあるカードを一枚取り、次に案内されたのが、蟻の水槽よりも更に奥にある空間。

 そこには、蟻を入れるための飼育容器、様々な土、多種多様の餌、その他蟻の飼育のために必要なグッズが、種別、用途別に、これでもかと並べられている。

「こちらで必要な物を揃えることはできますが、蟻を入れるための容器や土の用意はできてますか?」

 もちろん、そんな知識の無い母親は首を横に振った。

「蟻によって、土や砂なども変えてやる必要があります。仮に相性の悪い土に入れてしまうと、元気に育たないんです。先程選んで下さった蟻ですと……」

 そして、今度は土、砂に関する説明を聞いた。その蟻にとって最も相性のいい土や砂の組み合わせ、環境の整え方等。

 土が終わった後は餌の説明。シロップ、ゼリーから虫の死骸まである中から、その蟻の最も好む餌の説明を受ける。

 そして、蟻を入れておくための容器。ただ飼育したいだけなら普通の容器でも良いが、そこに観察という目的が加われば、そのための容器が必要になる。

 それらを、手に持つカードを見せながら説明してくれた。そのカードは手作りらしく、かなり見易く、丁寧に、一目見れば必要なことが全て分かるように作られている。それに加えて、彼もまた、蟻の時と同じように、丁寧で事細かに、だが愛想よく、楽しい口調で話してくれるため、聞いていく中にくどさや退屈を全く感じさせない。

 そんな説明に、母親にとって会話という短い時間は、必要な知識を必要なだけ得る、そのために十分な時間だった。


「それでは、最後に蟻を御用意致します」

 蟻以外の必要な物を買い物籠へ詰め、そのまま元いた蟻の並べられた場所へと戻り、三人で選んだ蟻の前に立った。

「それでは、こちらのケースに蟻を移しますね」

 言いながら今度は、蟻の置かれた場所のすぐ下に置いてある、手の平サイズの丸いケースを手に取り、蓋を開けると、蟻の入った容器の蓋も開けた。

 その後、蟻を捕まえてケースに入れてくれる、そう母親は思った。

 だが、店員はただ中指を容器の口に着け、親指をケースの口に着ける、それだけで静止してしまった。

「あ、あの……」

 疑問の言葉を掛けようとした直後、すぐにその言葉を呑み込んだ。

 彼が指を着ける瞬間まで無造作に歩いていた、土の中に潜っていた物も含めた蟻が、一斉にその指に向かって列を作り、歩き始めた。そのまま蟻達は、中指を通り、そのまま手の甲から親首までを歩き、次々とケースの中に入っていく。

 親子は唖然とした様子でその光景を眺めていた。

 二十匹ほどの蟻がケースに入ったのを確認し、中指を水槽から離す。すると、容器の口まで来ていた蟻達はまた一斉に土へと戻り始めた。その後、手の上を歩いていた残りの蟻も、一匹残らず容器に入り、そこでようやく容器とケースのふたを閉じた。


「すごーい!」


 そんな娘の声も耳に届かず、母親はまだ唖然とした様子でいる。そんな母親をよそに、店員は女の子に蟻の入った容器を手渡す。

「メス蟻が一匹と、その他の兵隊蟻が二十匹です」

 その後、説明に使ったカードを母親に手渡した。

「それではこちらで会計を済ませましょう」

 ようやく正気に戻った母親を促し、二人を連れてレジに向かう。二つ並んでいるレジの片側に、同じく店のエプロンを着た若い女性が立っていた。身長は一六十センチ前後。背中までさらりと伸びた髪が光る。店員の彼には及ばないものの、年齢相応の可愛らしい美しさを感じさせる、笑顔の似合う女の子。名札に書かれた名前は、『西園寺(さいおんじ) (さき)』。

 彼女は手慣れた様子で商品を受け取り、計算を終わらせ、代金を受け取り、そして、袋に商品を詰めていった。

「ありがとうございました」

 お礼と一緒に、爽やかに礼を言われた親子は、共に笑顔になった。

「ありがとうございました」

 最後に出口で彼から礼を言われたことで、二人でうっとりとしながら店を出ていった。



「何度見ても、やっぱり不思議ですよね」

「たははは」

 咲の陽気な発言に、閃夜は笑い声を返した。

 何の道具も使わず、蟻を直接容器からケースへ移す。しかも、ただ移すだけではなく、オスとメス、両方を適正な数だけ容器に移すこと。彼女にはできない、少なくともこの店では、閃夜にしかできない芸当だった。


