第五章 世界から逃げる方法
処分命令は、静かに下された。
――対象:レイ
――分類:固定化異常
――処置:存在解体
――執行官:記録官ユウ
端末の文字は、あまりにも淡々としていた。
ユウは、端末を閉じる。
胸の奥で、何かが完全に切れた音がした。
これは選択ではない。
宣告だ。
星見の丘へ向かう途中、
街の景色がどこか歪んで見えた。
人々の輪郭が、薄い。
建物の影が、現実感を失っている。
――世界が、修正を始めている。
ユウは理解した。
自分とレイを、
この街から“消す準備”を。
レイは、丘の縁に立っていた。
「来ると思ってた」
振り返らずに、そう言う。
「処分命令が出た」
「うん」
やはり、驚きはない。
「じゃあ、どうする?」
ユウは、一瞬だけ迷った。
だが、その迷いはもう
答えにならないと分かっていた。
「逃げる」
レイが、ゆっくり振り返る。
「世界から?」
「ああ」
レイは、しばらく黙っていた。
それから、静かに笑う。
「……嬉しい」
その言葉が、
ユウの胸を強く打った。
逃げる方法は、一つしかない。
記録の未完了領域へ行くこと。
地図にも、管理局の記録にも存在しない場所。
誰にも“定義されていない”空白。
かつて、世界の縁と呼ばれた場所。
「そこに行けば、
世界は僕たちを追えない」
ユウは記録帳を開きながら言う。
「でも、戻れない」
「いいよ」
レイは即答した。
「最初から、
戻る場所なんてなかった」
ユウは、胸が詰まった。
夜明け前、二人は街を出た。
検問を避け、
消えかけの路地を抜け、
存在の薄い場所だけを選んで進む。
途中、レイが足を止めた。
「ねえ、ユウ」
「なんだ」
「僕、
“怖い”って言葉は忘れてるのに」
少し困った顔で言う。
「今、胸が苦しい」
「……それが、怖さだ」
「そっか」
レイは、納得したように頷く。
「でもね」
ユウを見る。
「君が名前を呼んでくれるなら、
大丈夫な気がする」
ユウは、はっきりと呼んだ。
「レイ」
世界が、僅かに揺れた。
世界の縁は、静かだった。
空は色を失い、
星も、地平も、曖昧だ。
ここでは、
存在は書かれなければ生まれない。
ユウは、最後のページを開いた。
「ここから先は、
俺と君だけの記録だ」
レイは、少し緊張した顔で頷く。
「……ちゃんと、人になれる?」
「なる」
ユウは言った。
「俺が、最後まで書く」
ペンを走らせる。
――レイは、ここにいる。
――名を呼ばれ、応え、歩き、迷い、笑う。
――誰かの記録ではなく、
――自分自身の時間を生きる。
文字が、光を帯びた。
レイの輪郭が、初めて安定する。
「……あ」
レイは、自分の手を見る。
「ちゃんと、触れてる」
世界が、追いつけなくなった瞬間だった。
遠くで、何かが崩れる音がする。
管理局の秩序。
世界の前提。
だが、ユウはもう振り返らない。
「行こう、レイ」
「うん」
二人は、
書かれていない未来へ歩き出す。
記録帳の最後の行に、
ユウはこう記した。
――これは、
――世界に拒まれた二人の、
――確かに存在した物語。




