第四章 消えない理由
その日から、レイは消えなかった。
白化症の進行は止まらないはずだった。
三日、五日、一週間――
通常なら、もう名前も言葉も失っている。
だがレイは、丘にいた。
「おかしいよね」
風に揺れる草の間で、レイは空を見上げながら言った。
「僕、昨日は“数字”を忘れた。
一昨日は“母さんの声”。
でも、今日はちゃんと歩けるし、考えられる」
忘却が、順序を失っている。
それは致命的な異常だった。
ユウは記録帳を開く。
ページをめくった瞬間、息が止まった。
――最初のページが、空白になっている。
「……?」
本来、そこには自分の名前と所属、
初任務の日付が書かれていたはずだ。
だが、何もない。
「ユウ?」
「……少し、待ってくれ」
心臓の鼓動が早くなる。
次のページをめくる。
――《最初の対象は、少年だった》
自分の字だ。
だが、覚えがない。
「レイ」
ユウは、慎重に言葉を選ぶ。
「俺たちは……
以前に会ったことがあるか?」
レイは一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくり首を振る。
「分からない。
でも……」
胸に手を当て、考える。
「初めて会った気はしない」
その答えが、
ユウの中で、何かを崩した。
管理局からの召集は、突然だった。
塔の最上階。
窓のない部屋で、セリスが待っている。
「異常事例〈固定化〉を確認した」
固定化。
消失対象が、世界に定着する現象。
「対象名:レイ。
発症から十二日経過。未消失」
「……処分、ですか」
「まだだ」
セリスは、静かに言った。
「記録官ユウ。
君の経歴に、不整合が見つかった」
机の上に、薄い端末が置かれる。
「君は、本来――
十年前に消失している」
世界が、音を立てて止まった。
「……何を言っている」
「白化症第一世代。
当時、症例は“失敗”として封印された」
セリスの視線が、突き刺さる。
「君は、“記録によって残された存在”だ」
ユウの記憶が、軋む。
名前を呼ばれた記憶。
誰かが、必死に文字を書いていた光景。
丘。星。声。
「レイは――」
喉が、震えた。
「レイは、俺と同じなのか」
「可能性が高い」
セリスは頷いた。
「彼は“次の世代”。
記録が先に存在し、
人間が後から形を得る」
だから、消えない。
消える“予定”が、ないから。
「君がしているのは、救済じゃない」
セリスは言った。
「感染だ」
夜。
ユウは星見の丘へ走った。
息が切れる。
だが、止まれない。
レイは、そこにいた。
「遅かったね」
いつもの笑顔。
それが、今は痛いほど怖い。
「……聞いた」
ユウは、正面に立つ。
「君は、消えるはずがなかった」
「うん」
レイは、あっさり頷いた。
「多分、君が“最初”」
風が、強く吹く。
「君が書いた記録が、
僕を呼んだんだと思う」
レイは、胸に手を当てる。
「僕はね、
誰かに名前を呼ばれたくて、
ここに来た」
ユウの喉から、声が出なかった。
「ねえ、ユウ」
レイは、静かに言う。
「君が、僕を“最後まで書いたら”
僕は、何になるの?」
人か。
記録か。
それとも――世界のエラーか。
ユウは、記録帳を強く握った。
「……俺が決める」
それは、記録官としてではない。
一人の存在としての言葉だった。
空の星が、また一つ、
本来ありえない軌道で瞬いた。
世界は、すでに書き換わり始めている。