 店名は『ARINOSU』。店としてのジャンルは、ペットショップに当たる。

 だが、最大の特徴として挙がるものが、その名前が示すように、『蟻』と、その関連商品以外は一切扱っていないこと。そして、この店ほど多種大量の蟻を扱っている店は、世界中探しても絶対に無いだろう、そう自負できるほどの品揃えであるということ。

 そんな、一見地味な店ではあるが、地味ながらもその売上は開店時から伸ばしていった。

 蟻を求めるなら、単純に近所の公園や山の中で捕まえればいい。それをせず購入を求めるなら、ネット販売が一般的。

 だが、実際に目の前で生きている蟻を見て、確実に手に入れ、買った後ですぐに飼育を始める。それは、店頭販売でなければ無いメリットであることは間違いない。

 そんな店で、最初は自由研究などを目的とした子供や学生が中心だったのが、次第に多種の蟻が揃っている店だと評判が広がり、街に、やがて、全国の蟻好き等の間で、「蟻と言えばARINOSU」という評判を、時間を掛けたことで獲得していた。


「それじゃあ咲ちゃん、お客さんが来るまで休憩してていいよ」

「はーい」

 咲は笑顔で返事をし、レジの裏にある椅子に座った。

 閃夜が『咲ちゃん』と呼ぶ、この店のアルバイトである高校二年生の少女、『西園寺 咲』。本人(いわ)く、「勉強の変わりにスポーツが万能である」とのこと。性格は大変明るく、顔は美人。仕事は主に接客だが、更に並べられた棚や床などの掃除も一任されている。

 そして、アルバイトは彼女を含め、二人雇われていた。


「店長」


 店の奥から、閃夜を呼ぶ声が聞こえた。

「はーい。じゃあ咲ちゃん、レジよろしく」

 咲にそう言った後で、閃夜はレジの奥に入っていった。


 スタッフルームとなっているその部屋は、八畳ほどの広さで、中心には大きな机が一つと、車輪付きの椅子が三脚。

 隅には水道にテレビ、パソコン、プリンターまで設置されている。机の中心には電話が一台置いてあり、周囲の台にはスナック菓子に饅頭、煎餅、クッキー等の様々なお菓子に加え、電気ポットに紅茶のパック、お茶っ葉と急須(きゅうす)、コーヒーの粉末。

 更に冷蔵庫まで設置されており、中には大量のジュースに、チョコレートやケーキといった、要冷蔵の甘いお菓子が詰まっている。

 そんな部屋の、机の前にもう一人、少女が、電卓片手に椅子に座っていた。

 咲にそっくりな顔をしているが、髪は首筋までのショート。眼鏡を掛け、笑顔であった咲とは対照的な、落ち着いた表情を閃夜に向けている。

 そして彼女もまた、当然ながら青色のエプロンを身に着け、その上に名札を着けている。そこに書いてある名前は、『西園寺 (なぎ)』。


「凪ちゃん、もう計算終わったの?」

「昨日も言いましたけど、今月に入って少し電気代と雑費が増えてますよ」

 差し出された帳簿を受け取り、確認してみると、

「あ、本当だ」

「電気代はまだいいですけど、雑費はどう考えてもお菓子の買い過ぎです。ただでさえ今も大量にあるんですから、無駄使いしないで下さい」

 落ち着いた声で指摘され、閃夜は苦笑しながら、「ごめん」と一言答えた。

(これじゃあどっちが大人なんだか)


 閃夜が『凪ちゃん』と呼ぶ彼女は、咲の双子の妹。

 だが、その性格は真逆。明るい咲とは対照的に、凪は常に冷静でまじめな性格をしている。更には眼鏡に短髪という見た目の例に漏れず、勉強の成績は良いらしく、少なくとも咲に比べれば、成績は遥かに上。閃夜はそんな凪に対し、接客に加えて、会計処理に電話の応対、メールチェック等を任せていた。


