『第二話・2:灰鎧の将、霧の深奥にて』
──これが、セラフィーの言っていた“記憶を絡め取る”霧。
まだ境界を越えて間もないのに、もう自分の奥底に触れてきた。
(……レーヴァテイン・ゼロがなかったら、意識ごと霧に飲まれてたかもしれない)
(てか、あの時ワン太もなんか光ってたけど──結局あれ、なんだったんだ?)
霧が消えたあとも、胸の奥には薄いざらつきが残っている。
それが記憶の残滓なのか、それともまだ何かが続いているのか、判断がつかない。
(長く留まれば、きっと帰れなくなる)
焦燥がリリアの胸を打つ。
それでも足は止まらない。
むしろ、“なにか”に導かれるように、前へ進んでいた。
ふいに、霧の奥で何かが蠢いた。
音もなく近づくそれは、鎧の将とは違う──もっと小さく、もっと歪んだ影。
次の瞬間、灰色の壁から二つ、三つ、異形の兵士が滲み出る。
鎧の形は人に似せているが、空洞の兜からは眼も口もなく、ただ金属の軋みだけが漏れていた。
(来たな……)
霧が生み出す“記憶の兵”──実体と幻影が入り混じり、通常の兵士よりも厄介な相手だ。
空気が一瞬、張り詰めた。
兵のひとつが剣を振り下ろす。
刃が届く前に、リリアの姿は霧の中から掻き消え──
一閃。
次の瞬間、首元に紅い線が走った。
「……遅い!」
切った感触は確かに手に伝わったのに、返ってくるのは肉や骨の抵抗ではなく、乾いた空洞を裂く感覚だった。
幻影の皮を被った何か──だからこそ、不気味に軽い。
その軽さが、逆に背筋を冷やす。
振り返った兵の兜が落ちるより早く、二体目が横合いから迫る。
鎧の向こうに血肉がないとわかっていても、反射的に呼吸が速まる。
二度目の斬撃は、ほとんど無意識に近かった。
金属を裂く音が霧に吸われ、消える。
三体目──正面から迫ってくる影。
霧の中で距離が掴めない。
一歩なのか十歩なのか、脳が判断する前に影が膨らんでくる錯覚。
(……この距離、間合いに入った!)
呼吸をひとつ、霧の奥に沈める。
心臓の音を静かに押し殺し──
剣を振らず、息を整え、短く詠じる。
「《フレア・ランス》」
魔力が掌に集まる。空気がわずかに軋み、霧が熱に怯えるように退いた。
血の鼓動が熱と混じり、指先から腕へ、腕から胸へ──世界の輪郭が、ひと呼吸ぶん赤く染まる。
炎は槍の形に凝縮し、低く唸りを上げながら一直線に放たれた。
紅の閃光が霧を裂き、胸甲を貫く瞬間、金属が焼ける匂いが弾ける。
小さな爆ぜる音とともに、敵の影は粉のように崩れ、灰の雨となって散った。
リリアは、消えゆく残骸を見下ろし、瞼を細めた。
指先がまだ熱を覚えているのに、斬った感覚だけがどこか薄い。
まるで、自分の輪郭が霧に溶けていくようだった。
その瞬間、空気がわずかに震えた。
金属の擦れる、重く鈍い音。
一歩、また一歩。
音は濃く、低く、胸の奥を震わせる。
リリアは反射的に息を止めた。
大地の奥で、もうひとつの心臓が鳴っているようだった。
(おいおい……この“ドシーン、ドシーン”って効果音、完全にラスボス入場演出じゃねえか。
……いや、心臓に悪いからやめてくれっての……!)
喉の奥で息が震える。
目の奥が熱くなるのは、恐怖か、それとも決意か。
セラフィーの師を救うことは、同時に彼女を傷つけることになるかもしれない。
救いと破壊──その境界線を、リリアは自分の手で越えようとしていた。
(行くぞ……セラフィー。お前の師を、この手で──)
灰色の霧が、音をさらに濃く閉じ込めていく。
それは、まるで深海の底から響く心臓の鼓動のように、ゆっくりと、確実に──近づいてきた。
その時、ふとバッグの中のワン太を思い出した。
あの小さな瞳。何も知らず、ただ無邪気に手を振っていた姿。
その一瞬の温もりが、いまも胸の奥に灯っている気がした。
リリアはそっとバッグに触れる。
布越しに伝わる感触の奥で──かすかに、光が脈を打った気がした。
それが錯覚でもよかった。ただ、“共に在る”と思えれば、それでいい。
(……マスコット補正でラスボスもワンパン、なんて展開……来てくれていいぞ?)
胸の奥で、息をひとつ整える。
霧の鼓動と、自分の鼓動がゆっくりと重なった。
リリアは唇を結び、ワン太の瞳を胸に抱くようにして──
静かに、そして確かに、次の一歩を踏み出した




