第一章 忘れられる音
人が忘れられるとき、音がする。
それは、氷が水に溶けるときのような、
かすかで、しかし確かな音だった。
ユウはその音を、もう何度も聞いてきた。
石畳の街路。
昼下がりの光の中で、一人の老人が立ち尽くしていた。
通行人は誰一人、彼に視線を向けない。
――また一人、終わった。
ユウは記録帳を胸に抱き、老人に近づく。
「お名前を、教えていただけますか」
老人は口を開き、閉じた。
眉をひそめ、何かを探すように空を見上げる。
「……あれ?」
その瞬間、音がした。
ぱきり、と。
老人の輪郭が、世界から一段階ずれたように薄れる。
「名前が……思い出せん」
それが最後の言葉だった。
次の瞬間、老人はそこに“いなかった”。
消えたのではない。
最初から存在しなかったかのように、世界が修正されたのだ。
通りを歩く人々は、何事もなかったように歩き続ける。
ユウだけが、その空白を見ていた。
記録帳を開き、震える手で書き込む。
――氏名:不明
――享年:不明
――記憶保持期間:本日午前まで
――最終記録:名前を思い出せず、消失
「……間に合わなかった」
記録官の仕事は、
人が“完全に忘れられる前”に、その人生を残すこと。
だが今日は、ほんの一歩、遅かった。
「ユウ」
背後から声がした。
振り返ると、黒い外套を着た管理局員が立っている。
「次の対象が来てる。年少者だ」
「……場所は?」
「南区。星見の丘」
ユウは一瞬、息を止めた。
星見の丘。
そこは――子どもたちが、名前を空に向かって叫ぶ場所だ。
「急ごう」
走り出したユウの胸に、
なぜか説明のつかない予感が芽生えていた。
この記録は、今までとは違う。
そんな気がしてならなかった。
そしてその予感は、
丘の上で出会った少年の一言によって、確信に変わる。
「ねえ、君は――
僕の名前を、忘れないでくれる?」