「あと、さっき電話で普通のお客さんと、研究所からの二件の注文があったので目を通しておいて下さい」

「オッケー」

 笑顔の返事の後で、閃夜は注文のメモを受け取り、計三件の注文を眺める。

(普通の注文が……『ハキリアリ』か。中南米の熱帯雨林に生息する、世界でも珍しい農業を行う蟻……育て方分かってるのかな? まあ俺も教えるし、相手も分かってて注文してるんだろうけど……)

(研究所が……どっちも海外産だな。一つ目が『グンタイアリ』、また危ない蟻だな……二つ目が、『アカヒアリ』……、殺人蟻じゃん。まあ研究用なんだろうけど。そう言えば今時は日本にも時々出るんだっけ……?)


 先程も言ったように、蟻を購入する際にはネット販売が一般的な手段であり、ARINOSUでもネット販売及び、電話での注文は受け付けている。それ自体は普通のことではあるが、ARINOSUの場合、一般の客に加え、大きな研究機関から蟻の注文を受けることもしばしばあり、特徴の一つとなっている。

 都合上店内に並べている蟻は、針や毒を持たない、『飼うことに適した蟻』に限られる。

 しかし、一般的にはあまり知られていないことだが、蟻という生物は、実はハチ目スズメバチ科の昆虫であり、世界的に見ると、針や毒を持つものが多数派な昆虫でもある。

 研究機関からは、主にそういった毒や針を持つもの、獰猛なものといった蟻の注文を受ける。普通なら現地に行かなければ手に入りそうにない、熱帯に住むような蟻も、この店ならば簡単に手に入れることができるためである。

 その入手ルートはどこか。

 それは、閃夜しか知らない、咲と凪の二人にさえ明かしていない、極秘事項である。

 そのために、過去に警察に目を付けられるようなこともあった。だが、法に背くようなことは何もしていないため、疑われることはあっても、逮捕されることはまず無い。何より閃夜は、そういった場所の人間に対して、定期的に『心ばかりの寄付』を行っている。

 閃夜がそこまでして守っているこの店の秘密は後々、彼の秘密と共に話すとしよう。


 閃夜はメモを見た後で、冷蔵庫から板チョコを一枚取り、食べ始めた。

「店長、営業中にお菓子はやめて下さい」

 凪自身、もはや何度注意したか分からない。客がいる時こそ真面目に仕事をするのだが、いない時はこのように自由にくつろいでいるのが、閃夜という人物なのである。

「お客さんの前では食べないから、大丈夫大丈夫」

 板チョコをほおばりながら幸せそうに話すその顔は、無邪気な子供のそれに違いなかった。その顔を見る度に、凪は、呆れた気持ちと同時に、心が和むような感覚を覚える。

(もう、お菓子と蟻を前にすると子供みたいなんだから)

 そんなことを思いながら、机の上を片付ける。閃夜はそんな凪を見て、

「凪ちゃんも食べない? 甘いもの食べると疲れがとれるよ」

 相変わらず幸せそうな表情での言葉だった。

「結構です」

 凪が冷たく答えたところで、また閃夜が言う。

「終わったなら、咲ちゃんと一緒にレジに回ってもらっていいかな?」

「分かりました」


 返事をしながら、凪はスタッフルームから出ると、咲に並んでレジの椅子に座った。

「店長は?」

「奥でチョコ食べてる」

「またか。あの人いつもお菓子食べてるよね。営業時間でも構わず」

 変わらず呆れた様子の凪とは対照的に、咲もまた、変わらない陽気な口調で返事を返した。

「本当。顔も性格も子供みたいなのに、それでもきちんと仕事はこなすし、蟻の知識はすごいし、蟻も何だか店長に対して、何て言うか、心を許してるような感じがするし。すごい人なんだかそうじゃないんだか」

 始めは変わらず落ち着いた表情で話していた。だが最後の方は、徐々に笑みも混ざっていった。そんな凪を、咲はニヤついた笑顔で見つめた。

「え? 何?」

「いやいや。いつも思ってたけど、凪って学校とか、家でさえあんまり笑わないのに、店長のこと話してる時はいつも嬉しそうに話すから」

 咲のそんな言葉に、凪の顔に赤みが挿した。

「な、べ、別にそんなことは……」

「あはは、赤くなっちゃって、かーわいいー。相変わらずだよねぇ、だーい好きな店長のことになると……」

「ち、違うってっ! 私は別に……」

「二人して楽しそうに何の話し?」

「きゃあ!!」

 突然、後ろから閃夜の声がしたことで、凪は声を上げ、大袈裟に椅子から飛びのいてしまった。

「何もそんなに驚かなくても、俺が聞いたらまずい話だった?」

 凪はまだうろたえていたが、隣にいた咲が凪の前に立ち、

「双子の秘密のお話です」

 そう話したことで、閃夜は納得したように笑顔を見せた。

「そっか。それは邪魔してごめんなさい。そうだ咲ちゃん、さっき凪ちゃんには聞いたけど、お菓子どう?」

「いただきまーす!」

 その返事に、閃夜は嬉々として奥から缶入りのクッキーを持ってくると、蓋を開け、レジの上に置いた。

「ありがとうございまーす」

「どういたしましてー。お客が来たら隠してねー。二人で仲良くねー」

 缶を置いて、店内を周り始める。この二人は、性格の面でもよく気が合うのである。

「姉さん、人のこと言えないじゃない」

「まあまあ、気にしない気にしない」

 妹の皮肉を軽く受け流しながら、クッキーを食べ始める。そんな姉の姿に、凪は溜め息を漏らした。

 そして、店内を周っている閃夜の姿に目を移す。

 笑顔を浮かべ、楽しそうに行っていく。そんな一連の行動の一つ一つを見るたび、小さいが、確かな、小さな音が胸から聞こえてくるのを感じた。



 午後八時五分前。

 ARINOSUの閉店時間は、午後八時。

「今日もありがとう」

 閃夜はシャッターを閉めた後で、レジに立つ双子と向かい合い、給料の入った封筒を手渡した。

「おつかれさまでしたー」

 封筒を受け取りながら、咲が笑顔で礼を言う。

「おつかれさまです」

 凪も受け取りながら、落ち着いた声で言った。

「じゃあ、明日もよろしくー」

 閃夜が手を振りながら言った後で、双子は裏口から出て帰っていった。



 閉店後の店での仕事を終え、閃夜はエプロンを脱ぎ、明かりを消して裏口から店を出た。

 店から離れ、店のあった街の一角から離れ、店を出てから二十分ほど歩いた場所。そこにポツンと建った、白く大きな、一戸建て住宅の前で立ち止まった。

 ドアの鍵を開けて中に入ると、中は真っ暗で、閃夜以外の人間が住んでいる様子は無い。しかし、一人で住むにはあまりにも大き過ぎる。

 そんな家の居間に入り、明かりを点ける。居間は清潔にされているが、それはむしろ清潔と言うより、ただ単純に全く使われていない、生活感の感じられない空間だと言った方が適切かもしれない。

 置いてあるものは、隅には大型テレビ、中央に大きなソファと、その隣に一人用の小さなソファ、その中心にテーブルが一つと、その上に茶色の革製の手提げカバンが一つだけ。

 その手提げカバンを手に取り、再び居間の明かりを消して家を出た。

 車庫に停めてある大型バイクにカバンを積み、ARINOSUとは逆の方向へと走っていく。


 十分ほどバイクを走らせたろうか。既に暗くなっている中、着いた先は、夜でも明るい歓楽街。

 その中にある、一軒の小さなバー。その前にバイクを停めた。


「よう閃夜。いらっしゃい」

 閃夜を呼ぶ声と、来店の挨拶が閃夜を迎える。

 木製の作りになっており、どこかレトロな雰囲気を醸し出している。カウンターの奥にはワインやビールを始め、ウォッカにウィスキー、日本酒に焼酎まで、あらゆる種類の酒が並んでいる。

 そんなバーの店内は、閃夜以外に客は来ていないようで、カウンターにマスターが一人立っているだけ。

 歳は四十代前半辺り。短髪で、閃夜と同じくらいの長身。凛々しく細目な顔つきの男。

「こんばんは、門口(かどぐち)さん。いつものやつ下さい」

「あいよ」

 返事をしながら、門口と呼ばれた男はカウンター内を行き来し、それを閃夜の前に置いた。

 酒、ではなく、大きな器に盛られた、アイスクリームや果物、その上に生クリームとチョコクリームのたっぷり掛かった、山盛りの『チョコレートサンデー』。

「うっひょー!!」

 共に出されたスプーンを片手に目を輝かせながら、閃夜は声を上げた。

「お前、ほんと好きだよな」

「はい。もうこれが毎夜の楽しみで楽しみで……」

 会話の最中だと言うのに、我慢できずサンデーにパクついていた。

 山盛りのサンデーだったが、たった一分ほどでその器は空になった。

 食べ終わった閃夜を見ながら、門口はまた小さな笑みを浮かべる。


「そうだ。久しぶりに一軒来てるぞ」

 言いながら封筒を見せたその瞬間、サンデーを見た時以上の輝きが、閃夜の目に灯る。

「マジですか!?」

「マジだ」

 言いながら門口は、その封筒と、一枚の写真を机の上に置いてみせる。閃夜はまた無邪気な笑みをこぼしていた。

「『輪月(わづき) 玄一(げんいち)』。大手電機メーカーの専務。会社から大金を横領したうえ、バックにはヤクザがついてる。おまけに次期社長の椅子を狙っていて、そのために今まで邪魔な人間を何人も消してきたらしい。社長はそのことに気付いちゃいるが、ヤクザにビビッて何もできないらしくてな、次は自分が殺されるって、泣いて依頼してきたよ」

「あららぁ……それは消されても文句は言えないですね」

 変わらない笑みを見せながら、口調には陽気さを含ませながら、閃夜は言った。そして、その声に含まれているのは、今までに無いほどの興奮。そして、狂喜。

「ああ。しかもちょうどいいことに、今日そいつは遅くまで残業で会社に残ってるそうだ。なるべく殺人とはばれないようにっていう条件付きだが、まあお前には訳ねーだろう。遠慮することはねえ。楽しんでこい」

 門口もまた、笑いながら話す。

 閃夜は足下に置いてあったカバンを取り、立ち上がりながら、

「奥の部屋借りまーす」

「おう。いつも通り出る時はそのまま部屋の裏口から出てくれ。普通の客に見られたらまずいからな」

 その言葉に笑顔で答えながら、カウンターを通り、そこの裏にドアを開いた。

 再びドアが閉まった所で、門口が一言、呟いた。

「今夜も期待してるぜ。女王様……」



 その部屋は、酒のストックや冷蔵庫が置かれている、物置部屋。

 部屋に入った閃夜はカバンの中身、服の一式を取り出し、着替えを始めた。

 真夏の服装を脱ぎ捨て、露わになった白く輝く肌を、黒のワイシャツで包み込む。更にその上にまた、上下とも真っ黒なスーツで包み込み、後ろ髪を一本に縛っていたゴムを取り、左右に広げる。

 そして、ヘアワックスを顔に掛かる前髪全てになじませて固め、二つに分けた後で斜め上に向かって立たせる。その途中からまた斜め下に向けて曲げ、「く」の字形にぶら下がるようにした。ぶら下がった髪は一本の束になっていて、胸よりも下までの長さがある。それが二本あることで、まるで昆虫の触覚を思わせる形となった。

 最後に運動靴を脱ぎ、黒の革靴を履く。今まで着ていた服はスーツの入っていたカバンに詰め、運動靴と共に部屋の隅に置いた。



 裏口のドアを開いた先に広がるのは、人影の見当たらない、汚れた建物の壁が広がり、地面には小さなゴミがポツポツと転がっている。大きな光源こそ辺りに見当たらない中、都会の過剰な光によって、目の前の光景と、自身の姿がぼんやりと浮かび上がる。

 そんな空間に、ぼんやりと浮かび上がる閃夜の姿は、上から下までの真っ黒な衣装。

 ひざ下までサラリと伸びた長く艶のある黒髪と、触覚のように固めて目の前にぶら下がる前髪。そんな全身の黒とは対照的に、白くはっきりと浮かび上がる、第二ボタンまで外して露出された胸、両手、顔。

 その姿は、正に人間の姿をした『蟻』を思わせる。

 そして何より、店では無邪気で幼い子供のようであった表情が一変。

 笑みは全く別のものに変わり、目は細まり、目の前を見つめつつ、未来を見据える。

 そんな表情を、全てを壊さんとする冷酷さと共に、醸し出していた。





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